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どうやら僕の運命は、まだ終わらずに続いていくらしい  作者: 錆井
第一話『誰だってエクスカリバーと大声で叫んでみたい』
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1-3 夕暮れの原風景

〇これまでの登場人物(今話未登場含む)

・朝尾秀一(あさお しゅういち)

 この物語において、概ね視点人物である少年。

 両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。

 聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。


・遥原叶夢(はるはら かなん)

 秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。


・エトソン・プルルライナ

 異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。


・九沙吹藍良(くさぶき あいら)

 冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。剣道部に所属しており、竹刀を携帯している。


・紅那須偲歩(あかなす しのぶ)

 ミス研会長。ホラー好きで、中でも七不思議を愛する眼鏡少女。


・雁野康介(かりの こうすけ)

 ミス研所属の少年。これといって特徴のない、秀一の友人。


・葛御丘妙栄(くずみおか たえ)

 冥加学園の生徒会長の少女。含みのある細目は、知慮に富んでいる。


・百合原恵夢(ゆりはら めぐむ)

 クラスメイトの少年。百合好きの明るいお調子者。なんだかんだ生徒会執行部の一人。


・青枝桧希(あおえだ ひのき)

 衒いのない、感じの良い青年。


・ボリス

 桧希の連れ。シャーマンみたいな服を着た女。モニと呼ぶ存在と話しているようだ。


・朝尾理亜(あさお りあ)

 現在、冥加学園初等科に通っている、秀一の妹。特進組として、海外学習プログラムに参加しており、家を空けている。


・澪川冥加(みおかわ みょうが)

 冥加学園の学園長。年齢は不詳だが、若見えする方である。この世界がフィクションなら、確実に悪役だと訝しまれすぎて、最近は言葉遣いを寄せているらしい。


・相田春子(あいだ はるこ)

朝尾家のハウスキーパー。6:00~17:00くらいが勤務時間


・フラテルニテ

自称、秀一の「第六感」。叶夢には見えていないらしい……。


・影勇王(えいゆうおう)アーサー

エトソンの世界で魔王に寝返り、世界の半分を受け取ったという、マクルワリオンの前任者。


 エトソンが来て、もうすぐ一週間が経つ。何か試練のようなことは、今のところ起こってはいない。目下の危機と言えば、英語のスペルをいつまでも直せないエトソンが、小テストの勉強に苦心していることくらいだ。


「まぁ、大丈夫じゃない? エトソン、勉強は得意な方なんでしょう」


「意味は分かっているのですが、うっかりアルファベットを書き間違えてしまうのです」


「クセになっているんだろうな。他の教科が問題ないなら、ゆっくり直していけばいいさ」


 いつも通り、叶夢と三人で登校路を行く。いや、いつの間にいつも通りになったんだ。エトソンがいることが、気づけば日常のようになっているではないか。


「どうかした、秀一?」


「いや、なんかエトソンも、だいぶ学園に馴染んだなと思ってな」


 エトソンは、自分が褒められたと思ったのか、腰に手を当てて胸を張った。


「結局、部活はどうするの? 別にミス研でもいいけどさ、エトソンちゃんが元のところに帰ったとき、陰気なムードを纏(まと)わせているのだけは勘弁してあげなさいよ」


「お前は、ミス研を何だと思ってるんだ。健全な青春の場だぞ、まったく」


 やれやれと肩をすくめた時、校門の前で僕を待っていた様に、一人の男子生徒が顔を上げた。


「おっ、今日も仲良いねぇ、ホントに。秀一、まさかとは思うけど、その二人……」


「何か用があるなら早く言え、百合原」


 まるで僕が二人の間に挟まっているかのように、怪訝な表情の彼を軽くいなす。


「アーサー、この方は?」


「おいおい、同じクラスだろ。傷ついちゃうっての」


「クラスの端っこにいつもいる、百合原だ。別に覚えなくていい」


 エトソンは軽く頷くと、興味なさげに視線を青空に流した。気ままに校舎に向かった叶夢を追って、エトソンが駆け出すと、僕たちは二人になった。僕が歩き出すと、百合原も歩調を合わせる。


「それでさ、用事なんだけど、なんか生徒会長に伝言を頼まれてんだよ」


「ほう、それは重大な仕事だな。なんでそんなことを、わざわざ僕に? 人探しなら、手伝えるほど顔は広くないが」


「だーっ、もうニブチンだな。相変わらず! お前に伝言だよ。『今日の放課後、生徒会室に来てくれ』ってさ。お前、なんかしたのか?」


「いや、心当たりはないな」


 思い返してみても、生徒会長から目を付けられるようなことは何もしていないし、何も起こってはいない。もしかすると、僕ではなく、エトソンが何かをやらかして、その保護者として呼ばれているのかもしれない。実際、揉め事が起こったりはしていないが、エトソンを不躾(ぶしつけ)に眺める目は、また増えつつあるように思えた。


「ま、とにかく放課後な。俺も生徒会室いるから、安心しろよ。お前のことは俺が守ってやるから」


「守られなくても、自分の身くらいどうにかするさ」


 軽口を言い合って教室に入る。エトソンが僕に懐き過ぎているせいで、僕の教室での扱いは冷ややかだ。本来、こんな主人公っぽいことが起きれば持て囃(はや)されるはずなのだが、たぶんそんな理解ができるほど、クラスメイトたちは僕のことを評価していないのだろう。

 僕だって、急に美少女転校生が来て、自分以外の誰かに飛びついて行ったりしたら、現実を疑うことだろう。人間だれしも、実現不可能なことは妬まないが、実現可能性が目の前に見えているなら(あるいはそう錯覚したなら)極限まで醜く人に執着するものだ。


 僕としては、そんな状況が少しありがたくもある。いちいち、明るくまじめな生徒のように振舞う必要がない。妬まれたとしても、嫌がらせを受けているわけでもないし、日々は穏やかに過ぎていく。安寧の生活を送るコツは、悪意に気づかないふりをすることだ。


「おはよう、朝尾秀一くん。今日も良い朝だねぇ」


「何か用があるなら、さっさと言ったらどうだ」


 カバンを机の横にかけた僕に、大きな影が落ちる。僕の席の前で、立ち往生でもする気か、丸太のような腕を組んだ男子生徒が、テカテカに固めた髪で朝日を受けながら、気持ちの悪いくらいの笑みを浮かべていた。背後には、取り巻きの運動部が、下卑(げび)た表情で手を擦っている。お前らの人生はそれでいいのか。


「ふぅん、ずいぶん強気なようだねぇ。もしかして、今日が何の授業か、分かっていないんじゃないのか?」


「別に、普通の授業日だろ」


「ノンノン。中でも今日は、体育の特別授業がある日さ」


「ああ、そういえばそうだったな。着替え忘れるところだったよ。ありがとう、教えてくれて」


 僕はそこでようやく、名前もよく覚えていない彼が、体操服を着ていることに気が付いた。今日は、朝から昼までは体力測定なのだ。毎年のことのはずなのに、毎年すっかり忘れている。それもこれも、別に気にしたことのない身体能力を検査するなんて授業のせいだ。


「待ちたまえよ、君ぃ。僕は親切で教えに来てやったんじゃない。君に、挑戦を受けさせてあげようと思って来ているんだ」


「挑戦、だと?」


 試練、みたいな響きの言葉に、ついつい反応してしまう。もしこれが、老婆の言う『塔』だとしたら、僕の人生はお笑いだ。


「そう。別に、君からあのエトソン嬢を奪うことくらい、この僕にとっては容易いことだが、特別に、この体力テストで僕よりも良い記録を出すことができたなら、君を認めてやってもいい」


 こいつはいったい、何を言っているんだ。という顔は、なるべくしないように、鋭い眼光から目を背けないようにする。この手の輩は、下手に断ると余計に厄介だ。


「分かったよ、じゃあ俺が勝ったらエトソンには手を出さないと、約束するな」


「ああ、もちろんだとも。紳士は約束を守るものさ」


 後で約束ではなく挑戦だと言ったはずだ、とでも言いそうだが、その時はその時だろう。とりあえず、面倒だし受けておこう。正直、勝負とかはどうでもいいが、今日ばかりはしょうがない。むしろ、クラスメイトと体力測定の結果で勝負、なんていうのは、むしろ、普通の学生っぽいんじゃないか?


