5-1 過去と贖罪
翌日、旅人は仕事を終え、その足でスポーツセンターへ向かっていた。
金網越しに聞こえる乾いた打球音と、白球がミットに収まる鈍い音。
その中に、聞き覚えのある声が混じった。
「おう。旅人じゃねぇか」
「久しぶりだな。全然部活に顔出してこないじゃんか」
振り向くと、そこには海人と石塚がいた。
額に汗を滲ませ、タンクトップ姿という、季節を一歩先取りしたような恰好をしている。
「ちょっと立て込んでてな」
旅人がそう返すと、海人は彼の背中に目をやった。
「ちゃんと野球はやってるんだな」
バットケースに気づいて、海人は破顔する。
「石塚くんも、調子はどうだ?」
「ぼちぼちだな。ただ就活の合間を縫って谷口先輩も顔出してくれるから、まだ教わることは多いな」
石塚の言葉に、迷いはなかった。
昨日の出来事と同じだ。結果がどうであれ、人は前を向いて歩いている。
「丁度いいや。旅人、守備少し見てくれよ」
「俺が、か?」
「ショートの守備は、旅人にはまだ及ばないからな」
旅人は短く頷き、ネット際に立った。
海人は気分転換だと言ってマウンドに立ち、球速表示に一人で騒いでいる。
石塚の動きを、旅人は金網越しに追った。
「浮かない顔をしているね。旅人くん」
背後からかけられた声に、旅人は振り返る。
「折田さん」
折田は隣に立ちながらも、視線は石塚の守備に向けたままだった。
「……この前の件、結局うまくはいかなかったです……」
ぽつりと漏れた言葉は、ボールの弾む音にかき消されそうだった。
「言っただろう? 正解なんてないと。仮に別れがあったとしても、それは今の自分を守るためだったんだろうさ」
「それは……逃げでは、ないんですか?」
折田はすぐに答えなかった。
一拍置いてから、静かに口を開く。
「逃げる、か。そういうこともある。けどね、逃げなかったふりをして自分を削り続けるよりは、よほど誠実だと私は思うよ」
否定もしない。肯定もしない。
逃げもまた、選択肢だと告げるような口調だった。
「君が苦しいのは、解決できなかったからじゃない。当事者になったからなんじゃないかな」
旅人の視線が、無意識にグラウンドへ戻る。
これまでずっと、ガラスの向こう側から世界を見ていた。
だが今、その境界が揺れている。
それを見抜くように、折田の目が旅人を捉えていた。
「外に、いた方が、マシだったかもしれませんね……」
「そうとも限らない。ただ、一度表に立ったのなら、もう戻れないよ。だからこそ、向き合うのもいいけど――逃げ方を選ぶ、というのも1つだ」
「逃げ方、ですか」
転がる白球を目で追いながら、旅人は繰り返す。
前に出て処理するのもいい。
後ろに下がり、タイミングを待つのもいい。
そのどちらも、間違いではない。
「……折田さんは、痛いところを突きますね」
「私は何度も見てきたからね。ここに来る人の多くは、何かしらの痛みを抱えながら、それでも腕を振り続ける。前でも後ろでもいい。けど――足を止めることだけは、しちゃいけない」
「肝に、銘じておきます」
その言葉と同時に、守備練習のマシンが止まった。
振り返った石塚の表情が、充足を物語っていた。
「どうだったよ! 旅人」
「――ああ。よかったと思うぞ」
グローブを掲げて笑う石塚に、旅人は小さく笑い返した。
――
「今日は依頼が1つ入ってるわよ」
後日。
デスクに座る旅人の前に、三枝がパソコンを差し出した。
「これ……は?」
「その依頼者なんだけど、かなり抱え込んでそうでね……」
原因となる出来事は伏せられていた。
だが、生きる意味、罪、後悔。
並んだ言葉だけで、その重さは十分に伝わってくる。
「話を聞いてみないことには、始まらないですね」
「ええ……そうね。それじゃ、時間になったらよろしく」
三枝が席を離れたあとも、旅人は画面から目を離せなかった。
どこまでも深く、生の本質を問う文章。
吸い込まれるように読み進めるうち、視界が狭まり、周囲の音が遠のいていく。
――果たして、彼の世界は何を映しているのか。
ひび割れたガラスは、静かに、しかし確実に広がっていた。
――
「こ、こんにちは。あの……連絡した浅尾、です」
約束の時間ぴったりに、その人物は現れた。
