7-1 ガラスに映し出す
最終7章ー。
開幕
何気ない日常。
世界は未だ移り変わることなく、ただ時だけが過ぎていた。
いつも通り朝の日課をこなし、体を動かす。
汗が滲み、呼吸が整う。
春を迎えるような、やわらかな空気が旅人の体を包んでいた。
「大学に行ってきます。三枝さん」
「……行ってらっしゃい」
いつもと変わらないやり取り。
旅人は事務所を後にした。
大学に着いても、それは変わらない日常だった。
4年生となり、講義もほとんどない。
空いた時間だけが増えていく。
「ちょうどいいや。旅人、野球部に顔出してくれよ」
食堂で海人と顔を合わせる。
いつものように誘われ、断る理由もなく頷いた。
流されるように、野球部へ顔を出す。
夕方。
世界が昼から夜へと移り変わる、その境目。
空は赤く染まり、ゆっくりと色を失っていく。
その中を、旅人は閾相談所へと戻っていった。
「――ん?」
いつもなら聞こえるはずの声がない。
扉には、張り紙。
――留守にしています。
旅人は小さく首を傾げた。
鍵を開ける。
カラン、と鈴の音が鳴る。
中は静まり返っていた。
珍しく、一人。
デスクに座り、淡々と作業を進める。
叔父が亡くなってから、一年半。
この仕事も、この空間も。
旅人にとっては、すでに日常になっていた。
けれど――
世界は、美しくも残酷に。
変わり続ける。
ガラス越しの外。
赤は消え、夜が滲んでいく。
その時。
カラン、と再び鈴が鳴った。
「おかえりなさい。三枝さん」
何気なく、いつも通りに言葉を返す。
「……ただいま。旅人くん」
その声に、違和感があった。
旅人の目が止まる。
三枝の表情。
これまでずっと保ってきた、あの絶妙な距離感。
けれど――
今日の目は違った。
まるで、踏み込んでくるような。
旅人の内側に触れようとする目。
そして。
開け放たれた扉の向こう。
三枝の横を、ひとつの影が通る。
「――っ」
声が出なかった。
見間違えるはずがない。
懐かしい顔立ち。
それでいて、どこか大人びて洗練されている。
けれど変わらないものがあった。
――あの瞳。
旅人の世界に、優しく触れてきた瞳。
「さ……咲……」
並木 咲。
止まっていた世界が、軋みながら動き出す。
「――やっと会えたね。旅人くん」
咲は、微笑んだ。
その笑顔は。
あまりにも、眩しかった。
――
翌日。
旅人は大学へ向かっていた。
いつも通りのはずの朝。
けれど、そのいつもは崩れていた。
「それで――」
歩きながら、横を見る。
「いつまでついてくるんだ?――咲」
歩幅を合わせることなく、少し早足で進む旅人。
その隣に、当然のように咲がいる。
咲は楽しそうに笑った。
「言ったでしょ?依頼を受けてくれるまで、引かないって」
あっさりと並ぶ。
距離を詰めることを、まったく躊躇しない。
旅人は小さく息を吐いた。
――変わらないな。
そう思ってしまったことに、わずかに苛立つ。
頭に浮かぶのは、咲の依頼。
それは昨日の出来事へと繋がる。
――
「――やっと会えたね。旅人くん」
「なんで……ここに、咲が……」
喉が詰まる。
それでも、無理やり声を押し出した。
咲はただ笑っている。
嬉しそうで。
どこか、少しだけ悲しそうで。
「私が連れてきたのよ」
「三枝さんが……?」
三枝は軽く肩をすくめた。
「咲さんから依頼が来てたの。相談所にね」
「そうだよ」
咲はまっすぐ旅人を見た。
「あれからずっと……探してた」
そのまま語り始める。
あの日からのことを。
何も残さず去った旅人を追って。
親戚を辿り。
何度も、何度も。
けれど――
旅人は各地を転々としていた。
さらに親戚たちも、あの件に触れないようにしていた。
だから辿り着くまでに、長い時間がかかった。
「――それでやっと見つけたのが、ここ。閾相談所」
「私のところにメールが来ててね」
三枝が続ける。
「旅人くんにはなるべく伝えないでほしいって」
状況は理解できる。
けれど――
旅人の思考は追いつかない。
言葉が出ない。
そんな旅人を、咲はじっと見つめていた。
逃がさないように。
まっすぐに。
旅人は視線を逸らす。
「旅人くん」
呼ばれる。
「ちゃんと私の顔を見て」
心臓が跳ねた。
見たくない。
見れば――崩れる。
自分の世界に、咲を巻き込むのが怖い。
それでも。
ゆっくり顔を上げる。
視線がぶつかる。
変わっていない。
何も。
あの頃と同じ目。
「私の依頼を、受けてほしいの」
「依頼……?」
「うん」
咲は微笑んだ。
「――私の大切な人を、救ってほしい」
その瞳は、澄んでいた。
迷いなく。
まっすぐに。
旅人だけを映していた。
――大切な人。
意味は、分かる。
分かってしまう。
言葉にしなくても。
伝わってくる。
――あなたを、救いたい。
その想いが。
旅人の世界を、静かに叩く。
優しく。
けれど確実に侵入してくる。
旅人は、目を伏せた。
そして――
「……その依頼は」
一瞬、言葉が止まる。
視線はもう、咲を捉えていない。
「――受けられない」
拒絶だった。
それは冷たく見えて。
実際は――
壊れないための、最後の防衛だった。




