4-3
だが、そんな日常は――長くは続かなかった。
――あの出来事までは。
世界は二分され、透明な壁に隔てられた。
その狭間に揺れながら、『旅人』はついにガラス越しに世界を見つめることになる。
「――これで、すべての手続きは終了です。それで……先ほどの答えで、よろしいですね?」
事務的な声音で話は進められる。
旅人は目を伏せたまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
「……はい。それで、お願いします」
流れるようにすべてが終わった。
それは文字通り流されたのだと、旅人は心の奥で自嘲する。
何を考えるでもなく、足は前へと運ばれていった。
もしかしたら――そんな、わずかな足掻きを残したまま。
学校の外から、かつて自分がいた場所を見つめる。
そこでは何事もなかったかのように、部活動が続いていた。
仲間だった者たちの声が、劈くように耳へと刺さる。
旅人は目を逸らし、その場を後にした。
気づけば、河川敷に辿り着いていた。
語り合った場所へ、身体が自然と向かっていたのだ。
夕焼けが川面を染め、いつもとは違う時の流れを感じさせる。
旅人の予感は、風とともに訪れた。
「――ここに、いたんだね。旅人くん」
振り向くと、咲が立っていた。
その瞳は、今にも消え入りそうで。
消えゆく雲を掴むように、彼女は旅人の袖を掴む。
掴めそうで、掴めない。
そんな距離だった。
「……全部、聞いたんだろ」
咲は、小さく頷いた。
「そういう……こと、なんだ」
「い、いや……旅人、くん……」
離さない小さな手。
旅人は、そっとその上に自分の手を重ねた。
季節のせいか、それとも別の理由か――冷たく感じられた。
「――今夜、だけは……一緒に、いて」
それは、願いだったのだろう。
旅人は断ることなく、触れた手に力を込めた。
それは、旅人にとっても最後のわがままだった。
縋るような咲と、諦観を孕んだ旅人は歩き出す。
その歩調は、いつもとどこか違っていた。
辿り着いたのは、咲の家。
舞台が整えられたかのように、家には明かりがなかった。
「入って、いいよ」
「ああ……」
どこか初々しさを残したまま、二人は家へ入る。
言われるがままに、旅人は中へと通された。
「旅人くん、お風呂……入ってないでしょ?」
ここ数日の出来事に押し流され、旅人は風呂に入っていなかった。
「……匂う、か?」
服に鼻を近づける。
気恥ずかしそうに、咲は頷いた。
促されるまま、旅人は風呂に入る。
明かりはつけず、暗がりが妙に心地よかった。
「……なかなか、温まらないな」
表示は40度のはずなのに、身体は冷えたままだ。
「――なにか、言った?」
「……いや、なんでもない」
「そっか」
突然の声に、旅人の身体が震える。
着替えを置いてくれたのだろう、そう思った。
だが、物音は止まらない。
「咲、何を――」
言い終える前に、風呂の扉が開いた。
暗闇の中、淡い肌色が視界に入る。
「……ほんとに、何を……」
「あまり、こっち見ないで」
強く言い切る咲に、旅人は言葉を失った。
咲は桶で身体を流し、ゆっくりと湯船へ入る。
押し返された湯が、静かに溢れ出す。
正面にいるはずの咲を、旅人は見つめた。
暗がりの中で、その表情は分からない。
「……暗くても、やっぱり恥ずかしいね」
そう言って、咲は背を向ける。
距離が近づき、柔らかなうなじが覗いた。
「手……握って」
「……ああ」
見たこともないほど強引な咲に、旅人は身を任せる。
湯の中で触れる手の温もりが、どちらのものなのか分からなかった。
静まり返る風呂場。
2人の息遣いだけが、微かに響く。
「――旅人くんは……遠くに行っちゃうんだね」
沈黙を破ったのは、咲だった。
「……自分でもどこか、分からない場所にな」
「……嫌だよ。離れたくない」
握る手に力がこもる。
その熱は、旅人には届かなかった。
それを察したかのように、咲はさらに強く握る。
「今まで……旅人くんが、どんな苦しみを背負ってたのか、私は知らなかった。それが……許せないの。どんな過去でも、姿でもいい。私は、受け止める覚悟がある」
「……自分でも、受け入れられない。そんな重さを……咲に、背負わせられない」
旅人は視線を落とす。
揺れる水面は暗く、表情を映さない。
だが、咲は振り向き、旅人の頬に触れた。
言葉ではない。
触れているのかも分からない感覚が、旅人の存在を浮かび上がらせる。
「目を……開けて」
旅人は、いつの間にか目を閉じていたことに気づく。
咲の顔が、すぐそこにあった。
拒む理由は、なかった。
――そこから先を、旅人は考えなかった。
風呂を出ると、手を繋いだまま部屋へ向かう。
咲は、旅人を繋ぎ止めるように身体を絡める。
旅人は痛む胸を押さえながら、それを受け入れた。
求め合っているようで、旅人にとっては贖罪だった。
咲の体重以上のものが、胸にのしかかる。
「――ずっと、待ってる。追いかけてでも……だから、せめて……」
暗がりの部屋で、表情は見えない。
だが、旅人の頬に、小さな雫が落ちた。
「その目で……ちゃんと、自分の世界を見て」
狂ったような夜を越えた。
夜と朝の狭間。
微かな光の中で、旅人は服を着る。
眠る咲の髪に、手を伸ばす。
だが、その手は途中で止まった。
カーテン越しの光が、ガラスのように二人を分ける。
旅人は震える指で、手紙を残し、扉を開いた。
「……ごめん、咲」
それは、旅人がすべてから逃げ、最後の居場所を手放した瞬間だった。
隔てられた、ガラスの向こうで。
特に書くのが難しいと思ったシーンでした。
色んな感情が入り交じって、ぐちゃぐちゃに感じるかもしれません。
それはそれで味