 着替えに行ってしまったエトソンには知らせずに、密かに対決の幕は上がった。


**********


 ホームルームはそこそこに、クラスメイト達はグラウンドへ向かう。来週まで一日交替で、冥加学園高等部の体力測定はクラス毎に行われる。最初の二時間で外の種目、続く二時間で室内種目を測ることになる。中等部ではもっと長く時間が取られるが、高等部はスケジュール管理もタイトだ。


「まずはハンドボール投げからだな。肩慣らしと行こうか」


「もう肩使う競技ないだろ」


「減らず口はいいが、能力の差に絶望してくれるなよ? んん?」


 ラグビー部かアメフト部か知らないが、無駄に膨らんだ筋肉を鳴らしながら、自信気に彼はサークルの中に入った。ハンドボール投げの最高点は、三十七メートル以上であるが、自信気な彼がどこまで記録を伸ばすのか見物だ。そもそも、特進組では、体力測定は満点が前提である。挑発してくるあたり、相当自信があるはずだ。


「ぬふぅぅぅんっ!」


 神話上の怪物のような唸り声と共に、男子生徒がハンドボールを投擲(とうてき)する。適切な放物線を描いて、ボールは遠く飛んでいく。本来、体育の授業として用意されているメジャーは、五十メートルのものだが、今日は彼のためなのか、百メートル分になるように、二本目のメジャーが重ねられていた。


 花火のようにゆっくりと、残身をゆっくり解く彼は、ボールが落下してからようやくこちらを振り返った。やけに白い歯が、ニッと見せつけられ、うんざりする。取り巻きの生徒たちの、感嘆するような声が彼を囲んだ。


「記録、72メートル」


 記録係の生徒が、計測を終えた結果を伝令してくる。なんだか面倒な場所まで飛ばしている。足が出ていてやり直しとかにならないかな。


「ククッ、絶望したかい。君が特進組だというのは知っているが、スポーツ特進の僕に勝てるだなんて、思い上がったみたいだねぇ」


 無遠慮に肩に手を置かれ、不愉快な気持ちになる。右肩だけ触られるのは、なんだか調子が変になる感じだ。フェアに、ボディタッチ無しでお願いしたい。


 とりあえず、サークルの中に入り、ボールを受け取った。そうそう、このぎりぎり掴めないくらいの大きさのボールだ。別に掴めないこともないのだが、他の人が使うボールを潰してしまうのは憚(はばか)られる。


 計測員の生徒が立っている辺りを、じっと見つめてみる。十メートル間隔なら、なんとなく体が覚えているはずだが、微妙に端数を出されると面倒だ。様子見のために同じ記録を出そうと思ったが、うまくできないかもしれない。


「あの跡かな……」


 微妙に土の色が違う気がする一点に目標を定め、僕は片足を上げて振りかぶる。ボールがずれないよう、胸の前で一度、両手で持ち直してから、右手を後ろに引いて、自分が弓になったような想像をする。


 野球のストレートは変化球だという話がある。もし、ずっとまっすぐ進む球があったとしたら、それは何か不思議な力が働いているに違いない。ともかく、僕の手を離れ、適度なバックスピンがかかったボールは、目標に向けて一直線に進んでいく。レーザービームというやつだ。僕は放物線をとっさに計算できるほど器用ではない。


「記録、72メートル」


 記録係の声に、ひとまず安堵する。肩の荷が下りた気分で、ゆっくりサークルから出ると、体操服がパツパツの男子生徒が詰め寄ってくる。


「なんだ、あの記録は! お前、ふざけているのかっ!」


「なにって、ああ……残念ながら、記録は越せなかったよ。すごいんだな、スポーツ特進っていうのも。僕は疲れたから、一投で止めることにするよ」


 何かよく分からない言葉の羅列で憤慨(ふんがい)する彼を置いて、僕は先に立ち幅跳びの準備をしに行く。僕たちより先に、他の種目の測定を終えた生徒が、せっせと土を掘るのを僕も手伝う。どのくらい掘ればいいんだったか。四メートルくらいは、彼も跳ぶのだろうか。


 二投目に挑戦し、先ほどより飛距離の落ちた彼の様子を眺めながら、もしかすると、彼の記録に合わせると、結構目立ってしまうのではないだろうかとぼんやり思案する。


「なあ、君。立ち幅跳びの記録って、どのくらいだ?」


 それから、昼休みになるまでの四授業分。僕は10点ぴったりになるように、結果を調整することにした。ハンドボールだけおかしなことになっているが、夢みたいなものだと説明したら、誤魔化せた。と、思う。


「朝尾くん、いや、朝尾! 男が勝負から逃げたな! なんだあの不甲斐ない結果は! 僕を侮辱しているのか!」


 ハンドボール以降、僕が先に測定することになり、都度、番犬のように吠えたててきた彼は、未だに何か喚いている。これは誤魔化せていないのかもしれないな。


「別に、君が何か損するわけじゃないだろうに。ほら、エトソンの面倒は頼んだ」


「その余裕そうな態度がムカつくんだッ! くそっ、君もだ、エトソン嬢! こんな奴のどこがいいのだ! 答えてみろッ!」


 いよいよ厄介になった彼は、酒乱のようにエトソンに問いかける。こいつと同じ飲み会にはいきたくないな。ウコンドリンクは奢ってくれそうだが。


「アーサーの良いところ、ですか? ……全部、ですっ!」


 風船が膨らんで、ゆっくり表面の色素が分散して薄くなっていく様のように、歯を食いしばった彼の顔の色の変化が面白いくらいによく分かった。爆発する、と思ったところで、彼は机を意味もなく一度叩くと、肛門の限界かのようなスピードで歩き去っていった。結局誰だったんだろう。


 教室から出て行った彼に押しのけられるように、小柄な生徒が扉に身を寄せた。どこかで見たような気がするその生徒は、僕の方を見ると、ボールを見た子犬のように駆け寄ってくる。いや、こういうときほど、僕の後ろの人とかなのだ。そうに違いない。


「あ、あのっ。朝尾先輩、ですよねっ」


「アーサー、お客さんですよ」


 僕は、狸寝入りしてやり過ごそうという計画を、お転婆王女様に邪魔された。残念なことに、僕に用事があるらしい少女は、エトソンと似た小柄で細身な体格だが、なんとなくホラーとかロックとか、ちょっと奇抜めなことが好きそうな、危うい雰囲気も感じる。それは勝手な偏見として、実際、エトソンよりは不健康そうな細さだ。短めの襟足に対して、長めの前髪は彼女が引っ込み思案なのだろうと伺わせる。


