表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/36

6-3



 ――


  夢の中。


 ――封じ込めていた過去が、駆け巡る。


 頬に残る衝撃が、再び『俺』を襲った。


「ぐっ……」


 口の中に鉄の味が広がる。


「もうやめて!」


 泣き叫ぶような母の声が耳に響いた。


 横たわる俺の上に、母が覆いかぶさる。

 細い背中が、盾のように俺を庇った。


 だが――


 目の前に立つ男は、その程度では止まらない。


「邪魔だ。どけ、(すみ)


 低く唸るような声。


 それだけで、子供だった俺には敵わないと分かるほどの圧力があった。


 酒の匂いが部屋に充満していた。


「もう……やめて……」


 母の声は震えている。


「自分を、見失うのも……」


 その言葉に、父の目がわずかに歪んだ。


 ――これが、俺の日常だった。


 怒号。

 酒瓶の転がる音。

 泣き声。


 それが毎晩のように繰り返される。


 結局、俺と母の怯える姿を見た父は、再び酒に溺れていく。


 そんな毎日が続いた。

 それでも俺は、どこか遠くから眺めるようにそれを見ていた。


 ――これが運命なんだと。


 諦めたような目で。


 朝。


「いってらっしゃい。旅人」


「行ってきます。母さん」


 母はどれだけ苦しい状況でも、パートで稼いだ金で野球を続けさせてくれた。


 古くなったグローブ。


 擦り切れたスパイク。


 それでも母は笑って送り出してくれた。


 けれど家に帰るたびに見るのは――

 疲れ切った母の姿だった。


「おい、旅人」


 父の声が飛ぶ。


「酒、買ってこい」


 高校生になっても父は変わらなかった。

 俺は父を見下ろすように見た。


 体も大きくなり、直接殴られることは減っていた。


「自分で行けよ、親父」


 床に散らばった酒瓶を袋へ詰めながら言う。


「いつまでそんなんでいるんだ」


 父の目が細くなる。


「あ?」


 ゆっくり立ち上がる。


「随分口がでかくなったな、旅人」


 近づいてくる酒臭い息。


「言っとくけどな」


 父は笑った。


「お前もろくな人生辿んねぇぞ」


 そして吐き捨てる。


「お前は――俺と同じだ」


 俺は何も返さなかった。

 ただ、冷めた目で父を見ていた。


 ――俺と父が同じ?


 そんなはずはない。


 頭の中で何度も繰り返した。

 言葉を吐き捨てる父を背に、俺は台所へ向かう。


「ありがとね……旅人」


 母が小さく笑う。


「母さん……」


 母の手には絆創膏が増えていた。

 日に日に、傷が増えていく。


 それでも笑うその顔が、俺には痛かった。


「もうやめよう」


 父に聞こえないよう、小さく言う。


「母さん。このままじゃ……母さんが壊れる」


 母の手を握る。

 母はその手を、優しく包んだ。


「……いいのよ」


 かすれた声。


「あの人なりに、苦しんでる」


 母は言う。


「頼る人だって、いないのよ」


 目を伏せる。


「せめて……私だけでもいなきゃ」


 消えてしまいそうな声だった。


「旅人」


 母は俺を見た。


「あなたは、あなたのことだけ考えていればいいの」


 優しく笑う。


「もっと自分を大事にしなさい」


 何か言い返したかった。

 けれど言葉は出なかった。


 結局、俺は――

 見ることしかできない。


 何も変えられない。


 そんな自分から、ずっと目を逸らしていた。

 それでも、考えることだけはやめなかった。


 父はなぜ壊れたのか。

 何が父をあそこまで追い詰めたのか。


 母から聞いた話。


 両親はほとんど駆け落ち同然で家を出たらしい。

 父は責任感が強く、誰にも頼らず働き続けた。


 ――そんな時に俺が生まれた。


 家計は苦しい。

 仕事もうまくいかない。


 そして父は――壊れた。


 同情なんてできるほど、俺にも余裕はなかった。


 それでも。

 理解だけはしようとしていた。


「なあ咲」


 帰り道。

 俺は何気なく聞いた。


「頼る人もいないまま、多くを背負って潰れた人ってさ」


 空を見上げる。


「どうなると思う?」


「急にどうしたの?」


 咲が首を傾げる。


「いや……別に」


「ふーん」


 咲は少し考えた。


「そうだなー……」


 顎に指を当てる。

 そして言った。


「依存、するんじゃないかな」


「依存?」


「うん」


 咲は頷く。


「人とか、物とか」


 空を見上げる。


「それじゃなくても……過去とか未来とか」


 父は何に依存していたのだろう。

 酒はそうだ。


 きっと逃げ道だった。

 でも、それだけじゃない。


 父のあの目の奥には――

 もっと別の何かがあった。


「そうか」


 俺は前に向き直って言った。


「ありがとう、咲」


 ちょうど咲の家に着く。


 二人は足を止めた。

 咲は俺をじっと見ていた。


 その目は、何もかも見透かしているようだった。

 それでいて、不思議と心地よかった。


「どうした?」


「ううん」


 咲は笑う。


「なんでもない」


 そして言う。


「旅人くん」


 少しだけ真剣な顔になる。


「何かあったら、私に言ってね」


 優しく笑う。


「私はいつだって味方だからさ」


 次の瞬間。


 柔らかい感触が頬に触れた。


 咲はそのまま玄関へ走っていく。

 最後まで顔は見えなかった。


 でも。

 何を言いたかったのかは分かった気がした。


 ――そんな日常だった。


 いつ壊れるか分からない、危うい均衡。


 それでも俺は。


 壊れないと、どこかで思い込んでいた。

 目を逸らしながら。


 そうしているうちに――

 世界は残酷に現実を突きつける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