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過去に思いを馳せていた旅人は、現実に引き戻された。
河川敷の前で立ち止まり、耳から流れる『ギルド』のリズムとともに。
イヤホンの向こうで、最後のフレーズが静かに溶けていく。
「あの眩しさと、向き合える気がしなかったんだ……」
その呟きは風とともに虚空へ消えた。
言葉にしたところで、何かが変わるわけでもない。
それでも、胸の奥に沈め続けてきたものが、わずかに揺れた気がした。
思い出した色んなこと。それらすべての眩しさと、果たして向き合えるのか――今の旅人には、まだ分からない。
それでも、こうして呼吸だけは続いて生きている。
ただ、汚れたままでも立ち止まらずにいるしかなかった。
最後の音が途切れる。
その静寂は、拒絶ではなく、選択の余白のように感じられた。
「さて……戻るか」
旅人はイヤホンを外し、ゆっくりと立ち上がる。
河川敷を離れる足取りは軽くはない。それでも、確かに前へと向いていた。
――
あれから数日後、依頼者である松下から連絡が入った。
付き合っている彼女と本音を語り合う場を設けた。
その場に同行し、傍から様子を見ていてほしいという。
旅人は指定されたバーへ向かっていた。
待ち合わせは七時。一時間ほど早く、店に入る。
「いらっしゃい」
客はほとんどおらず、静かな空気と薄暗い照明が店内を包んでいた。
旅人は奥のカウンター席に腰を下ろす。
「ハイボールを一つ」
「ウイスキーはどうされますか?」
カウンターに並ぶ酒瓶に視線を走らせ、旅人はわずかに考える。
マスターはグラスを拭きながら、横目で様子を窺っていた。
「ニッカのフロム・ザ・バレルはいかがでしょう」
「では、それで」
勧めに従い、旅人は本を開く。
坂口安吾『堕落論』。
自身の脆弱さを受け入れた先にこそ、真の自己と救いがある――そんな主張の書。
だが旅人には、まだその本懐は掴めなかった。
堕ちきった先に何があるのか。それを知るのは、結局自分自身しかいない。
やがて、バーの扉が開く。
鈴の音が、リンと静かに鳴った。
「あ、空韻さん。早いですね」
松下はカウンターへまっすぐ歩み寄り、少し間を空けて腰を下ろした。
「どうですか?」
酷く曖昧な問いだったが、松下は頭を掻き、苦笑する。
「正直、緊張はしてます……けど、やっぱり言いたいこと言わないと、って思ってて」
軽い口調とは裏腹に、それが松下なりの覚悟なのだと旅人は感じ取った。
「あ、詩織がもう店の前に着いたみたいです。……では、お願いします」
そう言って松下は視線を逸らす。
同時に扉が開き、女性の姿が現れた。
「陸斗がこんな所に呼び出すなんて、珍しいね。最近、忙しそうだったくせに」
松下の隣に腰を下ろした彼女の声音には、わずかに棘が含まれていた。
「そう言うなよ。まぁ、座れって。マスター、なにかおすすめを二つ」
「それで……話って?」
詩織は早速切り出す。
松下は一度目を伏せ、意を決したように口を開いた。
「俺たち、最近うまくいってないだろ?」
「何? 別れ話?」
「違う。……ただ、もっと向き合わなきゃいけないと思ってさ。この場では、思ってること全部言おう」
本題に入った。
だが、傍で聞いていた旅人には、状況は決して良いものには見えなかった。
グラスが2人の前に置かれる。
「……はぁ」
詩織は一口含み、ため息をついてから松下を見据えた。
「じゃあ言うけど、今まで何も言ってこなかったのは、陸斗の方でしょ」
旅人は、グラスに伸ばしかけた手を止める。
「私は何度も言ってきたよ。でも陸斗は、忙しいとか無理だとか、すぐ逃げてた。この前だって、私が行きたいって言ってた店、断ったじゃん」
「仕方ないだろ。急に仕事が入ったんだ」
「それは分かってるよ。でもその後。次の約束もしないし、連絡も遅いし」
松下は耳が痛そうに目を伏せる。
旅人は介入できない。ただの傍観者として、視線を落とした。
「寄り添おうとしなかったのは、陸斗の方だよ」
「そんなつもりは……なかったんだ」
「……私も、結婚を考える歳になってきてさ。このままじゃダメだと思ったんだよ」
それは責めではなく、未来を思う言葉だった。
「だからこそ、こういう場を――」
「でも、もう遅いよ」
「……え?」
「別れよ」
その言葉が、静かに、しかし確実に松下の胸を打ち抜いた。
「な、なんでだよ……」
「もう期待できない。この前のことも、やっぱり、って思っちゃった」
「詩織……」
終わりの音が、確かに鳴った。
崩れていく様子が、旅人にははっきりと見えてしまった。
「とりあえず、今日は帰って」
「……いや、でも」
「いいから。帰って」
拒むことを、松下はしなかった。
「……わかった」
松下は代金を置き、扉へ向かう。
振り返り、詩織を一度見てから、旅人へ視線を向けた。
諦めと未練が混じった瞳が、グラス越しに揺れている。
旅人は、ただ強く頷いた。
依頼を受けた者として。
恋愛を描くのは難しいですね。
漢共のむさ苦しい熱い友情の方が自分は大好物です




