1-2 ミステリ研究会という名のホラー同好会
〇これまでの登場人物(今話未登場含む)
・朝尾秀一
この物語において、概ね視点人物である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。
・九沙吹藍良
冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。
・葛御丘妙栄
冥加学園の生徒会長の少女。含みのある細目は、知慮に富んでいる。
・百合原恵夢
クラスメイトの少年。百合好きの明るいお調子者。なんだかんだ生徒会執行部の一人。
・澪川冥加
冥加学園の学園長。年齢は不詳だが、若見えする方である。この世界がフィクションなら、確実に悪役だと訝しまれすぎて、最近は言葉遣いを寄せているらしい。
・相田春子
朝尾家のハウスキーパー。6:00~17:00くらいが勤務時間
・フラテルニテ
自称、秀一の「第六感」。叶夢には見えていないらしい……。
・影勇王アーサー
エトソンの世界で魔王に寝返り、世界の半分を受け取ったという、マクルワリオンの前任者。
誰かの手が僕を揺らす。名称不明の物体Xが撹拌されて、徐々に僕という輪郭を形成する。そうして僕は目を覚ます。昨日と変わらない、そしておそらく明日も変わらない僕の起床だ。
「アーサーっ、おはようございます」
「起きた? エトソンも、ちゃっちゃと着替えちゃいなさいよ」
僕がのっそりと体を起こすと、相変わらず無遠慮に、幼馴染が僕の部屋でくつろいでいる。今日は登校二日目、学校は入学式で半日授業になる。朝練がないからだろう、叶夢は、僕がぼうっとしていても気にする様子はない。階下からは、朝から元気のよいエトソンの声が聞こえてくる。朝食も用意されているらしい。
「着替えるから、出て行ってくれないか」
「別に裸になるわけでもないし、恥ずかしがらなくていいでしょ。あんたのおしめだって、替えてあげたことあるんだし」
「それもそうか……いや、それはおかしいだろっ」
飴玉を口の中で転がして、叶夢はくすくすと僕をからかった。くだらない話をしているうちに、ネクタイも締め終わる。動く気のなさそうな幼馴染を置いて、僕は朝食を食べに向かった。
ごく普通の、というには手の込んだ朝食を済ませ、まだ僕の部屋に残っている叶夢に呼びかける。エトソンもすっかり登校準備万端だ。
「お前も行くか」
軽く手の平を見せると、吸い付くように、聖剣は鉢植えから飛び出してきた。なんだかんだ、一番従順なのはこいつかもしれない。一夜にして、すでに愛着が湧いてきた。腰に収まると、歩行の邪魔にならないようにぴったりと足に張り付いてくれる。
「それでは、本日も良き運命の巡り合わせがございますよう」
「何もないのが一番だよ。それじゃあ、行ってきます」
相田さんに見送られ、僕たちは学校に向かう。そうそう。こういう起伏のない朝こそが、僕の求める日常なのだ。こちらに笑顔を向けるエトソンの瞳が赤くなっているのを見て、僕は腰元の聖剣が透明化していることを確認する。これで日常を過ごす準備は万端だ。
「そういえば、エトソンは何か部活に入るつもりはあるの」
「部活、ですか? はい、やってみたいですっ」
「まぁ待て。運動部の付き合いなんかに巻き込まれて、エトソンの帰りが遅くなっても、俺は迎えに行ったりしないからな」
エトソンが勝手に学園生活を謳歌するのは自由だが、そうなれば面倒を僕が見ないといけない可能性が高い。ただでさえ目立つエトソンを、迂闊に活発な生徒たちの輪の中に入れたくはない。
「秀一は、相変わらず運動部嫌いよね。心配なら、あたしと同じバスケ部に入ったらいいじゃない」
「私は、勇者様と同じ部活がいいですっ。アーサーは、何の部活に入っているのですか?」
期待するような目線に、僕は頭をかく。じっとりとした叶夢の視線が痛い。
「あ~、部活というか、ミステリ研究会っていう、まぁ、研究機関だな」
「さすが勇者様ですっ。ミステリ、というのはどういった研究なのですか?」
「ただのおしゃべりクラブでしょ。大層な言い方しないの」
叶夢の真っ当な指摘に、エトソンは頭にハテナマークを浮かべている。わざわざ、我らがミステリ研究会について、実質的には、放課後に集まって好きなホラーの話をするホラー同好会であることは、わざわざ説明しなくてもよいだろう。
「まぁ、私たちは部活入部必須だけど、エトソンは違うのかもしれないし、焦る必要はないのかもね」
「そうだな。勝手にふらつかれても困るから、しばらくの間、放課後は傍にいてくれ」
「はいっ、私はいつでも勇者様のお傍にお付きしますっ」
叶夢が軽く頭をなでると、エトソンは子供のように笑顔を咲かせた。
**********
僕は教室に着いても、クラスメイトに挨拶をすることなどないのだが、エトソンはそうもいかない。やや疎むような目線を向けられ、軽く頭を下げながら入室する僕を置いて、エトソンは元気よくクラスメイトに挨拶をぶつけていく。
「そういえば、昨日は授業大丈夫だったか?」
昨日は、すっかり自分の運命のことで頭がいっぱいになり、転入生として授業を受けていたエトソンまで気が回っていなかった。なんとなく、大きな問題はないだろうと高をくくっていたが、それもおかしな話だと思う。
「はいっ。これでも、皇国では優秀だと褒められてきましたから」
入学式の後になぜか詰められている二科目分の授業を確認すると、確かに昨日の内容はきちんと理解しているらしかった。チグ……なんとか皇国では、現代日本と同じような教育が、ともすればより高水準に行われているのかもしれない。
「アルファベットも、きれいに……ん、ここスペルが……いや、これ逆だな」
「あっ、そうでした。つい癖で」
エトソンの取った英語のノートは、よく見るとnとuがごちゃ混ぜになってしまっていた。ひらがなの「の」で子供が反転して間違えるのはたまに見かけるが、アルファベットで間違えるのは初めて見た。相場はbとdじゃないのか。とはいえ、そんな常識が異世界に通じるとも思えない。僕だって、ハングルを正しい方向で書ける自信はないし、知らない言語なら誰だってそうだろう。
「数学は得意なのか」
「この公式というものを当てはめればいいのですよね。それなら得意ですっ」
実際、それだけのことが難しいのだが、エトソンは自信気に言いきった。完全に右手がそろばんをやっていた人の動きをしているが、異世界にも、地域の人が開いた教室があったのだろう。
「まぁ、難しい教科があったら聞いてくれ。習っている分くらいは教えられるつもりだ」
そう口をついた言葉に、ひらめきが生まれる。
そうだ、別に異世界に行かない方法は、彼女を説得して帰らせるだけではない。忙しい学生生活に彼女を順応させ、「私も大学に行きたいですっ」とか、「私も外資系で働きたいですっ」とか思わせたら良いのだ。突然王女と聖剣が消えた異世界はご愁傷様だが、この方針なら案外楽に異世界に行かなくて済む上、エトソンを騙したりする必要もない。ただこの日常を楽しんでもらえばよいのだ。
