4-3 きれいな花には茨がある
〇これまでの登場人物(主に四話登場)
・朝尾秀一
この物語における騒動の中心である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
・奔羽たあむ(ほんば たあむ)
日本中で話題沸騰中の直感系アイドル。『本バタ』『ばたみゅ』などの愛称で親しまれる国民的美少女。冥加学園からの融資を受けた返礼として、冥加市でテレビ出演等の社会参画を行なっている最中。
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・九沙吹藍良
冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。剣道部に所属しており、竹刀を携帯している。大体いつも第二図書室にいる。
・蒼天
勝紋麾下の鉄砲玉の青年。低い背をコンプレックスに感じており、目つきの悪さで威圧感を出している。
・帕陽
勝紋麾下の呪具師。呪術を扱えないが、天性の才能により強力な呪具を作成できる。ただし、その効果は本人には分からない。
うっすらと他人を見下す毒舌少女。
・告陰
勝紋麾下の呪術師。呪具を用いて、他人を呪う霊媒師。呪いの儀式のためにあらゆるものを口にし、感覚のズレてしまっている陰気な少女。
・カラヒナ
秘密実験所で生み出された怪物の少女、あるいは少女のような怪物。自在に腕や足といった器官を生成できるほか肉体の構造を変化させる、人知の及ばない能力を持つ。
人見知りのため、後藤以外とのまともな会話は苦手。
・後藤
カラヒナを導く謎の老人。かつてはヒノキの師匠をしていたらしい。
・百合原恵夢
秀一のクラスメイトの少年。百合好きの明るいお調子者。なんだかんだ生徒会執行部の一人。
・青枝桧希
衒いのない、感じの良い青年。ヒノキという名で殺し屋をしている手先の器用な男。
・アマリリス
中央教会の司祭。日本語英語イタリア語を操る少女。
焦るような足音が、冥加市郊外の路地裏を進む。ハレの空は彼女を眩しく照らし、じんわりと汗をにじませた。直前まで悩みぬいた服装は、路地が日陰に入っていくにしたがって皺を増やす。ヒールのはっきりとした足音が反響する間に、何倍もの足音が彼女に近づいてきていた。
「なぁ、嬢ちゃん! ちょっと遊ぶだけでいいからさぁ、そう逃げるこたぁないだろう?」
「そうそう。ケケッ、痛いことはしないからさぁっ」
排気ガスとカビで汚れた白壁に響く足音を冷静に分析し、鉢合わせないように角を曲がりながら、長身の少女は手元のスマートフォンで素早く検索する。
「……遊園地、汗、対処法————」
時刻は九時を回ろうとしている。まもなく開園時間となるが、少女は未だ電車でも間に合いそうにない場所で足止めを食っていた。厄介な男たちの下卑た声は、振り切るどころか次第に増えてきているようにすら感じる。
「なぁおい、いい加減止まれよっ! つか脚速ぇな!」
「お前はあっちから回れ! 手間取らせやがって、ガキが! 車回す準備しとけ!」
検索AIも納得のいく答えはもたらしてくれず、少女はため息を吐く。陰であっても、湿った汚い熱気の溢れる路地裏は、額の汗をとめどなく誘発した。手の甲で拭った汗の多さに、我がことながら辟易する。
足音から逃げるように進むと、さらに路地の影は濃くなる。ながらスマホは誰にも益をもたらさないようで、少女が顔を上げると、そこは行き止まりであった。
「九沙吹ちゃぁん、やっと追い詰めたよぉん。ひらひらのスカートでケツ振って、誘ってんのかぁ?」
「……どうして、私の名前を知っているの?」
輝く刃のナイフを懐から取り出した男に、少女——九沙吹藍良は静かに聞き返した。男はナイフの両面をいつくしむように眺めた後、おかしそうに笑いだす。
「それは、俺たちが何でも知ってる無敵の殺し屋だからさぁ! 嬢ちゃんみたいな一般市民のことは、一日のトイレの回数まで丸わかりなんだよなぁ!」
汚い高笑いが伝播し、トンネルのように声が流れていった。影の奥から、無数の下品な目が凛とした少女を見つめた。少しだけ冒険した格好は、制服よりも刺激的である。
男の告げた、非現実的な自己紹介に、少女は少し驚いた様子で顎に軽く手を当てた。男の柄シャツの下に覗く虎の入れ墨は、それほど説得力を補強しない。
「殺し屋……見た目からは、想像もつかないけれど、例えば、私の何を知っているの?」
怖がるそぶりも見せず、淡々と聞いた少女に、男たちは笑いを止めた。指の骨を慣らして、一歩前に出ようとした大柄な男を制して、カメラを構えたO字ハゲの男がにやにやと呟き始める。
「九沙吹藍良、冥加学園高等部の二年生。剣道部の特待生として、二年次から編入し、大会での優れた成績から授業免除の対象となっている。人目を避けて過ごす美しい姿からついたあだ名は、『孤高のマドンナ』。いつも携帯している竹刀は、ヒヒッ、今日こそ持っておくべきだったねぇっ」
「……そう。それが、私の『何でも』なんだね。
……私は今日、家を出てから二回トイレに行った。多分、これからもう一回行くことになると思う」
少女はポーチから取り出したハンカチで汗を拭ったが、すでにハンカチは汗を吸えるほど乾いてはいなかった。うっすらとファンデーションの移ったハンカチを見下ろした少女は、訝し気に鼻を近づける。蒸れた汗の匂いに目を細めて、高い放物線でハンカチを男たちの方へ投げ捨てた。口笛と統制の取れていない声が溢れ出し、無数の手が少女の捨てた濡れ衣を奪い合う。
「最初は一時間もかかったけど、二回目は十五分に縮められた。だから、予定にも間に合いそうだったのに、あなたたちのせいで間に合わなくなった私の気持ちは、わかる?」
淡々と、しかし、水量を増す川のように力強い言葉尻に、一瞬男たちの息が止まる。すぐにリーダー格の男が声を上げて、士気を思い出させた。
「ガキ相手にビビってんじゃねぇ! お前ら、こんなアマさっさと捕まえろ! 引き渡すまでは、胸でも髪でも好きにしていいぞ!!」
