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松下は踵を返し、店を出ていった
「ふう……すみません。嫌な話、聞かせちゃいましたね」
残った彼女はそう言った。
仕事で背を向けているマスターではなく、旅人に向けて。
「いえ……ただ、部外者が言うことではないですが――」
旅人は一拍置いて、言葉を選ぶ。
これは依頼であり、同時に旅人自身の、どうしようもない私情だった。
「このままで、いいんですか?」
彼女は笑った。
自嘲するようでいて、不思議と晴れやかな笑みだった。
「いいんですよ。ここらが潮時かな、とは思ってたんです」
「彼は……まだ、やり直そうとしていましたね」
「さっきも言いましたけど……遅すぎたんです。小さな積み重ねが、大きな歪みを生むんだなって」
「突き放されたあなたに言うことじゃないですが……一度、突き放した相手は、必ず戻ってくるわけじゃない」
旅人は、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
依頼者としてではない。過去に縋る自分が、口を動かしていた。
「相手が、まだこちらを向いているうちに。あなたにその気があるなら――やり直してみては」
あまりに残酷な提案だった。
その痛みを知っているはずの自分が、同じ刃を差し出している。
自己嫌悪が喉元までせり上がる。
「……優しいんですね」
違う。
旅人は心の中で、即座に否定した。
「確かに彼はズボラで、周りが見えなくなることもありました。でも、根が優しいのは私が一番知ってます。……一緒にいれば、そんな未来も考えました」
けれど――。
彼女の視線は、松下ではなく、すでに前を向いていた。
「その未来と同じくらい、今も大事なんです。だから私は、彼との過去を糧にして、先へ進みたいんです」
過去を糧にする。
旅人は、過去とは背負い続けるものだと思っていた。
同じ言葉でも、そこに立つ場所が違えば、意味はまるで変わる。
「……ありがとうございます。話、聞いてくれて。あなたみたいに寄り添ってくれてたら、何か違ってたかもしれません」
「……そんな立派なものじゃないですよ。自分も……同じでしたから」
彼女は、旅人を同じ側だと思ったのだろう。
笑いながらグラスを空にする。
けれど旅人は違う。
逃げた側だと、言えなかった。
「では、私はこれで」
代金を置き、彼女は店を出ていった。
振り向きざまに見えたその表情は、長く背負っていた何かを、ようやく下ろしたようだった。
残された旅人。
向かいには、すべてを聞いていたマスターが立っている。
「……まるで、自分のことのような顔をしていますね」
マスターは視線を向けないまま、静かに言った。
「そう、見えますか」
「ええ。あなたの過去に触れるほど、野暮じゃありませんが」
拭かれたグラスが、照明を受けて淡く光る。
「あの二人は、合わなかったわけじゃない。ただ――合わせる覚悟を、どちらも最後まで持てなかった。それだけですよ」
責めも、擁護もない言葉だった。
「それを責めない、というのも……ひとつの別れ方でしょう」
本当の傍観者の言葉だと、旅人は思う。
自分もまた、透明な壁越しに、触れようとしていただけなのだ。
「……どちらか一方が違えば、結果は変わったかもしれませんが」
旅人は、その言葉を胸に刻む。
痛みを伴って、確かに。
「……マスター。お勘定を」
「はい」
旅人は店を出た。
鈴の音が、頭の奥で甲高く響いた。
――
後日、松下から電話が入る。
「……そうですか。お力になれず、すみません」
いいんですよ。
電話越しの松下の声は、どこか吹っ切れていた。
それがありふれた別れ方だと、旅人は理解する。
それでも認めきれない自分を、ひどく意地汚く感じた。
「……はぁ」
通話を切ると、無意識に息が漏れた。
「うまくいかなかったのね」
「ええ……依頼料もいただいたのに、何もできなかったです」
後悔だけではない。
言葉にできない嫌悪感が、肺の奥に溜まっていた。
三枝は頬杖をつき、旅人を見つめる。
「仕方ないわ。依頼者は解決を望んでいたわけじゃない。もう決まっていた道を、照らしてほしかっただけ」
果たせたのか。
旅人には、確信が持てなかった。
松下の声と、詩織の別れ際の顔が、交互に浮かぶ。
「それより――」
三枝は煙を見つめ、目を細める。
「兼親さんの命日……そろそろね」
「……ええ。そうですね」
叔父が亡くなって、一年。
あの日。叔父の言葉からずっと考え続けていた。
未だに、遺された言葉が頭を離れない。
――自分は、本当にこの世界を、目を開けて見ているのか。
旅人には、まだ自信がなかった。
向き合わなかった過去は、名前もつかないまま残っていた。
こういうマスターのポジションいいですよね。
打率は低くとも、得点圏に異常に強いバッターみたいな信頼があります