僕はこの革新的なアイデアに安心し、落ち着いた心持ちで入学式に向かう列に向かった。
**********
冥加学園の入学式は、他の高校と比べても、極めて粛々と行われる。ほとんどが内進組である冥加学園において、入学式というのは建前でしかない。入学を節目として、高校から何かを頑張ろうという生徒は、必ず淘汰される。中学やそれ以前からの才能の塊は、弱者を踏み台にすることに躊躇がない。冥加学園の、一見恵まれない子供たちへの救済のような慈善活動の数々は、そうした才能の持ち主への出資や義援金によって支えられているのだ。
などと自分の置かれた環境を冷めた目で見たところで、一生徒からすればただのありふれた学園生活と変わらない。才のある者は学外で活躍し、多少冷たい目線を向けられようと、いじめなんて他の学校でも横行しているものだ。
体育館を埋め尽くす新入生たちは、今年も去年と同じだけの定員だ。二年生である僕は、前後に大量の人の存在を感じて、少し気持ち悪くなる。こういう集団行動で浮いてしまったら、一発で晒しものだ。ただでさえそんなことを考えてしまうのに、エトソンという爆弾まで抱えては頭も痛くなる。
「新入生の皆さん、おはようございます。理事長の澪河冥加です。今日はよく晴れて、皆さんも空の祝福を存分に受けられそうですね」
毎回アドリブなのか、特に原稿を広げずに理事長が登壇する。在校生と内進組の生徒は、またどうでもいい話が始まると意識を遠くする。怒られないように聞いているふりをする術は、在校生の必修スキルだ。
「祝福と言えば、僕は神様に祝福を授かったことがあるんです。いやこれ、ほんとに。三年生は歴史の授業で聞いたことあるかな。回心ってやつでね。
ちょうど、君たちと同じくらいの時だ。僕は特進組でねぇ、高校から冥加学園に入学できたんだけど、ちょうど引っ越しの日だったかな。あいにくの雷雨でさ、ぴしゃんと雷が落ちたんだ。家にじゃないよ? 僕の頭の上に、ぴったり頭の真上から足の先に抜けていった。その時世界が全部輝いて見えてね、その先にぼんやりと影が見えたんだ。それが神様。うん、間違いないね。
びっくりすることに、雷が落ちたのに傷一つなくてさ。その瞬間、はっきりと、僕は自分の進む方向が、運命の行き先が分かったんだ。正直な話、それまでは何をしても退屈で、どうして自分は努力しないといけないんだろうって思っていた。でも分かった。あの場所が、自分のたどり着ける一番遠いところなんだってね。
冥加学園の学校理念は、『すべての子供たちに教育を』というものだ。でもそれとは別に、教育理念というものもあってね。受験してくれた諸君はよくご存じだろう。そう、『個々の運命と向き合い、可能性の芽を開かせる』。この中には、悲しい経験をした人もいる。でもね、僕はそれを、決して、恵まれなかったなんて言わせない。君たちは、運命に祝福されているんだ。艱難辛苦の凍土の中にこそ、君たちの強い新芽は眠っている。どうか君たちが、自分の運命を見つけられることを祈っているよ」
体育館を静かな拍手が包む。理事長の話を真面目に受け取るのは、受験で入ってきた外部の新入生だけだろう。似たような話を学期ごとに聞かされる僕たちは、すでに飽き飽きだ。
学校法人の割に穏やかで牧歌的な校歌を斉唱し、入学式は終わっていく。高校では初めてとなる後輩たちが、冥加学園高等部の門をくぐったわけだが、当然僕には大した影響がない。後輩付き合いのある部活には入っていないし、中等部の知り合いもいない。騒がしくなるのは別に気にしないが、屋上や中庭が埋まりやすくなるのは少し面倒だ。
「アーサーっ、急がないと授業が始まってしまいますよ」
来賓が退席し、新入生たちが去った後で、在校生はまばらに体育館を後にする。人ごみの気持ち悪さが尾を引いていたせいで、しばらく座っていたままだった僕は、エトソンに声を掛けられ、ようやく立ち上がった。大体、式が終わった三十分後に授業が始まるという方がおかしな話ではないか。
「分かっている。エトソン、僕はトイレに行ってから戻るから、先に教室に行っていてくれ。場所は分かるよな」
「はい、同じクラスの方についていきますっ」
「頼んだ」
蟻地獄のように、小さな体育館の入り口に吸われていく生徒たちを横目に、僕は体育館脇の階段から、校舎間通路に降りた。本来、内履きでは入らないほうがいいのだが、律儀に守る生徒も少ない。
ざわざわとしていた体育館内と違い、壁一枚を隔てただけで、階下のトイレは静かなものだった。肌を湿らす冷たい空気に、わずかに鼻を衝く腐臭も情緒深く思える。適当に手を洗って外に出ると、春の日差しが温かい。
「あ、あのあの、やめ、やめてくださっ」
「やめてくれって言われてもなぁ、俺たちだって頼まれてやってるだけだからよぉ。お前が代わりになんか払えるってんならぁ、考えてやらないこともないけどなぁ」
トイレを出て校舎に戻るところで、体育館の陰になる自販機前にたむろした人影が見えた。時折聞こえるか細い悲鳴に、いかにもなガラの悪い男子生徒の声。できれば近づきたくない手合いの事件だ。いじめの傍観者になるというのは良くない。良くないのだが、誰もが傍観者となってしまうのは、それが最も楽なことだからだ。僕だってできればそうしたい。
「おい、お前ら何をしている」
だが、家の洗い物をさっと済ませるように、ほんの少しの手間で済むなら、楽な方に身を任せないことも必要だ。彼らのつやつやとした制服は、先輩である僕に、一声をかけるだけの労力を割いた方がいいと判断させた。こんな奴ら、どうせチクられそうになったらすぐ逃げるんだ。それに誰だろうと、せっかく冥加学園に来たのに、苦しい思いなんてしないでいい。
「なんだこいつ」
「おい先輩だからって舐めてんじゃねえぞ陰気野郎」
おっと、これは予想外だ。下校中に石ころを蹴飛ばしたら、ガードレールに当たって甲高い音が響き渡ったときくらい予想外だ。ほんの片手間だと声をかけたのに、彼らはひるむどころか、指の骨をパキパキ鳴らしながら近づいてきている。もし乱闘の効果音がカットインされたら、次に映るのは間違いなく、青こぶを作った僕の顔だ。
「この学園で暴力を振るおうなんて、みっともないにも程があるな」
「ごちゃごちゃ言ってっとのすぞゴラァオイ!」
最悪、僕が注意を引き付けている間に、いじめられていた子が逃げ出せればよいのだが、自販機の前にうずくまった小柄な少女は、段ボールの中の子犬のように、こちらを見つめて座り込んだまま動けないようだ。
「二年だが三年だか知らねぇけど、俺に喧嘩で勝てるわけねえだろうがッ」
「お、おいっ、やめろっ!」
