5-4
――
高校三年。
蝉の声が、空気そのものを震わせていた。
旅人は、親戚の家を転々としていた。
居場所を失うたびに、風景が塗り替えられていく。
すべてが違い、どれも長くは続かなかった。
――そして辿り着いた先が、閾探偵事務所。
古びた雑居ビルの三階。
階段を上がるごとに、埃とタバコと油の混じった匂いが濃くなる。
ドアを開けた瞬間、鋭い視線が旅人を射抜いた。
壁際に立つ男。
無精髭、鋭い目つき、口元に咥えたタバコ。
「君が旅人か。私は、深谷兼親だ」
淡々とした口調。
そこに歓迎も拒絶もなかった。
旅人は一瞬、戸惑い、それから小さく頭を下げた。
「……お願いします。叔父さん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
叔父は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
その仕草が、なぜか胸に残った。
――ここでも、長くは居られない。
そう思っていた。
だが、日々は意外なほど静かに続いていった。
転入した高校へ通い、帰宅すれば叔父は不在か、事務所で書類に目を通している。
会話は必要最低限。
食卓も、互いに言葉を交わさずに終わることが多かった。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
踏み込まれない。
干渉されない。
だが、無視もされない。
その距離感が、旅人にはありがたかった。
――そんなある日。
リビングの机の上に、進路届が置かれていた。
進学か、就職か。
空白の欄が、ひどく広く見えた。
「……進路、か」
旅人は、ペンを握ったまま、しばらく動けずにいた。
そんな言葉は、遠い世界のものだった。
そのとき、扉が静かに開いた。
「旅人か。ただいま」
「おかえり、叔父さん」
何気ないやりとり。
だが、叔父の視線はすぐ机の上へ向けられた。
「それは、進路届か」
旅人は小さく頷いた。
叔父はスーツの上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろすと、空白の用紙をじっと見つめた。
しばらく沈黙が続く。
その沈黙に、旅人の胸はじわじわと締めつけられていった。
「――旅人」
「はい」
「お前は、どうしたい?」
思いがけない問いだった。
旅人は言葉を失い、視線を伏せる。
「……特に。何も」
それは嘘ではなかった。
本当に、何もなかった。
叔父はそれを否定しなかった。
静かにタバコに火をつけ、煙を天井へと吐き出す。
「そうか」
それだけ言って、また沈黙。
だが、その沈黙は、追及でも拒絶でもなく、ただ待つものだった。
やがて叔父は、ぽつりと口を開く。
「不安定な立場だ。先が見えないのも、無理はない」
責める調子は、一切なかった。
旅人は、胸の奥に溜まっていたものが、わずかに緩むのを感じた。
「……あの出来事、だろうな」
言葉を濁しながら、叔父は続けた。
旅人は、息を詰める。
「それを、どうしたらいいか……わからないんです」
呟きは、ほとんど独り言だった。
けれど、叔父は確かにそれを拾った。
「まだ、バット……振ってるんだろ」
旅人は、答えられなかった。
部屋の隅に立てかけたバット。
怒りとも、悲しみとも、虚無ともつかない何かを、吐き出すために。振り続けていた。
「それを、私がどうにかしてやることはできない」
叔父は、はっきりと言った。
「結局は旅人。お前自身が、どう受け止めるかだ」
煙が、ゆっくりと広がる。
「逃げてもいい。
だが、目だけは逸らすな」
その言葉は、厳しくも優しかった。
否定せず、肯定もしない。
ただ、責任を旅人自身へ戻す言葉。
旅人は、しばらく机の空白を見つめていた。
何も埋まらない。
それでも、ペンを取る。
震える文字で、紙にペン先を這わせていく。
叔父は、それを見届けることなく、灰皿にタバコを押しつけた。
――
それから旅人は高校を卒業し、叔父の家から近い大学へ進学した。
大きな変化ではない。だが、確かに前へ進んでいる実感があった。
「旅人、依頼人だ」
「はい」
大学へ通いながら、叔父の探偵業を手伝うようになった。
来客に茶を出し、記録を取り、調査に同行する。
探偵の仕事は、想像以上に地味だった。
不倫調査、行方探し、身辺調査――
だがその一つひとつに、人生が詰まっていた。
「旅人。今の依頼人を、どう思う?」
唐突な問い。
旅人は紫煙を眺めながら答える。
「……正直、分かりません。結婚もしていないし、彼女の気持ちを全部理解することは」
叔父は、小さく笑った。
「それでいい」
「いい、んですか?」
「この仕事は、理解することじゃない。見ることだ」
叔父はタバコを消す。
「だがな、見るだけじゃ足りない時が来る。触れなきゃならない瞬間が、必ず来る」
「触れる……?」
「他人の痛みに、共に傷つく覚悟だ。逃げずに、向き合う覚悟」
旅人は理解できず、首を傾げた。
「お前も、いつか分かる」
その言葉は、遠くて、そして不思議と近かった。
――
そして年月は流れ、叔父は息を引き取った。
病室に残された静寂と冷たい風の中で、旅人は立ち尽くす。
「自分の目を持て……か」
死の間際に残された言葉。
手には、託された一本の鍵。
『閾を……お前に託す』
旅人は、静かにベッドのシーツを撫でた。
扉が開く。
「行くわよ、旅人くん」
「……はい、三枝さん」
その日から、旅人は閾を背負った。
人の世界を見つめ続ける中で、
いつか、叔父の言葉の意味に辿り着けると信じて。
――
車内に戻り、旅人は語り終えた。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
高速道路の継ぎ目を越えるたび、低く鈍い振動が足元から伝わる。
浅尾は、窓の外を見つめていた。
流れていく街並みは、どれも現実味を欠いて、ただ遠ざかっていく。
胸の奥で、何かが静かに崩れていた。
それが悲しみなのか、羨望なのか、それとも後悔なのか。
浅尾自身にも、まだ形にはならなかった。
「……慕っていたんですね。その叔父さんのこと」
ようやく絞り出した声は、思っていた以上に震えていた。
「尊敬しています。今でも」
旅人は、前を見据えたまま答えた。
その横顔には、飾りも誇張もなかった。ただ、淡々とした事実だけが宿っている。
浅尾は、無意識のうちに唇を噛んだ。
「……その自分の目は」
浅尾は、言葉を選びながら続けた。
「見つかりましたか?」
旅人の指先が、わずかにハンドルを強く握る。
エンジン音に紛れた、その微かな変化を、浅尾は見逃さなかった。
答えは返ってこない。
料金所が近づき、減速する車。
赤いランプが、二人の顔を交互に照らす。
一瞬、視線が交わった。
旅人の目には、揺れがあった。
迷いとも、諦観ともつかない、深い陰り。
浅尾は、それ以上問うことはなかった。
誰かの答えを欲しながら、
自分はまだ、何一つ答えられる場所にいない。
その事実が、胸に重く沈んでいく。
車は料金所を抜け、一般道へと入る。
街灯が、一定のリズムでフロントガラスを流れていった。
「――そろそろ、着きますよ」
旅人の声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。
けれど浅尾には、その奥に潜む緊張が、はっきりと伝わっていた。
目的地が近づくほど、呼吸が浅くなる。
相反する感情が胸の中でせめぎ合い、浅尾は視線を伏せた。
その沈黙を、旅人は責めない。
ただ、ハンドルを握る手に、わずかに力を込めた。
浅尾が、この先で何を選ぶのか。
それを決めるのは、旅人ではない。
だが、ここまで連れてきた意味だけは、決して無駄にしない。
そう言うように、車は静かに速度を落としていった。