「たしかに、僕は朝尾だが。何か用か」


「あ、あのっ。私、前に助けていただいた、小梅(こうめ)っ。上吉(うえよし)小梅といいますっ」


 ……前に。

 ぽーん、と鳩時計が鳴いて、そういえば、入学式の時に誰か助けたなと思い当たる。九沙吹さんに出会ったことの方が衝撃的で、すっかり忘れていた。


「そ、その。あの時、お礼を言いそびれてしまって、それで、あの、あ、ありがとう、ございましたっ」


「僕は何もしていないさ。九沙吹っていう、身長の高い女子生徒が、代わりに解決してくれたんだよ。だから、礼を言うなら、そっちに頼む」


「わ、私っ、ちゃんと見てましたっ。先輩が、声をかけてくださったから、私、なんとか逃げられて……先輩の、先輩のおかげなんですっ」


「とにかく、お礼なら受け取った。あんまり悪い奴らと関わらないようにな」


「あ、あ、あ、はいっ……」


 上吉は、ぺこりと頭を下げると、ボールを投げられた子犬のように、教室から去っていった。僕がほっと一息ついたところで、エトソンが、なぜか頬を膨らませて僕を見つめてくる。


「なんだ、どうした」


「アーサー、今のはいけません。先ほどの女の子は、アーサーともう少し話したかったから、やってきたのです。もう少し、話題を広げたほうがいいですよ」


 妙に真剣なエトソンの言葉に、呆れるでも困惑するでもない表情で顔のしわが寄った。なんでエトソンにそんなことを指摘されないといけないんだ。

 そもそも、さっきの後輩が、僕に少なからず好意を持っていたことくらい分かっている。だからこそ、淡々と追い返したのだ。別に僕だって、今の応答をうまく話せたとは思っていない。


「アーサー。この一週間思っていましたが、アーサーは人付き合いが下手です。そんな調子では、皇国を任せられません」


「人付き合いくらい、別にいいだろ。僕だって、酒場で仲間を見つけるくらいできるぞ」


「何を言っているのか、意味不明です。そもそも、勇者様の友達が、片手で収まるほどなんて、歴史書がペラペラになってしまいます」


「そんなの、後で書き足しとけばいいだろ」


 とんでもない、と言いたげに目を丸くしたエトソンは、僕の頬をぎゅっと両手で押した。じっと正面から見つめられ、僕は左目を瞑る。


「大体、学校にいる時のアーサーは気が抜けすぎです。やはり、運動部とやらに入るべきだと思います」


「エトソンまで、叶夢みたいなこと言わないでくれよ。お前は僕の母さんかっての」


「違います。私は、勇者様のことが心配なのです」


 自分で口にしておいて、両親のいない僕が母親を揶揄(やゆ)したことを気にしないかと、心配になったが、そういえば、そもそもそんなことはエトソンには言っていなかった。まじめな話をしているのです、と珍しく頑固なエトソンに、少し安心する。


「そういわれても、これが僕の日常だからなぁ」


 少しドキリとするようなことはあっても、大きな波が何かを流していくことはない。それが僕の、朝尾秀一の日常であり、僕の理想とする人生だ。占いだって、その微細動の一つに過ぎない。堆積する日々の中に埋もれ、大人になってから、化石のように取り出しては輝いて見える思い出の一つでしかないのだ。


**********


 終礼が済んで、僕は生徒会室に向かうために、さっと荷物をまとめた。隣のエトソンを見ると、今日はなんだか忙しない。


「そのプリントなんだっけ。提出するものなんてあったか」


「これは、中途入学者用の復習プリントだそうですっ。もちろん、お茶の子さいさいですっ」


 自慢げに見せてきたプリントを見て、僕は息を吐いた。


「そうは言うが、いくつか間違えているぞ。この調子じゃあ、赤点じゃないか」


「ど、どこですかっ!?」


 いくつか指で示して見せると、エトソンはすぐに間違いに気づいたようだった。どうやら、うっかりミスらしい。


「エトソン、僕は先に生徒会室に行ってるからな」


「ま、待ってください。私も行きますっ」


「そんなこと言われても、部活が始まる時間までには、生徒会室に行かないといけないんだ」


 冥加学園の校則の一つに、部活動入部必須の項目がある。その項目の中には、「終礼後、生徒たちは速やかに部室内に入り、部活開始のチャイムの後、部活動を始めること。」というものがある。

 外部のクラブに入っていたり、用事のある者だったりは、このチャイムまでに学校を後にする必要がある。罰則のある規定ではないが、少なくとも、生徒たちはこのチャイムまでに、部室内にいるか学校から出なければならない。その理由を聞いたことはないが、生徒は皆この規定を守る。僕もいまだに破ったことはない。


「も、もう少しで終わるのでっ」


 駆け込みで答案を直したエトソンが、ファイルをかばんにしまったのを見て、僕は教室を後にする。後で吹奏楽部あたりが使うから、開け放しでいいのだ。エトソンも追いついてきて、二人で階段を下りた。まだチャイムまで十分はある。焦らなくてもいいだろう。


「では、出してくるので少し待っていてください」


 職員室の前でエトソンを見送り、僕は壁にもたれる。生徒会室までは目の前の通路を進んだ先、特別教室棟に渡り、突き当りを左に進めばいい。話しながらでも一分ほどだ。


「遅いな……」


 教師も、もう部活動時間だということは分かっているはずなのに、長話をするものだ。いっそ、エトソンを置いて行こうかとすら思うが、校則をまだよく知らないであろう彼女が、一人で注意されるのもかわいそうだ。


「すみません、遅くなりましたっ。筆箱が落ちてしまって、先生方にも手伝ってもらったのですが……」


「まあいい、行くぞ」


 案外、しょうもない理由だったと安堵して、廊下を進み始める。特別教室棟への連絡通路は、副教科の時にしか通らないから、少し特別感がある。少し古い建物の風情がそう思わせるのだろうか。少し空いた窓から吹く風すらも、牧歌的な温かみを感じる。右手の窓から外を見ると、すっかり夕焼け空だ。太陽も沈みかけている。


「アーサー、あれ、なんでしょう」


 ふと、エトソンが指さす方を振り返ると、左手の窓に高級な卵の黄身のような、橙の円形が見える。じっと見ると、背筋がぞくりと冷たくなるような焦燥が走った。


「な、何って、あれは夕日だろ」


 動揺した気持ちを落ち着かせるために、軽く答えたが、そんなはずはない。僕は今、夕日を見て振り向いたはずだ。こちら側にも太陽があるわけはない。白日だって、地球が平面だってあり得ない。


「———っ!!」


 思考が空回りし始めた僕の耳に、鼓膜を舐めるように冗長なチャイムの音が聞こえてくる。今聞こえてきたはずなのに、もうすでに一度聞き終えたような違和感が全身を駆けた。遠い、ずっと遠くで鳴っているのに、確かに聞こえてくる。今、自分が正常な状態で無くなっていくことだけが、はっきりとわかる。何かに呪われたように、自分がこの世界から異物と認識されているような圧を感じる。


「アーサー、何か聞こえませんか?」


 エトソンの言葉に、チャイムの音だろう、と答えようとしたが、それとは違う異音、いやむしろ、よく耳に馴染んだ旋律が聞こえている。学校の外からだ。十七時を知らせる市民の唄、防災行政無線の無機質だが温かみのある電子音。子供たちは帰宅の時間だ。冥加市の人間なら皆、この音で夕(・)暮(・)れ(・)を知る。もうこんな時間かと空を仰ぐ。その一瞬が今、繰り返され続けている。


 恐る恐る見た窓の外には、見渡す限りの夕景が広がっている。窓枠すらも浸食されたように、橙に染まって見える。思い出の中の夕焼けのように、一面が夕日の色で浸かっている。