おそらくボクシングか空手か、なにか武術の心得があるのだろう。そのくせ、スポーツマンシップの欠片もなさそうな男子生徒は、落ち着いた重心から右ストレートを繰り出す。ガラの悪い顔と反して、真っ当な構えの攻撃に僕は面食らう。何とか後ろに飛び退いて、左アッパーのコンビネーションを避けた。両手を前に構えて防御の姿勢を作ったところで、強烈な回し蹴りが飛んでくる。頭に当たっていたら昏倒しかねない勢いだ。やっぱり、キックボクシングあたりの特進組なのだろう。
「いけぇ! やっちまぇ!」
後ろから加勢してくるかと思われた二人の男子生徒は、おそらく金魚の糞か、目前の男子生徒の威を借りたいだけなのだろう。応援するばかりで僕に詰めてくる様子はなかった。
じりじりと後退していきながら、かなり遠くに見える少女の様子を見る。まだ腰が抜けたように座り込み、うるんだ瞳でこちらを見つめていた。早く立ち上がって逃げてくれないか。それともなんだ。これは目の前の男子生徒をノックアウトしないと終われない、戦闘イベントみたいなやつなのか。いやいや、現実でそんなものが発生してたまるか。ヤンキーも半グレも生きているんだ。物語の登場人物なんかじゃない。
「———っ!」
鋭く飛んできた相手の右ストレートを左手で捕らえる。手のひらに静電気のような痛みが走るが、代わりに確かな感触が伝わる。逃れようと暴れた相手の腕を大きく外に投げると、男子生徒は体勢を崩し、真正面にがら空きの正中線が見える。顔面、胸、腹、股間。どこを狙ってもクリーンヒットだ。思わず握った右の拳を、僕は後ろに下げた。
ゆっくりと距離を取ると、ガラの悪い男子生徒は少し悔しげな顔でこちらを睨む。僕がどう逃げるべきか思案していると、不意に視界が暗くなる。遅れて蝶が羽ばたくように優しく香った石鹸のような少し甘い匂いに、僕は思わず見上げる。
「お、お前っ、九沙吹藍良ッ! 大会にこそ出ていないが、冥加学園の剣道部に道場破りに来た、全国の猛者を返り討ちにしているというあの噂のッ!」
「何の話か、分からない」
「ちっ、今日はこれぐらいで勘弁してやるっ!」
現実では初めて聞いた捨て台詞を残して、ガラの悪い男子生徒は逃げ去っていった。僕は一瞬、下から見ても美人な九沙吹さんに見惚れていたが、すぐに意識を取り戻す。通りすがっただけかもしれないが、彼女のおかげで、ケガすることもなく解決できたらしい。
「あ、ありがとう。よく分からないけど、助かったみたいだ」
「それは、よかった」
「あ、ああ、うん。あっ、それよりも、あの子、大丈夫かな」
僕が冷静に状況を思い出し、自販機の前に視線を向けると、すでにいじめられていた少女も逃げ去った後のようだった。物静かな九沙吹さんとの間の奇妙な静寂が保たれたまま、誰もいない自販機の前を二人で確認する。落ちているハンカチも、わざわざ拾う必要はあるまい。
「どうして、殴らなかったの」
一息ついて、僕が九沙吹さんに別れを告げようと思った時、不意に彼女はそう尋ねた。
「どうしてって、僕もてんてこまいで必死だったから、到底殴り返すなんて真似は——」
「どうして、逃げたの」
「に、逃げたって言われても。僕はなんとか防戦して注意を引いていたんじゃないか」
九沙吹さんは僕の内側を見るように、静かにその双眸を細めた。絡めとるようなじっとりとした視線に、僕は射竦められて動けない。長いまつ毛が一度羽ばたくと、彼女は僕に背を向けた。
「そう。あなたはそういう人なのね」
引き留める言葉も出る前に、九沙吹さんは、あっという間に歩みを進めていく。その背を追いかけていくなんて、今の僕には資格がないように思えた。彼女は僕を勇気がない男だと思ったのだろうか。歯牙にかけるにも値しない、弱い人間だと失望したのだろうか。
逃げた。確かに僕は、彼を殴ることから逃げたのかもしれない。一発殴れば、それで場は収まったのかもしれない。あんな一発くらい、誰だって正当だというだろう。彼もまた、自分のプライドのために、けがをしても、教師や親に告発はしないだろう。
でも、僕に彼を殴ることはできなかった。確かに、逃げた。それの何がいけないのだろう。僕は人を傷つけなかったのだ。もしそうしていれば、九沙吹さんが僕に振り向いてくれたとしても、僕は選択を後悔したりはしない。そんな大立ち回りは主人公のすることだ。僕がする必要はない。きっと、僕以外の誰かが、あのチンピラボクサーを撃退して、九沙吹さんのハートをゲットするのだ。別に、それで構わない。僕は恋愛をしたいわけでも、ヒーローになりたいわけでもないのだから。
それでも、九沙吹さんの静かで冷たい言葉は、僕の心に茨のように絡みつくのだった。
*************
いわゆる半ドンという午前登校にもかかわらず、入学式後に二つも授業を受けさせられた僕たちは、いつもより遅く感じる昼休憩に入った。終礼はすでに終わったから、実際は放課後だが、家の近い生徒や付き合いの悪い生徒以外は、たいていお昼を食べてから帰宅する。さらに言えば、ほとんどの生徒はこれから部活に行くため、夕方近くまで学校に残ることになる。
「ここが勇者の居城ですかっ」
「おお、そうとも。ここが、我らがミス研の部室だ!」
「ぼろいですねっ」
何にでも目を輝かせるのかと思っていたエトソンの辛らつな言葉に、僕は肩を落とす。せっかく乗ってやったらこうだ。まぁ実際、旧校舎の一室で、ほとんど物置のような隅の場所だから、エトソンの言っていることを否定はできない。
「おう、どうした秀一。ようやくお前もガールフレンドを見つけたか」
幸いにも、エトソンを持て囃すようなことはせず、いつも通りの軽口をたたいたのは、ミス研の同期である雁野康介だ。調子の良いところはあるが、基本的には僕と同じ事なかれ主義の人間である。
「勘弁してくれ、康介。これは子守みたいなもんだ」
「もしかして、ミス研入部希望だったり? この際、私は誰でもいいのだけれど」
教室の奥で弁当を広げて、ミス研の会長が上目遣いで僕を見た。眼鏡の奥の瞳は、期待するように見開かれている。
「まだ決めかねている。ほら、転入生がいただろう。そいつだ」
「あぁ~、なんだっけ。外国から来たみたいなね。なに、朝尾くんの知り合いだったの」
「まぁ、ちょっとな。それより、もしかしてまた廃部の圧でも受けたのか、紅那須」
ミステリ研究会の会長、紅那須偲歩は、困った様子で、日の丸弁当に視線を落とした。
「さすがに、そろそろなんか活動しろってどやされたんだよ。別にいいじゃんかなぁ」
「いいこたないだろうが、活動って言われても困るな。去年みたいなポスターでも作るか」
ミステリ研究会が、その名を冠することになったのは、部活に入りたくない僕たちが寄り集まって、適当にミステリ作家の考察をする眉唾のポスターを作成したことに由来する。ホラーや噂の好きな紅那須がでっち上げた考察は、何かしらの正鵠を射たらしく、県内のよく分からない団体に表彰され、僕たちは研究会として発足することに成功した。
