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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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4-4


 過去に思いを馳せていた旅人は、現実に引き戻された。


 河川敷の前で立ち止まり、耳から流れる『ギルド』のリズムとともに。


 イヤホンの向こうで、最後のフレーズが静かに溶けていく。


「あの眩しさと、向き合える気がしなかったんだ……」


 その呟きは風とともに虚空へ消えた。


 言葉にしたところで、何かが変わるわけでもない。

それでも、胸の奥に沈め続けてきたものが、わずかに揺れた気がした。


 思い出した色んなこと。それらすべての眩しさと、果たして向き合えるのか――今の旅人には、まだ分からない。


 それでも、こうして呼吸だけは続いて生きている。

 

 ただ、汚れたままでも立ち止まらずにいるしかなかった。


 最後の音が途切れる。


 その静寂は、拒絶ではなく、選択の余白のように感じられた。


「さて……戻るか」


 旅人はイヤホンを外し、ゆっくりと立ち上がる。


 河川敷を離れる足取りは軽くはない。それでも、確かに前へと向いていた。


 ――


  あれから数日後、依頼者である松下から連絡が入った。


 付き合っている彼女と本音を語り合う場を設けた。

その場に同行し、傍から様子を見ていてほしいという。


 旅人は指定されたバーへ向かっていた。


 待ち合わせは七時。一時間ほど早く、店に入る。


「いらっしゃい」


 客はほとんどおらず、静かな空気と薄暗い照明が店内を包んでいた。


 旅人は奥のカウンター席に腰を下ろす。


「ハイボールを一つ」


「ウイスキーはどうされますか?」


 カウンターに並ぶ酒瓶に視線を走らせ、旅人はわずかに考える。


 マスターはグラスを拭きながら、横目で様子を窺っていた。


「ニッカのフロム・ザ・バレルはいかがでしょう」


「では、それで」


 勧めに従い、旅人は本を開く。


 坂口安吾『堕落論』。


 自身の脆弱さを受け入れた先にこそ、真の自己と救いがある――そんな主張の書。


 だが旅人には、まだその本懐は掴めなかった。


 堕ちきった先に何があるのか。それを知るのは、結局自分自身しかいない。


 やがて、バーの扉が開く。


 鈴の音が、リンと静かに鳴った。


「あ、空韻(そらおと)さん。早いですね」


 松下はカウンターへまっすぐ歩み寄り、少し間を空けて腰を下ろした。


「どうですか?」


 酷く曖昧な問いだったが、松下は頭を掻き、苦笑する。


「正直、緊張はしてます……けど、やっぱり言いたいこと言わないと、って思ってて」


 軽い口調とは裏腹に、それが松下なりの覚悟なのだと旅人は感じ取った。


「あ、詩織がもう店の前に着いたみたいです。……では、お願いします」


 そう言って松下は視線を逸らす。


 同時に扉が開き、女性の姿が現れた。


「陸斗がこんな所に呼び出すなんて、珍しいね。最近、忙しそうだったくせに」


 松下の隣に腰を下ろした彼女の声音には、わずかに棘が含まれていた。


「そう言うなよ。まぁ、座れって。マスター、なにかおすすめを二つ」


「それで……話って?」


 詩織は早速切り出す。


 松下は一度目を伏せ、意を決したように口を開いた。


「俺たち、最近うまくいってないだろ?」


「何? 別れ話?」


「違う。……ただ、もっと向き合わなきゃいけないと思ってさ。この場では、思ってること全部言おう」


 本題に入った。


 だが、傍で聞いていた旅人には、状況は決して良いものには見えなかった。


 グラスが2人の前に置かれる。


「……はぁ」


 詩織は一口含み、ため息をついてから松下を見据えた。


「じゃあ言うけど、今まで何も言ってこなかったのは、陸斗の方でしょ」


 旅人は、グラスに伸ばしかけた手を止める。


「私は何度も言ってきたよ。でも陸斗は、忙しいとか無理だとか、すぐ逃げてた。この前だって、私が行きたいって言ってた店、断ったじゃん」


「仕方ないだろ。急に仕事が入ったんだ」


「それは分かってるよ。でもその後。次の約束もしないし、連絡も遅いし」


 松下は耳が痛そうに目を伏せる。


 旅人は介入できない。ただの傍観者として、視線を落とした。


「寄り添おうとしなかったのは、陸斗の方だよ」


「そんなつもりは……なかったんだ」


「……私も、結婚を考える歳になってきてさ。このままじゃダメだと思ったんだよ」


 それは責めではなく、未来を思う言葉だった。


「だからこそ、こういう場を――」


「でも、もう遅いよ」


「……え?」


「別れよ」


 その言葉が、静かに、しかし確実に松下の胸を打ち抜いた。


「な、なんでだよ……」


「もう期待できない。この前のことも、やっぱり、って思っちゃった」


「詩織……」


 終わりの音が、確かに鳴った。


 崩れていく様子が、旅人にははっきりと見えてしまった。


「とりあえず、今日は帰って」


「……いや、でも」


「いいから。帰って」


 拒むことを、松下はしなかった。


「……わかった」


 松下は代金を置き、扉へ向かう。


 振り返り、詩織を一度見てから、旅人へ視線を向けた。


 諦めと未練が混じった瞳が、グラス越しに揺れている。


 旅人は、ただ強く頷いた。

 依頼を受けた者として。

恋愛を描くのは難しいですね。

漢共のむさ苦しい熱い友情の方が自分は大好物です

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