1-1 鉢植えの聖剣
人は皆、夢を見る。小さいものから、途方もないものまで、学生ならばなおさらのことだ。
僕は今、夢を見ている。それは子供のころからずっと見ている夢だ。
目が覚めればすぐに忘れてしまって、決まって粘っこい不快感を残して忘れていく、いつも通りの夢。毎日を生きている中で、僕がこの夢を思い出すことはないし、誰かにこの夢を話したこともない。だけれど確かに、僕は夢で目を覚ますといつも同じ風景だ。むしろ、その風景を見ることが、僕にとって、夢の世界の始まりだと言える。
眼前には、白い壁がそびえたっている。僕の背よりも高く、よじ登れそうにはない。左右は果てしなく長い。夢の中だから、無限に続いていてもおかしくはないだろう。その壁はおそらく固く、けれど多分、僕が本気を出せば壊すことができるだろう。強度について憶測しか語ることができないのは、僕が一度もこの壁に触れたことがないからだ。
僕は壁の前で座り込んでいる。額の傷を隠すために伸ばしている前髪が、俯くと優しく世界から僕を守った。僕はずっとそうして座ったままでいる。壁の向こうから聞こえる声から意識を逸らすために、壁と真っ黒な地面の境目を見つめている。
「たすけて……シュウちゃん……」
か細い声は僕を呼ぶ。今にも息絶えそうな、何かに襲われているような苦しみに喘ぐような声だ。しかし僕は声に耳を貸さずに目を閉じる。夢の暗闇よりも真っ黒な影が視界を覆った。
断っておくが、僕こと朝尾秀一は、決して冷血漢ではないし、壁の向こうにいる誰かが死んでしまえばいいと思っているわけでもない。この声が僕にとって何の意味もない、風のそよぐ音や、水の流れる音と変わらないと知っているだけなのだ。
事実として、この夢の中で、この声が何か別の、例えばもっと深刻な悲鳴や、声の主を襲うナニカの声に変わったことは一度もない。かくれんぼで体のはみ出した子供のように、この声は、自分が助けを求めている風を装えていると思っているだけなのだ。あるいは僕が、ただの自然音をそんな風に聞いてしまっているだけなのかもしれない。
「たすけて、たすけてよ」
言ってしまえば、僕は逃げているのだろう。壁の向こうの真相を、罠だとしても確かめることもせず、こうして座り込んだまま夢が覚めるのを待っている。自分で分かっていても、いや、分かっているからこそ、僕は決して立ち上がらない。僕は誰かのヒーローになんて、物語の主人公になんてなりたくないのだ。
人生とは一つの劇だとある者は言った。我々は一つの劇を演じているに過ぎない。それは人によって、あるいはその日によって、喜劇であったり悲劇であったりする。きっと、人間よりも上位の存在がいて、菓子でも食らいながら、滑稽な僕たちを笑っているのだろう。
あらゆる人生は、つまるところ、そうした物語の一部であり、裏返せば、あらゆる物語とは誰かの人生だ。物語は必ずしも主人公としてではなく、誰かの物語の脇役として、あるいはもっと端役としてしか演じることしかできない。
自分は自分の人生の主人公だ、なんて慰めの言葉は、誰もが次第に、現実に打ちのめされて興味を無くしていく。そんな物語は、信じたところで面白くないのだから。
ずっと昔、まだ幼い頃の僕は、漠然とヒーローというやつに憧れていた。世界を救うヒーロー、あるいは魔物を倒す勇者。幼年校の学舎には、知らない誰かが寄贈した本がたくさん置いてあって、夢を見るのには困らなかった。漢字を覚えたのは探偵小説のおかげで、中学の時にはライトノベルに傾倒して、甘酸っぱい青春や摩訶不思議で刺激的な高校生活を夢見ていた。
思えばずっと、僕は主人公になりたかったのだ。日々を過ごす中で、漫然と、僕は主人公になるのだと、そう思っていた。振り返ってみれば、それは健全な思春期というやつで、僕だけではなく、ほとんどの人間がそんな青臭いことを考えるのだろう。
けれど、ある日、僕は気が付いた。
主人公というものは、一つの物語の中で終わりを迎える。ヒーローは世界を救い、人々に感謝された後は、時々善を成しながら、静かに余生を過ごしていく。勇者は民衆に讃えられ、伝説となって姿を消していく。名探偵は最後の謎に挑戦し、宿敵の魔の手に落ちるも生還し、密かに探偵業を続けていく。恋愛漫画の主人公は、想い人と結ばれて、日々を過ごすうちに社会の中に溶けていく。
それは、因果だ。ニュートンが、リンゴが落ちるのを見て重力を発見したように、僕は物語の持つその因果を理解してしまった。物語が始まったとき、すでに終わりは決まっている。その結末は読者を驚かせることはあっても、因果を裏切ることはない。
未来とは、可能性だ。未来が未知であるからこそ、人は夢を見ることができる。しかし、一度物語が始まれば、その可能性は極端に狭くなってしまう。その人間の持つ可能性は、物語の始まりと共に収斂されていく。この現代を生きる以上、どんな未来を描いても、最後には人間という生物としての役割を果たすことを使命だと思うようになってしまう。あるいはそれは、自覚的になっただけで、古来から人間という獣の運命なのだ。
僕はそのことに気が付いて以来、人生というヤツの始まりから逃げるようになった。誰かの人生が始まっていくのが怖かった。市外の高校を受験した友達がネイティブな英語を話し始めた時、ああ、きっと彼女は外国に留学するだろうと思った。クラブの大会で僕が負かした相手が、悔し涙の向こうで僕を鋭く睨んだ時、こいつはきっと、僕を一生恨むのだろうと思った。
だから僕は、主人公を夢見ることを止めたのだ。誰かに手を差し伸べることで、誰かに興味を持たれることで、僕の物語が始まらないように、逃げ続けている。主人公になった瞬間、この人生の最後が見えてしまうことが怖いから————。
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「————ちょっと、いい加減起きなさいっ! 聞こえているんでしょ、バカ秀一っ!」
重力が傾いていく。真っ暗な世界で三角座りしていたはずの僕は、気が付けばベッドで丸まっている。遠慮の欠片もない誰かの手が、僕を揺らしていた。
仕方なく、薄目を開いて、僕は声のする方に視線を向けた。そこには、すでに学生服に身を包んだ少女と、簡素なシャツとズボンの少年が立っていた。二人して僕を見つめている。どうやら僕の部屋には、プライバシーとかセキュリティとか、そういった概念が希薄なようだ。
「やぁ、ようやく目を覚ましたんだね。具合はどうだい」
「もう、やっと起きた。早くしないと、新学期早々寝坊しちゃうよ」
僕は一度顔を俯かせて、左目の前にかかった髪を耳に寄せた。片目で改めて顔を上げても、やはり状況に変わりはない。活発そうなミディアムヘアの少女と、素直なキッズカットの少年が、目の前にいる。
「誰だ、お前は……?」
混濁した頭では上手く理解できず、そんな言葉がこぼれる。薄く笑みを浮かべた少年と、ふくれっ面の少女は、どちらも呆れ顔に変わる。なぜそんな顔をされなければならないのか。逆にお前たちは、この状況に何も思わないのだろうかとこちらが困惑してしまう。
「寝ぼけているんだったら、置いて行くからね。まったく、こんな美少女が起こしに来てあげたんだから、さっさと準備してよね」
鼻息を鳴らして部屋を去っていく少女の自己肯定感には感服するが、茶化すには整った容姿をしていたせいで、僕は返答に困ってしまう。少女の背が廊下に消えていった後で、僕は残る少年に視線を向ける。少年は肩をすくめた。
「彼女は、君の隣人で友人——ああ、幼馴染と言った方が、的確で良い表現だったかな。ともかく、遥原叶夢は、君にとってそういった存在の少女だけれど、本当に忘れてしまったのかい? 冗談にしたって、君の物語の一言目にしては、冴えていないようで少し心配だ」
不安定な記憶の輪郭が、だんだんと夢から現実に適合していく。
そう、彼女は遥原叶夢。幼いころから家族ぐるみの付き合いがある隣家の娘で、僕とは同級生にあたる。
そして、今日は高校二年生の初日、すなわち新学期の始まる日だ。小学校の時からそうであるように、高校生活における一日の始まりを告げに来たのだ。
「まぁ、過ぎたことを気にしても仕方がないか。それよりも、秀一。運命に向き合う覚悟はできたかい。君が覚悟していようとしていまいと、すぐに運命は君の前に現れ、君は試されることになる。僕には、それを予言することしかできない。だから、君には——」
「ちょっと、待ってくれないか」
僕は両手を開いて、少年の言葉を制止する。寝起きの頭で理解できる内容が続くとは思えなかった。ひとまず、思い通りに体が動いてくれているようで、僕が現実にいることは確かだと思う。
「なんだい。もしかして、僕のことも忘れてしまったなんて言わないだろうね」
ことも、というより、お前の方が分からないことだらけだ。しかし、なぜか自分の存在に対して自信のある様子の少年は、余裕そうに自己紹介を続けた。
「僕は、君の第六感。できれば、フラテルニテと呼んでほしい。それが僕に与えられた役割だからね。あはは、この挨拶もいつぶりだろうね。なんだか懐かしいよ」
両手で隠した指の隙間から、無情にも非現実な言葉が飛び出してくる。コードネームみたいな呼び名に、与えられた役割だって? 冗談ではない。一体全体、僕の人生で、何を始めようというのだ。
「まずは、ありがとう。忠告には感謝するよ。それと、丁寧な自己紹介にもね。だが、僕は運命というやつを信じていないし、そんな不確定なものに向き合うつもりはないね。僕は平凡で、ごく普通の高校生なんだ」
僕はきっと、何か精神障害にでもなってしまったのだろう。春休みというやつは学生を怠惰にする。新学期の始まりで憂鬱になって、存在しない友人の一人や二人、作り出してしまっても仕方あるまい。