「アア゙ア——————!!」


 突然背後から響いてきた咆哮に振り返り、僕はさらに言葉を失う。そこには、巨大なスライムのような、影を練ったプリンのような、形容しがたい怪物が、空洞の瞳でこちらを見下ろしていた。怪物は、胡乱な視線こそしているが、確かに僕たちを害そうとしていた。僕は、軽くエトソンに視線を向けて、一歩だけ前に出る。


「エトソン、僕の後ろに下がれ」


「かばん、お持ちします」


「逃げるんだよ。むしろ君が渡してくれ」


 僕が戦うとでも思ったのか、故郷である異世界の殺伐(さつばつ)とした状況で培(つちか)われた冷静さのエトソンは、もはや日常と化していた魔法を解いた。左の腿に、確かな聖剣の感触が感じられる。いささか剣というには、細長い反射シートのように巻き付いているが。


 夕方のことを逢魔(おうま)が時とも呼ぶそうだが、本当に魔と会うだなんて思っているはずもない。妖魔、怪魔、なんと呼称してもしっくりきそうな黒色の怪物は、様子を窺(うかが)うようにうねっている。


「アーサー、敵の動きは緩慢なようです。今のうちに走って逃げましょうか」


「肉食動物っていうのは、獲物を狙う時、音を立てないものなんだよ。エトソン、後ろにはいないよな」


「はい、後方は安全ヨシです」


 微妙に不安になる言い方だが、きっとこの世界よりも殺伐とした異世界に生きる彼女を信じよう。それよりも、問題は眼前の怪物だ。もしバトル漫画の世界なんかだったら、こいつは雑魚なのだろう。主人公が気づかないうちに倒して、「これ、俺がやったのか……?」なんて言ってみたりするかもしれない。だが、ホラー漫画だったらどうだろう。こいつは、完結まで最強格として語られる怪異かもしれない。


 どちらにしても、そんな運命に巻き込まれるのはごめんだ。さらに言えば、こんな奴に人生の邪魔をされるのは、もっとごめんだ。路地裏で怪しい取引を見たって、すべての人が脅されるわけではない。事が大きくなる前に、早く現実に戻るのだ。


 状況を見るために、聖剣を体の前で構えたまま膠着(こうちゃく)状態を続けていると、不意に甲高い笛の音が響いた。


「——大丈夫かっ! って、秀一!?」


 廊下の反対側、職員室の方から声が聞こえてくる。まぎれもなくそれは、百合原愛夢の声だった。焦るような声と、ゴム靴が床に擦れる音で、彼の心境も読み取れる。


「こんなところでなにしてんだっ。生徒会室に来いって、葛御丘(くずみおか)会長が言っていただろ!」


「何してるはこっちのセリフだ! 僕に声をかけている暇があったら逃げろ!」


 怪物の巨躯に阻まれてよく見えないが、百合原の方で何か金属のような銀色が光ったように見えた。僕たちの会話に困惑しているのか、それともメインディッシュを選んでいるのか、怪物は愚鈍(ぐどん)な動きで体を揺すっている。


「そういうわけにもいくかよ……俺だって、生徒会の一員なんだッ!」


 雄たけびを上げながら、百合原が怪物の方へ向かっていくのが見えた。怪物は縮み上がるように体を伸ばして、僕に背を向けた。


「お、おい、百合原っ!」


「くらえええええっ!!」


 大きく振りかぶったソレは、先端に槍のような穂先が付いたポールウエポンだ。大振りにするには隙が大きい武器、振り回されるように、百合原はバランスを何とか右足で支える。しかし、穂先が天を向いた瞬間、がら空きになった胴に、鞭のようにしなる怪物の腕が撃ち込まれた。反応できないほどではないが、回避できるほど遅くもない。百合原は受け身を取りつつも壁まで滑り飛ばされた。


 壁に打ち付けられた百合原は、反動で武器を手から落とし、ぐったりと倒れこむ。その体をつまもうとするように、二股に分かれた廊下の先から、さらに二体の怪物が現れた。


「くそっ!エトソン、そこで待っていろ!」


「は、はいっ」


 たまらず僕は駆けだした。目の前で死ぬかもしれない誰かを、見捨てることができるわけがない。それが、運命の一歩目だとしても、僕はこの脚をもう止めることはできない。


 三歩で跳躍して、百合原を吹き飛ばした怪物の背に聖剣を突き立てる。背が脆いのか、聖剣の切れ味が良いのか、鶏の生肉のように楽に裁断できる。まさか、昔習っていた剣術がこんな形で役に立つとは思わなかった。血は飛ばないが、噴き出した影のような何かを浴びないよう、僕はまだ生きているらしい怪物の真横に回る。


 暴れるように腕を振り回す怪物の手に注意を払いながら、怪物の顔の上に飛び乗り、その頂点に聖剣を突き刺した。苦悶の悲鳴を漏らす怪物の頭の揺れに体重を合わせ、聖剣を軸に百合原の方へ飛び出す。スライディングというものは、サポーターがないと、まったくもって、摩擦が熱くて楽しいものではない。


 身を回転させながら怪物たちの手を蹴り飛ばし、百合原を何とか抱きかかえる。滑る勢いのまま壁に着地し、ばねのように脚を曲げて、立ち止まらないように、来た道の方へ跳び滑る。百合原を抱えていない右手で地面を叩き、何とか上体を浮かせて体を捻った。一人抱えると体のバランス調整が難しいが、どうにか立ち上がり走りだせる。身もだえしたままの怪物に跳躍し、頭の上に刺さった聖剣を頼りに一度しゃがんだ。


 聖剣を力任せに怪物から引き抜き、そのまま怪物の背を駆け降りる。軽く目の前を見渡すと、エトソンが特別教室棟への扉を開けて、僕に手招きしていた。全くよくできた助手だよ、エトソンくん。


 扉を抜けて、特別教室棟へ渡ると、向こうの怪物はこちらに興味を無くしたようだった。とりあえず一息つけるか、と小脇に抱えていた百合原を背負い直す。


「百合原さんは無事ですかっ?」


「ああ、多分な。それにしても、何だったんだ、今のは」


 巨体が取り柄というだけならいいが、ここから犬型のやつとか爪が鋭いやつとか出てきたら怖い。初見で対応できる奴だけにしてほしい。それかショットガンをくれ。


「それにしても、見込んだ通り、勇者様はさすがです。今のままでも、魔王と渡り合えますっ」


「買い被り過ぎだ。こんなんじゃ、命がいくつあっても足りない」


「———そうね。でも、まずは一つ、命を救ったことを喜びましょう」


 声に廊下の方を見ると、不安そうな数名の生徒と声の主、葛御丘妙栄が微笑を浮かべながら僕たちを見つめていた。百合原と同じように、生徒たちは、学校という教育の場には似合わない、ポールウエポンをそれぞれ抱えていた。少し怯えるような、しかし毅然とした彼らの表情は、少年兵を思わせる。


「着いてきて。こっちは安全だから」


 そう身を翻(ひるがえ)した葛御丘に、僕たちはひとまず従うほかにない。露悪的なほどに眩しい夕焼けは、廊下を赤々と照らしていた。


**********


 葛御丘と一行に連れられたのは、やはり生徒会室だ。学校の間取りにあまり明るい方ではなかったが、隣の教室には校内奉仕部と書かれた表札が出ている。ミス研にはこんな表札は用意してもらえていないし、きっと名前から想像する通り、まじめな部活なのだろう。


 生徒会室に入ると、中は思ったよりも広かった。普通に学園生活を送っていれば、生徒会室に入る機会もそうない。書類も職員室にボックスがあるし、そもそも、この場所は誰かが訪れることを想定していない配置だと思う。


