表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/36

6-1 勿忘草



  肌寒い空気のなかで、湯気を立てるコーヒー。


 旅人と三枝は、それぞれのデスクに向かい作業をしていた。


 キーボードを叩く音だけが、静かな室内に小さく響いている。


 旅人はふと手を止め、壁の時計へ視線を向けた。


 時刻は三時前。メールで相談を受けた人物との対面が、もうすぐに迫っていた。


 湯気の立つカップを持ち上げ、一口含む。


 温かさが喉を通るのに、胸の奥はどこか冷えたままだった。


「ん? 三枝さん。この相談者は……」


 旅人はパソコンの画面を見つめたまま声をかけた。


 そこには、すでに三枝が対応している相談メールの履歴が残っていた。


 基本的に相談は、メールであろうと旅人が担当する。


 だが、内容によっては三枝が直接関わることもある。


「あー。その子ね」


 三枝は隠す様子もなく答える。


 相談者が女性であり、相談内容もそうした繊細なものだったため、三枝が引き受けたようだった。


「三枝さんが、自分から率先するなんて珍しいですね」


「まあね。私も少しくらい手を貸してあげようかと思って」


 三枝はコーヒーを一口含んだ。


 その仕草はいつも通りだった。


 けれど、どこか様子を見守っているような気配も感じる。


 旅人はそれ以上気にすることなく、再び画面へ目を落とした。


 ――ユーザーネーム。N.S。


 どこかで見覚えのあるイニシャルだった。


 思い出せそうで、思い出せない。


 喉元まで上がってきた違和感を、旅人は一度閉じる。


 ――


 カランカラン、と鈴の音が鳴る。


 扉が開き、来客を知らせた。


「こんにちは。(しきい)相談所の空韻です。土屋さんですね。どうぞこちらへ」


「あ、はい」


 少し顔を強ばらせた相談者が、小さく頷く。


 旅人は椅子を引き、席へと案内した。


「それでは――」


 いつものように淡々と。


 けれど旅人の視線は、相手をまっすぐ捉えていた。


 まるで、相手の世界へノックするように。


「――あなたの世界を、教えてください」


 言葉に決定的な違いはない。


 だが、目と声音には確かな変化が生まれていた。


 それを旅人自身も、うっすらと自覚していた。


 相談者の名は、土屋大斗。


 旅人と同じ大学の、一つ上の学年。四年生だった。


 そんな土屋の抱えた世界。

 それは――。


「この先に未来があるのか……その確信が、持てないんです」


 深く沈み込むような声だった。


 猫背の姿勢も相まって、視線は自然と床へ落ちていく。


 まるで、そこに重たい何かを引きずっているようだった。


「あなたにそう思わせる出来事は……なんですか?」


 旅人は、少しだけ踏み込む。


 土屋の世界を、もう一歩だけ開くために。


「家族……です」


 その一言を聞いた瞬間、旅人の胸が跳ねた。


 鼓動が一拍遅れて強く鳴る。


「家族を見てきて、自分もきっと……同じ運命を辿る。そう思ってしまうんです」


 虚ろな瞳が、旅人を見つめる。


 だが、その目は死んでいなかった。


 今もなお、底から足掻こうとしている。


 その光を、旅人は見逃さなかった。


「一体……何があったんです?」


 問いかけながら、旅人は机の下で指を握った。


 土屋は目を伏せ、過去へ触れる。


「あれは、十年近く前のことです……」


 部屋の空気が、静かに沈む。


 時間が止まったようだった。


 土屋の口元だけが動く。


「――父の、自殺です」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 親の死。


 旅人にとっても、決して他人事ではない。


 胸の奥で何かが軋む。


 それでも旅人は表情を崩さず、耳を傾けた。


 今は聞く側でなければならない。


 土屋の世界に、いまだ根を張るもの。


 仕事と家族の狭間に追い詰められ、誰にも頼ることができず。


 そして最後に、自ら首に縄をかけた父。


「最初は実感なんてなかったです。朝起きたら……だったんで」


 昨日までそこにいた人が、突然いなくなる。


 そんな現実を、人はすぐには理解できない。


 机の下で、旅人の腕がかすかに震えた。


「それに、誰も父の名を出そうとしないんです」


 土屋は乾いた唇を舐める。


「まるで……忘れた過去みたいに」


 その言葉に、旅人の胸に引っかかるものがあった。


 浅尾は違った。


 忘れないために、自分で世界に刻み続けていた。


 だが土屋の周囲は――違ったのだろう。


「それが……あなたの未来を見せなくするものの、正体ですか」


「自分も父と同じになる。誰も頼れず、最後は死に縋っても、忘れられてしまうんだろうって……」


 土屋の瞳を、旅人はまっすぐ見つめる。


 その奥で、縄をかけた男の姿が重なる。


 それは父なのか。

 それとも――未来の土屋なのか。


「怖いんです……自分がどんどん父に似てくるのが」


 その言葉は、恐怖そのものだった。


 十年間。

 父の影を背負い続けてきたのだろう。


 その重さは、想像するだけでも胸が詰まる。


「もう少し詳しく伺ってもいいですか――」


 それから先、旅人はただ静かに話を聞いた。


 大学生活。

 友人関係。

 母との距離。


 何気ない話ばかりだった。


 それでも、その積み重ねが土屋の世界を形作っている。


 だからこそ必要な時間だった。


 やがて土屋は席を立ち、相談所を出ていった。


 猫背の背中が扉をくぐるのを、旅人は黙って見送る。


 扉が閉まる。


 鈴の音が、静かに揺れた。


 旅人は椅子に深くもたれた。


 灰皿を手元へ寄せ、タバコに火をつける。


「……ふう」


 煙を吐き出す。


 視界の中で、白い煙がゆっくりと形を崩していく。


 ――家族。死。


 たったそれだけの言葉が、胸の奥に靄を残す。


 煙に紛れるように、三枝が横を通った。


「少し出てくるわね」


「はい。いってらっしゃい」


 三枝は扉へ向かいながら、振り返らずに言った。


「あまり思い詰めるものじゃないよ。旅人くん」


 そのまま扉が開く。


 外の冷たい空気が、わずかな隙間から流れ込んできた。


 静けさが戻る。


 旅人はタバコを見つめた。

 土屋の向かう未来。


 それを、どうしても自分に重ねてしまう。


 父と同じ道を辿るのではないかという恐怖。


 その感覚は、他人事とは思えなかった。


 それでも。

 その想像は、ゆっくりと煙に溶けていく。


 答えは、まだ見えないままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