だが、実際のところ、だらだらとホラー映画の話や校内のうわさ話を話すだけの自堕落な放課後を送っている僕たちは、部員を増やせるわけも、何か成果を出せるわけもなく、常に廃部の危機なのだ。教師陣は、重い腰を上げれば簡単にこの研究会を解体できるだろう。
「それより、いっそのことホラー同好会にしちゃうのはどう? 料理同好会だってさ、別に賞取ったりしてないじゃん?」
「どっちでもいいが、そうしたら廃墟に行かされるんじゃないのか」
「願ったり叶ったりじゃん。まずは学校の宿泊申請から取ろうぜっ」
「勘弁してくれ」
僕はだらだらと放課後を過ごす時間が好きなのだ。能動的に青春を送りたいわけではない。
「本当に朝尾くんって、運命嫌いよね。大丈夫よ、霊にしろ化け物にしろ、会ったら死んじゃうだけじゃない」
「死んだら大丈夫ではないな」
「アーサーが死んだら、困りますっ」
「なんかそう言われると怖ぇな。実際、七不思議とは言うけど、一つでも本物だったらおしまいじゃね」
変なところでニヒルな紅那須に感化されたのか、康太もやけに弱腰だ。七不思議なんて全部でっち上げなんだから、本物なんて出会うはずもないというのに、杞憂が過ぎる。
「七不思議、というのは何のことですか?」
異世界には学校の怪談がないのか、エトソンが不思議そうに首をかしげる。僕が長話の予感に前髪を重力に預けると、紅那須が勢い良く立ち上がった。
「聞かれたならば答えてあげましょうっ! ホラーと言えば私、怪談と言えば私の大好物。紅那須偲歩の七不思議解説のお時間よっ」
「あっ、そういえば、自己紹介。俺は雁野康介、よろしくな」
「はいっ、私はエトソン・プルルライナですっ」
「あら、本当に外国っぽい名前。北国っぽいかしら」
「七不思議の続きはいいのか」
話し始めるかと思いきや、自己紹介で話の腰が砕けるあたり、ミス研クオリティだ。紅那須は意気込んだ割に、あっさりと椅子に座り直す。エトソンが弁当の風呂敷を広げ始めるのを見て、紅那須はひょいと一口、自分の弁当を食べてから話し始めた。
「冥加学園七不思議、花子ベトベン段数金次郎はベタとして、後の三つはオリジナルなのよねぇ」
「端折りすぎだろ。というか、音楽室の怪は、略称ベトベンなのかよ」
「だってほら、ベトベンの肖像画の目が光るんでしょ?」
「ベートーベンのことをそんな風に略す奴はいない」
エトソンは、知らない偉人の名前をうまく聞き流して、叶夢特製のお弁当に舌鼓を打っている。おいしそうに目を輝かせながら、なんとなく相槌をするあたり、帯番組のタレントに向いているかもしれない。
「とにかく、冥加学園の七不思議の肝は三つなの。
まずひと~つ。『夕暮れ時の呻き声』ね。これは、運動部なんかが噂しているやつ。放課後、旧校舎の方から変な呻き声が聞こえてくるんだって。それも、押し殺すような声なんだけど、人間というより獣みたいだってハナシ———」
「それ、校舎裏でセ———」
「はい二つ目ね。二つ目はぁ、この学校の地下には戦時中の研究施設があって、そこで秘密裏に実験が行われているってハナシ」
いつも通りではあるが、声をひそめて怖さを演出しようとする紅那須に、僕もいつも通りため息をつく。
「なんか急に話のテイストが違うな」
「そこがリアルさなんでしょうよっ。そうやってさ、七不思議ってことにしておけば、秘密を知った者を闇に葬りやすくなる……みたいな」
「うちの学園も、さすがにそこまでは怖くないだろ」
「それで、三つめはなんだっけ」
康介が紅那須の機嫌を取るために話を促す。会長はたっぷりと息を吸って胸を張ると、満面の笑みで続けた。
「最後は何といってもこれ、『鏡の異世界』!」
「異世界、ですか?」
エトソンが、自分のことかと勘違いして聞き返すと、満足げに紅那須は頷いた。紅那須は七不思議の中でも、特にこの話をするのが好きだ。
「そう、深夜0時、校舎の鏡をのぞいたら、別の世界につながっているってウワサ……!」
エトソンが僕の方を見て、自分とは関係ないとばかりに首を振った。そんなことは分かっている。
「相変わらず、その話好きだな、紅那須は」
「当然でしょ? だって夢があるじゃない。深夜の学校で、突然チャイムの音が聞こえたと思ったら、こことは違う別の世界に……なんて、運命的で一度は体験してみたいじゃない」
「なんで生還できるつもりなんだよ。異世界なんて、ロクなところじゃないだろうに」
エトソンが、そんなことはないと言いたげに首を振る。お前の国のことは知らないが。
「だって実際、この話は生還したって人がいるんだもの。入院したとか、退学したとかで、実際のところは分からないのだけれど。この話に、異世界に行けるのは朝方だとか、鏡じゃなくてトイレの個室から入れるとか、そういうバリエーションが多いのは、真実を隠すために、生徒会がデマを流してるからって言われてるし」
「どの筋の情報だそれ」
知り合いの生徒会の人間を思い浮かべても、そんなことに労力を割いているようには思えない。まぁ、クラスメイトの彼が、そこまで仕事をしていないだけかもしれないが。
「信頼できる筋よ。どうせ何か実績を残さないといけないなら、異世界に行ってレポートでも書きたいわよね」
「勘弁してくれ。夜の学校もそうだが、異世界なんて気軽にいくものじゃないだろう」
エトソンは、僕の愚痴を都合よく捉えたのか、気にする風もなく弁当を頬張っている。
「おっ、出た出た。秀一の運命嫌い」
「相変わらず頑固ねぇ。そんなんじゃあ、VHSも借りられないんじゃない」
「だれが今時そんなものを借りるんだ」
今は無き黒い情報集積体に思いを馳せる。別に、僕は運命を恐れて何もできないわけじゃあない。なんとなく嫌な予感がするから、言ってしまえば、第六感が運命を予感するから回避しているだけなのだ。
「そうだわ、運命と言えば、駅前のショッピングセンターに占いの店ができたそうよ」
「あ、俺も聞いたわ。なんかめっちゃ当たるって噂の奴」
「占いですか」
エトソンも少し興味あり気に顔を上げた。異世界でも占い師はいるのだろう。そっちの世界の方が、何かしらすごい力で予知してくれそうな気もする。
「タロット占い、だったかしら。ともかく、ちょっと変わっているけどよく当たるって噂を聞いたの」
僕は箸をしまいながら、なんとなく嫌な予感を紅那須の語尾に覚えた。次に続く言葉を、第六感が教えてくれるようだ。
「せっかくだし、行ってみない? 混んでいたら、入れないかもだけど」
「おっいいじゃん。俺も行ってみたかったんだよな」
「占い師……実は私も一度占っていただきたいと思っていたのです」
「勘弁してくれ。俺は行きたくないからな」
言葉の上では否定してみたが、康介も紅那須も、僕が意見を折ると確信しているように、沈黙が部室を満たしている。椅子の足が床を擦れて、エトソンが僕の方を向いた。