「そこ、座って」


 まだ意識の戻らない百合原を先に座らせ、僕はソファに腰かけた。エトソンが周りの人数に合わせて、僕の横に詰めて座ったが、他の生徒は誰も座らなかった。


「百合原は、大丈夫なのか?」


「自分の心配よりも先に、彼の心配をするのね。ええ、明日には元気に学校に来ているはずよ。けがの具合もそれほどじゃない。軽い打ち身ね」


 葛御丘の言葉に、とりあえず安心する。よく分からない場所に迷い込んでしまったが、ともかく命は奪われずに済んだようだ。


「まずは、何から説明しましょうか。私も聞きたいことがたくさんあるのだけれど」


「はいっ、あのモンスターはなんなのですか!」


 ほの暗い生徒会室で、煌々(こうこう)と爛漫(らんまん)な態度でエトソンが名乗りを上げた。夕焼け色の世界の中でも、不安はあまりないらしい。


「私たちはあの怪物を、『ナキゴエ』と呼んでいます。この『夕暮れの原風景』の中を闊歩(かっぽ)する正体不明の存在です」


 確固とした口調で、少女、確か同じクラスの……そう、千家梢だ。大人しそうな雰囲気の少女は、闘志を秘めた瞳でそう説明する。


「あれらは、この世界に対する人間の悲しみや寂しさ、そんな感情が澱のように溜まって生まれたと言われているの。一人でいる人間を襲うことはほとんどないけれど、あなたたちみたいに男女でいる相手を、標的のように追い回す性質があるわ」


「まったく、とんだとばっちりだな」


 僕がちょっとした冗談のつもりで呟いても、重苦しい空気は変わらなかった。戦場かのように、張り詰めた緊張が満ちたままである。


「それで、その『夕暮れの原風景』というのは、なんだ?」


 そう聞きながら、少しばかりの心当たりが脳裏をよぎる。いつもミス研で話す、冥加学園七不思議の一つ、『鏡の異世界』。俺とエトソンは、廊下でチャイムの音を聞いてから、このおかしな場所に迷い込んだ。噂とは時間帯が違っているが、状況はよく似ている。


「簡単に言えば、もう一つの世界、みたいなものかしら。

 部活動時間のチャイムが鳴ったとき、部室にいない生徒は、この『夕暮れの原風景』に迷い込む。外の風景は見たでしょう? 息が詰まるほど、脚色された夕焼けが広がる空間。防災無線の音楽、どこからか聞こえてくる運動部の掛け声、誰もいない教室から聞こえてくる吹奏楽部の練習の音。誰もが想像する夕暮れ時の空間が、進まないまま存在している場所なの」


 『夕暮れの原風景』。そう言われると、確かにその言葉はこの空間をよく表している。夕暮れと言えばこんな風だと、経験したこともないのに理解できる情景が広がっているのだ。


「出る方法はあるのか?」


「ええ、もちろん」


 葛御丘は、そう言って、生徒会室の壁掛け時計を指さした。僕がエトソンを教室で急かしていたのが、確か十六時前だったはずだが、時計の針は十七時三十分を指している。


「この世界の時計は、入るたびに違う時間を指す。大抵は十七時前後だけれどね。あの長針が、短針に追いついたとき、部活動時間が終わり、下校時間のチャイムが鳴るの。その音を聞けば、この空間にやってきたように、元の空間に戻れる」


 葛御丘の説明を聞いて、僕は頭の中の時間軸を組み立ててみる。


 つまり、この世界は、現実での部活動の時間である、十六時から十八時半までの間存在しているわけだ。時間の流れは、現実とは異なる場合があり、その終点、十八時半までの時間は、こちらの世界の時計で確認できる。


 紅那須の言っていた通り、この異世界からは帰る方法があるらしい。こんなところで、七不思議が一つ証明されるとは思わなかったが、今度ミス研で駄弁ることにしよう。


 葛御丘は、少し考えるように他の面々を眺めてから、僕を見て腕を組んだ。


「他にも帰る方法はあるけれど、先に質問させてもらうわ。あなた、その剣をどこで手に入れたの?」


「……その辺で拾った」


 隣に座るエトソンの視線が痛いが、彼女が余計なことを言う前に、僕はそう答えた。異世界の話に、別の異世界の話を持ち込むと面倒だ。それに実際、僕が聖剣を手に入れた経緯として、間違いではないだろう。


「ははっ、そりゃあいい。俺も、君や妙栄みたいに、もっと使いやすい武器を拾いたいもんだ」


「劫雲(ごう)、あなたねぇ……まぁいいわ。どちらにしても、そんな目立つもの、普通は学校に持ち込めないもの。朝尾くん。やっぱり、あなたは選ばれたに違いない」


「選ばれた?」


 嫌な響きの言葉だ。ほんの一週間前に同じことを僕に言った少女は、嫉妬なのか何なのか、退屈そうに自分の足先を眺めている。『夕暮れの原風景』の説明で疲れてしまったのだろうか。


「ええ、そうよ。この空間はね、人を選別するの。ただ逃げるだけの人間か、それとも、戦う意思のある人間か」


 『選ばれた』彼女の武器なのだろう、腰元に携えられた拳銃のような持ち手を、彼女は感触を確かめるように撫でた。


「僕には———」


「戦う意思を持っているから、百合原くんを救えた。違う? 彼には戦う意思はあっても、戦えるだけの能力は足りなかった。でも、あなたはそれすらも持ち合わせている。あなたは選ばれたのよ」


「私も、この世界に初めて来たとき、この武器をいつの間にか持っていたんです。まるで、戦えと言うように」


 千家は、百合原の持っていたものよりも格式高く見える薙刀(なぎなた)をしっかりと握った。


「俺たち校内奉仕部は、この場所に迷い込んできた生徒を助けるために、放課後は学園を巡回している。生徒たちのほとんどは、俺たちのように抗う術もなく巻き込まれる」


「あの怪物に襲われたら、どうなるんだ」


「この場所で命を落とすようなことはないわ。けれど、それに近い重傷を負うと、現実に体が戻ったときに、精神がこの世界から帰れなくなってしまう。あの怪物に心を奪われて、魂が『夕暮れの原風景』に囚われてしまうの。少しだけ言葉が通じて、食事も軽いものならできる。けれど、いつもどこか遠くを見つめたままの、虚ろな人間になってしまう」


「植物人間、みたいなものか」


「夕暮れ時になると、悲鳴を上げて発狂するの。何かに襲われているみたいに硬直したまま、怯えた表情で……決して、これ以上生徒たちをあんな状態にはさせない」


 静かな声だが、葛御丘の言葉には、確かな決意が感じ取れた。


 異世界から生還した人間がいるという噂は、間違いではないらしいが、そう楽観視できるわけでもないようだ。事実として、百合原が怪物に太刀打ちできなかったように、武器があるというだけでは誰かを守ることもままならない。


「私たち、校内奉仕部は、生徒会執行部と連携して、この『夕暮れの原風景』に迷い込んだ生徒を救うために、校内の巡回をしています。今は、安全な場所からナキゴエの様子を監視するだけですが……」


「それも、今日で終わりにしたいところだ。何しろ、心強い新人が来てくれたんだからな」


 まさか、僕のことを言っているのか? 僕はこんな異世界の探索なんてまっぴらごめんだ。正直、迷い込んだ時はワクワクもしたが、せっかくの放課後をこんなところで費やしたくはない。それに、こういう探検は、結局壮大になって、世界のために命を捧げたりすることになりそうで怖い。劫雲、と呼ばれた先輩の、僕を持ち上げる言葉も今は鬱陶しかった。