男の声に、路地裏が祭りのように騒がしくなる。九沙吹は、最後にもう一度、時刻を確認した。予定三十分前のアラームが、スヌーズ機能で再び鳴っている。もはや、全力で走っても間に合いそうにはなかった。
**************
少し時を遡り、朝八時前。冥加市内の興行施設群、セントラル・スカーヴァティーでのイベントのため、奔羽たあむはいつも通りの時間に朝食を済ませた。まだ眠そうな彼女の臨時プロデューサーを追い立てながら、嵐のように玄関を飛び出していく。
「アーサーっ、また遊園地で」
「ああ、先に行っているよ。叶夢、エトソンがはぐれないよう、頼むな。集合場所、大丈夫だよな」
「もう、そんなに心配しなくても、私は行き慣れているから平気。それより、ちゃんとエスコートしてよね? 一応、秀一からの誘いなんだから」
「はは、四人となると荷が重い気もするが………」
その知名度故に、公共交通機関を使用できない奔羽専用のタクシーが到着し、急かされながら、秀一も後部座席に乗り込んだ。走りだした専用車の排気音が聞こえなくなるまで、元気に手を振り続ける自称異世界人を、複雑な気持ちで叶夢は見つめる。
「叶夢っ、私たちも準備をしましょうっ。今日は、お化粧というものを教えてくださるのですよねっ」
「ええ、エトソンちゃんも、元の世界? でしていたと思うけれど、せっかくのお出かけなんだもの、おめかしは————」
玄関をくぐり、何気ない会話を装いながら、エトソンが背を向けた瞬間に、叶夢は彼女の秘孔を突いた。異世界人は、衝撃の正体に気が付くことも無く意識を失う。華奢な体が廊下に倒れたのを見計らって、部屋の影から小柄な男が現れた。
「ひゅう、恐ろしく速い手刀だな。俺でも見逃しそうだったぜ」
「ごちゃごちゃ言ってないで運んで。それより、本当に信用できるんでしょうね」
「おいおい、直前になって日和る気か? 俺は別に、お前を殺しても報酬がもらえればいいんだぜ」
見た目通り身軽な少女を肩に背負い、蒼天はフードを被った。オンボロのフードは、見下すような目から彼を隠す。
「他の奴らも、すでに予定通りの場所に配置してある。すぐに捕らえて、配信の準備を進めるさ。後は、あんたのお望みどおりに、あの男が助けてくれることを信じるくらいだ。見るからにヘタレそうなやつだったが、110番のやり方を教えなくて良かったのか?」
軽薄な口調を鼻で笑うと、叶夢はスマートフォンの画面に目を落とした。幼い頃の秀一の笑顔は、いつだって彼女に、前に進む理由を教えてくれる。
「御託はいい。あなたが信用に足る殺し屋でなくても、きっと、運命が導いてくれるはずだから」
**************
時刻を同じくして、冥加市の路上を歩く少年がいた。目的は当然、セントラル・スカーヴァティーで行われるという、大人気アイドルのイベントである。超倍率でありながら、生徒会の縁でチケットを手に入れたその少年は、そういえば、クラスメイトも行くと言っていた気がすると思い出しながら、朝も早く人気のない路地を進む。
歩道の端になんとなく寄りながら、ネットサーフィンをして、女性同士の緩い友情的交流を観察していた少年は、うっかり誰かにぶつかってしまう。
「あっ、す、すみませんっ」
「い、いえいえっ、だ、大丈夫ですっ」
彼より少し背の高い女性は、初夏だというのにトレンチコートを着込み、麦わら帽子にマスクまでしてずいぶんな日射嫌いだ。というよりも、夏の路上に不釣り合いな格好は、もっとインモラルな想像を加速させる。じっと少年が女を見上げていると、帽子とマスクの間で、挙動不審に視線が揺れ動いた。
「あ、あの、えっと、その、わぁぁああああっ!」
「え? んぐぃぃぃぃぃっ————!」
気まずい沈黙にうろたえた女は、コートの隙間から四本の腕を振り回すと、ついに少年の首を締め、軽々と宙に持ち上げてしまう。突然のことに、サイキックでも使われたのかと錯覚した少年は、窒息感に意識を失いそうになりながら足をばたつかせた。天へと向かい狭まっていく視界は、いつまでも青い。
女のインカムから雑音が発されると、我に返った女は少年から手を放した。
尻もちをついた少年は、さっきよりも何倍も大きく見える女を見上げた。トレンチコートの向こうで、長い髪が揺れている。ハプニング露出魔かと思われた違和感は、一瞬にして恐怖の怪異と認識される。心の中で呪文を唱えようとしても、お転婆な少女漫画の主人公が間違えて唱えたスペルしか思い出せない。
「あ、あの、百合原恵夢さん、ですよねっ?」
「ぽ、ぽぽぽ、ぽま……?」
震えてうまく動かない口の代わりに、百合原は細かく頷いた。ゆっくりと後ずさっても、影はさらに大きく彼を覆う。
「あ、えっと……わ、私って、キレイ、ですかぁ?」
「ぽ、ぽまぁ————!!」
マスクを外した女の顔は、耳元まで大きく口が裂けていた。それどころか、目も鼻も無いように、大きな口が呑み込もうとその唾を垂らしている。粘着質な内壁の質感すら肌を舐めるように思えるほど近づいたとき、百合原の意識は視線と共に世界を一周し、ついに気を失ってしまう。女の耳元から漏れた雑音がため息であることは、遠い意識でも分かるほどだ。
「カラヒナ。私は確かに、路上で怪しまれずに声をかける方法を考えてこい、と課題を出したはずだが」
「だ、だから、そのっ。路上に怪物がいても怪しまれないために、民間伝承になりきってみたのですがっ!」
重ねてため息が電気信号に変わる。性能のあまり良くない通信機では、長い吐息はノイズに溶けて消えていく。
女の顔が元のあどけない困り顔に変わっても、コートの中で暴れる腕はそのままだ。
「怪物であろうとするな、カラヒナ。お前は殺し屋であって、それは同時に人間であるということだ。社会に生きる者としての自分を意識してみろ。誰かと談笑し、気さくに関係性を広げる自分を想像するのだ」
「む、む、無理ですよぉっ。体が勝手に動いてしまうんですっ」
