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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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21/36

5-5



  2時間近くを経て、辿り着いたのは避暑地として知られる地だった。


 窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込み、肺の奥まで澄み渡っていく。


 旅人たちを乗せた車は、他の車とすれ違うこともなく、静かな街並みを抜けて走っていた。


「……ここ、です」


 浅尾の声に導かれるように、脇道へと入り、車は静かに止まる。


 旅人は周囲を見回した。


 いくつかの民家が点在する中で、ひときわ異質な光景がそこにあった。


「……これが……」


 旅人は息を呑む。


 生い茂る林。


その中心だけが、何かをくり抜いたように、ぽっかりと空虚な空間を残している。


 そこには、建物の痕跡すらほとんど残っていなかった。


 言葉もなく、二人は車を降りる。


 冷たい風が頬を撫で、前髪を揺らした。


「浅尾さん」


 呼びかけにも応じず、浅尾は無言のまま歩き出す。


 その背を追い、横に並ぶと、浅尾の視線は遥か彼方を見つめていた。


「……ここが、玄関でした」


 ぽつりと、風に溶けるような声。


 木々がざわめき、枯葉がかすかに鳴る。


「こっちが、リビングで……キッチンで……」


 浅尾は確かめるように歩みを進める。


 だが、足元にあるのは、踏み砕かれる枯葉だけ。


 何も掴めず、何も残らず、浅尾は虚空に取り残されているようだった。


「……そして、ここが――」


 言葉が、重く沈む。


 強く握りしめられた拳。その震えを、旅人は見逃さなかった。


「ベランダ……あの件の、始まりです」


 旅人の脳裏に、情景が浮かぶ。


 笑い声。

 はしゃぐ若者たち。

 くつろぐリビング。


 ――そして、宙を舞うタバコの灰。


「全部……私が、壊した……」


 浅尾はしゃがみ込み、枯葉を掬い上げる。


 指の隙間から、乾いた葉がぼろぼろと崩れ落ちる。


「この家も……家族も……友人との関係も……全部……」


 その声は、責めるでもなく、赦しを乞うでもなく、ただ事実を吐き出していた。


「浅尾さん」


 旅人は静かに声をかけた。


「今、この世界が……どう見えていますか?」


 浅尾は、ゆっくりと顔を上げ、辺りを見渡す。


 冷たい風が、追い打ちをかけるように頬を撫でる。


「……何もない……」


 掠れた声。


「何も……残っていない。空っぽのまま……」


「――違います」


 旅人は、はっきりと否定した。


 浅尾が振り返る。


 歪み、必死に何かを堪える顔。


 とても何もないと言える表情ではなかった。


「浅尾さん。あなたには、あるでしょう」


 旅人は続ける。


「後悔も、罪悪感も、憎しみも。背負うものが、確かにある」


「……じゃあ……」


 浅尾の声が、震える。


「それを背負った先に……幸せは、あるんですか……?」


 その問いは、かつて幾度となく旅人自身が投げ続けたものだった。


「空韻さん……あなたも……分かっているんじゃないですか……」


 縋るように、浅尾は一歩踏み出す。


 だが旅人は、土に汚れた浅尾の手から、目を離さなかった。


「背負った先に、幸せがあるか……私にも分かりません」


 一拍置いて、続ける。


「――けれど、逃げた先こそ、何も残らない。そこは、本当に空っぽです」


 浅尾は、思わず後ずさる。


 その瞳に何を見たのか、旅人には分からない。


 ただ、逃げ続けた先にある空白を、旅人は知っていた。


 枯葉を踏みしめる音が、やけに大きく響く。


「じゃあ……どうしたら……」


 喉を絞り出すような声。


「どうしたら……私たちは……救われるんですか……?」


 それは、彷徨う者の、切実な叫びだった。


 旅人は、目を伏せることなく答える。


「救い? そんなもの、ない人の方が圧倒的に多い」


 冷静に、しかし確かに。


「私たちも、そっち側です」


 浅尾の肩が、びくりと震えた。


「……けど、あなたは救われるために、ここへ来たんじゃない」


 旅人は一歩踏み出す。


「向き合うために来たんでしょう?

 あの出来事を、終わらせないために」


「……っ」


 声にならない嗚咽が、浅尾の喉から漏れる。


 うずくまり、林の奥を見上げる。


 そこに映るのは、空虚な焼け跡か。

 それとも、赤く染まった、あの日の記憶か。


 旅人には、分からない。


 結局、旅人見る側でしかない。


「生きるなら――」


 旅人は、静かに、だが確かに言葉を打ち込む。


「背負い、歩き続けるしかない。

 終わらせず、消さず、抱えたまま進むしかない」


 浅尾の過去を、壊すように。

 同時に、縫い留めるように。


「ここにいるのは、あんたに、終わる気がないからだ」


 声が荒くなる。


「だったら、背負え。

 この景色も、匂いも、後悔も、全部」


 踏み込む。


「背負ったまま、進め。

 それが、罰であり――生きる理由だ」


 吐き出した言葉が、空間を切り裂く。


 そして――割れる。


 浅尾の視線が、揺れ、焼け跡を捉える。


 浅くなった呼吸の中、林の隙間から一筋の光が差し込んだ。


 旅人は歩み寄り、足元の何かを拾い上げる。


「……これは」


 指先で掴んだそれは、ガラスの破片。


 光を反射し、きらりと輝く。

 指の腹が切れ、赤が滲む。


「……綺麗、ですね」


 浅尾の呟きが、光に溶ける。


 浅尾は、ゆっくりと立ち上がった。


 木々のざわめきだけが、二人を包む。


「……旅人さんの言う通り、です」


 声に、もう震えはなかった。


「忘れたく、なかったんです」


 一度、息を吸う。


「忘れたら……本当に、全部、終わってしまいそうで」


 浅尾は、焼け跡をまっすぐ見つめていた。


 人がどれほど取り残されようと、世界は残酷なほど、前に進み続ける。


「生きる道筋は……まだ、見えません」


 けれど、と浅尾は続ける。


「持っていくものは、はっきりしました」


 林から抜ける光に、二人は目を細める。


 旅人の視界で、浅尾の輪郭が、どこか滲んでいた。


「……空韻さん、ありがとうございました」


「いえ。私は、ただ、ついて来ただけです」


 浅尾は、かすかに笑う。


「……そういうことにしておきます」


 一拍の沈黙。


 それから、浅尾は静かに言った。


「でも、空韻さん……あなたも」


 旅人は、目を細める。


「……忘れたくないものが、あるんでしょう」


 返す言葉はなかった。


 ただ、胸の奥で、何かが深く押し広げられていくのを感じていた。

最近暑すぎてとけそう

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