7-5
「――た、旅人……なのか?」
その声に、旅人の指先から力が抜ける。
ゆっくりと振り返った先。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
「旬……か?」
――小野寺 旬。
かつて、同じグラウンドを駆けたチームメイト。
制服でも、野球部のユニフォームでもないその姿が、嫌でも流れた時間を感じさせた。
「やっぱり旅人だったのか。それに咲ちゃんまで」
旬は、割れんばかりの笑顔を向けた。
日に焼けていた肌には、少しだけ白さが混じっている。
それでも、その笑い方は昔と何も変わっていなかった。
「旬こそ……久しぶりだな」
「久しぶり。小野寺くん」
互いに距離を測るような、ぎこちない会話。
五年という時間が、三人の間に静かに横たわっていた。
けれど旬だけは、その空白すら気にしていないように笑っていた。
「旅人は急に転校しちまうしさ。咲ちゃんも卒業してから全然会わなかったからな。嬉しいよ。また会えて」
グラウンド脇のフェンスへ寄りかかりながら、旬は屈託なく笑う。
その笑顔が、旅人には眩しすぎた。
胸の奥で押さえ込んでいたものが、じわじわとせり上がってくる。
視線を落とす。
グラウンドの土。
白線。
金属バットの乾いた音。
全部が、あの日の続きを突きつけてくるようだった。
「――なんで……」
掠れた声が漏れる。
旬は首を傾げた。
「ん?」
「なんで……何も言わないんだ……?」
旅人の喉が震える。
「俺は……お前らに何も言わず消えたんだぞ。大会だって近かった。急にいなくなって……チームにも、全部迷惑かけて……」
言葉がうまくまとまらない。
この街へ戻ってから、ずっと押し殺していた感情だった。
逃げた時間。
置き去りにしたもの。
向き合わなかった人たち。
それらが、一気に押し寄せてくる。
「責められても……俺は、何も言い返せない」
壁へ寄りかかる。
力が抜けるように、旅人は俯いた。
咲がそっと袖を掴む。
その温もりだけが、今の旅人を繋ぎ止めていた。
「旅人くん……」
けれど旬は、そんな旅人を見ても表情を変えなかった。
一度だけ空を見上げ、それから苦笑するように息を吐く。
「……何も言わねぇよ」
静かな声だった。
「旅人。お前のことだ。どうせ、なんか事情があったんだろ」
「違う……!」
旅人は反射的に否定した。
「俺はただ、逃げただけだ……! 結局、自分のことで精一杯で……全部置いて――」
そこまで言って、言葉が詰まる。
旬は少しだけ目を細めた。
「まぁ、確かにな」
あっさりと頷く。
「旅人がいなくなって、俺らは二回戦で負けた。正直、悔しかったし、思うところはあった」
懐かしむような笑み。
そこには確かに、当時の悔しさが滲んでいた。
だからこそ旅人は、胸が締めつけられる。
「でもな」
旬は続けた。
「それで逆に分かったんだよ。俺たち、どんだけ旅人に支えられてたのか」
旅人は顔を上げる。
夕日に照らされた旬の姿。
二遊間で何度も隣に立った背中が、そこに重なる。
「お前さ。昔から、自分がいなくても大丈夫って顔してたけど」
旬は笑う。
「案外、みんなお前のこと頼りにしてたんだぜ」
旅人の喉が、小さく鳴った。
そんな風に思われていたなんて、考えたこともなかった。
「だからさ」
旬は旅人の前まで歩み寄る。
そして、まっすぐ手を差し出した。
「そんな顔すんなよ。俺は今、お前とまた会えたことの方が嬉しいんだから」
夕日が、その手に重なる。
眩しくて、まともに見られなかった。
旅人は、ゆっくりとその手を取る。
ごつごつとした掌。
マメだらけのその手は、昔と変わらず熱かった。
「……本当に、いいのか」
立ち上がった旅人の声は、どこか幼かった。
「いいって言ってんだろ」
旬は呆れたように笑う。
「お前、昔から重く考えすぎなんだよ」
そのまま、旅人の肩を強く叩いた。
乾いた音。
けれどその痛みが、妙に心地よかった。
「……旬は、昔と変わらないな」
「なんだそれ」
二人は顔を見合わせ、自然と笑っていた。
あの日と同じように。
グラウンドを前にして。
「小野寺くんらしいね」
咲も、そんな二人を見て柔らかく微笑んでいた。
時間も、景色も変わった。
それでも。
この関係だけは、ちゃんと残っていた。
「旬は...今なにしてるんだ?」
「それはな――」
旬は得意げに笑う。
スマホを取り出し、一枚の写真を見せた。
そこには、小学生くらいの子供たちに囲まれながら笑う旬の姿があった。
「大学の合間に、野球のコーチやってんだ」
旅人の脳裏に、その光景が容易く浮かぶ。
誰より声を張り、チームを盛り上げていたムードメーカー。
子供たちと全力で野球をしている姿が、簡単に想像できた。
「旬らしいな」
「だろ?」
旬は笑った。
「いつかこいつらを、俺たち以上のチームにするんだよ」
「ああ……旬なら、きっとできる」
「うん。頑張ってね、小野寺くん」
旬は照れ臭そうに頭をかく。
その目が、旅人を真っ直ぐ見つめた。
かつて共にグラウンドを駆けた相棒として。
旬は拳を突き出す。
「旅人。お前も頑張れよ」
何度も蘇る記憶。
試合前。
円陣。
グローブをぶつけ合った感触。
旅人は小さく笑い、拳を合わせた。
その温度は、何一つ変わっていなかった。
笑いながら手を振る旬を、二人は見送る。
ふと吹いた風が、グラウンドの土を巻き上げる。
旅人は目を細めた。
「旅人くん」
咲の声に、ゆっくりと目を開ける。
視界の先には、変わらず咲がいた。
「……行くか。咲」
「うん」
短い邂逅を終え、旅人は再び歩き出す。
ほんの少しだけ。
背負っていた重さが、軽くなった気がした。
二遊間コンビってなんか好きなんですよね。