「………分かったよ。どうせ、占いなんて当たるわけがないんだから、金の無駄だと思うがな」
「ほんっとに強情ね。まぁいいでしょう。これもミス研の活動の一環よ。占いが当たるか検証してみたってことにでもしましょうか」
「なんかユーチューバ―みたいだな。ま、いいけど」
「アーサー、ゆーちゅーばーとは何ですか?」
「後で教えるから、さっさと準備しろ」
*************
冥加学園から、市内を走る私鉄に乗って一駅。学園と団地のある中心街から少し離れた繁華街に、そのショッピングセンターはある。半ば駅と連結した巨大な商業施設は、学生も大人たちも、昼の退屈を埋める場所としてはこれ以上ない場所だ。求めるものがすべてあるとまで言われているが、その風説もあながち間違いではないだろう。
「えっと、この角で合ってるわよね」
「さっきも通らなかったか」
「あったあった、この先だわ」
駐車場側の入り口からすぐだと歩いていたものの、少し複雑な店内の構造に翻弄され、CDショップと百円均一店の間で迷い続け、何度も書店の前に帰ってきてしまっていた。トイレにつながっていると勘違いしていた、少し狭い通路を通って、なんとか占い屋が看板を出している、施設の果てにやってきた。
店の前には陰気な色のカーテンが垂れ下がり、インモラルな雰囲気を醸している。いかにもスピリチュアルな力が得られそうだ。店の入り口には、行列ができる日もあるのだろう、背もたれのない椅子が数脚置かれているが、今日は空いているらしい。
「それでは、準備が整いましたので、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
とりあえず入ってみようかと、少しの緊張と共にカーテンに手をかけたところで、中から声がした。どうやら先客がいたらしい。
「名前かぁ。最近養子に入ったんだけど、まぁ戸籍上は変わってないからいっか。青枝桧紀、みずがめ座の二十八歳だよ」
カーテンは厭世的な雰囲気こそ感じるが、遮音性は無いらしい。個人情報が漏れ聞こえ、僕はそそくさと入り口から離れることにした。三人は暇つぶしに近くの店を物色していた。これでは僕が占いに乗り気みたいじゃないか。ただ早く終わらせたいというだけなのに。
「中、人が入ってる。私の連れなの」
突然声を掛けられ、僕は慌てて振り返った。つい先ほどまで誰もいなかった待ち列の椅子に、ターバンのような布を被った女性が座っている。年齢は相田さんよりも若いくらいか。盗み聞きした幕内の声につられて、二十代に見えてくる。占いの店の前だというのに、水晶玉を腿の上で擦りながら、俯いている。
「あ、ああ。申し訳ない。気が付かなくて」
「私も、油断して少し離れていたから」
街中ではぎりぎり浮かないくらいの変な人だ。どこで買っているのか、民族風の古着にも見える織物衣装を見ながら、僕はそっと椅子に座る。待ち列なのだから、真横に座るべきなのだろうが、少し警戒と不安から、一つ離れた席に腰を落ち着けた。
「あなた」
「……僕のことか?」
呟くような声に、思わず反応してしまう。こういう手合いの人は、独り言の場合もあるのに迂闊だった。しかし、どうやら本当に僕のことのようで、彼女は僕の方に顔を向ける。
「あなたは、この店に来るべきではなかった。モニも、そう言っている」
モニ? いやそれより、ここに来るべきでは無いとはどういうことだ。やっぱり、その水晶玉は何かの占い道具なのか。この店の商売敵で、直接的な営業妨害でもしようというのだろうか。
「この店の占いは、よく当たるよ。でもそれは、当たることしか見えないから。あなたには可能性があるのに、占いで未来を狭めるなんてもったいない。モニも、そう言っている」
「別に、当たるならそれでいいんじゃないか」
それは本心というわけではなかったが、純粋な疑問として口から転び出た。僕が運命というやつを嫌いな理由は、彼女の言うように、未来を決められているように感じるからだ。だが、それは本来、普通の人間にとっては良いことのはずだ。アタリが決まっているヤマなら買えばよい。ハズレが決まっているなら貯めればよい。未来を知っていることほど、人生におけるアドバンテージはない。
「決められていない未来にこそ、人生の本当の価値がある。あなたは、そう思わないの」
僕は返答を飲み込んだ。はいと答えることも、いいえと答えることも、自分に正直ではない気がしたからだ。決められた未来なんて最悪だ。心からそう思う。だけど、不確定な未来が至高だというのは極論が過ぎる。僕は刹那主義を信奉しているわけではない。
僕とターバンの女の間に、重い沈黙が流れる。占い屋の薄い壁の向こうから、カードを切る紙の音が聞こえてくる。カーテンも薄ければ、壁も薄いらしい。
「それでは、こちらの三枚が、向かって右からあなたの過去、現在、未来を示しています。どちらからお引きになっても構いません」
年季の入った占い師の声が静かに告げる。
「うーん、それじゃあ、当たっているか信用のために、過去から開けてみようかな」
明朗な男の声の後、一枚カードがめくられる。部屋の中でも、小さな沈黙が生まれた。
「そちらは、死神の正位置。あなたは、死にました」
人生ゲームなら最悪のマスだが、人生を示す占いなら、もっと最悪だ。占いとは、そういう直接的なことではない気もするが、よく当たると噂の占い師の言葉に、男も試すような調子を崩さない。
「それじゃあ、現在。これは今の仕事のことになるのかな」
一枚、カードを裏返す音が聞こえ、再び静寂が二人の間に満ちている。静謐な空気を、占い師の声が裂いた。
「そちらは、死神の正位置。あなたは、死にます」
スマホの通知に出てきたら最悪の連絡だが、人生を表す占いなら絶望的な結果だ。タロットカード占いに、同じカードが出てきていいのか僕は詳しくないが、ババ抜きのように二枚そろっても捨てられるわけではないはずだ。
「………なるほど。それじゃあ、最後の一枚も引いてしまおうか。うん、ここまで来たら怖いものはないね」
カードが静かに裏返される音が、かすかに壁越しに聞こえた。男は息を乱すことも、机をひっくり返すこともなく、落ち着いたままでいる。
「あなたの未来を示すのは、死神の正位置。あなたは死ぬでしょう」
スロットなら大当たりかもしれないが、自分の人生を占った結果なら八方塞がりだ。そもそも、人はいずれ死ぬとは言え、正面から突き付けられては心地も悪いだろう。
「あなたが思うより、運命は確定的なものではない」
連れ合いの占い結果を盗み聞いていた僕を咎めるように、少し不機嫌そうに女は呟いた。足の間に置かれた水晶玉は、仄かに光っているように見えた。スノードームのように、球形の中で白いもやが巡っている。
