6-3
――
夢の中。
――封じ込めていた過去が、駆け巡る。
頬に残る衝撃が、再び『俺』を襲った。
「ぐっ……」
口の中に鉄の味が広がる。
「もうやめて!」
泣き叫ぶような母の声が耳に響いた。
横たわる俺の上に、母が覆いかぶさる。
細い背中が、盾のように俺を庇った。
だが――
目の前に立つ男は、その程度では止まらない。
「邪魔だ。どけ、澄」
低く唸るような声。
それだけで、子供だった俺には敵わないと分かるほどの圧力があった。
酒の匂いが部屋に充満していた。
「もう……やめて……」
母の声は震えている。
「自分を、見失うのも……」
その言葉に、父の目がわずかに歪んだ。
――これが、俺の日常だった。
怒号。
酒瓶の転がる音。
泣き声。
それが毎晩のように繰り返される。
結局、俺と母の怯える姿を見た父は、再び酒に溺れていく。
そんな毎日が続いた。
それでも俺は、どこか遠くから眺めるようにそれを見ていた。
――これが運命なんだと。
諦めたような目で。
朝。
「いってらっしゃい。旅人」
「行ってきます。母さん」
母はどれだけ苦しい状況でも、パートで稼いだ金で野球を続けさせてくれた。
古くなったグローブ。
擦り切れたスパイク。
それでも母は笑って送り出してくれた。
けれど家に帰るたびに見るのは――
疲れ切った母の姿だった。
「おい、旅人」
父の声が飛ぶ。
「酒、買ってこい」
高校生になっても父は変わらなかった。
俺は父を見下ろすように見た。
体も大きくなり、直接殴られることは減っていた。
「自分で行けよ、親父」
床に散らばった酒瓶を袋へ詰めながら言う。
「いつまでそんなんでいるんだ」
父の目が細くなる。
「あ?」
ゆっくり立ち上がる。
「随分口がでかくなったな、旅人」
近づいてくる酒臭い息。
「言っとくけどな」
父は笑った。
「お前もろくな人生辿んねぇぞ」
そして吐き捨てる。
「お前は――俺と同じだ」
俺は何も返さなかった。
ただ、冷めた目で父を見ていた。
――俺と父が同じ?
そんなはずはない。
頭の中で何度も繰り返した。
言葉を吐き捨てる父を背に、俺は台所へ向かう。
「ありがとね……旅人」
母が小さく笑う。
「母さん……」
母の手には絆創膏が増えていた。
日に日に、傷が増えていく。
それでも笑うその顔が、俺には痛かった。
「もうやめよう」
父に聞こえないよう、小さく言う。
「母さん。このままじゃ……母さんが壊れる」
母の手を握る。
母はその手を、優しく包んだ。
「……いいのよ」
かすれた声。
「あの人なりに、苦しんでる」
母は言う。
「頼る人だって、いないのよ」
目を伏せる。
「せめて……私だけでもいなきゃ」
消えてしまいそうな声だった。
「旅人」
母は俺を見た。
「あなたは、あなたのことだけ考えていればいいの」
優しく笑う。
「もっと自分を大事にしなさい」
何か言い返したかった。
けれど言葉は出なかった。
結局、俺は――
見ることしかできない。
何も変えられない。
そんな自分から、ずっと目を逸らしていた。
それでも、考えることだけはやめなかった。
父はなぜ壊れたのか。
何が父をあそこまで追い詰めたのか。
母から聞いた話。
両親はほとんど駆け落ち同然で家を出たらしい。
父は責任感が強く、誰にも頼らず働き続けた。
――そんな時に俺が生まれた。
家計は苦しい。
仕事もうまくいかない。
そして父は――壊れた。
同情なんてできるほど、俺にも余裕はなかった。
それでも。
理解だけはしようとしていた。
「なあ咲」
帰り道。
俺は何気なく聞いた。
「頼る人もいないまま、多くを背負って潰れた人ってさ」
空を見上げる。
「どうなると思う?」
「急にどうしたの?」
咲が首を傾げる。
「いや……別に」
「ふーん」
咲は少し考えた。
「そうだなー……」
顎に指を当てる。
そして言った。
「依存、するんじゃないかな」
「依存?」
「うん」
咲は頷く。
「人とか、物とか」
空を見上げる。
「それじゃなくても……過去とか未来とか」
父は何に依存していたのだろう。
酒はそうだ。
きっと逃げ道だった。
でも、それだけじゃない。
父のあの目の奥には――
もっと別の何かがあった。
「そうか」
俺は前に向き直って言った。
「ありがとう、咲」
ちょうど咲の家に着く。
二人は足を止めた。
咲は俺をじっと見ていた。
その目は、何もかも見透かしているようだった。
それでいて、不思議と心地よかった。
「どうした?」
「ううん」
咲は笑う。
「なんでもない」
そして言う。
「旅人くん」
少しだけ真剣な顔になる。
「何かあったら、私に言ってね」
優しく笑う。
「私はいつだって味方だからさ」
次の瞬間。
柔らかい感触が頬に触れた。
咲はそのまま玄関へ走っていく。
最後まで顔は見えなかった。
でも。
何を言いたかったのかは分かった気がした。
――そんな日常だった。
いつ壊れるか分からない、危うい均衡。
それでも俺は。
壊れないと、どこかで思い込んでいた。
目を逸らしながら。
そうしているうちに――
世界は残酷に現実を突きつける。