「朝尾くん、今は君に、協力を強制させるつもりはない。でも、もう少しだけ見ておいてほしいものがあるの。あなたにとっても無益な内容ではないと約束するわ」


 劫雲先輩の運動部的な同調圧力にうんざりし過ぎたか、葛御丘は気を遣うように視線を下げた。ちらりと時計を見ると、まだチャイムまでは三十分以上ある。校内のどこに行くにしても、十分すぎる時間だ。


「あの、葛御丘会長。まさか、『迷い道』に行くつもり?」


 相変わらず重苦しい緊張感の中、静かに千家はそう呟いた。薙刀を握るその手は、かすかに震えているように見える。


「いつまでも立ち止まっていたって、仕方ないでしょう。前に進むことができるなら、私たちは選択しなければならない」


 それが運命だから、とでも続けるように、葛御丘は自分の手のひらを見つめた。


「行くわよ。悠長にしていられるほど、時間は長くないわ。生徒会室は安全だから、百合原くんは寝かせておきましょう」


 どこか懐かしさを感じる夕焼けの光の中、僕たちは校内を歩く。こんな夕暮れに気の置けない仲の相手と交わす何気ない会話は、まさに原風景と呼ぶべき人生の宝物だと、大人になってから気が付くのだろう。だが、実際は気が置かれまくった、学年もばらばらの生徒たちのお通夜のような雰囲気だ。


「ねぇ、朝尾くん。君は、澪河理事長のこと、どう思う?」


「どう思うとは、どういう意味だ? 別に、学園の理事長というくらいで、特別に何かを思うことはないよ」


 先ほどの怪物が現れないか周囲を警戒する校内奉仕部をよそに、葛御丘は何気なく話しかけてくる。銃器を持っているという安心感なのだろうか、それとも、彼女が単に、この空間に慣れるだけの時間を過ごしているということなのだろうか。


「葛御丘は、理事長が嫌いなのか」


「ええ。私、偽善者と嘘つきが大嫌いなの」


「はは……それなら仕方ないか」


 特段、理事長が嘘をついた記憶もないが、反対に、いつも話していることが全て嘘という雰囲気があの人にはある。実際、孤児を教育の場に迎える活動は、偽善なんて言うには大それたことだが、それすらもなぜか薄っぺらく感じるのは、僕たちが恵まれているからなのだろうか。


「着いたわ。中に入りましょう」


 廊下を進み、校舎外に出て少し歩くと、この前入学式があった第一体育館がある。異世界という割に普段と変わらないその入り口を進み、奥まった場所にある柔道用の部屋と剣道用の部屋が向かい合う廊下への道の途中で、葛御丘は立ち止まった。本来ならそこは、確か卓球台などの備品がしまわれている倉庫のはずだが、今は薄暗い階段が地下へと続いていた。


 窓から夕焼けの光が差し込み橙に染まる廊下と違い、その階段は影にあるようだった。元の世界とも、この世界とも少しずつ違うような、蜃気楼(しんきろう)のような違和感。昼間から開店している居酒屋みたいな、ほんの一瞬だけ夜を思わせる、昼の仄暗い影。雨が降る前の雲のように、この先には暗闇が待っていると予感できた。


「ここは『迷い道』と呼ばれている場所。名前の通り、日によって、階段の下の構造はまったく違っている。だけれど、一つだけ変わらないことがある」


 階段を下りながら説明していた葛御丘が、下り切った先で立ち止まった。少し広い空間、その先には入り組んだ廊下のような道が伸びている。湾曲した道の先は見えないが、この先が普通の学校ではないことは確かだろう。


 葛御丘の目の前には、一つの扉がある。何の変哲もない扉だ。階段下倉庫のようにも見えるが、その青緑色の扉からは、息を飲むほどの冷気を感じた。温度の低さというよりも、生命の息吹を感じられない、時間が止まったような冷たさを発している。


「この扉を開けた先に、私たちが『夜のカタチ』と呼んでいるモノがある。ここ以外にも、校門の横や、グラウンドの通用口にも存在が確認できているわ」


「その、『夜のカタチ』というやつには、何の意味があるんだ」


「さっきも言った通り、この世界から出る方法は一つじゃない。時間が過ぎて、チャイムの音を聞けば、自動的に帰れるけれど、聞きそびれたり、聞こえなかったりしたときは帰ることができない。

 そうした時に使える、もう一つの脱出経路が、この『夜のカタチ』。この扉の先にある暗闇は、この世界にいる限り私たちを照らす、あの夕焼け空の色から私たちを隠してくれる。この中の暗闇に目を慣らしていくうちに、元の世界に戻ることができるわ。ただし、チャイムの時と違って、ここから出ると、元の世界に戻る時間は早くても20時を過ぎることになる」


「チャイムを聞けば、部活動時間の終わりに戻ってこられるが、ここから出ると夜になるまで戻れない、ということか」


「ええ、そういうこと。あなたはきっと、早く帰りたいというでしょうから、今は開けないでおくわ」


「それはどうも」


 葛御丘は軽く笑って、長く続く廊下の方へ体を向ける。いくつか分岐の見える道の先で、黒い不定形の怪物、ナキゴエの姿が見えた。


「あなたをここに連れてきた理由は、『夜のカタチ』を見せたかったからともう一つ。この『迷い道』を見せたかったから」


 葛御丘は、腰のバックルから二丁の拳銃を取り出すと、右の銃口を空に向けて、腕時計に視線を落とした。『夕暮れの原風景』での時間の歪みは、腕時計でも確認できるらしい。


「まだ二十分あるわ。この階層だけでいい。朝尾くん、君に探索を手伝ってほしい」


「僕に手伝う理由はないな。何もしなくても、日は落ちるんだろ」


「私からあなたに提示できる動機は二つ。一つは、この場所が見境なく人を飲み込むということ。あなたの友人もクラスメイトも例外はないわ。私たちは、はっきり言って非力よ。この先、救えない人だって出てくるでしょうね。それがあなたの知り合いでない保証はできない」


「ここを探索して、それでどうなると言うんだ。何か確信でもあるのか?」


 葛御丘は、質問を予期していたかのように、軽く笑った。


「それが二つ目。この『迷い道』の先には、夕暮れの果てがある。そう、澪河理事長は言ったわ」


「理事長が? あの人は、この場所のことを知っているのか」


「ええ、校内奉仕部を設立したのも、生徒会に『夕暮れの原風景』を監視させているのも、どちらも彼よ。ふふふ、どうかしら。とってもきな臭くなってきたと思わない? 私たち全員が、選ばれた人間というわけじゃない。百合原くんや、津川くんが持っているのは、理事長がどこからか集めてきた武器なの」


 彼女が軽く視線を向けた先では、校内奉仕部の男子生徒が、震える手で槍のような武器を抱えている。彼はまだこの場所に慣れていないのだろう。


 葛御丘はさっき、僕の聖剣を見て、「普通は学校に持ち込めない」と言っていた。理事長ならあるいは、とも考えられるが、誰かが『選ばれた』際の武器と考えるほうが自然だ。しかし、その持ち主は、今はいない。それが意味することは明白であった。


「理事長が黒幕だとでも?」


「その答えがこの先にあるとしたら? あの薄笑いの仮面の裏で、子供たちを集めて何を企んでいるのか。私、校内の監視はこの『迷い道』を隠すためのミスディレクションだと思うの。この道を進んでいくと、夕焼けはより濃く、ナキゴエも凶暴になっていく。いかにも何か隠していそうじゃない」


