5-3
依頼当日。
旅人は早朝、叔父の仏壇に手を合わせた。
静寂の中、朝の光に照らされ、蝋燭の炎が揺れている。
「旅人くん、そろそろよ」
「はい。今行きます」
旅人は蝋燭の火を消し、外へ向かった。
「三枝さん、車の用意ありがとうございます」
外には一台の普通車。その側面には、閾の文字。
「社用車だけどね。兼親さん以外、あまり乗らなかったのよ」
懐かしい。
叔父の探偵業を手伝った頃、よく乗ったものだと旅人は思う。
「あ、来たみたいね」
「あの……今日は、お願いします」
「はい。浅尾さん、では」
旅人は運転席へ、浅尾は助手席へと乗り込む。
エンジンが静かに唸った。
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい、行ってきます」
ガラス越しに手を振り、車は走り出す。
目的地までは高速を使って約二時間。長い道のりだった。
しばらく、エンジン音と路面を刻むタイヤの音だけが続いた。
「――昨日、友人のSNSを見たんです」
浅尾がぽつりと口を開く。
旅人は前を見据えたまま、返事をせずに待った。
「楽しそう、でしたよ。私とは……大違いで。
結局、あれから止まったままなのは、自分だけだと、思いました」
「今、当時のご友人とは?」
ハンドルを握ったまま、旅人は静かに問う。
「疎遠、ですね。心配してくれた友人を信じきれず、逃げました。
それに……皆の幸せそうな姿を見て、僻む始末です」
自嘲の笑み。
隣の車線を走る車が追い越していき、車体がわずかに揺れる。
「……ご家族とは、どうなんですか?」
「完全に、絶縁状態です。
全部、私が悪い。けど――どこかで、期待してたんです。
最後の味方でいてくれるんじゃないかって」
静かな語り。
だが旅人には、それが抑え込まれた叫びのように聞こえた。
「浅尾さんは、随分と自分が嫌いなんですね」
共感が、言葉として零れた。
「そりゃ、そうです。
こんなことを言いながら、心のどこかで正当化しようとしてる。
そんな自分が……大嫌いです」
旅人の胸に、鋭く突き刺さる。
彼は被害者でも、加害者でもない。
ただ一人の、人間だ。
「人を羨むのも、期待するのも、戻りたい場所がある証拠ですよ。
本当に堕ちた人間は、そんな感情すら抱けない」
「だからこそ、です。
未練がましく、過去に縛られているのは、自分自身だと」
重力が体をシートに押し付ける。
息が詰まるような感覚の中で、旅人は言った。
「その自己嫌悪は、自分を罰しているようで、実は――
誰にも近づかない言い訳にもなり得ます」
浅尾の歯が、きしりと鳴った。
「あなたが今まで抱いてきた感情は、生きている側のものです。
今日は、それを消しに来たわけじゃないでしょう?」
返答はない。
だが、否定もなかった。
「少し、休憩しましょう。コーヒーでも」
ウインカーを出し、車はサービスエリアへ滑り込んだ。
――
紙コップの温もりが指先に伝わる。
コーヒーの香りを纏いながら、再び車は走り出す。
「――空韻さんは、ご家族とどうだったんですか?」
沈黙を破るように、浅尾が尋ねた。
「急に、どうしたんです?」
「いえ……なんだか、自分のことだけじゃない気がして……」
旅人はすぐに答えなかった。
ハンドルを握る力だけが、強くなる。
「――ろくなものじゃ、なかったですよ」
フロントガラスの先を見つめながら、旅人は語り出す。
「高校生の頃、家族の事情で親戚の家を転々としました。
どこへ行っても、自分の居場所なんてなかった」
沈黙。
その無言が、旅人の胸のガラスに、静かにひびを入れる。
「そこで辿り着いたのが、叔父……深谷兼親の元でした」
「その方が、閾相談所の……」
「元は探偵事務所でしたけどね。
叔父さんは、真に触れることを何も言わなかった。
ただ、割れないように、そっと包むように接してくれた」
タバコとコーヒーの残り香が、記憶を呼び起こす。
「もう少し……その方の話を、聞かせてください」
浅尾の視線を感じ、旅人は頷いた。
「――ええ。もちろんです」
ハンドルを握る手に力を込め、旅人はアクセルを踏み込んだ。