カラヒナは、気絶した少年の傍に屈んだ。胸や腹、太ももから生えた腕が、自由気ままに少年の体を探る。別個の生物のように動く指は、ちょうどつかみやすい隆起を見つけると軽く揉んだ。今にも少年を引き裂かんばかりの腕々を、女は慌てて体に戻す。
「それなら、考えを変えてみろ。お前は、人間に擬態する怪物だ。人間をよく観察し、ばれないように世界に溶け込め。人間は二本の腕と脚、そして表情豊かな顔を持つ。その姿を模倣するのだ」
「ぎ、擬態……。こ、こうですかっ」
勢い良く立ち上がったカラヒナに、どこかから見守る男は肯定を返す。腕の生えていない体のラインは細く、トレンチコートはすとんと落ちる。細いシルエットのせいで、サイズの少し大きい上着は、妖艶な怪しさを増していた。
「その調子で、続きだ。その少年を運べ」
「わ、分かりましたっ」
少し上機嫌になり、カラヒナは両こぶしを握って、自分にガッツポーズを送る。地面に倒れた百合原に背を向け、スキップしながら歩き出した。そのふくらはぎから伸びた腕が、少年の足を掴み、路上を引きずる。
「これは、先が思いやられるな……」
**************
初夏とは言え、人が集まれば熱気で体感温度も上がるものだ。
各所のイベント準備を終え、開幕告知の配信に向かった奔羽と別れた僕は、一人で遊園地の入り口に立ち尽くしている。会場は洪水のように人が溢れ、先に来たからといって列の前に並ぶことが得策ではない状況だ。ようやく門が開かれ、ダムの放流のごとく、人波が流れていく。待ち合わせの時間はちょうどこの開門時間にしていたが、交通網の渋滞も考えれば、遅れてくることも致し方ないだろう。
ぼんやりと雲の数でも数えながら、穏やかな時間が過ぎていく。今まで、友人と遊ぶなんてことも無かったせいで知らなかったが、案外人を待つというのも悪くない。少しじれったくはあるが、それだけ期待も高まるというものだ。「おまたせ、待った?」「いや、今来たところだよ」というには時間が経ってしまったが、幸福の約束された待ち合わせというのは心を軽くしてくれる。
十時を回り、いよいよ期待よりもむずむずとした不安が勝り始める。エトソンはともかく、叶夢は遅刻をするようなタイプではない。九沙吹さんは遅れると言っていたが、上吉は迷っているのかもしれない。とはいえ、駅まで迎えに行く方がいいのか、大人しく待つべきかの判断は軽々に決められなかった。
周囲を見ても、待ち合わせ中だろうか、ベンチや木陰にたたずむ人は多い。タクシーで来たせいで分からなかったが、来る道は複雑なのかもしれない。
「そういえば、奔羽の開幕挨拶が始まる頃か」
手元のスマートフォンでイベントサイトを開き、未だ準備中と表示されている開幕セレモニーの配信を視聴してみる。本来なら、今頃は冥加市出身の俳優やリポーターによる、施設案内の時間のはずだが、何かトラブルでも起こっているのだろうか。
「お、始まっ————」
画面が切り替わり、到底遊園地の告知とは思えない、悲壮な効果音と共に幕が上がる。今回は奔羽のイベントであって、夏のホラーイベントでは無かったはずだと抱かれた疑問は、次いで画面に映された異常な現場の様子で吹き飛んだ。
「おぉ、これで配信が始まっているのか! ガハハッ、音響と言ったか。まさにオレにふさわしい音だな! オレと旅をして、武勇伝を語り継ぐ気はないか?」
天井に軽々と触れそうなほど体格の大きな男は、自分がカメラに映っていることなど気にもしないように、画面外の誰かに向かって胸を叩いた。ゴリラのドラミングのように、力強い破裂音は、その筋肉の隆々とした脈動を知らしめる。
それ以上に、その太い腕が掴んだ少女の姿は、僕の目を興行施設群の中心に向けさせた。配信を行うはずの担当アイドル、奔羽たあむは、赤子のように摘まみ上げられている。その目は、これが趣味の悪い演出などではない、異常事態であるとカメラ越しに伝えていた。
「まぁそれはいい。この配信を見ている者たちに問おう。オレの名は、丈夫! 今オレは、とある人間を探していてな。心当たりがあれば、オレの所へ来い!
一人は女だ。名は算宇、身長はこのくらい………いや、もうかなり前だし、このくらいには育っているか! 白い光を放つ水晶玉を持った、細身の女だ」
丈夫と名乗った男は、自分の腰元から胸の間で、地面と平行にした手を上下させる。
なんだ、こいつは。冗談にしたって、たちが悪い。人探しにしては横暴なやり方にも、まるで自分が正しいと思っているような態度にも、あまりの常識の違いに恐怖を覚えてしまうほどだ。同時に、スタッフの誰も抵抗ができないであろうことも、一目でわかってしまう。
「もう一人は黒髪の男だ。オレよりは細く、風のように動きが速い! ガハハっ、まぁ顔を見てもわからん。ここに来て、オレと手合わせしよう! お前から受けた傷が、まだその力を覚えているからな!」
丈夫が、大玉スイカを握りつぶせそうなほど大きな手に視線を落とした瞬間、カメラの死角から消火器が投げつけられる。鈍い音を立てて男の足にぶつかった消火器は、地面に転がると寂しく転がった。男は蠅でも止まったように、その放物線の元に目をやった。
「お、お前なんかに、イベントをめちゃくちゃにさせてたまるかっ! た、たあむちゃんを守るんだっ!!」
「ほう、腰が抜けているようだが……ハハ、その意気や良し!」
「やめてっ————!」
職業柄か、震えながらも配信カメラが画角を変える。アイドルの悲鳴に、一瞬動き過ぎた画面は、すぐに突進してきた青年を捉え、同時に丈夫も画面内に収めた。
男の叫喚に顔を緩ませた丈夫は、表情を引き締めると真っ向から突進を見据える。電波塔『ユーフォリア』の防犯設備だろう、到底男の体を拘束できそうにないさすまたは、案の定正面から掴まれ、弾き飛ばされた。
