7-6
旬との再会を経て。
この街に来た時よりも、旅人の足取りはほんの少しだけ軽くなっていた。
それでも――。
この道を進むたび、見えない足枷が一つずつ増えていくように、体は重く沈んでいく。
呼吸が浅い。
肺の奥に冷たいものが張り付き、うまく空気を吸えなかった。
旅人の手は、小さく震えていた。
けれど、その震えを包み込むように、咲の手が重なる。
細い指先。
それなのに、不思議なほど離れない。
まるで旅人がどこかへ落ちていかないよう、繋ぎ止めているかのようだった。
視界には薄く靄がかかる。
それでも空だけは、皮肉なほど澄み切って青かった。
過去に押し潰されそうになりながら、それでも旅人たちは歩き続ける。
そして――足を止めた。
「――やっぱり……何も残って、ないか」
旅人の掠れた声が、風に溶ける。
夢の続きを閉じ込めていた場所。
怒号と悲鳴。
割れる酒瓶の音。
血の匂い。
あの夜、全てが壊れた家は――もうどこにもなかった。
そこにあるのは、更地だけ。
中央に立てられた看板が、無機質に風へ揺れている。
旅人は、その光景をただ見つめていた。
何もない。
なのに耳の奥では、今もあの日の音が鳴り続けている気がした。
喉が焼ける。
胃が捻れる。
逃げたい。
そう思った瞬間、握られていた手に僅かに力が込められた。
咲は何も言わない。
ただ隣に立ち、旅人の呼吸が崩れないよう支え続けていた。
その温もりだけが、旅人を現実へ繋ぎ止める。
旅人は小さく息を吐き、その場を後にした。
けれど進むほど、胸の鼓動は速くなる。
心臓が嫌な音を立てる。足元も覚束ない。
地面が沈んでいくような感覚。
「……大丈夫? 旅人くん」
咲の声は、ひどく近くで聞こえた。
旅人は答えようとして、一度言葉を詰まらせる。
「だ……大丈夫だ。まだ」
強がりだった。
自分でも分かるほど、声が震えていた。
けれど咲は、それを否定しない。
「うん」
ただ、小さく頷く。
そのまだを受け止めるように。
旅人は目を閉じかけ、無理矢理に開いた。
逃げ続けてきた現実へ向けて。
過去が波のように押し寄せる中、旅人たちはついにその場所へ足を踏み入れる。
――墓地。
旅人の父と母が眠る場所。
静まり返った墓石の列を、二人は何も言わず進んでいく。
風だけが吹いていた。
やがて旅人の足が止まる。
その先にあったのは――。
『空韻』
そう刻まれた墓石だった。
旅人は、静かに見上げる。
刻まれた名前。
見慣れているはずの文字。
記憶の中で、何度も見てきた名前。
けれど。
家族として真正面から見るのは、初めてだった。
胸の奥が軋む。
呼吸が、うまくできない。
逃げ出したい。
今すぐ背を向けて、またガラスの向こう側へ閉じこもりたかった。
「あ……」
その瞬間。
旅人の脳裏に浮かんだのは、血に濡れたあの夜ではなかった。
まだ父が壊れる前。
幼かった頃の記憶。
狭い食卓を囲みながら、優しく笑っていた母。
寡黙なまま、それでも確かにそこにいた父。
初めて野球ボールを握り、不格好なキャッチボールをした日のこと。
『もっと腰を落とせ、旅人』
ぶっきらぼうな父の声。
悔しくて唇を尖らせる自分。
それを見て、母が笑っていた。
あの日々は確かに存在していた。
壊れた記憶だけじゃない。
暖かかった時間も、ここにあった。
旅人の喉が小さく震える。
「……ここに、いたんだな」
消え入りそうな声だった。
咲は何も言わず、線香を差し出す。
旅人はそれを受け取り、静かに火を灯した。
煙が揺れながら、空へ昇っていく。
墓前へ手を伸ばす。
けれど――届かない。
あと少しなのに。
そこには、透明なガラスがあった。
触れたいのに、触れられない。
向き合いたいのに、まだ怖い。
旅人の指先が震える。
すると、後ろからそっと咲の手が重なった。
壊れ物に触れるような、優しい温もり。
その熱だけが、ガラス越しの世界に閉じこもった旅人へ届いていた。
子供の頃の記憶ってどこまで覚えていますかね。
曖昧なようで、とある小さな日常でも覚えてたりするものですよね




