7-3
「――じゃあな。旅人、咲ちゃん」
海人と石塚に別れを告げ、二人は帰路についた。
沈みかけた夕日が、街をゆっくりと暗く染めていく。
並んで歩きながらも、会話はない。
昔とは違った。
あの頃のように、隣にいるだけで永遠に続くと思えた穏やかな時間ではない。
互いに様子を窺い、踏み込めずにいる静寂。
その沈黙を抱えたまま、二人は相談所へ辿り着いていた。
入口の扉へ手を伸ばした時、不意に着信音が鳴る。
二人同時にスマホを取り出した。
「あ、私だ。ちょっと出てくるね」
「あ、ああ……」
咲はスマホを片手に、階段を下りていく。
その背を見送り、旅人は事務所へ入った。
「おかえり。あれ、咲ちゃんは?」
迎えた三枝が、入口へ目を向ける。
「電話。少し外すらしい」
「そう」
短い返事。
旅人はデスクの椅子へ腰を下ろした。
いつも通りの静かな空間。
だが今日は、その沈黙がどこか落ち着かなかった。
三枝が、何かを待っているように見えたからだ。
旅人は小さく息を吐く。
「……なんで、咲を連れてきたんですか」
自然と声が強くなる。
咲がここへ来たのは偶然じゃない。
裏で動いていたのが三枝だということくらい、旅人には分かっていた。
「咲ちゃんとは、話せたの?」
「質問に答えてください」
話を逸らす三枝へ、旅人は視線を向ける。
これまで三枝は、絶妙な距離を保ってきた。
必要以上に踏み込まず、ただ見守っていた。
その三枝が、自ら咲を連れてきた。
理由は分かっている。
それでも聞かずにはいられなかった。
「あなたにも、救われてほしいからよ」
静かな声だった。
けれど、その言葉は真っ直ぐ旅人へ届く。
旅人は目を伏せた。
――やっぱり、この人は。
「旅人くん。あなたは今まで、多くの人を救ってきた。よくやってると思うわ。他人のことならね」
そこで三枝は一度言葉を切る。
「でも――次は、あなたの番よ」
胸の奥が強く脈打つ。
「……どうして、そこまで」
震える声で尋ねると、三枝の視線が揺れた。
その先にあるのは。
叔父――深谷兼親の遺影だった。
「兼親さんは、あなたを息子みたいに思ってた。それは私も同じ」
三枝は柔らかく笑う。
「息子には、幸せになってほしいものよ」
遺影と目が合う。
いかにも叔父が言いそうな台詞だと、旅人は思った。
苦笑したくなるほどに。
「咲ちゃんは、あなたが置いていったものを、ちゃんと持ち続けてた」
三枝はゆっくり旅人へ歩み寄る。
旅人は抵抗しなかった。
肩へ触れた体温が、冷え切った内側へじわりと染み込む。
「どうするかは、あなたが決めなさい」
耳元で、静かに囁く。
「私は、ここまで」
優しく髪を撫でられた。
その感触に、旅人は一瞬だけ母の手を思い出す。
鈴の音が鳴った。
扉が開く。
三枝はそっと離れた。
「お待たせ、旅人くん。あ、ただいま三枝さん」
「おかえり、咲ちゃん。それじゃ私は帰るわね」
三枝は荷物を持ち、出口へ向かう。
咲も「また家で」と小さく返した。
「あの……三枝さん」
旅人は立ち上がる。
「――ありがとうございます」
三枝の目を、真っ直ぐ見た。
身体にはまだ、妙な熱が残っていた。
三枝は微笑み、鈴の音と共に帰っていった。
残されたのは。
旅人と咲、二人だけ。
静かな事務所。
誰にも邪魔されない空間。
「……何を話してたの?」
向かいへ座った咲が、小さく首を傾げる。
揺れた髪が、柔らかく光を受けた。
「俺自身の、話だよ」
「そっか」
咲は、それ以上深く聞かなかった。
ただ優しく旅人を見る。
まるで、ひび割れたガラスへ触れるように。
壊さないように。
けれど、離さないように。
「三枝さんからも、お友達からも聞いたよ。旅人くん、色んな人を救ってきたんだね」
「……成り行きだよ。ただ叔父さんに言われたんだ。自分の目で世界を見てみろって」
「それもあると思う」
咲は静かに頷く。
「でもきっと旅人くんが、人を救ってきたのは――」
そっと。
咲の手が旅人へ触れた。
春の日差しみたいに、柔らかく温かい手。
「旅人くん自身が、救われたかったからだよ」
旅人の呼吸が止まる。
五年近い空白があっても。
咲は、旅人を見失っていなかった。
むしろ、旅人以上に理解しているようだった。
顔を上げる。
咲の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
昔からずっと変わらない目。
「それにね」
咲は小さく笑う。
「あなたを救いたいって思ってる人がいること、忘れないで」
脳裏に浮かぶ。
三枝。
海人。
石塚。
叔父。
どれだけ距離を置こうとしても。
ガラス越しに閉じこもろうとしても。
彼らはずっと、旅人の隣へ立っていた。
「俺は――」
その瞬間。
内側で、音がした。
ひびが広がる。
凍りついていた何かが、崩れていく。
咲の熱が、旅人を内側から溶かしていく。
そして。
今まで旅人が、依頼人へ向けてきたように。
咲は静かに問いかけた。
「――旅人くん。あなたの世界を、教えて」
息が止まる。
その言葉が。
ガラスの奥深くまで届いた。
もう戻れないほどに。
世界を覆っていたひびは、静かに広がっていた。




