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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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4-2

野球回と比べると少し休憩感覚です


 バットの芯が、ボールを捉える。


 弾かれたボールは、気持ちいいほど真っ直ぐに飛んでいった。


「今日も性が出るね。旅人くん」


「折田さん。お疲れ様です」


 旅人は、晴れない思いを抱えたままスポーツセンターに来ていた。


 あの野球の依頼以降、時折ここを訪れ、ストレス発散のようにバットを振っている。


 目の前にいるのは、経営者の折田。


 七十代も目前で、顔には深く刻まれたしわが滲んでいた。


 常連ということもあり、自然と会話を交わす仲になっている。


「でも今日は、少しバットに迷いがあるように見えるね。何かあったのかい?」


「ええ、まあ……仕事の件で少し」


(しきい)相談所、だったかね。僕でよければ話を聞くよ」


 折田の言葉に甘え、旅人は口を開いた。


 自分より長く生き、多くを経験してきた人の意見を聞くのも、一理あると思ったからだった。


「折田さんは、人との価値観の衝突を、どうしていましたか?」


「価値観の衝突、ねぇ」


「……ちなみに、ご結婚はされていましたか?」


 踏み込んだ問いだった。


 折田は一瞬だけ間を置き、どこか寂しげな表情で目を細める。


「――してた、よ。もう会うことは叶わないけどね」


 それ以上、旅人は踏み込まなかった。


 ただ、静かに耳を傾けていた。


「君が聞きたいのは、そういうことなんだろう。まずね――君が求めている正解なんてものは、ないよ」


 折田の言葉には、積み重ねた年月の重みがあった。


 正解を探そうとしていた旅人は、その考え自体が間違いだったのだと気づかされる。


「簡単にどうにかできるなら、そもそも衝突なんて起きない。私も若いころは、同じことを思っていたよ。でもね、違ったんだ」


 折田は、少しだけ空を見上げて続ける。


「わかり合うことよりも――同じ景色を見て、違うことを思っても、それでも隣に立つと決める。それだけの話さ」


「……衝突、なんてものじゃないと?」


「ぶつかること自体は、悪いことじゃない。一番怖いのはね、黙ってしまうことさ」


 黙ること。


 それは何も言わないこと。


 諦めと、ほとんど同じだと、旅人は突きつけられた気がした。


 何も言わずに去った、過去の自分の姿が、ひどく情けなく思える。


「君にも、思うところがあるようだね。でも一番大事なのは、一緒に傷つく勇気だよ。誰かと生きるっていうのは、そういう道を歩き続けることなんだ」


 責めるでもなく、赦すでもない。


 折田の言葉は、ただ静かに事実だけを置いていった。


「うまくいくかどうかは、正直わからない。でも私はね、妻と何度も間違えたことを、後悔したことはないよ」


 旅人は、衝突を避け続けてきた自分を、ようやく直視した。


 逃げたことを悔いたわけではない。


 ただ――逃げなかった未来を、想像してしまっただけだった。


 そして、今の依頼者である松下の顔が脳裏に浮かぶ。


 まさに衝突の只中にいる彼らの姿が、重なった。


「……ありがとうございます。いい話を聞けました」


「こんな話でよかったかな。ただ、冴えない老人のたわごとだと思って聞いてくれていい」


 折田は、旅人の目を見て言った。


 長い年月を刻んだその瞳に、思わず飲み込まれそうになる。


「君の過去がどんなものかは知らない。でもね、その辛さが残っているなら、また同じことが起きた時に、同じ選択をしないよう――強く、自分を持つんだよ」


 旅人は、その言葉を胸にしまった。


 そのいつかが訪れることなどない。


そう思おうとしても、どこかで期待している自分がいると、否応なく気づかされる。


 礼を告げ、旅人はスポーツセンターを後にした。


 帰り道、ふとした思いつきで河川敷へと足を向ける。


 小学生たちが声を上げ、無邪気に野球をする姿を眺めながら、草の上に腰を下ろした。


 イヤホンから、BUMP OF CHICKENの『ギルド』が流れ出す。


 この曲を勧めてきた、咲の影が頭をよぎる。


 ひび割れた音が、何気なく、耳に響いていた。


 ――


  秋の始まりを告げるような風が、教室の窓から吹き抜ける。


 外を眺めていた俺は、ふと視線を戻し――目が合った。


 並木 咲(なみき さき)


 友達と話しながら、流し目でこちらを見て、目を細める。


 その何気ない日常が、当たり前だと、俺は疑いもしなかった。


 昼休み。


 俺はいつも通り、図書室へ向かう。


 ほとんど人のいない室内で、風に髪を揺らす姿が目に留まった。


「――咲」


 呼びかけると、彼女は振り返る。


「旅人くん。これ見て」


 差し出された本に目を落とす。


 視界の端で、頬にかかる髪が揺れていた。


「川端康成の『雪国』か……」


「これ、いいんだよね。内容もそうだけど、読んでると音が消える感じがしてさ」


 以前読んだことのある物語を思い出す。


 傍観者のような主人公の空虚さと、それとは対照的なヒロインの純粋さ。


 静かなのに、どこか息苦しい世界だった。


「咲にしては、珍しいチョイスだな」


「生と死のコントラスト、って言うのかな。その妙な美しさが、なんともね」


 咲は何度かページをめくり、気に入った箇所を指でなぞる。


 俺は向かいに座り、気づけばそこは、二人だけの空間になっていた。


「それより、テスト勉強はしてるのか?」


「旅人くんに言われたくないよ。野球ばっかしてさ。ちゃんとやってるから。それより今度さ――」


 他愛もない話が続く。


 流れていく時間が、どうしようもなく心地よかった。


 放課後。


 俺は部活へ向かい、野球をしていた。


 1つ上の先輩たちが卒業し、二年になった俺たちには、どこか妙な緊張感が漂っていた。


 守備練習の途中、校舎の方に視線をやる。


 そこに、こちらを眺める影があった。


 一瞬、目が合った気がして、思わず手を振る。


「――おい!空韻(そらおと)!よそ見してんじゃねぇ!」


「は、はい!」


 顧問に怒鳴られ、慌てて姿勢を正す。


 それでも、さっきまで見えていた影は、小刻みに揺れて――笑っているように見えた。


「旅人くん、怒られてたね」


「次は、ばれないようにしないとな」


 部活が終わる頃には、すっかり日が落ちていた。


 僅かな街灯の光が二人を照らし、そこだけが小さな劇場のようだった。


 歩くうちに、自然と歩調が合っていく。


 その空気に、二人とも酔っていたのだと思う。


「じゃあ。送り迎え、ありがとね」


「ああ」


「また、明日ね」


 ――また明日。


 その言葉が、耳の奥まで突き抜ける。


 何度聞いても、俺は慣れなかった。


 先に行こうとする咲を、俺は待っていた。


 すると、何かを思い出したように、彼女は振り返る。


 唇に触れた体温。


 その瞬間だけは、秋の気配を忘れさせた。


「また、明日」


 俺の口からこぼれた言葉は、街灯の光に吸い込まれていく。


 その熱が、まだ残っている気がした。


 踵を返し、家へ向かう。


 足取りは重く、前に進んでいる感覚がなかった。


 夢から現実へ引き戻されるように、俺は家へ帰った。


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