奔羽を左腕に抱えたまま、何倍にも膨れたように見える巨漢の右腕が、細身の青年の肩を殴り飛ばし、残像すら見えない速度で画面外へ弾く。一瞬だけ、青年を追おうとしたカメラは、壁の砕ける轟音に、素早く丈夫を画面中央に据える。画面の外から、スタッフたちの悲鳴が聞こえた。
「心配するな、まだ殺しはしない。そうだな、夕刻までは待つことにしよう! それまでに二人が来なければ、この女は殺す。この場にいる一、二………まぁ、他の人間もだ。場所は、この尖塔が分かりやすくていいだろう。こいつを殺されたくなければ、隠れていないで出てくることだな! ガハハッ!」
「助けて、プロデューサーっ————!!」
男の豪快な笑いの残響が消えないうちに、配信は閉じられた。周囲の人たちは、配信を見ていないのか、変わらず一様に顔を落としている。SNSではすでにあちこちに拡散され、演出かトラブルかでおおよそ二分されていた。だが、僕には、これが予定されていない事件であることが嫌でもわかってしまう。
まずは警察————いや、警察に連絡してどうなるというのだ。それよりも、中央教会に連絡する方がいいだろう。丈夫という名は、確か、アマリリスが探していた相手だったはずだ。珍客ではなく、本物の殺し屋が、なぜ奔羽を狙うのか。荒唐無稽な蛮族の考え方など分かるはずも無く、僕はともかく『ユーフォリア』に向かうために歩き出そうとする。待ち合わせなど言っている場合では無い。
穏やかな木陰から出ようとした瞬間、ポケットに入れたスマートフォンが震える。叶夢からの着信だ。ちょうどいい、今日の予定は幼馴染に任せることにしよう。あるいは、叶夢も配信を見て連絡してきたのかもしれない。
「叶夢、ちょうどよかっ、た————?」
おそらくエトソンとこちらに向かっている途中のはずの通話先は、なにやらどたばたと忙しない音が響いている。最近のスマホは、周囲のノイズをマイクで拾わない機能が付いているようで、遠くの方で棚をひっくり返したみたいな騒音がかすかに聞こえる。
耳を澄ませていると、知らない男の声が聞こえてきた。
「よぉ、呑気な幼馴染さん。お前の大切な女は預かった。コイツの命が惜しければ、お前ひとりで冥加埠頭まで来い。警察に言ったらどうなるかくらい、考えなくてもわかるだろう?」
「……それより、あんたは誰だ? 今、急用があって、冗談を聞いている時間は無いんだ。僕の幼馴染の落とし物を拾ったんなら悪いが、交番にでも届けておいてくれ」
ずいぶんと性格の悪い悪戯電話だ。まるでテンプレートみたいな脅し文句に、僕はため息を吐く。スマホを拾っただけなのに、一々知り合いにこんな電話をするなんて、きっと日々が上手く行っていないのだろう。
まぁ万が一本当に誘拐犯だとして、エトソンはともかく、叶夢が攫われるはずはない。スーパーの反対端からでも、僕が袋菓子を入れる音を聞きつけるような奴を捕まえるなんてことは、例え殺し屋でも無理だろう。むしろ、無理があり過ぎる設定に、少し焦っていた思考が冷静になってきた。
いや実際、僕を狙っているという『新支配者の饗宴』の関係者なのかもしれないが、それにしては声が幼すぎる。どすの利いた声とはいえ、叶夢は少年一人にどうこうできる程度のか弱い乙女ではない。
十中八九、悪戯だろうと通話を切ろうとしたとき、突然画面がビデオ通話に切り替わる。どこかの倉庫だろうか、広く暗い空間に手を後ろに回した叶夢が映っていた。
「しゅ、秀一ぃ……た、助けてぇ……私、誘拐されちゃった……」
目を潤ませながらそうか細い声で呟いた叶夢に、僕は頭が痛くなり始める。
知らない誰かの悪戯なら、適当にあしらって終わりでいい。だが、幼馴染が関わっているなら話は別だ。今日は彼女の誕生日でも他の記念日でもないはずだが、あちこちに謎解きを仕掛けて、市内全域でリアル救出ゲームをしようと言い出す可能性すらある。
「叶夢……。本当に、今は時間が無いんだ。聞いてくれ、奔羽が大変な状況で、すぐに行かないといけない。話なら、後で聞くから、今はごめん。頼むよ」
後でごちゃごちゃ言われるかもしれないが、今は奔羽の命の方が優先だ。僕は通話を素早く切って歩き出す。少し大声で通話し過ぎただろうか、周囲の人たちが僕の方をじっと見つめている気がしてきた。もしかすると、僕が奔羽たあむの臨時プロデューサーであることがバレたのかもしれない。一応、僕の顔は全国紙に掲載されているという。恥ずかしくて見られるものではないが。
**************
「————おい、切られたぞ」
「あなたの殺気が足りないんじゃない?」
「お前が棒読みだからだろっ!!」
特に拘束されていない手を楽にして、怒り出した蒼天にため息を吐く。幼馴染が誘拐事件に巻き込まれるはずがない。そんな正常性バイアスは、彼の心に強く根付いている。いや、そんな日常を根付かせてしまったのは私だ。
とはいえ、ここまで上手く行かないと、わざわざ昏倒させたエトソンにも悪い気がしてくる。他の二人を捕獲するために使わせたという手下が帰ってきていないせいで、彼女は冷たいコンクリートの床の上で一人寝かされているままだ。
「クソがっ、女二人捕まえるだけで、どこで道草食ってやがる! おい、あいつらが帰ってきたら、もう一度かけ直すぞ!」
「それはいいけど、何か信用させる勝算はあるの?」
「決まってるだろ? 今度は本当に怯えてもらう。あっちのガキでも、お前でも、血ぃ流せば、いやでも信じるだろうよ」
いらだった様子で連絡用の端末を叩き、妙な文様の入ったナイフで私を指した低能に、ほとほと困り果てる。こんな調子で、本当に秀一の力を引き出せるのだろうか。今から後始末のことを考えると頭が痛い。確かに、街で無防備に姿をさらしているような殺し屋たちよりはずっと強いのだろうが、どんぐりの背比べというか、所詮は二流の人間に見える。
「それにしても、幼馴染だってのに、あんなに冷たいなんてな。本当は、お前のことなんて、何とも思ってないんじゃないのか?」
「異国人には、私たち日本人の素晴らしい愛情が、理解できないみたいね。裏切り報復のお国柄が知れるわ」
