4-1 選択
頬を撫でる涼しい風。
絶え間なく流れる、川の音。
河川敷の草原に、俺は腰を下ろしていた。
その隣では、制服の袖口が僅かに触れ合いながら、女の子が本を開いている。
『また、宮沢賢治か?』
『そうだよ。旅人くんは、現実を見すぎてるんだよ』
ページから目を離さず、彼女は言った。
『もう少し、旅をしてみてもいいと思うよ。名前通り、ね』
からかうような声音。
はにかんだ笑みを浮かべる彼女を見て、俺はどこか遠く、尊いものを見ている気がした。
『咲らしい言い方だな……』
俺はスマホを取り出し、音楽を流そうとする。
『あ、銀河鉄道。ちゃんと聞いてくれてるんだ?』
顔を寄せた彼女の香りが、鼻腔をくすぐった。
頬に触れた毛先が、妙にくすぐったくて。
自然と目が合う。
その瞳に吸い込まれるように、視界はゆっくりと暗く染まっていった。
もう届かない。
まるで、透明な壁が隔てられたように、何も見えなくなった。
――
「――咲!」
旅人は、はっと目を見開いた。
だが、伸ばした手の先にあったのは、ただの真っ白な天井だった。
「はぁ……夢、か」
旅人の朝は、憂鬱のまま始まった。
重たい体を引きずりながら、いつも通りの支度をこなし、外へ出る。
向かった先は、近くの公園だった。
昨日の反省をするかのように、黙々とバットを振る。
取り戻された感覚は、思っていた以上に研ぎ澄まされていた。
家へ戻り、シャワーで適度な汗を流す。
「さて……行くか」
準備を整え、旅人は大学へ向かった。
――
「好き、です……付き合って、ください!」
差し出された手を、旅人は見つめる。
「……ごめん」
顔を上げた目の前の子の、潤んだ瞳。
旅人は、それを正面から見ることができず、視線を逸らした。
「そう、ですか……やっぱり、他に好きな人が……?」
「まぁ……そんなところかな」
去っていく女の子の背中を見送る。
夏を終えた、少し涼しい風が、旅人の身体を揺らした。
「いやー、これで三回目か。旅人もモテモテだな」
木陰から、海人が姿を現す。
旅人が呼び出されたのを見て、こっそりついてきていたらしい。
「あれだけ試合で活躍すりゃなー。助っ人としてさ。
見に来てた子は、大概惚れるだろ」
「海人もホームラン打ってただろ。それに、石塚くんだって」
「俺にはゼロだよ!
彰吾はなー。一人いたらしいが、野球に集中したいって断ってたぜ」
試合が終わって数日。
あの熱はまだ残っているのか、旅人にはいくつか声が掛けられていた。
海人はからかうように言うが、旅人にとっては喜ばしい話ではなかった。
「それより……ほらよ。依頼料だ」
海人は封筒を差し出す。
旅人は受け取り、中身を確認した。
「……多くないか?」
「部の連中が、まとめて出してくれたんだよ。
受け取ってくれ。それくらい、旅人の功績はデカい」
旅人は、それ以上何も言わずに受け取った。
その様子を見て、海人は満足そうに口角を上げた。
「てか、旅人。ほんとに好きな人、いるのか?」
「ん?なんだよ、急に」
「いやさ。そもそも、大学で人と関わってるイメージなくてよ」
海人と、そんな話をするのは初めてだった。
けれど夏が終わり、妙に色恋づいた季節が訪れていた。
どう答えるべきか、旅人が言葉を探していると――。
スマホが鳴った。
「すまん……はい。空韻です。三枝さんですか」
通話を終え、旅人は海人へ向き直る。
「悪い。依頼が入ったみたいだ」
「そりゃ残念だ。まだ聞きたいことあったんだけどな」
「勘弁してくれ」
「まぁ、野球部にも顔出せよ。石塚も会いたいって言ってたし」
旅人は軽く頷き、それに応えると、大学を後にした。
そして、いつもの相談所へと足を向けた。
――
「こんにちは。空韻です。では――」
相手の目を見据え、旅人は言った。
「あなたの世界を、教えてください」
相談所に着くと、待っていた相談者の前に腰を下ろし、単刀直入にそう切り出した。
目の前にいるのは、社会人三年目の男性――松下。