 夕焼け色を見すぎて、目を閉じると瞼に補色残像が焼き付くようだ。こんなところに長くいたくはない。とはいえ、ここに来た以上、どちらにしても僕は夕暮れが終わるまで帰れない。それはもはや、選択肢がないと言ってもよかった。


 誠に遺憾ながら、手伝うしかないのだろうかと思い始めた僕の、制服の袖をエトソンが引いた。


「アーサー、行くなら早く行きましょう。あのくらいの相手なら、勇者様の一撃で簡単に倒せます。階段もすぐそこです」


「あのくらいの相手ってお前、僕より何倍もデカいし……ちょっと待った。階段がなんだって?」


 退屈そうに囁いてきたエトソンは、僕の言葉に、不思議そうな表情で首を傾げた。


「ですから、階段はそこの角を曲がってすぐです」


「しかしだな、この廊下は他にも分かれ道があるだろ」


「疑うなら、とりあえず行ってみましょうっ。勇者様の道を塞げるような敵は、この階層には出てきませんから」


 なぜかむすっとした表情で、エトソンは僕の手を握った。今日はやけに機嫌が悪い。というより、なんだか居心地が悪そうだ。叶夢とはすぐに打ち解けていたから、人見知りするタイプではないと思っていたが、そうでもないのだろうか。


「分かったよ、葛御丘。残りの時間はこの場所を調べることにする。ただし、進み方は僕が指示する。それでいいか」


「ええ、分かったわ。もともと、リーダーって柄じゃないのよね。生徒会長になったのだって、推薦のためだもの。劫雲も異論ないわね」


「まったく、生意気な後輩だ。だが、気に入った。俺も先輩だからと子守をするのはうんざりだったんだ。後ろは任せてくれ」


 劫雲先輩は、身幅の広い長剣を構えると、白い歯を見せた。どうやら血の気が盛んらしい。周りで怯えている後輩とは正反対だ。


「ともかく、進んでみよう。なるべく離れすぎないように着いてきてくれ」


 頷いた一同を確認して、僕は長く続くように見える廊下に視線を向けた。エトソンが言うには、すぐそこに階段があると言うが、本当なのだろうか。葛御丘は「階層」とも言っていたし、おそらく何層にも重なったダンジョンみたいなものになっているのだろう。いよいよ非現実じみてきたと思ったが、あんな怪物がいる時点で今更だ。


「アーサー、あの怪物は斬撃に弱いようです。ズバッとやっちゃってください!」


 駆け足で進む中、廊下の奥に見えていた怪物を指して、エトソンはガッツポーズを見せた。そんなナビゲーションのようなことを言われても、はいそうですかと言い切れないのが現実だ。


 こちらに近づいてきたナキゴエは、悲し気な、あるいは呆然とするような唸り声を上げながら、両の触手を上に掲げ、向かってくる僕を押しつぶさんばかりだ。

 およそ三秒、それで怪物の向こうまで走り抜けられる。僕は踏み込んだ右足に力を込め、数メートルの距離を一息の間に詰め、聖剣を薙いだ。まるでプリンを切るように、刃は怪物を二分し、泥のような何かを散らした。クリティカルヒットという文字が出たかと錯覚するほど、竜巻のように体を縦に伸ばしたナキゴエは、昇華するように消えていく。


 後ろから聞こえてくる小さな歓声と、劫雲先輩の褒める声は、一旦背中で受け止める。称賛には良い思い出がない。無心で褒める人間は、成長する気がない者ばかりでうんざりもする。


 もう来ることもない場所で苦労する、もう会わないだろう組織の脆弱性を考えたって僕には得などない。今は、「斬撃って、ゲーム以外で初めて聞いたな」とか考えて進むだけだ。


「この先に階段があります。進んじゃいましょうっ」


 何らかの確信をもって言うエトソンの指示通り、怪物を抜けた先には、階段がさらに下へ続いていた。地下に続いているはずなのに、踊り場にある窓からは橙の光が差している。この世界はどこまで行っても夕暮れらしい。


「なぁ、エトソン。どうしてここに階段があると分かったんだ?」


 階段を下りながら聞くと、エトソンはまた不思議そうに首を傾げた。


「どうして、と言われても、アーサーには分からないのですか? ダンジョン攻略には必須のスキルですよ」


「……つまり、魔法ってやつか」


 すっかりエトソンという存在に感覚が麻痺していたが、そういえば彼女は異世界から来たのだ。魔力が弱いというようなことを言っていた気もするが、それでもダンジョンでマップを把握するくらいは誰でもできるという認識だったのだろう。異世界に行って、「あれ、俺なんかやっちゃいました?」と僕が言わされると思っていたが、この世界においては、エトソンがその役割になって然るべきだったのだ。


「もしや、あの怪物の弱さも、勇者様には見えていないのでしょうか」


「当然だ。僕はそもそも勇者じゃないし、魔法なんてものも使えない」


「……なるほど、ようやく腑に落ちました」


 二層目に降りてきて、それほど強くなったように思えないナキゴエたちを連続で切り伏せる。強くてニューゲームというのは、特に爽快ではない。


「何か、気になっていたことがあったのか?」


 二層目も、エトソンの言った通りの場所に階段は鎮座していた。再び階段を下りながら、結構スタミナがあるエトソンに尋ねる。頬は少し上気しているが、息はまだ切れていないようだ。三層目の入り口で、階段を下りてくる足音を待ちながら、エトソンは頬を膨らせた。


「勇者様が、あんなに弱い人たちをパーティに加えるんじゃないかと、私は心配していたのです。ダメですよ、勇者様。あの人達では魔王には勝てませんっ」


「はぁ……」


 直接的に非情な言葉を並べるエトソンに、思わず頭を抱える。それは真実であるからこそなんともコメントしづらい。つまり、エトソンは、彼らを仲間には適さないと思っていたから、あまり口を開かなかったのだ。この異世界人、僕が思っているよりもずっと強かというか、打算的なのかもしれない。


「ごめんなさいね、待たせてしまって」


「いや、無理をさせているのはこちらの方だ」


 葛御丘がようやく降りてくると、エトソンはぷいと廊下の方を向いた。これだから人の考えというものは分からない。


「とりあえず、二階は降りてきたが、少し夕焼けがきつくなってきたか?」


 夕焼けがきつい、なんて言うのは初めてだったが、そう形容するほかない濃度のオレンジに風景が染まりつつある。案外、底は近いのかもしれない。


「第五階層に少し強い反応があります。もしかしたら、そこで一区切りなのかもしれません」


「まったく、桁違いの強さに、この子はナビゲーションかしら。あなたには驚かされてばかりね」


「僕だって、驚いてばかりだよ。だが、今から二層進む時間はないだろうな。彼らもそんな元気はなさそうだ」


 息を切らした一年生、津川が、千家と劫雲先輩に励まされながらようやく追いついた。劫雲先輩はともかく、千家も少し疲れの色が見える。


「ええ、もうじき聞こえるはずよ。本当に十分足らずでこんなところまで攻略するなんてね」


 攻略というほどのことはしていないが、謙遜(けんそん)したところで意味はないだろう。僕は元の世界に戻った時に備えて、聖剣を腿に引っ付けた。改めてこいつはなんで腿に引っ付くんだ? まぁ、便利だし考えなくていいか。


 エトソンの肩をそっと叩き、葛御丘には気づかれないように、腿に巻き付く聖剣を示した。エトソンは、了解の返事代わりににっこりと笑うと、ウインクして見せた。瞬きの間に彼女の瞳は赤く変わる。