「それは国と関係があるのか? まあ、愛情だって言うなら、理解できなくもない。俺だって、家族みたいなやつらが同じようなことをやってきたら、きっと笑い飛ばしちまうしな」
同情するように肩をすくめた蒼天は、退屈を紛らわせるために、携帯端末をいじり始める。何気なく更新した殺し屋掲示板のタイムラインは、一瞬にして一つの話題で埋め尽くされた。
「なんだ、俺たちのことがニュースに……ったく、丈夫のやつ、秘策ってこれか?————なぁおい、この写真の女、朝お前の家にいたアイドルってやつじゃないのか?」
「女? ああ、奔羽たあむでしょ。世界的に有名なアイドルらしいけど、あなた知らなかったの?」
仕事中にスマートフォンをいじる意識の低さに呆れた私に、蒼天はわざわざ画面を見せる。あらゆるホットニュースの一面は、そのトップアイドルが人質に取られたことを報道していた。
「————は?」
「奔羽って、さっき標的が言っていたやつのことだろ。大変な状況って、これのことじゃないか?」
「それ以外に何だって言うの! そりゃあ、あなたの大根演技に見向きもしないわよっ。こっちは、本当の事件なんでしょう!」
「一応、知り合いだから連絡は取れるが……どうせなら、こいつを見捨てて来させるほうが澪河の望みだろうな」
予想外の展開、理外の突発的事象。イレギュラーが起こるなんて、当たり前だと思わなければ、今日まで秀一の隣にはいられていない。とはいえ、これはあまりにも予想だにしていない波乱だった。
社会的な要請よりも、個人の感情を優先する。それは確かに、とてもドラマチックな展開だ。だからと言って、仕事と私なんて二項対立とは話が違う。奔羽たあむが犠牲になれば、彼にとっての日常が崩壊することは間違いないだろう。しかもそれは、私やエトソンの命と違い、復讐に彼を燃えさせることはない。至らなさを自覚させ、徒なトラウマを植え付けるだけの、計画にとって癌でしかない状況だ。
最も理想的な状況は、秀一が私を助ける過程で覚醒し、そのまま奔羽を救うことではある。しかしそれでは、私は彼にとって、通過点でしかなくなってしまうかもしれない。
アイドルのライブに誘ったら、そのアイドルのプロデューサーに指名され、ひょんなことから巻き込まれた事件をきっかけに、冴えない主人公の魅力に気付いたアイドルに惚れられる。なんて運命的で主人公に都合のいい恋愛の始まりだろう。私は彼を運命に誘い込むだけの存在になり下がり、彼女の魅力に、運命の強さに敗北し、ヒロインどころか物語からすらいないものにされてしまう。
世界は、必ずしも恋愛ゲームのグランドルートではない。誰もが幸せになる大団円は起きず、苦汁を飲み込む道が正史となってしまうことは、現実という語そのものだ。
私は、いったい何に迷っているのだろうか。私が考えるべきことは、秀一の幸せだけでいい。彼が世界的なアイドルと結ばれるなら、電波系自称異世界人よりずっといいじゃないか。どうしたって、救世主である彼が遠い所へ行ってしまうことは、この運命において確定的なのだから。
「お、ようやく帰ってきやがった。にしても一人だけか? まさか、逃げてきたわけじゃねえだろうな……」
倉庫の外から響いてくる足音に、蒼天が顔を上げる。
どちらにしても、私にできることは、主人公の行く道を支えることだけだ。たとえそれが、彼にとって空気のようなものになり下がる世界線だとしても、秀一の幸せのためなら、この身などどうなっても構わない。
頭では分かっているはずなのに、どうして彼女の鮮烈な運命を羨ましく思ってしまうのだろう。そもそも、私が秀一と結ばれるはずはないのに、どうしてそんな運命を期待してしまうのだろう。
「やぁ、こんにちは。楽しそうなことをやっているみたいだけど、僕も混ぜてくれないかな」
ようやく登場した爽やかな青年に、蒼天は大きな舌打ちを鳴らす。運命に踊らされるのは、私だけではない、脇役たちの宿命らしい。闖入者の隠しきれない殺気は、明らかに手下のものとは思えなかった。
「————誰だ、てめぇ」
蒼天は携帯端末をしまうと、両手に凶器を構え、警戒態勢を取る。ようやく、殺し屋らしい殺気を放ち始めた小さな殺し屋の言葉は、絡まり始めた運命の始まりを告げるように聞こえた。
**************
「——『ユーフォリア』での件ですが、すでにこちらでも協議が始まっています。一五時にはこちらから守護者を派遣し、対処する予定です」
「十五………って、それで状況が変わったらどうする気だ! とても計画性があるようには見えなかったぞ。夕刻だって、具体的な時間は指定されていない。あんな奴の言葉一つで、奔羽の、人質の命が変わってくるんだ!」
「そうは言われましても、こちらも枢機卿からの返答待ちでして。我々の姿が公共の電波に乗ることは避けねばなりませんから、情報操作の手配にも時間がかかります。『新支配者の饗宴』の参加者が、この機に朝尾様を狙う可能性もあります。心中はお察ししますが、安全な場所での待機をお願いします」
煮え切らないアマリリスの態度に、僕は深く息を吐く。彼女に怒鳴ったって、何も状況は好転しない。それに、僕のような門外漢が勝手に動く方が良くないというのも道理だ。殺し屋のことは、殺し屋の方が詳しいに決まっている。だから今は、動かないほうがきっといいはずだと信じるしかない。
通話が終わり顔を上げると、雲の出てきた空は、途端に世界を暗くしたように感じさせる。木陰と歩道の境が無くなって、僕は一歩を踏み出す。進むのか? いったい、僕に何ができるというのだ。頭を下げて、解放を願うのか? あの大男が探している二人を探す? 無茶だ。この世界の半分くらいの人間が当てはまるだろう。
結局のところ、僕は無力なのだ。一歩を踏み出す勇気もない、何かを変える力もない。そんなただの一般市民なのである。きっと誰かが上手く対処してくれる。僕たちは何十年かして、大御所になった奔羽を見て、食卓であんなこともあったと笑い合うことだろう。