日々生きている中で、どうしたって回避できない分岐点のようなものは、確かに存在している。例えば、道で猫が車に轢かれそうになっていたり、失くしものを探す人に声をかけられたりする時だ。
それは物語の始まりになり得ることで、当然僕にとっては関わり合いになりたくはない。しかし、それが自分に解決できるならば、その手が伸ばされているならば、僕は見捨てることができる性分ではない。改めて言うならば、僕は冷血漢ではないのだ。
そうして感謝されたり、密かな自己満足感を覚えたりした時、僕はすぐにそれを記憶から消すようにしている。固執するからこそ、他愛ないことがマイルストーンに変わってしまうのだ。どんな変わったことも、当たり前だと思えばそれは日常に埋もれていく。朝起きたら、奇妙な少年に不可思議な予言をされたというこの状況も、そういう冗談を言う子に絡まれたと思うことで、人生に不必要な波を立てることはないだろう。少なくとも、新学期の始まりに出会いを求めて挙動不審になることはない。
ブランケットを畳んで、少年を気にしないように僕は制服に着替える。奇異の視線で僕を見る彼に、僕はこれ以上喋らせないよう、軽くうなずきながら間を取って部屋から出た。彼がいったい誰なのか。親の隠し子か甥っ子か、その辺りだろうか、という考察も今は考えないようにして、僕は部屋に背を向ける。
階段を下りながら、簡単には忘れられない少年のことを考える。意味深な言葉を残す少年だったが、予定管理はきちんとしてほしいものだ。自分だけに見えている友達だとか、違う世界から来た生物だとか、受け入れるにしたって、そういうことはちゃんと一人になっている深夜や放課後に来るべきだ。朝なんかに来るから、叶夢とダブルブッキングになるのだ。冴えないのはお前の方だろうと、遅れて怒りが込み上げてくる。
「秀一さん、こちら朝食です」
「もう遅刻寸前なんだ。食べながら行けとでも言うのか」
「ええ、今日から新学期なのでしょう。良い運命との巡りあわせをお祈りしています」
玄関で、ハウスキーパーの相田さんからトーストを渡され、僕はため息をつく。食べ物を無駄にするわけにもいかず、仕方なく口にくわえて、僕は靴を履く。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃいませ」
余計なお世話だ、とは言えず、僕はトーストをくわえたまま家を出た。第一、トーストをくわえたまま登校して、角で誰かとぶつかるなんて展開がベタなのも、おかしな話だ。それに、新学期とはいえ、そういうのは新入生がやるものだと相場が決まっている。というか、男がトーストをくわえてどうする。
何も塗られていないトーストの、素朴な甘みを感じながら、念のためゆっくりと歩いて登校する。今日は部活の朝練もないはずだが、叶夢はすでに僕を置いて行ってしまったようで、家の前にはいなかった。
「大丈夫だよな」
すっかり疑心暗鬼になってしまった僕は、住宅街の十字路で一度立ち止まって角を覗き込んだ。トーストはすでに半分食べている。曲がった先には、誰もいない。
時間はかかるが、誰かにぶつかるくらいならこうして確かめて行った方がいい。遅刻するかもしれないが、背に腹は代えられない。角でぶつかった誰かに愛されるくらいなら、遅刻の一度くらい安いものだ。
長い前髪は、右方の安全確認には不向きだが、かといって右目を露出させるわけにもいかず、念に念を重ねて、耳を澄ませた後で一歩踏み出して確認する。三つの分かれ道を超えて、すでにこの無為な行為に疲弊しつつあったが、かといって、気の緩みでここまでの安全を無駄にしたくはない。僕は静かに目を閉じて、物音ひとつない閑静な住宅街で、また一つ十字路を超え————。
「きゃあっ!」 「どわぁっ!」
ゆっくりと目を開いて一歩踏み出した瞬間、警告灯のような赤い光が目の前をよぎったような気がして、身を強張らせた刹那、何もないはずの角から飛び出してきた誰かと、僕はぶつかってしまう。最後まで食べきると決めたトーストの欠片が、もう少しのところで、哀れにも宙を舞う。とっさに視界の端でとらえた相手は、抱えていた鉢植えのような茶色の何かを手から落とすところだった。無念なことに、後ろに体勢を崩しつつある僕では手が届きそうにない。
甲高い音を立てて相手の持っていた鉢植えが割れる音が、臀部から背中に走る尻もちの痛みに遅れて、住宅街に響きわたった。悲惨な音に、僕は運命がどうこう以前に、申し訳ない気持ちになる。久しぶりに触った、ざらりとしたアスファルトの感触を両手に感じながら立ち上がると、相手はまだ転んだ痛みに目をつぶって耐えているようだった。
僕はその相手を見て、すぐにこの場から逃げ去るべきだと思った。それは彼女が、そしてその荷物が、あまりにも非現実的な魅力を放っていたからである。それでも、彼女に手を差し伸べてしまったのは、きっとその非現実的な光景こそが、僕の日常に変わっていくのだと、そんな確信じみた予感を覚えてしまったからだった。
「ぶつかってすまない、大丈夫か」
「あ、ありがとうございます」
その少女は、見た目に反して流暢に日本語を話した。人形のように小さな顔と透き通るような白い肌、朝の陽はビロードのような美しい金髪を明るく照らしている。リレーで受け取ったバトンのように細い腕が、僕の手を取って、息を飲むほどに可憐な少女が立ち上がった。どこの国のものだろうか、白いカーテンのようなドレスは、彼女の気高さと良く似合っている。白い肌に映える青い瞳が、宝石のように僕を見上げた。
「そ、それより、この荷物も、弁償するよ。僕にできるものかは分からないけれど」
僕は、彼女から目を逃がすようにして、もう一つの非現実に視線を移した。割れた鉢植えと散乱した土の中で、隠れるように落下していたのは、聖剣とでも呼ぶ方が正しそうな、彼女の髪と同じく金色の厳かな光を放つ一振りの剣だった。伝説も冒険もない住宅街の片隅に、不似合いに転がっている。
僕は平静を装いながら、砕けた鉢植えの破片を軽く集めてから、その剣を持ち上げる。長い歴史を持っていそうなその剣は、すっかり土で汚れてしまっていた。土を払いながら鉢植えのほうを見たが、植物の類は見当たらない。これから植える予定の鉢植えだったのだろうか。どこかの皇族と言われても信じてしまう高貴な雰囲気の少女に萎縮していたが、壊れたのが鉢植えだけなら、ポケットマネーで払えそうだ。
「えっ、えっ、ええええええっ!?」
意識を向けないようにしていた少女の方から、大きな悲鳴が上がる。今は閑静な住宅街だが、週末の夜には酔っ払いが叫んだりもする治安だから、この悲鳴で人が集まってくるなんてこともないはずだが、何か僕はやってしまったのかと不安にはなる。
まさか、迂闊に触ってしまったから、国宝に皮脂が付いた、なんてことにはならないだろうか。頭をよぎった、歪に修復された名画の顔が僕をしたり顔で見る。慌てて剣を見ても、すっかり土が落ちており、素人目では綺麗に見える。
「あ、あのあの、お名前をお伺いしてもよろしいですか」
「僕の名前かい。僕は、朝尾。朝尾秀一さ」
「あさお……あーさーお……」
聞かれた声に、思わず二つ返事で答えてしまったが、やっぱり名乗らないほうがよかった気がする。その端正な容姿と可憐な表情にほだされかけたが、この少女と関わる運命に、ろくなことは無いに違いない。その証拠に、彼女は今にも僕のことを、言われすぎて飽き飽きしたあだ名で呼ぼうとしている。朝日のように暖かい剣の柄と反対に、冷たい汗が僕の背を流れた。
「そう冗長に呼ばないでくれないか。僕は、朝尾だ。呼びにくければ、秀一で構わない」
「いえ、アーサー王! あなたを探していましたっ。どうか、その聖剣と共に、世界を救ってはいただけないですか!」
彼女の言葉に、僕は左目を押さえて、天を仰ぐ。今日は厄日だ。間違いない。
恋愛ならまだいい。どうせ死ぬまでにはしなければいけないのだ。しかし、世界を救うなんて話は、嘘にしたってあんまりだ。この登校初日の何かあるかもしれないというワクワクを、上にも下にも突き破ることしかできない最悪の語り出しじゃないか。
「あまりふざけたことを言うものじゃないよ。世界を救う? 聖剣? 実に馬鹿げている。アニメや映画の見すぎじゃないか?」
「私、エトソン・プルルライナと言いますっ。この世界に聖剣の担い手がいるとお告げがあり、それで、父にも黙って聖剣を持ち出してきたのです。その甲斐が、今! あなた様に出会えたことで報われました!」
ただでさえ、奇妙な少年のことで意識が遠のいていたところなのに、さらに非現実的な言葉を重ねられ、僕は絶句してしまう。父に黙って、ということは、父親が権力者——例えば王様で、彼女は王女とかいうことだろうか。いやいや、そんな真剣に考えることではないだろう。少なくとも、この現代の常識に照らし合わせて、彼女の頭がおかしいということは疑いようもなさそうだ。
「アーサー王! あなた様は、聖剣に選ばれたのです。そのお名前も、我がチグリジア皇国に伝わる勇者の名と同じですっ。ああ、こんなに早く出会えるとは思いませんでしたっ」
目を丸く輝かせて子犬のように僕を見上げる少女、エトソンに、僕は早くも辟易とする。
きっと彼女はネズミ講の一日目なのだ。下手な詐欺か、そうでなければ単に哀れな被害者か。きっともう少しすれば、この聖剣とやらを高額で売り付けてくるはずだ。そうに違いない。そうでなければ、この数分の内に語られたことを、現実というテクスチャの上で理解することができない。
うれしそうな少女の顔に、強く詰めることもできず、僕は歪な笑みを張り付ける。
「選ばれた、なんて大層な言い方だが、僕はただこいつを拾い上げただけだ。第一、キミはこの、聖剣?だったかを運んでいたんだろうに」
僕はなんだか、聖剣と口にするだけで嫌な気持ちになり、骨董屋に売れば一生遊べそうな輝きを放つ剣を路上に放った。現実では、偽物ほど輝いているものだ。そもそも、こんなものを持っているところをお巡りさんに見られたら、銃刀法違反で逮捕されてしまうかもしれない。
