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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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16/36

4-5


松下は踵を返し、店を出ていった


「ふう……すみません。嫌な話、聞かせちゃいましたね」


 残った彼女はそう言った。


 仕事で背を向けているマスターではなく、旅人に向けて。


「いえ……ただ、部外者が言うことではないですが――」


 旅人は一拍置いて、言葉を選ぶ。


 これは依頼であり、同時に旅人自身の、どうしようもない私情だった。


「このままで、いいんですか?」


 彼女は笑った。


 自嘲するようでいて、不思議と晴れやかな笑みだった。


「いいんですよ。ここらが潮時かな、とは思ってたんです」


「彼は……まだ、やり直そうとしていましたね」


「さっきも言いましたけど……遅すぎたんです。小さな積み重ねが、大きな歪みを生むんだなって」


「突き放されたあなたに言うことじゃないですが……一度、突き放した相手は、必ず戻ってくるわけじゃない」


 旅人は、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。


 依頼者としてではない。過去に縋る自分が、口を動かしていた。


「相手が、まだこちらを向いているうちに。あなたにその気があるなら――やり直してみては」


 あまりに残酷な提案だった。


 その痛みを知っているはずの自分が、同じ刃を差し出している。


 自己嫌悪が喉元までせり上がる。


「……優しいんですね」


 違う。


 旅人は心の中で、即座に否定した。


「確かに彼はズボラで、周りが見えなくなることもありました。でも、根が優しいのは私が一番知ってます。……一緒にいれば、そんな未来も考えました」


 けれど――。


 彼女の視線は、松下ではなく、すでに前を向いていた。


「その未来と同じくらい、今も大事なんです。だから私は、彼との過去を糧にして、先へ進みたいんです」


 過去を糧にする。


 旅人は、過去とは背負い続けるものだと思っていた。


 同じ言葉でも、そこに立つ場所が違えば、意味はまるで変わる。


「……ありがとうございます。話、聞いてくれて。あなたみたいに寄り添ってくれてたら、何か違ってたかもしれません」


「……そんな立派なものじゃないですよ。自分も……同じでしたから」


 彼女は、旅人を同じ側だと思ったのだろう。


 笑いながらグラスを空にする。


 けれど旅人は違う。


 逃げた側だと、言えなかった。


「では、私はこれで」


 代金を置き、彼女は店を出ていった。


 振り向きざまに見えたその表情は、長く背負っていた何かを、ようやく下ろしたようだった。


 残された旅人。


 向かいには、すべてを聞いていたマスターが立っている。


「……まるで、自分のことのような顔をしていますね」


 マスターは視線を向けないまま、静かに言った。


「そう、見えますか」


「ええ。あなたの過去に触れるほど、野暮じゃありませんが」


 拭かれたグラスが、照明を受けて淡く光る。


「あの二人は、合わなかったわけじゃない。ただ――合わせる覚悟を、どちらも最後まで持てなかった。それだけですよ」


 責めも、擁護もない言葉だった。


「それを責めない、というのも……ひとつの別れ方でしょう」


 本当の傍観者の言葉だと、旅人は思う。


 自分もまた、透明な壁越しに、触れようとしていただけなのだ。


「……どちらか一方が違えば、結果は変わったかもしれませんが」


 旅人は、その言葉を胸に刻む。


 痛みを伴って、確かに。


「……マスター。お勘定を」


「はい」


 旅人は店を出た。


 鈴の音が、頭の奥で甲高く響いた。


 ――


 後日、松下から電話が入る。


「……そうですか。お力になれず、すみません」


 いいんですよ。


 電話越しの松下の声は、どこか吹っ切れていた。


 それがありふれた別れ方だと、旅人は理解する。


 それでも認めきれない自分を、ひどく意地汚く感じた。


「……はぁ」


 通話を切ると、無意識に息が漏れた。


「うまくいかなかったのね」


「ええ……依頼料もいただいたのに、何もできなかったです」


 後悔だけではない。


 言葉にできない嫌悪感が、肺の奥に溜まっていた。


 三枝は頬杖をつき、旅人を見つめる。


「仕方ないわ。依頼者は解決を望んでいたわけじゃない。もう決まっていた道を、照らしてほしかっただけ」


 果たせたのか。


 旅人には、確信が持てなかった。


 松下の声と、詩織の別れ際の顔が、交互に浮かぶ。


「それより――」


 三枝は煙を見つめ、目を細める。


「兼親さんの命日……そろそろね」


「……ええ。そうですね」


 叔父が亡くなって、一年。


 あの日。叔父の言葉からずっと考え続けていた。


 未だに、遺された言葉が頭を離れない。


 ――自分は、本当にこの世界を、目を開けて見ているのか。


 旅人には、まだ自信がなかった。


 向き合わなかった過去は、名前もつかないまま残っていた。


こういうマスターのポジションいいですよね。

打率は低くとも、得点圏に異常に強いバッターみたいな信頼があります

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