僕は不意の悪寒に、自分の足元から顔を上げた。気のせいだろうか、周囲は先ほどまでと変わりはなさそうだ。これといった異常もないと自分を落ち着かせていると、駅への道のりから駆けてくる人影が目についた。遠目では豆粒のように見えるが、近づけばその高い身長ですぐに誰か分かる。立ち止まっているのもじれったかった僕は、軽く駆け出して彼女の方へ向かった。
「……まだあなたがここにいるとは思わなかった」
「実は、いろいろと事情があってさ。来てもらったのに申し訳ないんだけど、今日は一緒に遊園地に行けそうにないんだ」
軽い黒のシャツの下からラッシュガードで腕を守り、スリムなパンツスタイルの九沙吹さんは、僕の言葉の続きを待つようにじっと視線を降ろす。近づいて初めて気が付いたが、彼女は誰かを担いでいた。小柄なおしゃれさんは、よく見ると上吉だ。
「えっと、上吉を運んできてくれたのか?」
「……道に迷っていたから、助けてきた。それで、あなたはどうしてここにいるの?」
道に迷った人間を抱えて助けるというのも随分アクロバティックだが、ぐったりとした上吉が日射病にでもなっていそうで心配だ。繰り返すように問う九沙吹さんに、僕は事情を話すか迷う。奔羽のことは、あくまでプロデューサーとして、そして中央教会の対応を待つ僕の事情だ。九沙吹さんには、そして上吉には、そんなことを気にせずに遊園地を楽しんでほしい。
「ちょっと、奔羽——この前、会っただろう? あの女の子に急用ができちゃったんだ。それで————」
「そんなことは、知っている。私が聞きたいのは、どうして、あなたがこんなところで足踏みをしているか、ということ。どうして、その足で助けに行っていないの?」
「そ、それは、僕なんかが行ったって————」
僕の言い訳を見下すような冷たい視線に、思わず言葉が詰まった時、蜘蛛の糸のように着信音が鳴り響く。慌ててスマートフォンを取り出すと、発信者は叶夢だ。また悪戯だろうが、今は助かった。
「ご、ごめん。電話……」
自分でも情けない声で通話に応答した僕は、画面に映された赤い色をとっさに認識できない。それは、血の色だ。そう理解すると同時に、小さな画面の中で、幼馴染の安否を確かめるために、ぼやけた汚れの隙間に視線が集中する。
一瞬白い何かが近づいてきて、レンズを汚していた血液が拭き取られる。さっきとは違う、明るい表情の青年が、血の付いた幅の広い長刀を持ったまま、軽く後ろに下がった。
青年の陰に隠れていた倉庫の様子が、ゆっくりと視界に入る。まだ無事な叶夢の表情は、先ほどとは全く違う緊張感に強張り、小柄な男は人形のように四肢がもがれ、地面に転がっている。始末したのは、間違いなくこの青年だろう。とはいえ、その残酷な凶暴性は、叶夢を助けてくれた誰かとは思えなかった。
状況を正確に把握するまえに、青年が口を開く。
「こんにちは、少年。僕は、青枝桧希。『新支配者の饗宴』のことは聞いているかい? 彼女を日常に帰したかったら、大人しく冥加埠頭に来てよ。それじゃ、待ってるから」
「待っ———」
叶夢の口が何かを言おうと開きかけて、言葉になる前に画面が暗転する。有無を言わせない脅迫に、僕は言葉を失った。途方もない絶望感に、足から力が抜け、気づかないうちに地面にへたり込む。何かの嘘か? こんな僕を、どこかで誰かが撮影でもしているのか?
思考が正常に回っていないことが、自分でもわかる。これは現実か? 僕はどうすればいい? どうしようもない。あの小柄な男のように死ぬ、殺される。それは嫌だ。でも、叶夢が殺されるのは、もっと受け入れがたいことだ。
奔羽のことはどうする? 中央教会は、本当に彼女を助け出せるのか。でも、僕が行ってどうなる? 無様に殺されて、叶夢も死ぬことになるだろう。男の要求も満たせず、奔羽も殺されてしまう。
ああ、何も守れない。僕の手から、すべてがこぼれ落ちていく。僕に関わる誰もが不幸になって、世界は暗く落ちていく。だけどそれすら、現実においては、ほんの何人かの死に過ぎないのだろう。僕は世界の染みにすらならず、永遠に誰からも思い出されない死に埋もれるのだ。
「————目を開けて、立ち上がって。そうしないと、何も救うことはできない」
冷徹に、淡々と、しかし熱のこもった声が、僕に向けられる。九沙吹さんが、立つこともままならない僕を見下ろしていた。その目には、一片の曇りも無く、僕を射抜くように向けられている。
「立ち上がったって、何を救えるっていうんだ……僕に、僕なんかに何ができる————」
「何もかもだよ。あなたは、すべてを救う。だって、あなたは主人公なんだから」
九沙吹さんの声は、嘘をついているようにも、何かに魅入られている様にも見えない。ただ実直に、彼女の言葉だけを口にしようとしているように思えた。
「僕は、主人公なんかじゃない。そんなこと、僕には無理だよ。立ち上がったって、どうやってみんなを救うって言うんだ。拳を握れば、何か変わるとでも言うのかい?」
「力だけじゃ、この世界は何も変えられないよ。だけど、あなたはそうじゃない。どうしようもない暗闇を、迷惑な、自分勝手な光で照らして、手を差し伸べようとした。そんな人のことを、主人公っていうんでしょう? 運命を切り裂いて、自分自身の意志で未来を創っていく、あなたのような人のことを」
九沙吹さんの力強い視線が、僕を信じるように貫いている。僕はその目に意識を奪われ、世界に僕たちだけしかいないんじゃないかと錯覚した。風のざわめきも、周りの足音も、遠くに離れて、彼女の言葉だけが僕に届く。
「私をいろんなところに連れて行ってくれるって、あなたは言ってくれた。どうしてか分からないけど、あなたといると、守護者としての私を忘れられるの。だから私も、あなたのが移った、自分勝手なお願いをする」
九沙吹さんは、静かに手を僕に差し出した。雲間が割れて、天使の梯子が僕たちを照らす。
「————私を、日向に連れて行って。私は、あなたと前に進みたい」
