6-5
――
急激な吐き気に、旅人は目を覚ました。
「――うっ……がぁ」
飛び起きると、すぐに台所へ向かう。
「おえぇ……おぇ……」
シンクに身を乗り出す。
蛇口から水が流れ続ける音。
胃の中には、もう何もない。
それでも旅人は、腹の奥からこみ上げる何かを吐き出そうと必死にえずいた。
「……はぁ……はぁ」
残ったのは、異様な不快感だけだった。
――夢。
あの夜の記憶。
胸の奥に、まだ生々しく残っている。
――
体のだるさを押さえ込みながら、旅人は支度を整えた。
いつもの朝の日課。
だが今日は、それをこなす気力がない。
コーヒーを淹れ、ベランダへ出る。
煙草に火をつけた。
「……はぁ」
煙を吸い込み、ゆっくり吐く。
「――今日、か」
土屋との約束の日。
父の墓へ向かう日だった。
肺に煙が入り、体の奥へ広がる。
まるで毒を吐き出すように、旅人は息を吐いた。
こうしている時だけ、少し落ち着く。
旅人は灰皿へ煙草を押しつけ、火を消した。
そのまま、事務所へ向かう。
――
「おはよう。旅人くん」
「……おはようございます、三枝さん」
すでに事務所に来ていた三枝と挨拶を交わす。
しかし三枝は、旅人の顔を見たまま目を逸らさない。
「……なんですか?」
「大分、顔色悪いけど。大丈夫?」
覗き込むように三枝が言う。
旅人は、わずかに視線を逸らした。
「なんですかね。寝起きが悪くて」
そう答える。
だが三枝は納得していないようだった。
「あまり思いつめるな、って言ったわよね」
知っているかのような口調だった。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「大丈夫よ」
三枝は言った。
「あなたには、ちゃんと味方がいるから」
まるで全部分かっているかのような言葉。
旅人はうつむいた。
胸の奥でこみ上げるものを、手のひらの中で握り潰す。
「今日は土屋さんの依頼の日でしょ?」
三枝はいつもの調子に戻る。
「私もそのうち、少し出るからね」
「……はい」
旅人は短く答えた。
三枝はそれ以上何も言わなかった。
ただ旅人を見送った。
旅人はそのまま事務所を出る。
外の空気が胸に刺さる。
――一体、誰に怒りをぶつけているんだ。
どうしようもない無力感。
それを三枝へ向けようとしていた自分がいた。
嫌な空気が胸に溜まる。
息苦しい。
それでも、飲み込む。
旅人は何も言わず歩き出した。
ひび割れた世界のまま。
土屋の元へ向かう。
――
「こんにちは、空韻さん。今日はわざわざありがとうございます」
「いえ。もちろん依頼ですので」
「顔色、悪いですが……体調は大丈夫ですか?」
土屋の言葉に、旅人は笑って誤魔化す。
「問題ないですよ」
土屋もそれ以上は聞かなかった。
二人は墓地へ向かう。
そこは、土屋の父が眠る場所だった。
土屋は花を持っていた。
もう片方の手には、水を汲んだ桶。
「おそらく……こっちです」
歩きながら、土屋は言う。
「家族は……あの日から、父との関係をずっと避けていて」
少し言いづらそうに続けた。
「墓参りも、一度も来ていません」
墓地を進む。
慣れない足取り。
「あ……あれです」
土屋が指差す。
そこには父の名前が刻まれた墓石があった。
だが――
「これは……」
土屋が戸惑いの声を漏らす。
墓の前には花が置かれていた。
枯れている。
完全に萎れていた。
それでも――
誰かが来た痕跡は、確かに残っていた。
「誰かは……まだ忘れていなかったみたいですね」
「ええ……」
土屋は小さく頷いた。
花を取り替え、墓石を洗う。
静かな作業だった。
旅人も手伝う。
全て終えると、線香に火をつけた。
二人で手を合わせる。
しばらく沈黙。
そして――
「……ここに父はいるのに」
土屋が言った。
「もうどこにもいないような……そんな気がします」
目を開く。
刻まれた父の名前を見つめていた。
人から忘れられる存在。
それはどれほど苦しいことだろう。
――壊れるには十分すぎる理由だ。
旅人は口には出さなかった。
沈黙が落ちる。
しかし――
「土屋……なのか?」
後ろから声がした。
二人が振り向く。
見知らぬ男が立っていた。
「あ……いや、ごめん。人違いみたいだ」
男は少し困ったように笑う。
「随分似てたみたいで」
「あの……あなたは?」
土屋が尋ねる。
男は持っていた花を軽く持ち直した。
「僕は今関。昔からの友人でね」
墓石を見て続ける。
「あいつ――土屋の」
土屋は少し驚いた顔をした。
「自分は……土屋、大斗です」
「土屋?」
男は目を見開いた。
「あ、はい。息子……です」
「そうか……」
今関は深く頷く。
「どおりで似てるわけだ」
土屋の顔をしばらく見つめた。
旅人が一歩前に出る。
「私はその付き添いです」
今関は旅人を見る。
そして小さく笑った。
「きっとあいつも喜んでるよ」
墓石を見ながら言う。
「一人息子が、友達を連れて来てくれたんだから」
旅人は何も言わなかった。
ここは――
自分の場所ではない。
今は、二人の場所。
いや――三人だけの場所だ。
「そう、ですかね」
土屋は目を伏せる。
「自分の家族は……父をもう、いない人のように扱っています。自分だって……父の事を見ないふりして」
墓を見ることも、ずっと避けてきた。
「そうかな」
今関は静かに言った。
持ってきた花を墓へ供える。
それは淡い青の花だった。
――勿忘草。
そして線香に火をつける。
「あいつは、そんなこと思う奴じゃないよ」
今関は言った。
「大斗くん」
土屋の目を、しっかりと見ていた。
「きっと君が来てくれたことを、喜んでるはずさ」
その時、風が吹いた。
花が揺れる。
線香の煙が静かに流れる。
土屋は顔を上げた。
「もう少し……父の話を聞かせてください」
今関を真っ直ぐ見る。
逃げないと決めた目だった。
今関は微笑む。
「もちろん」
そう答えた。




