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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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27/36

6-5



 ――


  急激な吐き気に、旅人は目を覚ました。


「――うっ……がぁ」


 飛び起きると、すぐに台所へ向かう。


「おえぇ……おぇ……」


 シンクに身を乗り出す。

 蛇口から水が流れ続ける音。


 胃の中には、もう何もない。


 それでも旅人は、腹の奥からこみ上げる何かを吐き出そうと必死にえずいた。


「……はぁ……はぁ」


 残ったのは、異様な不快感だけだった。


 ――夢。


 あの夜の記憶。

 胸の奥に、まだ生々しく残っている。


 ――


 体のだるさを押さえ込みながら、旅人は支度を整えた。

 いつもの朝の日課。


 だが今日は、それをこなす気力がない。

 コーヒーを淹れ、ベランダへ出る。


 煙草に火をつけた。


「……はぁ」


 煙を吸い込み、ゆっくり吐く。


「――今日、か」


 土屋との約束の日。

 父の墓へ向かう日だった。


 肺に煙が入り、体の奥へ広がる。

 まるで毒を吐き出すように、旅人は息を吐いた。


 こうしている時だけ、少し落ち着く。

 旅人は灰皿へ煙草を押しつけ、火を消した。


 そのまま、事務所へ向かう。


 ――


「おはよう。旅人くん」


「……おはようございます、三枝さん」


 すでに事務所に来ていた三枝と挨拶を交わす。

 しかし三枝は、旅人の顔を見たまま目を逸らさない。


「……なんですか?」


「大分、顔色悪いけど。大丈夫?」


 覗き込むように三枝が言う。


 旅人は、わずかに視線を逸らした。


「なんですかね。寝起きが悪くて」


 そう答える。

 だが三枝は納得していないようだった。


「あまり思いつめるな、って言ったわよね」


 知っているかのような口調だった。

 その言葉に、胸の奥がざわつく。


「大丈夫よ」


 三枝は言った。


「あなたには、ちゃんと味方がいるから」


 まるで全部分かっているかのような言葉。

 旅人はうつむいた。


 胸の奥でこみ上げるものを、手のひらの中で握り潰す。


「今日は土屋さんの依頼の日でしょ?」


 三枝はいつもの調子に戻る。


「私もそのうち、少し出るからね」


「……はい」


 旅人は短く答えた。


 三枝はそれ以上何も言わなかった。

 ただ旅人を見送った。


 旅人はそのまま事務所を出る。


 外の空気が胸に刺さる。


 ――一体、誰に怒りをぶつけているんだ。


 どうしようもない無力感。

 それを三枝へ向けようとしていた自分がいた。


 嫌な空気が胸に溜まる。


 息苦しい。

 それでも、飲み込む。


 旅人は何も言わず歩き出した。


 ひび割れた世界のまま。

 土屋の元へ向かう。


 ――


「こんにちは、空韻さん。今日はわざわざありがとうございます」


「いえ。もちろん依頼ですので」


「顔色、悪いですが……体調は大丈夫ですか?」


 土屋の言葉に、旅人は笑って誤魔化す。


「問題ないですよ」


 土屋もそれ以上は聞かなかった。

 二人は墓地へ向かう。


 そこは、土屋の父が眠る場所だった。


 土屋は花を持っていた。

 もう片方の手には、水を汲んだ桶。


「おそらく……こっちです」


 歩きながら、土屋は言う。


「家族は……あの日から、父との関係をずっと避けていて」


 少し言いづらそうに続けた。


「墓参りも、一度も来ていません」


 墓地を進む。


 慣れない足取り。


「あ……あれです」


 土屋が指差す。


 そこには父の名前が刻まれた墓石があった。


 だが――


「これは……」


 土屋が戸惑いの声を漏らす。


 墓の前には花が置かれていた。


 枯れている。

 完全に萎れていた。


 それでも――

 誰かが来た痕跡は、確かに残っていた。


「誰かは……まだ忘れていなかったみたいですね」


「ええ……」


 土屋は小さく頷いた。

 花を取り替え、墓石を洗う。


 静かな作業だった。

 旅人も手伝う。


 全て終えると、線香に火をつけた。

 二人で手を合わせる。


 しばらく沈黙。


 そして――


「……ここに父はいるのに」


 土屋が言った。


「もうどこにもいないような……そんな気がします」


 目を開く。

 刻まれた父の名前を見つめていた。

 人から忘れられる存在。


 それはどれほど苦しいことだろう。


 ――壊れるには十分すぎる理由だ。


 旅人は口には出さなかった。

 沈黙が落ちる。


 しかし――


「土屋……なのか?」


 後ろから声がした。


 二人が振り向く。

 見知らぬ男が立っていた。


「あ……いや、ごめん。人違いみたいだ」


 男は少し困ったように笑う。


「随分似てたみたいで」


「あの……あなたは?」


 土屋が尋ねる。


 男は持っていた花を軽く持ち直した。


「僕は今関。昔からの友人でね」


 墓石を見て続ける。


「あいつ――土屋の」


 土屋は少し驚いた顔をした。


「自分は……土屋、大斗です」


「土屋?」


 男は目を見開いた。


「あ、はい。息子……です」


「そうか……」


 今関は深く頷く。


「どおりで似てるわけだ」


 土屋の顔をしばらく見つめた。

 旅人が一歩前に出る。


「私はその付き添いです」


 今関は旅人を見る。


 そして小さく笑った。


「きっとあいつも喜んでるよ」


 墓石を見ながら言う。


「一人息子が、友達を連れて来てくれたんだから」


 旅人は何も言わなかった。


 ここは――

 自分の場所ではない。


 今は、二人の場所。

 いや――三人だけの場所だ。


「そう、ですかね」


 土屋は目を伏せる。


「自分の家族は……父をもう、いない人のように扱っています。自分だって……父の事を見ないふりして」


 墓を見ることも、ずっと避けてきた。


「そうかな」


 今関は静かに言った。

 持ってきた花を墓へ供える。


 それは淡い青の花だった。


 ――勿忘草。


 そして線香に火をつける。


「あいつは、そんなこと思う奴じゃないよ」


 今関は言った。


「大斗くん」


 土屋の目を、しっかりと見ていた。


「きっと君が来てくれたことを、喜んでるはずさ」


 その時、風が吹いた。

 花が揺れる。


 線香の煙が静かに流れる。

 土屋は顔を上げた。


「もう少し……父の話を聞かせてください」


 今関を真っ直ぐ見る。

 逃げないと決めた目だった。


 今関は微笑む。


「もちろん」


 そう答えた。

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