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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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20/36

5-4


  ――

 

 高校三年。


 蝉の声が、空気そのものを震わせていた。


 旅人は、親戚の家を転々としていた。


 居場所を失うたびに、風景が塗り替えられていく。


 すべてが違い、どれも長くは続かなかった。


 ――そして辿り着いた先が、(しきい)探偵事務所。


 古びた雑居ビルの三階。


 階段を上がるごとに、埃とタバコと油の混じった匂いが濃くなる。


 ドアを開けた瞬間、鋭い視線が旅人を射抜いた。


 壁際に立つ男。


 無精髭、鋭い目つき、口元に咥えたタバコ。


「君が旅人か。私は、深谷兼親だ」


 淡々とした口調。


 そこに歓迎も拒絶もなかった。


 旅人は一瞬、戸惑い、それから小さく頭を下げた。


「……お願いします。叔父さん」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 叔父は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。


 その仕草が、なぜか胸に残った。


 ――ここでも、長くは居られない。


 そう思っていた。


 だが、日々は意外なほど静かに続いていった。


 転入した高校へ通い、帰宅すれば叔父は不在か、事務所で書類に目を通している。


 会話は必要最低限。


 食卓も、互いに言葉を交わさずに終わることが多かった。


 それでも、不思議と居心地は悪くなかった。


 踏み込まれない。

 干渉されない。


 だが、無視もされない。


 その距離感が、旅人にはありがたかった。


 ――そんなある日。


 リビングの机の上に、進路届が置かれていた。


 進学か、就職か。


 空白の欄が、ひどく広く見えた。


「……進路、か」


 旅人は、ペンを握ったまま、しばらく動けずにいた。


 そんな言葉は、遠い世界のものだった。


 そのとき、扉が静かに開いた。


「旅人か。ただいま」


「おかえり、叔父さん」


 何気ないやりとり。


 だが、叔父の視線はすぐ机の上へ向けられた。


「それは、進路届か」


 旅人は小さく頷いた。


 叔父はスーツの上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろすと、空白の用紙をじっと見つめた。


 しばらく沈黙が続く。


 その沈黙に、旅人の胸はじわじわと締めつけられていった。


「――旅人」


「はい」


「お前は、どうしたい?」


 思いがけない問いだった。


 旅人は言葉を失い、視線を伏せる。


「……特に。何も」


 それは嘘ではなかった。

 本当に、何もなかった。


 叔父はそれを否定しなかった。


 静かにタバコに火をつけ、煙を天井へと吐き出す。


「そうか」


 それだけ言って、また沈黙。


 だが、その沈黙は、追及でも拒絶でもなく、ただ待つものだった。


 やがて叔父は、ぽつりと口を開く。


「不安定な立場だ。先が見えないのも、無理はない」


 責める調子は、一切なかった。


 旅人は、胸の奥に溜まっていたものが、わずかに緩むのを感じた。


「……あの出来事、だろうな」


 言葉を濁しながら、叔父は続けた。


 旅人は、息を詰める。


「それを、どうしたらいいか……わからないんです」


 呟きは、ほとんど独り言だった。


 けれど、叔父は確かにそれを拾った。


「まだ、バット……振ってるんだろ」


 旅人は、答えられなかった。


 部屋の隅に立てかけたバット。


 怒りとも、悲しみとも、虚無ともつかない何かを、吐き出すために。振り続けていた。


「それを、私がどうにかしてやることはできない」


 叔父は、はっきりと言った。


「結局は旅人。お前自身が、どう受け止めるかだ」


 煙が、ゆっくりと広がる。


「逃げてもいい。

 だが、目だけは逸らすな」


 その言葉は、厳しくも優しかった。


 否定せず、肯定もしない。


 ただ、責任を旅人自身へ戻す言葉。


 旅人は、しばらく机の空白を見つめていた。