黒のジャケットに身を包み、背筋は伸びているが、どこか硬い。
「こちらへ」
旅人は席へと案内する。
横目で浅尾を窺ったが、あの文章を書いた人物とは、どうにも結びつかなかった。
肩口は強張り、椅子に腰掛ける動作もぎこちない。
旅人は浅尾が座ったのを確認してから、視線を正面に戻した。
「ざっくりとですが、話は聞いています。では――あなたの世界を、教えてください」
「はい……あれは、5年前に……なります――」
浅尾の口から、言葉がこぼれ落ちる。
それは彼が大学生だった頃に起こした、ある出来事――。
「――火事……です」
空気が、沈んだ。
胸の奥を押されるような重さに、旅人は無意識に息を詰める。
浅尾の視線は、ゆっくりと下へ落ちていった。
伏せた瞳の奥にある色を、旅人はどこかで見た覚えがあった。
それでも、浅尾の口は止まらない。
「友人の別荘で……起きたこと、です……」
「原因は、何だったんですか?」
浅尾は答えなかった。
その視線は、机の上に置かれた灰皿へと吸い寄せられている。
――タバコ。
「……なるほど」
旅人の低い声に、浅尾は慌てるように言葉を重ねる。
「ちゃんと、吸い殻は処理してた、んです。だから最初は……自分じゃないと……」
木々に囲まれた別荘。
乾いた空気。季節。偶然が重なった結果。
旅人の脳裏に情景が浮かぶ。
同時に、その場に立ち尽くす浅尾の姿も。
「幸い……なのか、死者もなく、近隣に燃え移ることもなかったんですが……私に言い渡されたのは――失火容疑、でした」
幸い。
確かに、外から見ればそうなのかもしれない。
だが浅尾の声には、救われたという響きは一切なかった。
「それから……元々良くなかった家族関係は、終わったようなものです。友人とも……正面から向き合えるはずが、ありませんでした」
浅尾の目は、もう旅人を見ていなかった。
過去のどこか、抜け出せない一点を見つめている。
大学を卒業し、すべてから距離を取り、逃げるように生きてきたことが、淡々と語られる。
「ただ……遠くへ逃げれば逃げるほど……私を押し潰そうとする何かは、どんどん強くなっていくん、です」
「その何かが……あの文章になったんですね」
火事という罪。
逃げたという後悔。
その先で問い続ける、生きる意味。
「何度も……何度も、暗闇の中で……死のうと、思いました。けど……私には、その勇気が、なかった」
「……死の、勇気ですか」
その言い回しに、旅人の指先が僅かに震えた。
拳を握り込み、机の下で力を込める。
置いていかれた側が、軽々しく口にできる言葉ではない。
「ただ――」
浅尾の表情が、わずかに歪む。
ここが、この話の核だと、旅人は直感した。
自然と背筋が伸びる。
「――タバコが……未だに、辞められないんです」
浅尾はジャケットの内ポケットを探り、取り出したものを机の上に置いた。
旅人の目には、それが『許し』を求める行為には見えなかった。
「何度も、やめようと思いました……けど吸う度に、押し寄せる罪悪感が……それでも、気づけば……その手にあるんです」
救いなのか、罰なのか。
揺れる瞳は、どちらにも縋ろうとしている。
旅人は、自分が初めてタバコを手にした日の感覚を思い出していた。
「……実は、私も喫煙者なんですよ」
旅人はタバコとライターを、机の上に置く。
二十歳を迎えた頃、叔父・兼親から渡された、あの一本。
『こんなものに意味なんてない。
けどな、それでも誰かにとっては、どうしようもないほど拠り所になり得るんだ』
煙の向こうに、叔父の姿が揺れる。
浅尾は、しばらくそのタバコを見つめてから、口を開いた。
「じゃあ……あなたが、私だったら――辞めることは、できますか?」
旅人は、深く息を吸った。
浅尾が欲しいのは慰めではない。
正論でもない。
自分の弱さを、誰かに肯定してほしいわけでもない。
ただ、確かめたいのだ。
旅人は、浅尾の世界をガラス越しに、自分へと映し出す。
どん底に堕ちた時。
何か一つに縋らなければ、立っていられなかった時。
その時、自分は――。
「……やめられない、でしょうね」
旅人の言葉は、浅尾のガラスを、深く、静かに刺した。
浅尾の顔が、ひび割れるように歪み、滲んだ。
急に重くしすぎましたかね