エトソンが、大げさに驚きながら聖剣を拾いに行くのをしり目に、僕は少し気になった言葉を、携帯端末で調べてみる。
『チグリジア皇国』
検索にヒットする国は、歴史上、存在していないようだ。同じ名前の花の解説サイトが出た後は、似た名前の国が出てくるネット小説で関連が埋まる。
「花言葉は、『私を助けて』か」
胡散臭い話だと思う。それが恣意的なものだったとしても、偶然だったにしても、僕が関わる必要はないし、選ばれたなんて妄言を信じる必要はない。また一つため息をついた僕が画面から視線を外すと、そこには信じたくない現実とやらが、もの言いたげにこちらを見つめていた。
「このマクルワリオンの剣は、あなたを選びました。どうか、お願いします」
真剣な表情でこちらを見るエトソン以上に、僕は彼女の握った聖剣に目を奪われる。先ほどまで、豪奢な輝きを放っていた聖剣は、まるで園芸用の球根のようにその刀身に分厚い土をまとわせていた。その形は、割れてしまった鉢植えとちょうど同じに見える。
僕が無言で片手を差し出すと、エトソンは聖剣を渡す。僕が聖剣を握ると、まとわりついていた土ははじけ飛び、生き生きとした光が街路を照らす。土が頬をかすめて少し汚れたエトソンに聖剣を返すと、また聖剣は存在しない鉢植えに刺さったように土を吸い寄せた。エトソンは一度渡した聖剣を返されて、きょとんとしている。
「……説明してくれ」
僕が肩を落とすと、エトソンは毅然とした表情で語り始める。
「わが国は、長く魔王の侵攻を受けてきました。そんなある時、違う世界からやってきたという勇者が聖剣を抜き、魔王軍を次々と倒していったのです。ですが、彼らは、最後には魔王の甘言に騙され、今では魔王と変わらない悪の君主として、世界を牛耳っています。
聖剣はそんな勇者を悲しみ、再び大地に戻り、新たな勇者を待ちました。しかし、我が国のどんな勇士も抜くことはできず、大地ごと引き抜いた剛腕の者によって、このような現在の姿になったのです」
「あ~、ええと、その、地面ごと引き抜いたやつじゃあ、ダメだったのか」
「聖剣は、選ばれしものにのみ、その真の輝きを見せるのです。このようにくすんだ姿ではなく、あなた様のような、本物の勇者でしか、聖剣は真価を発揮できません」
都合よく土を着脱する聖剣に、どんなトリックなのかと考えるのも頭が痛い。いっそ、聖剣に関することは呑み込んでしまった方が楽になるだろうか。僕のような平凡な高校生が世界を救うなんていうことはいったん置いておいて、聖剣が僕を選んだということは認めなければ話は堂々巡りだ。この話を早めに切り上げなければ、この少女は、そして聖剣は、今日から始まる新学期という僕の日常をめちゃくちゃに破壊してしまうだろう。異世界だとかを信じるわけではないが、少なくとも日常を守るためには、うまくこの非日常を制御しなければならない。
「聖剣のことは分かった。分かったが、僕に世界は救えないよ。ほら、キミと変わらないまだコドモだろう? 一介の高校生なんだよ、僕は。聖剣が一振りあったところで、魔王? になんて敵うわけもない。転んだだけですりむくようなひ弱な人間なんだからさ」
「で、でも……」
「今から鍛えるにしたって、少なくとも二年、いや六年かな。きちんと大人になってからでも遅くはないだろう? その方が確実だ。そう思わないか?」
僕は煮え切らない人間を演じるために、そんな交渉をする。きっと祖国の平和がかかっている彼女にとって、こんな人間に託すよりは、多少探す手間はあれど、すぐに来てくれる別の相手を探す方がいいだろう。なにしろ、僕が選ばれるくらいだ。きっと選定基準は緩いに決まっている。
「わ、分かりました。皇国は、表向きは魔王に怯えるように停戦条約を結んでいます。ですが、いつその均衡が破られるか分かりません。ですから……」
「はぁ、分かったよ」
潤んだ目のエトソンに、僕が聖剣を受け取ると、土塊がはじけ飛んで、煌めく全身が露わになる。
結局、僕がそうして、交渉もそこそこに頷いてしまったのは、どこかでこの運命が頓挫してくれないかという期待よりも、頼まれごとを断れないという僕の弱さが勝ったせいなのだろう。彼女の世界がどうなろうと、僕にはどうだっていいことだ。けれど、目の前で今にも泣きだしてしまいそうな少女に、そんな酷なことを言うわけにもいかなかった。
「二年にしよう。高校を卒業するまでは、待ってほしい。必ず救うなんて約束はできないが、覚悟くらいは決めるさ。だからそれまで、この聖剣は———おいっ、こいつっ!」
どこかの土にでも埋めておいてくれ、と言おうとしたとき、心を読むように聖剣は僕の手をひとりでに離れ、鞘もバックルもない僕の腰に落ち着いた。引きはがそうとしても、頑なに動こうとはしない。さすがは誰からも抜かれなかった聖剣だ、なんて言っている場合じゃない。
聖剣と格闘する僕を呆けた様子で見るエトソンに、助けを乞う。彼女は薄く笑みを浮かべながらこちらを見つめていたが、不意に口をぼんやりと開けて僕の顔を見上げた。
「あの、アーサー王」
「はぁ、もうその呼び方はいいが、王というのはやめてくれ」
「で、では、アーサー。その、あなた様の右目は……」
エトソンが僕の顔に手を伸ばす。聖剣に両手を添えたままの僕は、少し近づいてきた彼女の美しい顔立ちに気を取られて、前髪で隠していた右目を晒されてしまう。想起されたトラウマは、心をかき回すというよりも、彼女からの執行の言葉を待つように僕を磔にした。
「赤い、瞳……」
「義眼だよ。オッドアイでもない」
僕は静かな視線に耐えられず、顔を振って前髪を戻した。
片目を亡くしたのは、ちょうど両親と同じタイミングだ。流した涙のように、右目が溶けて無くなっていく幻覚を時々思い出す。事故の傷は、ただでさえ幼少期の僕を奇異の目の的にするには十分だったが、赤い瞳の義眼は、さらに僕を忌み嫌わせた。きっと、この町でなければ、もっと酷い幼少期になっていただろう。
「エトソン……?」
突然、優しく僕の手を握った少女に、意表を突かれる。優しい笑顔を見せる彼女は、やはり、ドキリとするほど整った顔をしている。
「私と、同じですね」
そう左目を覗き込むように見つめる彼女の目は、澄んだ青だ。いったいどこが、と口にしようとした僕の目の前で、次第にその片目が赤く染まっていく。驚きと少しの照れから視線を逸らした僕は、腰元に携えていたはずの聖剣が見当たらないことに気が付く。先ほどまで、どうやっても外れなかった黄金剣は、そこにあるという感覚だけを残して消え失せていた。じっと自分の腰を見つめていると、だんだんとその色がはっきりと表れ、数瞬前のように聖剣が現れた。
「チグリジア皇国の王の家系は、魔法を使うと瞳が赤くなるのです。ですが、先天的に魔力の弱い私は、こうして物を透明にすることしかできないうえ、王の証も片目にしか現れないのです。
ずっと、市井の民にも兄弟たちにも馬鹿にされてきました。私は王の一族の恥だと罵られてきました。ですが、ああ、やはりあなた様は、私の運命のお方なのですね。こうして、勇者様と同じ姿になれるのでしたら、私もこの呪われた身を幸福だと思えます」
「そう僕を持ち上げられても困る。僕にとっても、これは呪いでしかないよ。だから、喜ぶようなものじゃない」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、僕は彼女に背を向ける。
見た目や境遇をポジティブに考えようとしたことは、何度もあった。赤い瞳、事故で負った額の縫合痕、両親の死。どれも普通とはかけ離れていて、でも、それが僕の現実だ。運命なんかに固執する人間は、それを羨ましいと笑う。まるで、物語の主人公みたいだ、と。でもどうしたって、それは僕にとってはただの事実でしかなくて、この身の不自由さ一つ取っても、特別なこととは思えなかった。
「瞳のことだけではありません。聖剣が選んだというだけではなく、私自身が、あなたが勇者で良かったと、そう思うのです。まだ出会ったばかりで、不思議なのですが」
もう一度僕の前に回り込んで、エトソンは僕の手を取って微笑んだ。淑やかな花が咲いたような表情は、ささくれ立った心を優しく包むようで、僕は静かに息を飲んだ。
「と、とりあえず、僕は学校に行かないといけないから、君は———」
「ご一緒しますっ」
こちらが恋に落ちてしまいそうで話を逸らそうとしたとき、新たな問題が浮上する。
後先のことをほとんど考えていなかったが、そもそも、僕はこれから学校に行くところだったのだ。当然、生徒でもなければ日本人でもなさそうな彼女を、連れて行くわけにはいかない。しかし、そんなことを言っても聞きそうにない、期待に満ちた顔で、エトソンは僕を見上げていた。腕時計に目を逃がすと、八時十五分だ。ここから学校へはまだ二十分はかかる。少なくとも遅刻は確定として、エトソンをどこに預けるべきだろうか。
立ち止まっているのも時間の無駄と、分かれ道を進み始めた時、朝日を受けて黒々と輝く高級車が僕たちの横で停車した。ゆっくりと開く窓に、僕は恐る恐る耳を澄ます。
「お乗りください」
「え、えっと……?」
困惑する僕は、後部座席の窓の奥に座った少女の視線に気が付く。自動ドアなのだろう、ひとりでに開いた後部ドア越しに、彼女の言葉が鋭く飛んでくる。
「——冥加、という言葉の意味はご存じかしら」
「……当然だ」
冥加とは、運上とセットで語られる江戸時代の税制の一つだ。しかし、それとは別に仏教用語としての意味もあり、俺や眼前の少女のように、この冥加市に住み、冥加学園に通う生徒たちにとっては、そちらの方がなじみ深い。
「見ない顔だけれど、うちの学校の生徒でしょう。なら、運命に感謝するといいわ。ふふ、まさに命冥加といったところかしら」