それはあまりにも運命的で、作り話みたいな口説き文句で、彼女らしくもない不格好で愚直な言葉だった。僕に伸ばされた手は、地獄から救い出してくれるような万能なものではなく、逃げようのない現実と向かい合う覚悟を確かめるだけのものである。そして僕にとっては、何よりも忌避してきた、運命の始まりであり、彼女と紡ぐ未来への選択肢が提示されている。
逃げたい、うやむやにして、背を向けて、誤魔化して、自分の心を偽ってでも足踏みをしていたい。僕は主人公じゃないと、目を瞑っていたい。変わらない日常が一番で、手を伸ばすなんておこがましい。だって、未来なんて馬鹿らしくて、人生なんて何の意味も無いのに、夢を見る必要なんてどこにもないじゃないか。
でも、だけど————。
「————僕も、君と夢を見たい。君と、未来を創りたい」
体温が重なった。それは初めての感覚ではないはずなのに、今まで掴んだどんなものよりも力強く、僕を勇気づけるように感じる。
勢いよく引き上げられ、僕はふらついて彼女のほうに倒れかけた。優しく微笑む彼女に支えられて、暖かい視線が絡まる。そんな幸福も束の間、今度こそ確かな悪寒が僕の背を貫いた。
「囲まれている。でも、もうあなたは大丈夫みたいだね」
「君のおかげだよ。ありがとう、九沙吹さん」
胡乱な目をした人々は、しかしまっすぐに僕たちに殺意を向けて近づいてくる。体格も姿勢も、殺し屋とは思えない。おそらく、催眠術か何かで操られているのだろう。
僕たちに、それ以上多くを語る必要はない。すでに想いは同じ未来を向いている。たとえどんな絶望が、脅威がそびえていたとしても、そんな運命は切り開いて進むだけだ。
「行くぞ、マクルワリオン————!」
立ち上がって、前に進んで、何ができるかなんて考える必要はない。僕は、僕にできることをやるだけだ。それが不格好で、完璧でないとしても、それが僕の運命で、僕の進む道だ。
聖剣の鎬で胴体を叩き、なるべく傷つけないように昏倒させていく。加減の難しい拳より、衝撃の分散する剣のほうが扱いやすい。鍛えていない相手ならなおさらだ。
一人一人は大したことがないが、あまりの数の多さに僕は飛び退く。戦闘能力のない人間でも、手で掴まれれば動きは制限させられてしまう。柔毛のように揺れ動く腕から逃げて、いつのまにか離れていた九沙吹さんに合流する。
守護者——きっと彼女は、今までも僕の知らないところで、僕を守っていてくれたのだろう。アマリリスに告げた「僕の日常を邪魔するな」という言葉は、結局のところ、僕が反故にしていたらしい。
「スイッチ、する?」
少しの後ろめたさと恥ずかしさで視線を落とした僕に、九沙吹さんが提案する。
「しても、顔ぶれは変わりそうにないかな」
二人で向かい合うには多すぎる数だが、厄介なのは、相手が普通の人間であるということの方だ。僕たちには、罪のない人々を傷つけることができない。しかし、剣と拳だけでは、手加減をして戦うには限界があった。じりじりと狭まっていく円に僕たちは追い詰められていく。いっそ、撤退する方がいいのかもしれないが、このまま放置するというのも悪手だろう。
「初めての共同作業、だね」
「そう思うと、悪くないように聞こえてくるよ」
案外、彼女は冗談が好きなのだろうか。
なんだか、信頼されている気がして、悪い気分ではないが、どこかむず痒い感覚になる。気持ちを切り替えて緊張感を持つべきなのだが、初めてのはずの緩急にも既視感すら覚えてしまう。不思議と、初めてというには息が合う。それは、運命的な相性というよりは、既視感のままに動いているだけのように思えた。
「飛び出す合図をお願い」
「分かった。行くぞ、3、2————!!?」
止まっていてもきりがないと、弾みをつけるために、僕たちは吸い込まれるように背を合わせた。何のためらいも無く、僕たちの呼吸が揃う。それは疑うべくも無く、運命に引き寄せられたとしか言いようのない行為であった。
その瞬間、落雷のような衝撃が背に走り、溢れ出す力の奔流で、聖剣から爆風がこぼれる。なすすべなく、ミステリーサークルのようにゾンビのような人々が吹き飛んだ。
背中にチクチクとした痛みが走っている。それはまるで、針治療でもしたみたいに、苦痛ではなく心地よさすら覚える刺激で、僕はすべてを思い出す。思い出したくもない戦友のことを。調子に乗って格好をつけた、世界を救った黒歴史のことを。
同じように背中から弾けた九沙吹さんの手から、生えるようにモノクロの仮面が現れていく。ホログラムのように形を成す異質さに急激に記憶が追い付いた。
あれは、『自由』だ。荒唐無稽で、非現実的で、夢みたいな記憶が急速に理解されていく。勢いよくピエロの仮面をつけた九沙吹さんは、背を反らして高笑う。それは僕の知っている彼女とは全く違って、だけど、よく知っている自称殺し屋の姿だ。
「————感動の再会と行きたかったが、お嬢と二股は感心しないな、兄弟!」
「こんなことなら、お前と小指を結ぶんじゃなかったよ!」
「邪魔しないで、イガ————!」
ひとりでに動くように九沙吹さんの手がイガの仮面を引きはがし、血を噴き出しながらも、体の制御を無理矢理に奪い取る。瞬く間に『自由』で治癒された表情は、憮然としていた。ここまで感情をあらわにする彼女を見るのも初めてに思える。
「あなたのことも黙っておくから、イガのことも秘密にしてくれる?」
「ああ、もちろん。日常に戻ったらな————」
九沙吹さんがため息を吐きながら、トンファーのような細長い武器を創るのと同時に、僕も白亜の盾を左手に構えた。この際、私服で戦うことには頓着しないでおこう。
何者かに操られた人々に囲まれ、幼馴染と担当アイドルを人質に取られ、僕たちの日常は絶体絶命どころか、すでにオーバーキル状態だ。だが九沙吹さんと二人なら、不思議とまた日常に戻っていけるように、僕には思えるのだった。
**************
体の後ろに回していた手を、今度は確かに縛られる。解けないほどではないが、その隙を与えるほど、背後にいる男は甘くないだろう。