「生は、死への抗い。人は常に、死という運命に抗っている。そう、モニも言っている」
「大仰な言い方だな。人間なんて、ほとんどが惰性に任せているにすぎない。運命なんてものがあると知れば、それに身を委ねるほうが普通だ」
ターバンの女は、何か言おうとして僕を一瞥したが、結局何も言わずに顔を背けた。彼女が水晶玉を両手で持ち上げると、音もなく球状の内部が暗く曇った。彼女が立ち上がったのとほぼ同時に、カーテンを手でよけて、一人の青年が顔を出した。
「ごめん、ボリス。しばらくは、仕事しないほうがよさそうだ。聞いてくれよ、タロットカードを三枚も引いたのに、全部同じだったんだ。きちんとシャッフルできてなかったんじゃないかな」
「どんな結果でも気にしないと言ったのは、ヒノキの方。怖気づくなら、もっときちんと止めればよかった」
「まぁ、そう言わずにさ。たまにはお休みも良いじゃん?」
ヒノキと呼ばれた好青年は、爽やかにさらけ出された両目で、僕を見ると、目を丸くという表現がまさに正しい表情で、両手を軽く広げた。
「おっと、次のお客さんが待っていたんだね。ごめんよ、少年」
青年は笑顔で僕に手を差し出してくる。明るい態度とフレンドリーな口調は、どこでも人気者になれそうな容姿と相まって眩しい。でも占いでは死神を出されているんだよな、とお節介な感情が湧いて、僕は怪しみながらも彼の手を取って立ち上がった。がっしりと力強く手を掴まれ、安定して僕は立ち上がる。
「それほど待ってはいない。気にしないでくれ」
「おっけい。それじゃあ、気にしない。君も、占いを楽しんでね。なんなら、君の結果を聞いてから帰ろうかな。盗み聞きのお返しに、さ」
「そんなことしても、きっと退屈なだけだ。あんたの期待を超えるようなことは、何も起きないさ」
「それは残念」
表情豊かにゆらゆらと顔を動かした青年は、くるくると軽快な足取りで回りながら去っていく。ターバンの女は、不機嫌そうに彼を見つめながら後を追う。
「ヒノキ」
「言ったろ。しばらく、仕事をするつもりはない。それじゃあ、少年。またどこかで!」
手を軽く上げて挨拶をした青年を一瞥して、僕は彼に背を向ける。冥加市はそう広くもないが、そうそう同じ他人と二度は会わないだろう。袖擦れ合う他生の縁と言ったって、あっという間に終わるのが一期一会というものだ。そんなものに一々執着することもない。
そういえば、と振り返ったが、エトソンもミス研の二人も、さっきまでそこにいた青年と女も、誰も見える範囲にはいなくなっていた。
「エトソン、紅那須、康介! 近くにいるだろ。もう入るぞ」
ため息をついて、占い屋のカーテンの方に体を戻すと、カーテンの隙間から、頭を落とすマジックのように滑らかに、老婆が姿を現した。先ほどのターバンの女とは違い、薄い羽衣のような布を何枚も被り、クラゲのように顔だけで揺蕩っているようだ。
「うおわぁっ!!」
「どうぞ、お入りください」
驚く僕を置いて、占い師は店の中に消えていく。僕はもう一度、友人たちがいないかを振り返ってみたが、やはり誰もいない。見えない誰かに手を引かれるように、僕は彼らを探しに行くこともなく、渋々カーテンをくぐった。
手触りの滑らかな薄膜の奥は、雰囲気作りのためか、はたまた本当に何か呪術の準備なのか、キャンドルの光に照らされている。バレリーナの衣装のように、幾層もの薄いレースが壁から垂れ、複合商業施設の一室とは思えない怪しさを放っている。何か香が焚かれているのか、畳のような穏やかで少しツンとした匂いが漂っている。
「そちら、おかけください」
占い師というより魔術師に見えてくる老婆に促され、僕は彼女の向かいの席に座る。机には深海のような色のクロスが敷かれている。薄い大理石のトレイの上に、目算で60枚ほどのカードが積み重ねられている。タロットカードの中でも、小アルカナだろうか。漏れ聞こえていた声は大アルカナで占っていた気もするが、人によってスタイルを変えても不思議ではない。
カードの山から視線を戻すと、僕は穏やかな老婆の視線に気が付く。吸い込まれるような細い双眸の奥の瞳に、鼓動が早鐘を打つ。自分の吸った息が、気道に降りず、頚椎から抜けて行ってしまうようだ。不意に鼻先を触れられた感覚に、ぼやけた視界がまっすぐ定まると、その冷たさが老婆の吐いた長い吐息だと分かる。
占い師は、狩人のようにゆっくりとカードの山を手に取ると、シャッフルすることもなく、二人の間に広げた。緩慢な動きの割に、カジノのディーラーのように美しくカードは弧を描いて並んだ。星空のような裏面の黒さは、まだ確定していない未来を思わせる。
「一枚、お選びください。その選択で、あなた様の前に広がる運命が姿を現すでしょう」
「えっと、その、お代とかは——」
僕の口にした凡庸な逃避の言葉を不要と切り捨てるように、老婆は虚空を見つめている。その焦点はすでに、並べられたタロットでも、占われる僕でもない、もっと向こう側を見ている気がした。
正直、商業施設に出店するくらいだからしょうもない占いだろうと思っていたし、先客の結果も馬鹿らしいと思っていたが、いざ面すると、おかしな宗教に魅入られる人がいることにも納得してしまう。老婆の真剣な表情と、この空間の艶美な魅力によって、僕の保とうとする正気はもはや場違いに思われ、トランス状態に体の外側から浸食されていくようだ。
「くっ———」
僕は、意を決して、手を伸ばす。この結果が死神で、「死にます」なんて無責任なことを言われたとしても恨むまい。認めよう、この占い師のエンターテイメント精神は本物だ。
僕は今、運命がどうのなんてことは忘れ、この占いという体験を楽しもうとしている。ただ一枚のカードをめくるという作業に、人生がかかっているようなスリルと期待を込めている。
僕が選ぶカードは、決めている。目の前の数多広がる選択肢。運命というものが、そしてそれに選ばれる主人公というやつが、僕は大嫌いだ。だが、同時にこうも思っている。僕は、主人公たる人間であると。この人生において、この世界において、僕は必ず主人公になる。そう確信しているからこそ、そう未来を予感しているからこそ、僕は運命を恐れている。
占いとは、運命を映す行為だ。それに、手を伸ばす。逃げたい。変なカードをめくったり、立ち上がって大声で叫んだりしたい。だが、この至高の体験の前に、僕は自分の道を進みたくなってしまっている。
まっすぐに、一列に並んだカードの中央の一枚に、手を伸ばす。磁力があるかのように、中心の一枚が分かる。僕が選ぶべきその運命が分かる。
「これ、はっ———!」
そのカードに触れた瞬間、重力が何倍にも強くなったように感じた。刹那、無意識に遮断されていた世界の情報が解放されたように、視界に入る全てに焦点が分散していく。そして、気が付く。占い師は、今、運命を見ているのではないッ! 運命に見られているのだッ!!