遅刻程度、と言いたいところだが、冥加学園での遅刻は少しばかり面倒でもあった。神仏の加護やその恩恵を信奉する冥加学園の生徒たちは、何よりも自分の運命に敏感だ。それゆえに、非日常を常に求めている。僕のように目立たない、それでいて明確な身体的特徴を持つ人間が遅刻すれば、詰問の嵐となるだろう。
「ありがとう。少なくとも、あんたの優しさには感謝するよ、生徒会長」
聖剣がなんだと考えこんだせいですっかり冴えた頭は、高圧的な態度の彼女のことを、記憶の隅から引っ張り出すことに成功した。制服の裾を掴んで僕の顔を心配そうに見上げたエトソンに軽くうなずいて、少女の誘いに応じる。内装は普通車のようだが、後部座席は三人でも楽々座れる広さだ。
車が発進すると、車内で足を組んだ隣席の少女、葛御丘妙栄は、ふんと鼻を鳴らす。恩を売ったつもりではないのだろう、学校につくまで、それ以上言葉を交わすことはなかった。
エトソンも、車に乗るのが初めてではないのか大人しく姿勢を正している。時が時なら、両手に花とでも言うべきだろうが、今の僕にはそんなことを考える余裕は無かった。
**********
校門の前で車を降りると、待ちわびていた様に一人の男が近づいてくる。出会った頃から変わらず若々しい見た目の男は、わざとらしく顔を嬉しそうに綻ばせた。
「やぁ、アーサー。ずいぶんと遅かったじゃないか。初日から遅刻するのではないかと、ワクワクしてしまったよ。何かあったのかい?」
「……まぁ、いろいろと。澪河理事長こそ、どうして校門に?」
僕の前で体をくねらせている、年の割に元気な男は、この学校法人冥加学園の理事長である澪河冥加だ。一見すれば、自分の名前を学校につけている奇人だが、実際は彼自身もこの学園に拾われた孤児であり、恩返しのために働いている、というのが彼の朝礼での鉄板の掴みだ。僕にとっては、幼いころから何かと面倒を見てもらっている育ての親に近い存在であり、両親を亡くして以降は、無償で生活の支援を受けている相手でもある。
「君を待っていたのだよ、アーサー。君は僕の子供も同然、進級というのは感慨深いものがあってね。ところで、そちらは?」
理事長は、当然のように僕の横で話を聞いていたエトソンを手で示した。そちらは、と聞かれても困ってしまうのだが、何と答えるべきだろう。
「私は、エトソン・プルルライナですっ。勇者アーサーに世界を救ってもらうためにやってきました! ミオカワさんは、アーサーのお父様なのですか?」
僕が逡巡しているうちに、エトソンが口を漏らす。漏らすというか、大決壊だ。ダムの放流のように、言わないでほしかったことだけを的確に言い放つ。
冥加学園の理事長として、生徒に運命との向き合い方を説き続ける彼も、目を丸くしたまま硬直し、ゆっくりと僕に視線で助けを求めた。ウインクで示されても、僕から補足できることは何もない。むしろ、彼女の言ったことが、彼女という存在の全てだ。肩をすくめた僕に、困り顔で笑って、理事長は両手をぴったりと合わせて視線を落とした。しばらく唸ったあと、いつも通りの笑顔に戻る。
「血は繋がってないけど、父親みたいなものさ。なにしろ、赤ん坊のころから知っているからね」
それがエトソンの質問に対する返答であることは明らかだが、同時に、現実からの逃避であることも確かだった。
「ええと、それで、勇者というのは、何のことかな」
続けざまにそう聞いた理事長に、僕は思わず天を仰ぐ。そうだった。彼がこんな面白い話に背を向けるわけがないのだ。
「あ、あははちょっと彼女、日本のアニメが大好きみたいで、少し現実と混同してしまっているところがあるようで、ほら、理事長がアーサーなんていうから。本当に、なんでもないんだ。ほら、エトソン。僕は学校があるから、ここで別れないと」
「いえ、勇者様の成長を、私もお傍で拝見したいですっ。お供させてください」
「そんなことを言われても、僕には君を学校に入れさせるような権力は———」
なんとかエトソンを説得しようと言い訳を並べたところで、失言をしたことに気が付く。恋愛ゲームなら、進む気のないヒロインのルートをうっかり選んでしまったときのように、困惑一色だった空気が解決に向けて動き始めてしまう。
「まぁ、勇者だとかはともかく、これも何かの縁だ。エトソンくん、だったね。君の入校については、僕の方で何とかしてみよう。少しばかり書類を記入する必要があるのだけれど、彼女、お借りしてもいいかい」
「……分かった」
「うん、ありがとう。おっと、もうこんな時間か。アーサー、君も遅れないように教室に向かいなさい」
澪河理事長は、そう優しく笑うとエトソンを手招きして学園の中へと入っていった。僕は台風の目のような少女とひとまず離れることができて、長い息を吐いた。これから起こるであろう困難は、少なくとも、今は考えたくない。丸めた背を誰かに軽く叩かれ、僕は顔を上げた。
「あなた、誰かと思っていたら、理事長のお気に入りだったのね。話は聞いていたのだけれど、まさか、そんな陰気な顔をしていると思っていなかったの」
「それは悪かったな」
「いいえ、私の勝手な偏見だもの。あの理事長の寵児だなんて、目をキラキラさせて夢を見る青臭い人間だと思うのも、無理はないでしょう?」
葛御丘のいうことは、分からなくもない。理事長は、傍目に見ても胡散臭い人間だ。全校集会ではいつもタロットカードの話をするし、自己紹介をした相手にはすぐさま姓名占いを披露する。そういえば、エトソンにはしなかったあたり、外国の名前ではできないのだろうか。
ともかく、理事長が好きそうな人間と言えば、学校の中でも特に優秀な成績を収める優等生だ。一方で、最も嫌いなタイプは、僕のように内向的で受動的な人間だろう。自分でも、なぜ理事長が僕を気に入っているのかは分からない。
この学園において、理事長のことを父親のように思っている生徒は少なくない。それは彼の父性が特段強いとかいうことではなく、単に僕と同じ境遇の、すなわち様々な事情によって教育を受けられなくなった子供たちを、理事長がこの学園に招いているからだ。
保育園から大学まで、すべての子供たちに教育をという理念のもと、冥加学園は家なき子を引き取り、冥助会と名付けられた活動法人の下で預かっている。子供たちは、進学のタイミングで新たに児童・生徒として冥加学園に編入し、以降はハウスキーパーなどによる生活の補助を受けながら進学していく。彼らは皆、澪河理事長を父のように慕っている。
「僕にも、あの人が何を考えているのかなんて分からない」
「そうね。でもなんだか、確かにあなたには、目を掛けたくなる不思議な魅力があるような気がする」
葛御丘は、薄い笑みを浮かべて僕の目を射抜く。前髪越しに右目を透かされているようで、僕は顔を逸らした。
「勘弁してくれ。生徒会長に目を付けられるほど、悪人顔のつもりはない」
「そうかしら。私には、とっても悪い顔に見えるわ。この冥加学園の生徒なのに、運命が大嫌いって顔に」
思わせぶりに微笑んで、葛御丘は歩調を早めて去っていった。三年の下駄箱は昇降口の反対端だ。
そうだ。僕は運命ってやつが大嫌いだ。だが、それの何がいけないというのだろう。僕の前に敷かれた運命なんて、簡単に死へと崩落してしまうような脆いものだ。そこに期待も希望も、抱く方がばからしい。運命を受け入れることは、僕にとって人生の最終日を決めることと同じ意味なのだ。
**********
教室に着いたとき、幸いにもまだホームルームは始まっていなかった。黒板に張られた座席表を見て、改めて自分がこのクラスで間違いないことを確認する。並んだ名前には、ほとんど覚えがないが、中学でも似たようなものだったし、まぁ問題はないだろう。
そもそも、友人というものはそう多くいる必要がない。それは知人もしかりだ。知り合いが増えるということは、それだけ厄介事や相談に巻き込まれる可能性が増えるということで、僕にとって最悪の場合、クラスのギャルっぽい生徒に目を付けられただけでも、何かの物語は始まりかねないのだ。それならまだ、僕は異世界に魔王を倒しに行く方を選びたい。誰だって、聖剣を持って「エクスカリバー!!」と叫んでみたいものだ。その気持ちを偽ることはできない。
「よっ、秀一。ずいぶんギリギリじゃねえか」
「この学園じゃあ、ギリギリの登校でも、何か運命のせいだと疑われるのか?」
「そりゃあ気になるだろうよ。だって今日は新学期だぜ。クラスメイトも変わって、出会いの季節ってやつ?」
馴れ馴れしく僕に話しかけてきたこの男の名前は……今はいいだろう。確か、そう。生徒会執行部の副会長をしている。
ひょうきんな性格だが、どこか憎めないこいつの名は、そう。あれだ。春休みというのは存外長いもので、この校則に大きく反しない程度に整えられた黒髪の、少し高校デビューをしたような爽やかな顔の、けれどモテてはいないのだろう二枚目の、実際のところ一部ではもてはやされているがそれ以上にモテないキャラが浸透してしまっているこいつの名前は、確か、自身の名前にもその文字が入っている、好きな関係性の話をすると、途端に弛緩した顔になり、それが評判を落とす原因になっている————。
「そう、百合原だ」
「お、おう。なんだ急に」
そうだそうだ、こいつは百合原恵夢。女のような名前なのに、どうして自分は女ではないのかと、女性同士の親愛関係の深さを滔々と語る気色の悪い男だ。モテたいという言の割に、自分へ好意を寄せる女子生徒に同性の友達がいると、途端に身を引こうとする異常思考者である。
「なんか、俺のこと内心でディスってないか?まあいいけど、それよりクラスだよ、クラス。ほら、やっぱ一番は千家かな。大和撫子っていうかさ、大人しそうな感じがいいよなぁ」
百合原が指した女子生徒を、横目で見る。確かに、小柄なその生徒は、家でお茶でも習っていそうだ。長い黒髪を美しく伸ばしたまま、長いまつ毛は、教室の反対側の僕からでも分かるほどである。クラスメイトと談笑するその笑顔も、小動物のようで庇護欲を駆られる。