 何も埋まらない。

 それでも、ペンを取る。


 震える文字で、紙にペン先を這わせていく。


 叔父は、それを見届けることなく、灰皿にタバコを押しつけた。


 ――


 それから旅人は高校を卒業し、叔父の家から近い大学へ進学した。


 大きな変化ではない。だが、確かに前へ進んでいる実感があった。


「旅人、依頼人だ」


「はい」


 大学へ通いながら、叔父の探偵業を手伝うようになった。


 来客に茶を出し、記録を取り、調査に同行する。


 探偵の仕事は、想像以上に地味だった。


 不倫調査、行方探し、身辺調査――

 だがその一つひとつに、人生が詰まっていた。


「旅人。今の依頼人を、どう思う?」


 唐突な問い。


 旅人は紫煙を眺めながら答える。


「……正直、分かりません。結婚もしていないし、彼女の気持ちを全部理解することは」


 叔父は、小さく笑った。


「それでいい」


「いい、んですか?」


「この仕事は、理解することじゃない。見ることだ」


 叔父はタバコを消す。


「だがな、見るだけじゃ足りない時が来る。触れなきゃならない瞬間が、必ず来る」


「触れる……?」


「他人の痛みに、共に傷つく覚悟だ。逃げずに、向き合う覚悟」


 旅人は理解できず、首を傾げた。


「お前も、いつか分かる」


 その言葉は、遠くて、そして不思議と近かった。


 ――


 そして年月は流れ、叔父は息を引き取った。


 病室に残された静寂と冷たい風の中で、旅人は立ち尽くす。


「自分の目を持て……か」


 死の間際に残された言葉。


 手には、託された一本の鍵。


『閾を……お前に託す』


 旅人は、静かにベッドのシーツを撫でた。


 扉が開く。


「行くわよ、旅人くん」


「……はい、三枝さん」


 その日から、旅人は閾を背負った。


 人の世界を見つめ続ける中で、

 いつか、叔父の言葉の意味に辿り着けると信じて。


 ――


  車内に戻り、旅人は語り終えた。


 しばらく、誰も言葉を発しなかった。


 高速道路の継ぎ目を越えるたび、低く鈍い振動が足元から伝わる。


 浅尾は、窓の外を見つめていた。


 流れていく街並みは、どれも現実味を欠いて、ただ遠ざかっていく。


 胸の奥で、何かが静かに崩れていた。


 それが悲しみなのか、羨望なのか、それとも後悔なのか。


 浅尾自身にも、まだ形にはならなかった。


「……慕っていたんですね。その叔父さんのこと」


 ようやく絞り出した声は、思っていた以上に震えていた。


「尊敬しています。今でも」


 旅人は、前を見据えたまま答えた。


 その横顔には、飾りも誇張もなかった。ただ、淡々とした事実だけが宿っている。


 浅尾は、無意識のうちに唇を噛んだ。


「……その自分の目は」


 浅尾は、言葉を選びながら続けた。


「見つかりましたか?」


 旅人の指先が、わずかにハンドルを強く握る。


 エンジン音に紛れた、その微かな変化を、浅尾は見逃さなかった。


 答えは返ってこない。


 料金所が近づき、減速する車。


 赤いランプが、二人の顔を交互に照らす。


 一瞬、視線が交わった。


 旅人の目には、揺れがあった。


 迷いとも、諦観ともつかない、深い陰り。


 浅尾は、それ以上問うことはなかった。


 誰かの答えを欲しながら、


 自分はまだ、何一つ答えられる場所にいない。


 その事実が、胸に重く沈んでいく。


 車は料金所を抜け、一般道へと入る。


 街灯が、一定のリズムでフロントガラスを流れていった。


「――そろそろ、着きますよ」


 旅人の声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。


 けれど浅尾には、その奥に潜む緊張が、はっきりと伝わっていた。


 目的地が近づくほど、呼吸が浅くなる。


 相反する感情が胸の中でせめぎ合い、浅尾は視線を伏せた。


 その沈黙を、旅人は責めない。


 ただ、ハンドルを握る手に、わずかに力を込めた。


 浅尾が、この先で何を選ぶのか。


 それを決めるのは、旅人ではない。


 だが、ここまで連れてきた意味だけは、決して無駄にしない。


 そう言うように、車は静かに速度を落としていった。

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