「うおおおおおおっ————!」
一枚のカードとは思えない重圧を振り切って、カードを高く持ち上げる。投網で大量の魚がかかったような手ごたえ。テーブルからカードがゆっくりと持ち上がっていくにつれ、その左右もふわりと浮き上がる。僕が右手を中空に浮かべた時、ドミノが倒れるように両端まですべてのカードが裏返った。表面の柄はすべて違う。正位置で僕を眺める右側と、逆位置で嘲るように僕を見る左側は鏡写しの運命だ。
催眠が解けたように、占い師が大きく目を見開く。かと思うと、しわがれた細い指を胸に当て、声にならない息を漏らす。眼球は今にも飛び出しそうに膨らみ、顔中の血管が膨張したように筋が浮かび上がっている。
「がっ、ごほっ———」
「お、おい、占い師ッ、何をしているッ!」
老婆は、今にも嘔吐しそうに体を曲げながら立ち上がると、背面の壁によろめいた。壁に背をぶつけた衝撃で、彼女の口から何かが飛び出す。しわくちゃになっているが、不思議と乾いたそれは、タロットカードのようだった。占い師の口から袖から襟元から、滝のようにカードが吐き出される。
「ぐえぁぁぁぁぁっ!!!」
まるで抜毛症のように、占い師の体のいたるところから、タロットカードが生え落ちていく。絵柄の違うタロットカードが、マジックみたいに溢れ出し続ける。
「な、何をしているッ———!!」
僕は、列の中央にあった一枚のカードを裏向きでつまんだまま、占い師がタロットカードを吐き出すさまを呆然と眺めるほかにない。何か僕にできることがあるというのか。それとも、これが僕の運命だというのか。
「う、御仁———」
占い師が、くしゃくしゃのタロットカードを唾のように吐き捨ててから、満身創痍の掠れた声で呟いた。僕は固まったまま、小さく頷いた。遺言を託されるつもりで、耳を傾ける。
「——錯綜した運命を歩む御仁。あなたは、その運命の先で、掴み取ったすべてを奪われ、与えられたすべてを失うでしょう」
震える手を伸ばしながら告げられたそれは、占いの結果だった。僕の未来を彼女は予言した。そうはっきりと理解できた。言葉の意味は、まだ分からない。けれど、それは僕の運命を、物語を示しているのだろう。
本当の自分を鏡で見るように、恐る恐る、掴み取ったカードを表に向ける。稲妻の走る一本の石柱、いや、これは塔か。
「そのカードは、塔の正位置。あなたを待ち受ける試練を示しています。あなたをいかなる試練が待ち受けるか、老いた目には数えきれず。わたくしでは、語る言葉を持ち得ません」
力の抜けた指先から、塔を示すカードが落ちた。
「力及ばずのこの身。本日、お代はいただきません。どうか、その道に祝福があらんことを願います」
意味もなく手を握っては開く。指先に上手く力が入らない。運命から逃げるための強がりも、物語に背を向けるための詭弁も、今は言葉にならない。ただ目の前に広がるのは暗闇だ。それは人生の終わりに他ならない。
何も選ばなかった未来という暗黒。高校生活が終われば、普通に大学に行って、どこかの会社に就職して、蝋燭が溶け落ちる日を待つだけの毎日。それは実に凡庸だ。けれど、あまりにも僕には手の届かない彼方にあるらしい。
自分の求める平穏は、机を埋め尽くすタロットカードの下に隠されてしまっている。数えきれないほどの障害がある人生だ。だが、僕が立っている場所は、まだスタート地点でしかないのかもしれない。両親の死も、失った片目も、癒えない額の傷も、苦しい過去の全ても、布石にも満たない未来が大口を開いている。
「……関係ないね」
気の抜けていた神経を改めて張り詰めさせる。爪が手のひらに食い込んで痛いほどに、強く手を握りしめる。僕は占い師に背を向けて、薄暗い部屋を出た。後方で重たい緞帳のようなカーテンが閉まる音がした。
占いがなんだ。僕の前に運命が横たわっていることなんて、分かり切っていたことじゃないか。今更それが分かったところで、怖気づいてやる必要はない。僕は、僕の信じるほうへ進む。運命が障害となるなら、捻じ曲げてでも突き進んでやる。僕の人生の終わりを決めるのは、運命でも、物語でもない。僕自身の意志だ。
「あ~、朝尾君。ごめんね、久しぶりに来たら店が入れ替わりまくりで、めちゃくちゃ迷っちゃって」
走り寄ってきた紅那須を一瞥すると、彼女は眉をひそめて占い屋と腕時計を交互に見比べる。
「あちゃ、もう営業終了だったのかしら。まぁ、もう16時だものね」
僕はポケットからスマートフォンを取り出して、時間を確認する。学校を出たのが13時過ぎだった気がする。二人組の占いを待って、僕が占いを受けて、それでも一時間ほどの体感だったが、いつの間にかもう夕暮れ時らしい。
「康介のいるところはなんとなく予想つくけど、エトソンちゃんどこにいるかわかる?」
紅那須の出した名前に、僕はようやく現実に意識が追い付いた感覚を得た。張り詰めていた緊張が、ため息となって体から流れ出す。たっぷりと息を吐いてから、僕は呟いた。
「分かるわけないだろ」
幸いにも、外国雑貨を寄せ集めた店で目を輝かせていたエトソンを発見し、僕たちは帰ることにした。紅那須も康太も、占いに格別興味があったわけではないらしく、別日に行こうとは提案してこなかった。当然、僕もそれを掘り下げることはない。
最寄り駅の違う二人と別れ、エトソンと帰り道を共にする。すっかり辺りは夜が顔を出しつつある。橙が夜闇に浸食される薄青い空の下、涼しい風が頬を撫でた。
「アーサー、占いは残念でしたね」
「別に、気にしていないよ」
僕が占いを受けられなかったと思っているエトソンに、適当に話を合わせる。物珍しい品々を眺めて体力を使ったせいか、昨日よりも少し疲れた様子だ。もともと緩慢な集中力を、余計に分散させてフラフラと歩きながら、僕の少し前でエトソンは鼻歌を楽しんでいる。
「あの店、今度の休みにでもまた行こうか」
「いいのですかっ」
「ああ、今は制服があるからいいが、服は妹の物ではサイズが合わないだろうし、叶夢にでも見繕ってもらったらいい。金はまぁ、理事長にでも請求しておくよ」