「ごめんね。でも、念には念を入れないといけないからさ」
青枝桧希と名乗った男は、どこか自嘲的な笑みを浮かべながら、私の足も拘束した。
表情一つ変えずに小柄な殺し屋を始末した彼は、それ以来殺気をまるで感じさせない。それがむしろ奇妙で、迂闊な行動を取るべきではないと判断させた。この男とこの場所で敵対するのは、得策とは言えないだろう。
「大丈夫。心配しなくても、もう一人の女の子は、僕の連れが保護しているよ」
「後二人、ここに誘拐されてくるはずの子がいるはずよ。あなたが助けたの?」
「さぁ、知らないかな。それに、僕は君を助けたつもりもない」
しんとした倉庫内には、彼の鼻歌だけが寂しく響いている。電話では『新支配者の饗宴』について知っている様子だったが、理事長から渡されたリストには無い顔だ。どこかの組織から遣わされたわけではないとしても、殺し屋であることには間違いないのだろう。
いったい、この青年が秀一に何の用があるのかは、杳として知れない。今の私にできるのは、秀一がすべてを解決してくれることを祈るくらいだった。いつの間にか、理事長と同じように、彼の運命にすがっている自分に苦笑する。
大丈夫、きっとすべて上手く行くはずだ。だって、ここには私の主人公が助けに来てくれるのだから。
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雲が晴れ、休日にぴったりな晴れ間が世界を照らす。遊園地の入り口を見渡せる高台でガムを噛んでいた帕陽は、おどろおどろしい壺を覗き込む告陰を蹴りつける。
「ねぇ、もうみんな倒れちゃったけどさぁ、補充とかできないのぉ? まだまだゴミみたいに人間はいるんだからさぁ……おい、聞いてんの、デブゲロ?」
「……蒼天兄さんが、死んだ。死んじゃったよ」
陰気な女が抱えた壺には亀裂が走り、その凶相は身内の不幸を表していた。細身の少女は舌打ちをすると、表情を陰らせて再び女を蹴りつけた。体勢を崩した女は、小刻みに震えながら少女に見下される。
「つまんねぇ冗談言うなよな、ウスノロ。私の最高傑作の呪具を持った蒼天兄ぃが、誰に負けるっていうわけ? 卜壺の調子が悪いんでしょ。新しいの、いくらでも作って————」
「————運命、だよ。ら、蒼天兄さんだけじゃない。わた、私たちみんな、運命に轢き潰される! あの男には、か、関わるべきじゃなかったっ!」
刹那、空を切った飛来物を、帕陽は体を捻って回避する。機を得たミサンガのように、告陰の抱える壺が、ひとりでに崩壊し、風に流されていった。帕陽の視線の先で、身長の高い少女が二射目を構え始めている。
「見つかった。逃げるよ、ガオ。……運命なんて、捻じ曲げるために、私たちは華調についてきたんだ。こんなところで立ち止まれない」
「う、うんっ……」
自分たちを眺めていた視線が消えたことを確認して、九沙吹さんは臨戦態勢を解いた。周囲の人々は、すでに気を失っている。日差しが強くなり、倒れた彼らが熱中症にならないかが少し心配なくらいだ。
「何とか収まったな」
「私たちを見ていた殺し屋も、逃げたみたい。とりあえず、この場は安全だと思う」
盾を霧散させ、聖剣を腰に収めた僕は、九沙吹さんと向かい合う。案外、言いたいことが口から溢れ出すかと思ったが、まだ現実も非現実も受け入れきれていないようだ。自信に満ちた表情で、僕の言葉を待つ少女の姿に、僕も気を引き締め直す。
「聞きたいことも、言いたいこともたくさんあるけど、まずは叶夢と奔羽を助けにいくよ」
「それなら、私が奔羽さんの方に行くよ。良い考えがあるから」
「……それは、九沙吹さんの考えか?」
「そうともいえる」
つまり、イガの発案ということだろう。あのお調子者がまともな作戦を考えているとも思えないが、こと殺し屋との対峙において、僕よりも経験は豊富のはずだ。一応、戦友として信用してやることにしよう。それに、戦闘能力に関しては、疑う余地も無いほどの適任だ。
なんとなく嫌な予感もするが、最悪の結末というわけでもないと直感的にわかる。それに、強さが担保できているからと言って、自称殺し屋に幼馴染の生死を預けるほど、僕も逃げ腰ではない。
「この子を安全な場所に置いてから、私は『ユーフォリア』に向かう」
「頼んだ。叶夢を——もしかしたら、エトソンもだが、助け出したらまた戻ってくるよ」
「その必要はない。あなたは、あなたの大切な人との時間を大切にした方がいいと思う」
「……自爆するわけではないよな?」
「そんなことはしない。でも、あなたがいると計画が狂うかもしれない、らしい」
なんとなく、イガが余計なことしかしないだろうということは分かった。だがまぁ、奔羽が助かるならそれに越したことはない。
僕に背を向けて歩き出した九沙吹さんは、思い出したように振り返った。僕の目を見つめながら、控えめに小指を差し出してくる。
「えっと、また会おうねのおまじない、か?」
「うん。あなたとまた会いたいと思っているのは、イガだけじゃない」
「ありがとう。心配しなくても、また会えるさ」
いつかとは違い、肌と肌を重ね合わせ、僕たちは素顔のまま約束をした。指を通して交わした熱は、確かな自信となって僕の中に溢れ出す。小指を契る、たったそれだけのことで、何倍にも強くなれる気がした。
まだ日の高い空は、平和を謳うように世界を明るく照らしている。路上に倒れる人々も、日光浴をしているように晴れやかに見えたが、その瞳の暗闇はいつ晴れるともつかない。この晴天の錯覚を誰もが幸福に忘れていくために、僕は非現実への一歩を踏み出すのだった。
次回4-4「こころ透明な私を返して」
幼馴染を救うため埠頭へ向かった秀一は、もう戦いから逃げることはない。
実力未知数の殺し屋を相手に、幼馴染を取り戻し、日常へ戻ることはできるのか———。
「絶対に勝って、一緒に日常に戻ろう」
「———ああ、約束だ」




