6-2
翌日。
旅人は朝の日課をこなしていた。
肌を刺すような冷たい空気の中、バットを振る。
迷いを振り払うかのように、スイングが鋭く空気を裂いた。
風を切る音が、乾いた朝に響く。
何度も同じ動作を繰り返す。
身体が温まり、呼吸が深くなっていく。
それでも胸の奥に残る靄は、完全には消えなかった。
適度に汗をかいたあと、旅人は大学へ向かった。
受ける講義はない。
それでも足がここへ向いた理由は、はっきりしていた。
――あの人だ。
キャンパスの中庭。
昼前の静かな時間。
旅人は視線の先に、ベンチへ座る土屋の姿を見つけた。
深く腰を下ろし、背中を丸めている。
遠目からでも、ため息をついているのが分かる。
「土屋さん、こんにちは」
旅人は歩み寄り、声をかけた。
土屋は少し驚いたように顔を上げる。
目の下には薄く隈が浮かんでいた。
「あ、どうも。空韻さん」
耳につけていたイヤホンを外す。
土屋は少し右へずれ、ベンチの隣を空けた。
旅人は軽く礼を言い、そのまま腰を下ろす。
「何を聞いてたんですか?」
何気ない調子で、旅人は尋ねた。
土屋はスマホの画面を差し出す。
「この曲です」
旅人は画面を覗き込んだ。
表示されていたのは――
米津玄師の『がらくた』。
「これを聴くと、響くんですよね」
土屋は苦笑いする。
「がらくたみたいに壊れた自分でも……って思えるんです」
自分を「がらくた」と呼ぶ声は、どこか諦めているようだった。
旅人は心の中で、静かに首を振る。
「いい曲、ですね」
それ以上の言葉は出なかった。
――あなたは、がらくたなんかじゃない。
そんな言葉は、喉の奥で止まった。
無責任に聞こえてしまう気がしたからだ。
風が吹き、木々の葉が揺れる。
二人の間に、ゆっくりと沈黙が流れた。
「土屋さん」
やがて旅人が口を開く。
「あなた自身も、もっとお父さんの世界に触れるべきです」
昨日から考え続けていた言葉だった。
土屋の目が旅人を見つめる。
その瞳は決して壊れてなどいない。
むしろ必死に、何かを掴もうとしている。
「やっぱり……そう、ですよね」
土屋は小さく頷いた。
「分かってたんです。自分だって、家族と同じで……父の姿から逃げてたって」
土屋は無意識に手首を撫でた。
「土屋さん自身が、お父さんの世界を見て。その先に――」
旅人は言葉を探す。
「きっと、自分の世界が見えてくるはずです」
土屋は長い間、何かを探していた。
失ったものなのか。
まだ見ぬものなのか。
それでも、壊れたままでは終わりたくない。
そんな意思を、旅人はその目の奥に感じていた。
「……空韻さん」
土屋がゆっくり口を開く。
「最後まで、付き合ってくれますか?」
旅人は一瞬だけ視線を落とす。
「もちろんです」
そして答えた。
「依頼、ですから」
本当は、それだけではなかった。
だが、その言葉は胸の奥にしまったままだった。
「――おーい、大斗!そろそろ研究室戻れよー!」
遠くから声が飛ぶ。
「ああ、今行く!」
土屋が立ち上がる。
「それじゃあ、空韻さん。また」
少し笑う。
「次は、空韻さんの好きな曲、教えてください」
旅人は頷いた。
土屋は友人の隣へ並び、研究棟の方へ歩いていく。
その背中を、旅人はしばらく見送った。
ポケットからスマホを取り出す。
音楽アプリを開く。
何か曲を流そうとした、その時だった。
「あ、旅人じゃんか」
声が飛んできた。
「火曜日にいるなんて珍しいな」
旅人は顔を上げる。
「海人、か」
大学では不思議とよく遭遇する男だった。
――
カキン、と乾いた音が響く。
金属バットがボールを弾き返す。
「彰吾!もっと腰落としてけよ!」
「分かってらぁ!」
石塚がバッティングしている姿を、旅人は海人と並んでネット越しに見ていた。
結局、海人に誘われるまま、三人でスポーツセンターへ来ていた。
「また依頼か、旅人」
海人が言う。
「お前も大変だな」
「まぁ、仕事だからな」
旅人は何気なく答えた。
ボールがマシンから放たれ、また乾いた音が響く。
そのリズムが妙に心地よかった。
「もうさ、先輩たちも引退しちまってさ」
海人が言う。
「就活終わった人もほとんどだってよ」
「もうそんな時期か」
「な。きっと俺らの番もすぐなんだろうな」
海人の声が少しだけ沈んだ。
旅人は横目でその表情を見た。
「旅人はさ」
海人が言う。
「卒業したらどうするんだ?」
卒業。
その言葉を聞いた瞬間。
ボールが一瞬、止まったように旅人は感じた。
叔父に言われて決めた大学進学。
だが、その先は――。
考えていなかった。
いや。
考えないようにしていた。
「さぁ……どうなんだろうな」
旅人は曖昧に答えた。
けれど、それは本音だった。
「そうだよな」
海人が笑う。
「将来なんて、そう簡単に分かるもんじゃねぇよな」
その言葉と同時に。
「くそっ!」
豪速球に空振りした石塚の声が響いた。
球数を終え、石塚が渋い顔で戻ってくる。
「いやー、まだまだ旅人には勝てねぇな」
「現役がそんなんでどうするよ、彰吾」
「そうは言ってもな」
石塚はバットを差し出した。
「ほら」
「ん?」
「一発やってこいよ」
海人が横から言う。
「その曇った顔、晴らしてこい」
石塚も頷く。
「俺らは相談乗れるタイプじゃねぇけどさ」
少し照れたように笑う。
「それでも……友達、だろ?」
「それに久々、旅人のバッティング見たいしな」
二人が笑う。
旅人もつられて笑った。
「そうだな……」
バットを受け取る。
「まだ二人には負けてられないか」
手に馴染まないバットの感触が、妙にくすぐったかった。
旅人はネットをくぐり、打席に立った。
――
後日。
土屋から連絡があった。
その内容は――。
「父の……墓、か」
土屋は一歩踏み出した。
父の世界から目を逸らさないために。
その墓へ同行してほしいという依頼だった。
タバコの煙が揺れる。
旅人はゆっくり息を吐いた。
「三枝さん、もう終わりですか?」
帰る準備をしている三枝を見る。
「今日は少し遅くなりすぎちゃったからね」
三枝はバッグを肩にかけた。
「旅人くんも、思い詰めないように」
そして言う。
「今まで目を逸らしてきたものに向き合う辛さは……あなたもよく分かってるでしょ?」
図星だった。
旅人は何も言えない。
「お疲れ様」
三枝はそう言って事務所を出ていった。
夜の静けさが戻る。
旅人はタバコを消した。
そして事務所を閉め、上の階にある自宅へ戻った。
食事を取って、シャワーを浴びる。
電気を消して、闇夜に紛れた。
ベットに入っても、旅人の頭の中にモヤが残る。
今まで封じ込めていたものが、体の中から溢れ出しそうになっていた。
目を閉じ、思考を止めた。
闇夜に紛れるように、旅人は眠りについた。
7月7日。なんとか勝てました