「な・ん・の・は・な・し~??」
どすのきいた声に身構えた瞬間、机に弁当の包みが置かれた。刹那、側頭部に拳がめり込み、回転によって僕の貴重な脳細胞が哀れな結末を迎えていく。
「いだだだだっ! た、ただの世間話だっ!」
「ふ~ん、ならいいけど。それよりお弁当。今日の分、渡したからね。残したら承知しないんだからっ」
「あ、ありがとう、叶夢。お母さんにもよろしく言っといてくれ」
なんだかんだ律儀な幼馴染は、ぷいとそっぽを向くと、返答なしに去って行ってしまった。後で改めて謝りに行った方がいいかもしれない。今日はすっかり寝坊してしまったし、迷惑をかけっぱなしだ。
「……おいおい、今の美少女誰だよ」
「美少女って……ただの幼馴染だよ。家が隣だから、何かと世話になっているんだ」
「な、何かとって。おいおい、これは話が変わってくるぞぉ」
「あいつはただの幼馴染だ。そういうんじゃない」
「はいはい、道理で千家さんにも冷めた目なわけだ。だが、でも、今回は? そんなお前も目の色を変えちまうかもって話があるんだぜ?」
「恋愛の話は飽き飽きだ。別ので頼む」
百合原は、どうしても話したいのか、そわそわと教室の時計を見た。時刻はもうすぐ始業時間だ。この学園は登校初日から通常授業になるため、春休み明けの浮遊感はもうすぐに終わってしまう。百合原は、とっておきを示すように、僕の隣席に腰かけると一本指を立てて不敵な笑みを浮かべる。
「まあそう言うなって。なんと、このクラスに転入生が来るらしい。しかも、超絶美少女だって噂だ」
「転入生って、特進組でもありえないだろ」
冥加学園には、明確なスクールカーストが存在している。それは、高校から受験によって入ってきた受験組と、中学以前から冥加学園に在籍している内部進学組だ。冥加学園は、その高い教育水準や外界と距離を取った校風を理由に、一部の富裕層や熱心な教育者から評価されている。教育を受けられない子供たちのための学校の敷居が高いというのは皮肉な話だが、現実として受験組は高い壁を越えてやってきている。そのため、夢や運命を吹聴する学校理念に陶酔し、良い生徒になろうとする。
だが、そのはるか上を行くのが一部の内進組だ。冥加学園の特別カリキュラムを受けた生徒は、多方面でその才能を発揮している。才能と能力に満ちた彼らは特進組と呼ばれ、この学園の頂点に君臨している。その他の内進組はというと、よほどの高校生よりも自堕落に生きている。僕がどちらかは、言うまでもないだろう。
特進組は、種々の特別な権利を持っているが、学園への編入は、それぞれ一年生の初め、進学のタイミングに限られている。そのため、二年生から編入というのは、特権階級と言える彼らでも難しい。そんなイレギュラーがどうやって通ったのだろう。
「そうそう、変だよな。でもこれ、生徒会メールで今さっき仕入れた情報だけど、幸運なことに、その美少女転入生、このクラスに来るんだぜ? これを運命の始まりと言わずに何て言うんだ」
しかしながら、実際のところ、僕はその理由について、途方もない倦怠感と頭痛に教えられているのであった。これは運命の始まりなどではない。運命はすでに始まっているのだ。
ガラガラと教室の扉が開き、担任の教師が入ってくる。百合原は、なぜか軽くガッツポーズをして去っていく。生徒の全員が席について、僕は頭を抱える。新学期が始まろうというのに、どうしてか、名字があから始まるのにかなり後方の、僕の隣は空席のままだった。
「それじゃあ、ホームルームの前に転入生を紹介するぞ~。ほらみんな静かに~。それじゃあ、入って」
教師の言葉に一瞬声を潜めた生徒たちも、その少女の姿に、驚きと感嘆と羨望と欲望と期待の入り混じった声を上げた。誰もが物語の始まりを感じていることだろう。その結末が、中年になった後の同窓会で、哀愁交じりに思い出を語るだけだとしても、今この瞬間、生徒たちは夢を見ることだろう。学園の制服に身を包んだ異世界人に、どうか口を開かないでくれと思ったのは、この教室で、僕たった一人だけに違いない。
「エトソン・プルルライナと言います。魔王を倒す勇者様を探しに、この世界にやってきました。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「それじゃあ、エトソンは———」
担任の言葉は、絵に描いたような異世界人の自己紹介に狂喜する声でかき消された。少し考えれば、彼女がおかしなことを言っていると気が付きそうなものだが、この学園ではそんな奇妙さですら、運命の差し金だと信じられてしまうのだ。クラスメイトの囃し立てる声が一段落して、担任はようやく言葉を続ける。
「あ~、エトソンは、空いている席……じゃあ、えーっと、朝尾の横だな」
予定調和のような空席が埋まる。クラスメイトの視線が痛い。僕はただ、平穏に学生生活を送りたいだけなのに、どうしてこうも劇的なのだ。必死で目を背ける僕に、ためらいなく足音が近づいてくる。
「アーサー、また会えましたね」
エトソンは、くたびれ切った僕に、屈託のない笑みを見せた。クラスメイト全員分の超巨大ため息が、この瞬間だけは牛のゲップよりも深刻にオゾン層を破壊する。ため息をつきたいのは僕の方だという嘆きは、重力が何倍にも強くなったように感じられる今、到底口にできそうになかった。
**********
教室の生徒の誰一人として真面目に聞かなかったホームルームが終わると、授業までのほんのわずかな時間を狙って、僕とその隣席の間が満員電車のように人で詰まる。
「朝尾秀一くん、だっけ? 君が誰だかは知らないけどねぇ、最初の席が隣だからって調子に乗らないほうがいいと思うねぇ。ほら、見たまえよ、僕の筋肉をさ。勇者に、いや、彼女の美しさにふさわしいだろう? 惨めな気持ちになる前に、僕に紹介したまえ。これはそういう運命なんだねぇ」
おそらく特進組なのだろう、同い年とは思えないアスリート体型の男子生徒が下卑た笑みを浮かべる。別に、話したいなら勝手にすればいいだろう。というか、こいつが戦った方が強くないか? と考えつつ、どう見たってかませ犬のような彼に、やすやすと渡せる聖剣でもない。
僕は運命というものが大嫌いだし、主人公になんてなりたくはないが、それでも、僕を選んだ運命のことは認めている。正直、センスがあると思う。それを彼は、僕の代わりになれると思い上がっているのだ。あるいは、もっと良い物語を紡げると豪語しているのだ。腹が立たないわけがない。
もういっそ、僕が聖剣に選ばれたのだと開け広げになったほうが良いのだろうか。こんな生徒たちに詰められるくらいなら、きちんと朝の事情を話せば、なんだ二人とも頭がおかしいのかと納得してくれるかもしれない。
僕がそう考えて、腰に引っ付いたままの聖剣に手をかけた時、女子の輪に囲まれていたエトソンが人波を押し分けた。僕の耳に両手を添えて、囁く。それは僕にとってはドキドキというよりも、新たな制約が増えるに違いないと心を冷たくする。
「ミオカワさんに、聖剣のことや魔法のことは皆さんには内緒にするようにと、念押しされていますっ。アーサーも気を付けてくださいっ」
いったい、どの口がそんなことを言っているんだ。僕は愕然として、席に戻ったエトソンを見つめる。その様子にまた下世話な妄想を広げたのか、やいのやいのと男衆がうるさい。ひとまず鳴ったチャイムに救われて、僕は授業のことを初めてありがたいと思った。
退屈な授業はあっという間に過ぎるようにも、永遠に続くようにも思える。同じことばかりを教わっているようなデジャヴは、休み明けの復習のせいだ。
僕は、緩慢な教師が黒板の方を向いたのを契機に、ノートに落書きを始める。
「マクルワリオン……マクルワリオン初号機……シェイクスピア作『マクルワリオン』」
かすかな声で呟きながら、エトソンが言っていた聖剣の名を書いてみる。なんだか巨大ロボの名前にも、演劇の題名にも思えるが、存外響きは悪くない。しかしどこか、口にすると違和感があるような気がする。例えば、口の端をぎゅっと引っ張りながら、「学級文庫」と言う時のような、違う含意を持つような予感だ。
「makuruwarionn……いや、maklwalionか?」
アルファベットに直してみても、その疑問の答えは出ない。なんとなく確信に近づいた気はしても、一体どの方向に進んでいるのかは知れないままだ。
はぁ、とため息をつくと、ちょうど授業は新しいページに進むところだった。難しくもなく、かといって一目で暗記できるほど優しくもない学校の問題は、かえって日常に僕を引き留めてくれるようで、今はなんだか安心した。
**********
昼休みになって、ようやく僕に話を聞くクラスメイトの波が去り、代わりにエトソンの周りに洪水のように溢れた。隣席の僕は、もはや座っていることもままならず、なんとか弁当を持って教室を退散する。
エトソンには悪いが、もうしばらく、熟語だけが分からない都合の良い外国人設定で頑張っていてもらおう。それにしても、彼女は実際、なぜあんなに堪能に日本語を話せるのだろうか。あんまり深掘らないほうが良いのだろうか。
そんなどうでもよいことを考えながら、ひとまず屋上にでも行こうかと階段に向かった僕は、頭上から影を感じて踊り場の方を見上げた。
窓から差し込む昼の柔らかな陽光に照らされ、人造人間と見まがうような、無駄のないその少女のシルエットが浮かぶ。階段の下で思わず息を飲んで硬直した僕を一瞥し、すぐに視線をどこともつかない場所に流すと、音もなく階段を下りてくる。その美しい歩き姿には、こちらから天の川のような輝くフィルターと、恋の始まるような甘い音楽を勝手につけたいくらいだ。想像の中では、ゴム製の校内履きとは程遠い、カツンカツンという足音がゆっくりと反響している。
「なにか、用?」