エトソンは、気を許した猫のように近づいてくると、隣で歩調を合わせる。薄く落ちた影が覆った彼女の顔は、無理矢理に上げられた口角と反対に、その睫毛は朝露に濡れたように俯いている。
「アーサー、その、わた———!」
消え入るような彼女の声を遮るように耳に飛び込んできたのは、激しい擦過音だ。鼓膜が音を捉えた瞬間、ブレーキの音だと分かる。反射的にエトソンの肩を掴み、引き寄せながら来た道の方へ飛び下がる。目の前に伸びるまっすぐな道の視界は良好だ。音の聞こえた左方とは、直線の交差する十字路になっている。とっさに目をやると、夕闇で暗く陰った緑が一瞬見えたが、何が起こっているわけでも無さそうだ。
一、二歩後ずさって、危険がないことを確認できたとき、ゴム毬の跳ねる音に僕は視線を奪われた。青いボールが徐々に跳梁を弱め、最後には僕の足元に転がってくる。軽く足でトラップして、直線の先を見ると、屈んだ姿勢で小さな子供を後ろから抱きかかえる母親の姿があった。
ブレーキ音の元だろう、十字路にわずかに頭を出した大型トラックの運転手が、心配そうに僕を見ている。小さく頷くと、運転手は右方を確認してからトラックを発進させた。緑の茂る公園から、親子が歩いてきたのを見て、僕は優しくボールを蹴り転がした。
「あ、あの、アーサー。その、手が……」
申し訳なさそうなエトソンの声に、慌てて彼女の方を見ると、咄嗟のことだったせいで配慮が至らず、左腕で抱き寄せるような形になってしまっていた。こんなところ、叶夢に見られたらまた大目玉だ。
「す、すまない、エトソン。痛かったか」
「い、いえ、私は大丈夫です。でも、その、アーサー。手が……手が、震えています」
エトソンの言葉に、痙攣するように動き続ける左腕を僕は見下ろす。右腕は麻痺したように冷たくなり、動いてくれない。
「大丈夫だよ。いつものことだから」
そう、いつものことだ。両親が交通事故で無くなって以来、急ブレーキの音を聞くと、全身が強張るような緊張感に襲われる。トラウマ、と呼ぶべきなのだろうか。実際のところ、親が事故に遭った日のことは、もうほとんど覚えていない。けれど、その時の何かが、酷くブレーキの音と重なって、僕の心に毒を放つのだ。けたたましいブレーキの音は、僕の間違いの音だ。僕が人生で最初に、大切なものを失った時の音なのだ。
慇懃に頭を下げる母親に、何とか左手を上げて示す。手を降ろしながら、帰り道に戻ろうとすると、エトソンがその手を取った。冷たくなっていた指先が、彼女の小さな手のひらに包まれ、生命の暖かさを伝えた。
エトソンは、何かを語ることはなかった。ただ、小さな二つの手で、僕の震える手を握ってくれていた。ゆっくりと夜に染まっていく空を、暗くならないうちに僕たちは家にたどり着く。
「エトソン、もう大丈夫だから」
「い、いえ! 今日は、アーサーが落ち着くまでご一緒しますっ」
「これからずっとその調子だと困るんだ、主に叶夢に怒られるという意味でっ」
僕が少し語気を強めると、エトソンはしゅんとした様子で、長い瞬きをする。仄かに赤く光っていた瞳の色が消えていく。エトソンは、ようやく僕の手を解放すると、太ももに巻き付いた聖剣を、触れないくらいの距離で撫でた。
「マクルワリオンっ、アーサーをお願いしますっ」
「なんでもいいが、さっさと風呂に入って寝るぞ。もう一人で入れるな」
とぼけた様子で僕を見上げるエトソンの頬を軽くつねる。
「一人で入れるな」
「は、はひれますぅ」
まったく、入れるなら入れるとさっさと言え。なんだか、親戚の子供というより妹みたいだと思ってしまうのは、妹の部屋に住まわせたからなのだろうか。
相田さんがきれいにしてくれた浴槽に、栓をして湯を入れ始める。半刻もしないうちに沸いた風呂に、エトソンを追いやる。エトソンを先に入らせるのは、僕が上がった後すぐに寝たいからだ。勝手に長風呂をされて、溺れられても困る。
自室に戻って、明日の準備をしていると、背後に小さな気配を感じる。
「昨日は取り乱していたみたいだけど、今日はずいぶんと落ち着いたようだね。世界のために、運命を受け入れる覚悟ができたのかな」
「僕は、運命なんて信じないし、誰かのためになんて大義名分で生きているわけでもない」
振り返ると、少年、フラテルニテが薄く笑みを浮かべながら立っている。
「占い師も言っていただろう? 試練が訪れる、と。君が逃げるのは勝手だろうね。だけれどさ、君が逃げて傷つくのは誰だと思う。君は、君以外の人たちが目の前で傷ついていくのを、自分のせいじゃないと言い訳するつもりかい。良い身分じゃないか。君は死なないんだからね。だって、君は主人こ———」
適当な言葉を並べて煽ってくるフラテルニテに、僕は聖剣を間近に向けた。蛇のように巻き付いていた聖剣は、柄を握れば、たちまちに収まりの良い武器となる。彼はおどけた表情で、両手を上げた。
「おっと、僕は真実を言っているだけだ。君だって、占いを聞いて分かったはずだ。君の言う日常は、モラトリアムにすぎない。いずれ、決断する日が来る。僕は親切で教えてあげているんだ。もう君の物語は始まっているんだ、とね」
言いたいだけ言い残して、フラテルニテは靄のように消えてしまう。釈然としない気持ちを吐き捨てることもできず、とりあえず聖剣を観葉植物の鉢植えに突き刺した。
物語とは、僕の人生だ。それは当然、この十余年の身と共に進んでいることだろう。
占いといい、意味深長なことばかりを残して、誰も彼も身勝手なものだ。僕の人生の選択は、決定は、僕がするのだ。たとえそれが、正しいことでなくても、それが自分の人生だと言えるように。
日常はいつまでも続かない。長く感じられる高校生活が、誰にとっても等しく三年間でしかないように、この平穏にも限りがある。そんなことは分かっているのに、どうしたって僕はまだ、運命というやつを直視できないでいるのだった。
次回1-3『夕暮れの原風景』
平凡を嘯く少年、朝尾秀一。始まった彼の学園生活は、荒波しか立たない毎日だ。
そんな日常の起伏をを心拍のように跳ね上げたのは、橙の異世界であった————。
「———そうね。でも、まずは一つ、命を救ったことを喜びましょう」