「———来たわ」


 のんびりとした防災無線の音楽を裂くように、明瞭としたチャイムの音が電子的に響く。次第に下がる音階は、折り返しでまた上がっていく。チャイムが最後まで鳴り終わったとき、幻覚でも見ていたかのように、僕たちはすっかり薄暗くなった体育館の廊下に立っていた。『迷い道』があった場所には、ただ倉庫の扉があるだけだ。開けてみても、かび臭い冷気が漏れ出るばかりだった。


「な、なんだかすごく疲れました……」


 津川は床にへたり込むと、そう弱音を吐いた。千家が励ますように背中をさする。


「今日は少し頑張ったものね。しっかり休んで、明日に備えましょう。朝尾くんも、気が向いた時でいいから、『迷い道』のこと、考えておいてくれるかしら」


「気が向いたらな。しばらくは、夕暮れはこりごりだよ」


「余裕そうな顔してよく言う奴だ」


 そう言う劫雲先輩も平気そうな顔だ。年の功というものか。


 生徒会でもう少し仕事があるという面々と別れ、僕はエトソンと二人で帰路につく。すっかり日は落ちているが、夜というには少し明るい帰り道だ。普段は非現実じみたエトソンの金髪も、街灯の光で少しだけ俗っぽく見えて生々しい。


「アーサー、あのダンジョンのことですが、アーサーがその気になれば、五分で最奥まで到着できると思います。明日にでも、二人で行きませんか?」


「そんなピクニック感覚で行くところじゃないだろ。それに、さっき言った通り、しばらく行くつもりはない」


 じわじわと夜の近づく薄闇の中で、エトソンは僕を見つめていた目を逸らした。


「……あいつらのこと、嫌いなのか?」


 エトソンの機嫌を取るつもりはないが、少しだけ気になって尋ねる。校内奉仕部と生徒会に協力するというならともかく、二人であの場所を攻略しようというのは当てつけでしかない。それほどに彼らが気に入らないということだろうか。


「嫌い、というわけではありません。ですが、彼らは自分たちの弱さを自覚しきれていません。魔族との戦争においても、犠牲になったのは、そうした有志の兵士たちでした。

 アーサーは、彼らの死に、意味があったと思いますか? 故郷で幸せに生きられるはずの民衆が、敵うはずもない相手に挑むことに、何か意味があったと思いますか?」


 心の大切な場所から、漏らさないように言葉をふるいにかけて、エトソンは優しく投げかけた。僕はその言葉で、なんとなく、彼女の持つ「解析能力」とでも呼ぶべき力は、きっと異世界人ならだれでも持っているわけではないのだろうと思った。もしかすると、その軋轢(あつれき)の積み重ねが、エトソンが聖剣を持って世界を渡る決断につながったのかもしれない。


「人生ってやつに意味なんてものはない、と僕は思う。意味なんてものは全部後付けで、当人がどう思うかでしかない。だから、誰が死んだって、それは鳥が魚を食べるのと、猫がネズミを捕まえるのと、何も変わらない。ただ一つ、命が失われたというだけのことだ」


 自分で口にしながら、明日にでも切ろうと思っていた爪が、手のひらに食い込んでいく感覚が歯痒い。人の数だけ価値観があって、絶対的な正しさなんて存在しない。僕たちはいつでも不安を抱えながら、自分の正しさが間違っていないはずだと祈りながら生きるしかない。


「だからこそ、君がそうして悔いや葛藤を抱えているなら、それこそが意味なんだと思う。そうして、悩むことで、意味を与えるしかないんだ」


 静かな住宅街に、僕一人のそんな厭世はひどく無力に聞こえる。止まっていた足音が小刻みに僕の前に出て、小さな吐息を漏らした。


「勇者様は、お優しいのですね。意味なんて無いと、切り捨ててしまっても、きっと彼らは怒りも悲しみもしないというのに」


「人生に意味が無いとしても、死そのものには意味があってほしいと、誰だって思うものだよ」


 仄暗い道のせいだろうか、どこかセンチメンタルな気持ちがほんの少し顔を出す。思い出さないようにと努めている両親の笑顔が脳裏をよぎった。そこにはきっと意味があって、けれどそれは、なにも特別なことではない。そこには、作為も意図もない。人は誰だって死ぬ。当たり前のことが、不幸として現れただけで、何か力に変わるわけではない。


「なんだか、暗い話をしてすみません。勇者様の負担になってはいけないと思い、国の話はしないようにしていたのですが、うっかりでした。ご心配なさらずとも、あの方たちだけでも、人を逃がすくらいなら問題なく続けて行けると思いますよ」


「そういうことは本人たちに言ってやるべきだと思うがな」


 むしろ、そうすると思い上がってしまうのだろうか、とも思いつつ、あまり深く考えないようにしようと頭を振って余計な思考を追い出す。


『夕暮れの原風景』とやらは、紅那須あたりは食いつくだろうが、黙っておいた方が吉だろう。あいつのことだ、行きたいと言い出すに決まっている。


 叶夢には伝えるべきだろうか。いや、あいつならたとえ迷い込んでもどうにかなるだろう。そもそも、部活人間の叶夢が、チャイムの時間に部室にいないはずがない。だがまぁ、話しておくに越したことはないか。


 あれこれ考えているうちに、ようやく家に着いた。なんだか長い一日に思えるのは、『夕暮れの原風景』の中の時間が歪んでいたからに違いない。


「おかえり。ご飯、今チンするから待ってて」


「助かるよ。柄にもなく人と話して疲れたんだ」


 ダイニングテーブルに置かれた料理をレンジに持っていく叶夢に礼を言って、僕は自室に荷物を置く。滅多にないが、僕の帰りが遅いときは、叶夢がわざわざ料理を僕の家まで持ってきてくれるのだ。彼女の両親は就寝が早いせいで、キッチンでの洗い物の音を立てないようにという気づかいなのだが、叶夢の負担は棚に上がってしまっている気がする。


「ん~~、まぁ後で労ってやるかぁ」


 思いやりよりも、精神的な疲れが先に来て、僕は伸びをする。ここでベッドに倒れこむと、しこたま叶夢に叱られることになるので、しゃっきりと起き上がる。聖剣を鉢植えに鎮座させ、僕は夜ご飯のもとへ向かった。


「へ~、異世界ねぇ。ほんとにあったんだ、あの七不思議の」


「学園のことだ、もしかしたら、別で鏡の異世界もあるかもしれないけどな」


「なんでもいいけど、あんまり危険なことに首を突っ込み過ぎないようにね。怪物と戦った、なんて急に聞かされる身にもなってみなさいよ」


「僕だって、不本意ながらだ。今日の晩がカレーだと分かっていたら、すぐに帰っていたよ」


「カレー! これはカレーというものなのですね、アーサー! 叶夢っ、明日もカレーを所望しますっ!」


「はいはい、カレーは二日ぐらいで止めておきなさいな。また作ってあげるから」


 異世界に迷い込んだり、怪物と戦ったり、少し不思議なことがあっても、それは大きな問題にならずに、こうして暖かい食卓を囲める。それは何よりの幸せだと僕は思うし、それが僕の日常なのだ。


 そんな当たり前というものが、変わり続ける人生というヤツの、ほんの一瞬の側面でしかないということに、もし気が付いていたとしても、この団欒(だんらん)を僕は日常だと呼び続けるだろう。




次回1-4『中央教会』

今はまだ、いつも通りの日常を過ごす秀一。

しかし、その前に現れたのは、中央教会を名乗る非現実からの使者であった————。


「あっあっ、う、うるさぁぁぁぁい!!」

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