栗毛色の長い髪をふわりと揺らし、淡い石鹸のような香りを漂わせて、彼女はそう冷たく口にした。それが自分に向けられた言葉だと一瞬分からず、弁当の入った包みを両手で抱えてから、極めて冷静に返答する。
「あ、ああ、いや。君があんまりにもきれいで、見惚れてしまって」
「そう。それは、よかった」
僕の言葉を吟味するように、ゆっくりと呟いた少女は、水族館の魚のように、気ままに背を向けた。去っていく背も、視線を外せないほど美しい。いや、きっとこれは、勝手に自分がそう思い込んでしまっているだけなのだ。つまり、僕は恋に落ちてしまったのかもしれない。運命がなんだかんだと宣いながら、情けのないことに、人間という生物の本能的な部分によって、僕は彼女に惹かれてしまったのだ。
「なぁに見惚れてんの」
「い、いだだっ!」
階段の前でぼうっと立ち止まっていた僕の頬を、誰かがつねる。そんなことをするのは、この学校でただ一人だ。
「か、叶夢……さっきの子、誰か知らないか?」
「さっきのって……九沙吹さん? 九沙吹藍良。うちの学年の孤高のマドンナじゃない」
叶夢は、呆れたように言う。
「それより、お弁当。屋上で一緒に食べない? 今日は珍しく空いてたしさ」
今朝ほど怒ってはいない様子の幼馴染に、僕は頷いて階段を上がった。冥加学園の屋上は、たいてい騒がしい。昼休みでも、アイドル研究部やオタク活動会が、相補的に練習をしている。そうでなくても、暗い方向に舵を切った生徒がグラウンドをただ眺めるなど、開放的な場所なのだ。
屋上に着くと、確かに誰もいない。僕たちは屋上のベンチに腰かけて、穏やかな日差しの下で弁当箱を開いた。まるでピクニックみたいだ。
「そういえば、なんか秀一のクラス、騒がしくなかった?」
「ああ、転入生が来た」
「転入生? 二年に。男? 女?」
「女の子だ。異世か——外国の子らしい」
「へぇ、どっかの大富豪のお嬢様とかなのかなぁ。あっ、チーズもらいっ」
叶夢は、ささみからはみ出したチーズを目ざとく見つけると、僕の弁当箱からつまようじごと取り去った。代わりに、同じ配置の彼女の弁当箱から、ほんのり赤みの透けたはさみ焼きをもらう。今更、断りを入れる仲でもない。白米と共に口に運ぶと、梅干しの染みるような酸味が、朝から酷使した脳を癒してくれるようだった。
「でも、二年から冥加に入っても、結構アウェイなんじゃないかなぁ。友達作りとか、絶対大変だと思う」
「……さてな」
「何、その言い方。男子は別に、秀一みたいにぼっちでもいいかもしれないけどさ、女子はそういうの厳しいんだからね」
最後に食べようと取っておいたプチトマトをつまむと、叶夢もちょうど同じようにヘタを取っていた。ささいな偶然にお互いに軽く笑う。常温に暖まったプチトマトは、甘くも酸っぱくもなく、爽やかに口の中を潤した。
「なぁ、もしもの話なんだが」
弁当箱を包み直しながら呟く。叶夢はしっかりと包みを結んで、顔をしっかりと僕の方に向けた。
「聖剣に選ばれて、勇者になれるかもしれないとしたら、叶夢は世界を救いに行った方がいいと思うか?」
弁当箱に両手を置いて、まじめな顔をしていた幼馴染は、僕がそう聞くと、長いまばたきをした。
「そりゃ、そうでしょ」
馬鹿らしいと言わんばかりに、叶夢は僕と反対側のベンチの端に弁当を置いて、腰を伸ばしながら軽く笑う。
「どういう質問? あっ、あれか。サイコパス診断みたいな」
「そうじゃなくて、もしもの話だよ。そりゃあ、世界を救うとかは大事だけど、今、近々で頼まれたら、さすがに困らないか?」
「う~ん、今かぁ。今の今ってことでしょ? 今の今かぁ……」
叶夢は、一応真剣に考え始めたのか、ベンチに両手をついたまま空を眺めた。悩むように頭を振り、やがて僕の方に視線を向ける。
「まぁ、それなら一理あるかも。どうでもいいことなのに、明日は部室の掃除当番だったなぁとか、冷蔵庫にあるパックの卵使いきれないなぁとか、そういうこと考えちゃうかも」
「じゃあ、もしそうなったら、叶夢は断るのか?」
「世界の危機みたいなことでしょ? そもそも怪しいもん。私は断っちゃうかも。秀一を連れて行っていいなら考えるけど」
「なんでそこで俺なんだよ」
「だって、私が世界を救いに行っちゃったら、一番困るのは秀一でしょ? 私がいないと、朝も起きられないくせに」
「今日のはたまたまだ。別に一人でも起きられる」
「十何年も続くたまたまはないと思うけどな~」
まるで赤ん坊のような扱いに憮然としていると、階段の方から勢いの良い足音が響いてくる。その音はだんだんと螺旋を描いて大きくなり、音の主が昇ってきていることを示している。もうすぐ昼休みも終わるだろうに、駆け込みで屋上にサボりに来た不良だろうか。
力強く、というよりかは渾身の力で開けられた屋上の扉。その向こうから現れた少女に僕は、自分の顔が意識せずとも引きつるのを感じた。
「よ、ようやく見つけましたっ。探しましたよ、アーサーっ!」
「秀一、知り合———な、なにしてんの!?」
春の陽気にあてられて、のんびりと叶夢が僕を見た隙を縫って、エトソンはベッドに飛び込むように遠慮なく、僕の胸元に飛び込んできた。思わず僕も、彼女を抱きとめてしまう。これは子供が飛びついてきたのを受け止めるような不可抗力であり、僕は何か意思を持ってエトソンに触れたわけではなく、つまりこの接触は全面的にエトソンのせいであるからして、叶夢に白い目を向けられる謂れはないのだ。
「は、離れなさいっ。は、はしたないわよっ」
おばさんみたいな言葉づかいで慌てながら、叶夢がエトソンの腰に手を回して引きはがそうとする。エトソンがやけに強く抱きしめるので、僕は無実を示すために、両手を空に掲げるほかになかった。
「しゅ、秀一も何やってんの! というか、誰よ、この子っ!」
「は、離しませんっ。勇者様がまた逃げてしまいますっ」
「はぁ!? 勇者って何のことよっ。ごちゃごちゃ言ってないで、離れろっ!」
僕とは違い、友達も多く、人の名前もそれなりに記憶しているだろう叶夢も、さすがに今朝転入してきた異世界人のことは知らないらしい。
どたばたとしながらも、さすがは僕と同じ特進組の一人だ。叶夢がエトソンの脇腹に的確に指を突き刺すと、金髪の少女はか細い悲鳴を上げて抱き着いていた腕を反射的に引っ込め、赤子のように抱えあげられる。悲鳴もやはり日本語に聞こえたが、もしかすると、キャッという悲鳴は万国、いや三千世界共通なのかもしれない。
「それで、何なの。この子は、お友達かしら」
なぜか問い詰めるように、腰に手を当ててエトソンを睨みつける叶夢から、僕は目を逸らした。なんと説明するべきだろう。
「あ~、この子はほら、さっき言っていた転入生だよ。たまたま、席が隣でさ」
「それで、抱き着くほど仲良くなったんだ?」
「突然抱き着いてしまったことは、無礼をお詫びします。ですが、それというのも、勇者様が私のそばを離れてしまうのがいけないのです」
エトソンが抗議するように僕を指す。こいつ、異世界の話とか隠す気ないだろ。
「ほら、外国の文化だよ。そういう挨拶みたいな」
「そんな挨拶あるわけないでしょっ、バカ秀一! それに、勇者様ってどういうこと? なんかいかがわしいこととかしてないよね?」
叶夢の視線が、いよいよ怒りから心配に変わる。僕は、同じように心配したような表情のエトソンに頷くと、朝の一連の話を叶夢に伝えることにした。この場を乗り切ったところで、この先も叶夢には隠し通せる自信がない。それならいっそ、信じてもらう方に賭けるべきだろう。
「————貸して」
叶夢は、半信半疑の様子で、僕から聖剣を受け取る。その瞬間、聖剣はまるで鉢植えから気持ちよく抜き取ったかのように土に包まれた。
「まじか。え、じゃあ、さっきの話も、そういうこと?」
僕は恥ずかしくて顔を逸らす。友達の話と言って聞いてもらった恋愛相談が、まるきり自分のことだった時のような気持ちだ。
「……私のせい、じゃないよね」
僕の肩を引っ張って、エトソンに背を向ける形で叶夢はそう小さく聞いた。僕が異世界行きを渋っている理由が、自分と同じでないかと思ったのだろう。
「断じて違う」
僕はそんな理由で躊躇っているわけではない。第一、僕がいなくなったところで、叶夢は困らないだろう。僕は僕の未来、その可能性のために渋っているのだ。まぁ、叶夢と過ごす学園生活を日常とするならば、その平穏を守るためというのは、大雑把に言えば叶夢のせいでもあるのかもしれない。
「なら、いいけどさ」
少しだけ納得のいかない様子で、叶夢は少し伸びた前髪を耳にかけた。スポーティーな柑橘系の整髪剤の香りがふわりと漂う。
「えっと、つまり。秀一は、聖剣に選ばれた勇者……かもしれなくて、でも卒業までは異世界に行く気がないと。それで、エトソンちゃんは、秀一のそばにいたいから、学園に転入してきて、でも勇者とかもろもろはバレないほうがいいってことね。バレるでしょ。もうバレてるし」
「叶夢は、信用できると思って話したんだ。お前なら知ってるだろ。この学園で、勇者だとか選ばれたとかバレたらどうなるか」
「知ってるけどさぁ……でもそれは、秀一が嫌だってだけじゃない。せめて、理事長くらいには話したら? パーソナルトレーニングくらいはつけてくれるでしょ」
呆れたようにため息をつく叶夢の肩を引っ張って、エトソンに聞こえないように僕は声をひそめる。
「いいか。エトソンにはああ言っているが、僕は絶対に異世界になんて行かないからな。理事長になんて話してみろ。全世界中継で行かされかねん。それに、僕はこの学園生活の日常を守りたいんだ。特別トレーニングなんてしてたまるか」
「日常……」
叶夢はぼんやりと、僕の説得力のある視線を見つめ返した。よし、この調子なら味方にできそうだ。僕一人では流されかねないが、この現実世界へのアンカーとして、叶夢は最適と言える。異世界なんてふざけたものを拒むには、常識のある人間がもう一人は必要なのだ。