彼は、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、語り始める。
「今、彼女ともう三年以上付き合ってて……」
また色恋沙汰か、と旅人は内心で顔をしかめる。
だが、その感情を表に出すことはなかった。
「同棲も半年ほどしてるんですけど、少々問題がありまして……」
話を聞きながら、旅人は頭の中で状況を整理していく。
二人の間に、大きな喧嘩はない。決定的な亀裂もない。
けれど、どこかが噛み合わないまま、違和感だけが積み重なり、本音を口にしない時間が続いている。
松下は、それを終わりの予兆のように感じているのだろう。
「――俺たち、ちゃんと向き合えていたのかなって」
旅人は即答しなかった。
答えを出すには、まだ材料が足りない。
「なら、まずは松下さん。私でいい。本音を語ってください」
「本音、ですか……」
思ったことを言葉にする。
それが、どれほど難しいことかを旅人は知っている。
以前、訪れた会社員たちもそうだった。
口にしなければ、何も始まらないのだ。
「やっぱり、互いに仕事が違うので、時間が合わないこと、ですかね。それに、価値観が少し違うというか」
松下は、日常の些細な場面を思い浮かべながら語る。
「俺は、家の汚れとかゴミとか、ある程度たまったらまとめてやればいいって思うんですけど、彼女はそうじゃなくて」
同棲。それは価値観の共有であると同時に、衝突でもある。
今まで見えなかったものが、生活の中で否応なく露わになる。
旅人は、松下の言葉の裏にある感情を、ひとつひとつ拾い上げていった。
「なるほど。松下さん側の意見は、わかりました」
「……まぁ、そんなところです。あ、えっと、喫煙所ってありますか?」
「こちらでどうぞ」
旅人は、部屋の端に置かれていた古びた灰皿を取り出し、机の上に置いた。
松下は、溜め込んでいたものを吐き出すように、深く煙を吐く。
それを見て、旅人も一本取り出し、火をつけた。
「空韻さんも吸うんですね」
「ええ。まあ。それについては、彼女さんから何か言われたりしませんか?」
「それが、聞いてくださいよ」
一度外に出た愚痴は、もう止まらなかった。
彼女の前では吸わないように気を遣っているが、匂いや健康のことで、時折小言を言われる。
そんな話が続いた。
「本当に、世知辛い世の中ですよ」
「喫煙者の立場が弱いのは事実ですね。ですが――同棲するほどの相手でしょう。そういったことは、はっきりさせておくべきです」
一通り話を聞き終えると、松下は「また後日改めて」と言い残し、相談所を後にした。
灰皿には、二本の吸い殻が、火を消したまま残されている。
「はい、コーヒー。今日はホットにしたわ」
「ありがとうございます」
「どう? 今回の案件は」
隣に腰掛けた三枝が、旅人に問いかける。
こうして、その場で結論が出ない相談に対して、三枝はよく旅人に意見を求めていた。
「……こういった色恋関係は苦手です。経験も、そう多くはない。表面のことしか言えません」
「私も人のこと言えないけどね。旅人くん、彼女いたでしょ? 咲さん、だっけ?」
おそらく、叔父から聞いたのだろう。
三枝とこういう話をすることは、ほとんどない。
だからこそ、旅人も踏み込んで聞いた。
「三枝さんだって、叔父さんのことを好きだったでしょう?」
「それを掘られると、何も言えないわね。私の場合は、他とは少し違う気はするけど」
三枝は、隠すことなく認めた。
少しだけ気まずそうな顔をしているが、どこか柔らかさもある。
それが、かえって旅人の目には印象的だった。
「まあ、一旦は連絡を待ちなさい。進展がないことには、始まらないから」
そう言って、三枝は踵を返し、作業へと戻っていった。
旅人は、去っていった松下の背中を思い出す。
彼女との向き合い方。
自分に、それがわかるはずがない。
――向き合ってこなかったのは、他でもない自分だった。
松下を自分に重ねるように、旅人は静かに思いを巡らせた。