「話は分かった。分かったけど、協力できるかは分からないわよ。私にだって、学園生活ってものはあるんだし、クラスも部活も違うもん」
芳しくない表情の叶夢に対し、エトソンは目を輝かせて、座り込んだまま僕たちを見上げている。
「これは、新たな旅の仲間が増えたということですかっ」
「まぁ、最初の仲間が、同じ街の幼馴染というのは定石かもな」
「なんで私も行く感じになってんのよ。というか、秀一も乗り気になるなっ」
昼休みの終わりを知らす予鈴の音に、僕たちはそろって顔を上げる。話し込んでいるうちに、すっかり時間が経ってしまった。
「とにかく、秀一に抱き着くのは禁止。私なら許してあげるから。分かった、エトソンちゃん?」
「はい、よろしくお願いしますっ、カナン!」
元気のよいエトソンはどこか子供のようで微笑ましい。いや、実際同い年なのだろうか。理事長はそういうところに配慮してくれていない気がする。初めから中等部にでも入れてくれれば、こんな苦心もなかったのではないか。
思い悩んでもチャイムは鳴る。僕はその音に、また日常に引き戻されていくのであった。
**********
終礼が終わると、僕は疾風迅雷のごとく教室を後にした。もともと、部活動に入る原則のあるこの学園では、外部のクラブチームなどの生徒を除いて、全員が部活動に入っている。しかし、今日は到底行く気分になれなかった。あの場所は、僕にとって穏やかな日常のひと時であり、こんな美少女、ではなく災いの種を持ち込む場所ではないのだ。
案の定、ぴったりと着いてきたエトソンの視線の圧を感じながら、僕は学校を後にする。チャイムの音もずいぶん遠い。もう下校路も半分くらい来たはずだ。
「さすが勇者様です。放課後はすぐに鍛錬っ、ですね!」
「そういうわけじゃないし、あまり着いてくるな。まさか、寝る時まで傍にいるとは言わないよな」
「だ、ダメなのですか」
「……君はもう少し、自分のことを大切にした方がいいと思うよ」
キョトンとした顔のエトソンに、ため息をついて僕は肩を落とす。気が付けば家の前だ。どこかで振り切ってしまった方が、これから生活しやすかったかもしれないが、それも後の祭りだ。家が彼女に知られてしまったことは後悔するまい。
「分かったよ。鍛錬はするから、ほら、エトソンも家に帰るんだ。こっちの世界で、どこか住まいがあるんだろう?」
異世界から来たという彼女だが、その流暢な言葉遣いを見ても、幼少のころから日本で、それも日本語が母語の保護者に育てられたとしか思えない。いや、それだと聖剣を持ちだしたという話と食い違うのだろうか。ともかく、どこかに定住しているはずだ。でないと困る。僕の抱えられる憂いごとの数的にも。
だんだんと募る不安は、何も答えないエトソンの見上げる瞳によって加速していく。僕が、逃げるように家の中へ入ろうとしたとき、目の前で玄関扉が開き、ハウスキーパーの相田さんが顔を出す。
「あら、秀一さん。それに」
「……エトソンだ。僕の、その、友人だ」
「エトソン・プルルライナですっ。初めましてっ」
「あぁ、あなたがエトソンさんですか。お話は伺っています。さぁ、中へ」
薄々気が付きつつあった予感が、現実になろうとしている。藁にもすがる思いで、苦し紛れに尋ねる。
「なぁ、相田さん。その、まさかとは思うんだが、彼女、家に泊めるなんてことはないよな」
「あら、理事長先生ったら、肝心の秀一さんには伝えていなかったのですか。エトソンさんは、親御さんがおられないとのことで、お部屋にも空きがあるこの家で預かることになったんですよ」
確かに部屋には空きがある。だがそれは、亡くなった両親と、全寮制の初等部に通う妹のものだ。おいそれと使わせたい場所ではない。
「理亜様も快諾されたとのことですが」
「初等部の子供に快諾も何もあるか。大体、話が早すぎるだろうに」
「うふふ、そこが理事長先生の良いところでしょう」
相田さんが微笑むのに、僕は言い返す気力もない。見方を変えれば、金髪美少女と同じ屋根の下だ。しかしもう、僕の気持ちの上で彼女は、親戚の子供のように見えていた。時たま会うくらいならいいが、これから毎日となると気が滅入る。
「アーサー! ベッドがふかふかですっ!」
「おい、はしゃぎすぎて壊すんじゃないぞ」
どたばたと飛び跳ねるような音に、僕は頭を抱えて二階に声をかける。個室の扉を開けると、満足げな顔で掛け布団を被ったエトソンが横になってこちらを見ていた。
「気に入ったならいい。そこで大人しくしていてくれ」
僕はまたため息をついて、扉を閉めた。ため息をつくから幸せが逃げるのだろうか。それとも、幸せが逃げたからため息をついているのだろうか。
自室に入り、制服の襟元を緩める。エトソンに気を取られて忘れていたが、ネクタイのある制服は首元が少ししんどい。いっそ部屋着になろうと思ったとき、ズボンに妙な感触がある。
指先で触れると全体がうっすらと、それこそ第六感のようなもので感じられる。それは蛇のように足に巻き付くようにして、がっしりと固まっていたが、僕が剥がそうとすると簡単に離れ、一本の棒状に戻った。
「なんだ、聖剣か」
エトソンが透明化させていたせいで、学校ではすっかり忘れていたが、そういえばずっと腰にぶら下げていたのだった。かなり可変性があるのか、それとも自由意思でそうしているのか、聖剣はおそらく、邪魔にならないようにうまく避けてくれていたのだろう。
「なんだ、案外殊勝なやつなんだな」
僕は感心して、部屋においてある、観賞用の名前も知らない植物の横に、聖剣を突き刺した。ほら、お前も土の方が落ち着くだろう? ずっとそうしていたわけなのだからさ。
聖剣は、ひとまず落ち着いてくれたのか、離した手に引っ付いてくることもなく鉢植えに収まった。
ふう。これでようやく、聖剣からはいったんの自由を得た。家にまだいるかもと思っていた朝の少年も、どうやらいないらしい。あっちは本当に幻覚だったんじゃないかとむしろ怖い。
ようやく、いつもの日常に帰ってこれた気がして、僕は日課をこなすことにする。一日一時間ほどのトレーニングは、十年以上続けてきた僕のルーチンワークだ。決して、世界を救うために始めたわけではない。かえって、今日止めるほうが意識しているみたいで癪だった。
軽く汗ばんだ肌をタオルで拭いて、まだ夕暮れ時だということに少し驚く。一年次は部活で時間を潰してから帰っていたから、日課を終えると夜も深くなるくらいだった。
上気した肌に、もう少しだけトレーニングしてもいいかと思い、休日にしかしないダンベルを使ったトレーニングも始める。これに関しては、なんとなく聖剣に見られていると思うと身が引き締まったせいだ。
適度な疲労感に、重りを収納する。これ以上続ければ、筋トレが趣味ではなく生きがいになってしまう。僕は別に、ボディビルダーになりたいわけではないのだ。
部屋に常備しているボトルに水がなくなり、補充に行こうと思った時、薄く部屋の扉が開いていることに気が付く。相田さんは、夕方五時頃には業務を終えて帰っているはずだ。
「気が散るから、どうせなら全開にしておいてくれ」
僕が声をかけると、扉の向こうからエトソンがおずおずと現れた。扉に体を預けて、なぜか微笑んでいる。
「良かったです。勇者様は、きちんと体を鍛えておられるのですね」
「ただの日課だよ。それとも、君の言う魔王ってやつは、この程度のトレーニングで倒せるようになるのかい」
「勇者様のお強さは、見た目だけでは分からないものです。あの、お水お入れしましょうか」
彼女の言葉に首を横に振り、僕は部屋を出る。エトソンは子犬のように後ろをついてくる。
「前の勇者っていうのは、どんな人だったんだ」
「影勇王アーサーのことですね。今は影の支配下にある彼は、経験の深いお方でした。異世界の地理もすぐに把握され、戦術判断も早いお方です」
えいゆうおう、その響きにどこか含みを感じた。きっと、そいつにとって異世界は、ゲームみたいなものだったのだろう。経験の深いというのは、老齢ということだろうか。聖剣の選定基準は、別に少年少女というわけではないのかもしれない。
「膠着していた戦線は、彼のおかげで切り開かれ、ついに魔王に手が届くと言ったところで、彼は寝返ってしまったのです」
「誰も、その影勇王が裏切りそうだとか思わなかったのか」
「魔王城の前まで、彼は心優しい男性で、共に転生された魔法使いの女性も、異世界であるはずの私たちにとてもお優しく、到底魔王に与するとは思えません。何か事情があるはずと先遣隊を送っても、彼らの力の前には無力に等しく、真意を知ることはできないのです」
ボトルを流しで洗いながら、話半分で聞いていたが、なんだか聞き逃さないほうが良い言葉があった気がして、僕は蛇口を捻って止める。
「待った。転生って、何の話だ。まさか、僕が君の言う異世界に行くためには、一度死ぬ必要があるとか言い出さないよな」
「し、死ぬ!? いえっ、そんな必要はありません。転生というのは、私もよく分からないのですが、影勇王はしきりに自分たちの出自をそうおっしゃっていたのです。私はきちんとゲートを通じて、影勇王と縁のあるはずのこの世界にやってきましたから、アーサーもゲートを通れば、問題なく私たちの国へ向かえるはずです」
良かった。それなら、魔王を倒した後、こちらに戻ることもできるはずだ。って、いやいや、そんなことはするつもりないのだが。
聖剣がどうという話に惑わされて、異世界とつながっているゲートとやらを簡単に受け入れてしまう自分が怖い。だが現実はそのくらい臨機応変でないと前に進めないだろう。
「ところで、そろそろアーサーと呼ぶのを止めてくれないかな。そのエイユウオウとやらと同じ名前だ。エトソンも、国の裏切り者の名前を呼ぶのは嫌なんじゃないのかい」
「そんなことはありません。影勇王は確かに魔王軍に寝返りましたが、彼らがチグリジア皇国の救世主であったことも確かなのです。ですから、救世主と同じ名前というのは、素晴らしいことなのですっ」
「なら、いいけどさ」
そもそも、僕の名前は朝尾なのだけれど。そんなことを言っても、エトソンは聞こうとしないのだろう。
部屋に戻って、彼女の話を聞いているとなんだか不思議な気持ちになる。思えば、家に人を呼んだことも、叶夢を除けば無いはずだ。友達と呼べる人はほとんどいないし、ガールフレンドなんてもってのほかだ。それが今、金髪美少女(聖剣の運命付き)と二人きりでいるというのに、ただ心労が募るばかりである。これは帰納法的に、友達を作らなくてよかったと証明されたのではなかろうか。
やましいことなど起こるはずもなく、不意に鳴った玄関チャイムの音にも驚く必要はない。一軒家の門の前には、部活終わりなのだろう、叶夢が澄まし顔で立っている。
「秀一、今日晩御飯、ウチで食べるでしょ?」
「ああ、毎度すまない」
「いいの。お母さんもその方が喜ぶし。むしろ、私の部活終わるまで待ってもらうのが、申し訳ないくらい」
そんな風に考えなくていいと軽く頭を振ったとき、軽い衝撃が腰にぶつかる。その正体に気が付いたとき、ぽかんと口を開けた叶夢の表情に、僕は背筋が凍るような思いだった。
「晩御飯、私もいただきたいですっ」
「秀一……………え?」
マグロのように忙しなく泳ぎ続ける彼女の目に、僕はしかし射竦められたように動けない。冷汗が滝のように流れているのが分かる。春だというのに、夏のように暑く、冬のように寒い。
「ち、違うっ! ただ、彼女を家で預かることになっただけで、僕は何もしていないっ!」
「彼女? 彼女って何? 今日会ったばかりって言ってたよね。それでなんで彼女なんて言うわけ?」
「そ、それは言葉の綾だっ。はな、話を聞いてくれ、叶夢っ!」
叶夢は両手の指を一本ずつ鳴らしながら、冷たく鋭い視線で僕を射殺さんばかりだ。
「分かった、聞いてあげる。とりあえず、一発殴らせて」
「分かってないじゃないかっ! お前の一発は、銃弾と同じ数え方なんだっ」
尻もちをついて後退する僕は、ついに玄関扉に背が付いて絶望する。いつの間にかエトソンはどこかに離れていってしまったようだ。こういうときこそ姦しくいてくれよっ。
部屋着の襟首をつかまれ、ずるずると体が持ち上がる。今だけ月に降り立ったように、重力から解き放たれ、浮遊感は死へのカウントダウンを始める。神経の全てを腹部に集め、シールドを何重にも張るイメージで目をつぶる。抵抗する方が罰は重くなるのだ。
「————ごはぁっっっ!!!」
住宅街に響き渡る悲鳴は、酔っ払いや子供たちのソレだけではない。冤罪で殴られる無辜の僕もいる。サッカー漫画の必殺シュートのごとく、僕を玄関扉に叩きつけた彼女の拳で、内臓の位置が変わったのではないか錯覚する。錯覚ではないのかもしれない。こんなんで無事な人体の方がどうかしている。
筋トレ直後で少し緩んでいた腹筋が痺れ、体の中の空気が逃げ出そうと頭の方に集まってきたような圧迫感で、僕は瞼が裏返るほど目を見開いた。空気砲の輪っかが見えるくらいに勢いよく口から空気が漏れる。
なすすべなく倒れた僕を、いまだ鬼のような形相で叶夢は見降ろしている。よく考えたら、なんで僕は殴られないといけないんだ。別に、エトソンをどうしていようといいじゃないか。自由な恋愛、略して自由恋愛だ。いや、そんな軽薄な気持ちをよぎらせた時点で、僕は殴られたことに文句は言えないのだろう。
「叶夢っ、すみません。私、叶夢との約束、破っていましたっ」
鬼神の体が揺れる。叶夢の腰に、エトソンが抱き着いていた。そういえば、屋上で、エトソンは僕に抱き着かないようにと釘を刺していたっけ。今はそんな話をしている場合でもない気がするが、ともかく、僕は一命をとりとめられそうだ。
「大丈夫、エトソン。秀一に変なことされてない?」
「はいっ、エトソン・プルルライナ、元気ですっ」
「へ、変な使命を押し付けられているのは、僕の方だっ」
叶夢は鼻を鳴らすと、エトソンを連れて隣家に帰っていく。何はともあれ、誤解は解けたようで良かった。それはそうと、前途は多難だが。
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「アーサー、食べないのでしたら、こちらの料理いただいてもよろしいですかっ」
「……ああ、いいよ」
「あらぁ、エトソンちゃんったらいい食べっぷりね。お母さん、嬉しいわ」
叶夢に殴られた衝撃で、食欲も吹き飛んでしまった僕は曖昧に頷く。エトソンはずいぶんと腹が減っていたのか、山盛りのご飯を幸せそうに口に運んだ。箸の使い方も上手いのか、なんてことで今更驚いたりはしない。
僕のげっそりとした様子に、母親が心配そうな目を向けると、叶夢が先ほどの出来事を説明する。
「もう、叶夢ったら、秀一くんはそんなことしないわよ。ねぇ、お父さん」
「そうだな。そんなに心配なら、叶夢が秀一くんの家に泊まったらいいじゃないか」
「は、はぁ!? もうその話はいいでしょ。秀一、エトソンちゃんに変なことしたら、次は一発じゃすまないからね」
「もう少し信用してほしいところだ、まったく」
話には興味のない様子で、頬いっぱいにご飯を詰め込むエトソンに、僕は肩を落とす。手を出す云々はともかく、もう少し節度というか、きちんと常識を教える必要はあるだろう。無いとは思うが、風呂にまで「ご一緒します」と言われてはかなわない。無いとは思うが。
ひとまず、叶夢の両親には、複雑な事情で冥加学園に転入することになったエトソンを、僕の家で預かることになったと説明し、納得してもらった。複雑な事情について深く聞かれなかったのは、彼らの優しさもあるのだろう。
僕と叶夢は、学園でも少ない第二世代にあたる生徒だ。両親は共に冥加学園の生徒で、その間に生まれた僕たちは、生まれた時から冥加学園と共にある。特進の中でも上澄み、なんて言う人もいるが、ただ生まれも育ちもこの町というだけだ。何の特別があるわけでもない。生まれのせいで、この学園のために身を捧げるなんて、僕はまっぴら御免だ。
「エトソンのこと、急ですみませんでした」
「いいのよ。きっと、また理事長の計らいでしょう」
「何か困ったことがあったらすぐに言いなさい。秀一くんは、うちの子も同然だからね」
「はい。いつもお世話になっています」
夜も遅くなりそうだったので、エトソンを連れて叶夢の家を後にする。電気をつけても夜の匂いがする家の中は、美少女と共にいるには緊張感がある。
「では、今日はお疲れさまでした、勇者様。明日もお供いたしますね」
「待て待て、まだ風呂に入っていないだろう。すぐに湯が溜まるだろうから、寝るのは少し辛抱しろ」
「風呂とは何ですか。アーサー、ぜひ教えてくださいっ」
不思議そうに首を傾げたエトソンに、僕はスマートフォンを取り出し、通話をかけた。僕がため息をつき終わるよりも早く、彼女は応答した。
「叶夢、エトソンを風呂に入れてやってくれっ!」
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何とか問題なく入浴を済ませて、僕はようやくベッドで横になった。ブランケットではなんとなく心もとないので、まだ片付ける前だった掛け布団に包まった。
ようやく一日が終わる。思えば長い一日だった。朝はいきなり二人に起こされ、それから聖剣に選ばれて、かと思えば異世界から来たという美少女と一つ屋根の下だ。ひとまず一件落着したと思いたいが、何も解決はしていないのだろう。
だが、少しだけイレギュラーではあるが、それも日常だと思えば、叶夢とエトソンと、そんな日々も悪くはないのかもしれない。魔王がどうのというのは気がかりだが、この学生生活は案外穏やかに、幸せに過ごしていける気がしてきた。
いや、だが何かを忘れている気もする。まだ向き合っていない何かがなかっただろうか。聴覚でも触覚でもない感覚が、気配を感じ取った。
「やぁ、僕を呼んだかい。朝は少し気が動転していたようだけど、もう落ち着いたみたいだね」
相変わらず薄ら笑いを浮かべた少年、フラテルニテとやらは、僕が身構えるよりも早くベッドのそばに現れた。病院に見舞いに来た親戚のような微妙な距離感で、彼は横になったままの僕を覗き込む。
「呼んでいない。早く消えてくれ」
「ずいぶんな物言いだね。僕は、君だ。そう簡単に消えることはできないんだ。それに、僕だって君が運命を抱え込むから大変なんだ。君だって、何かが起こる予感がしているんだろう?」
「だとしても、僕はこの平穏が好きだ。一人で落ち着いていられる時間が好きだ。何も起こらないなら、ずっとその方がいい」
僕は寝返りを打つ。フラテルニテは、背を向けても声色一つ変える様子がない。
「君がそう思うのは勝手だ。でも、運命は君を待ってくれない。あの聖剣の運命を、君はうまく先送りにしたみたいだけど、いずれ選択の時はやってくる。君が認めようと認めまいと、君は主人公なんだ、秀一。いずれ、運命は君に牙をむく。君は、運命に立ち向かわないといけないんだ。君のためだけじゃない。君の大切な———」
「分かってる。分かってるよ、そんなこと」
僕が掛け布団の中で体を丸めると、彼の声は遠のいていくようだった。握った両手に顔を埋めるように、僕は小さくなる。それが僕の眠る姿勢で、ある意味で、僕の夢への入り口だ。
世界と自分の境がなくなっていくような感覚の融解。僕は夢の世界へ意識を投げ出した。
次回1-2『ミステリ研究会という名のホラー同好会』
平穏を願う少年、朝尾秀一。ひょんなことから聖剣に選ばれた彼は、しかしいつも通りの日常を過ごそうとする。
片隅の安全地帯、ミス研に身を寄せた彼を待ち受けるのは、運命の託宣————。
「決められていない未来にこそ、人生の本当の価値がある。あなたは、そう思わないの」




