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どうやら僕の運命は、まだ終わらずに続いていくらしい  作者: 錆井
第四話『誰だって毎朝起こしに来る隣家の美少女幼馴染と結ばれたいが、それはそれとして一目惚れした高嶺の花の凍った心を溶かしたい』
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4-4 こころ透明な私を返して

〇これまでの登場人物(主に四話登場)

・朝尾秀一(あさお しゅういち)

 この物語における騒動の中心である少年。

 両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。

 ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。

 その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?


・奔羽たあむ(ほんば たあむ)

 日本中で話題沸騰中の直感系アイドル。『本バタ』『ばたみゅ』などの愛称で親しまれる国民的美少女。冥加学園からの融資を受けた返礼として、冥加市でテレビ出演等の社会参画を行なっている最中。


・遥原叶夢(はるはら かなん)

 秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。

 秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者(ニューオーダー)』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?


・エトソン・プルルライナ

 異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。


・九沙吹藍良(くさぶき あいら)/イガ

 冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。剣道部に所属しており、竹刀を携帯している。大体いつも第二図書室にいる。

 イガと呼ぶお調子者の『殺し屋』人格を持ち、中央教会の任を受け秀一を守護していた。


・カラヒナ

 秘密実験所で生み出された怪物の少女、あるいは少女のような怪物。自在に腕や足といった器官を生成できるほか肉体の構造を変化させる、人知の及ばない能力を持つ。

 人見知りのため、後藤以外とのまともな会話は苦手。


・後藤

 カラヒナを導く謎の老人。かつてはヒノキの師匠をしていたらしい。


・百合原恵夢(ゆりはら めぐむ)

 秀一のクラスメイトの少年。百合好きの明るいお調子者。なんだかんだ生徒会執行部の一人。


・青枝桧希(あおえだ ひのき)

 衒いのない、感じの良い青年。ヒノキという名で殺し屋をしている手先の器用な男。


 

 冥加市外れの廃墟は、殺し屋たちが息をひそめる街の中では珍しく、穏やかで冷たい風が流れていた。流された血は、気を遠くしている一般人が再び眠りに落ちないように、室外に隔離(かくり)されている。


「カラヒナよ。先ほどの戦闘もそうだが、気が抜ければすぐに手が出るのは、お前の悪い癖だ」


 少女は、老獪(ろうかい)の買ってきた骨付きの鶏肉を右手で頬張りながら、左手と腹部から生えた三本目の手で携帯端末をいじっている。肉の少なくなった骨を口に放り込むと、横腹から生えてきた手が紙のナプキンを手繰り寄せ、脂ぎった右手を拭いた。


「で、でもでも、戦う時は擬態の必要は無いって……あ、えっと、そのぉ————」


 反論しようとして、視界に映る腕の数を確認した少女は、ネズミが巣穴に戻るように、両腕を肩に格納した。横腹から生えた手が、さらに次の肉を掴みに向かう。老爺(ろうや)は額に手を当て、長いため息を吐いた。


「それは、残しておくべき腕だ、カラヒナ」


 しゅんと垂れたシャツの袖が、選択の失敗を物語る。少女は、老爺の姿を見上げると、自分の肩と見比べた。慌てて手のひらに開いた口の中に骨付き肉を放り込むと、横腹に腕を巻き戻していく。シャツの脇が一瞬盛り上がり、モグラたたきのように幾度か平坦になっては山を作った。ようやく袖口を見つけた細胞群は、勢いよく腕を再生した。


「そ、そんなことよりっ、この配信に出ているのって、私たちが探していた指名手配犯の親玉ですよねっ」


 少女は、携帯端末に表示したニュース記事を示す。男は目を細めたが、すぐに杖をついて、手ごろながれきの上に腰かけた。


「軽々に情報に流されるな、カラヒナ。そいつはただの尖兵にすぎん。わざわざ一人を狩るためだけに、公衆に顔を晒す気か?」


「そ、それは……でもでも、先にカメラを壊したらいいんじゃないですか」


「すでに教会が目を付けている。今、お前の存在が明らかになれば、こうしてゆっくりと教鞭(きょうべん)を取ることも難しくなるだろう。その男のように目立つ行為は控えろ」


 不満げに頬を膨らませたカラヒナは、小さな唸り声を上げた少年に視線を落とした。唐突な作戦の再開に、驚いて師匠の顔を窺う。老爺は軽く顎で示して見せた。


「……うぅ、俺、なんで眠って……ここは、ってうわああっ!」


 目を覚ました少年は、自分を見下ろす女に不意を突かれて飛び退いた。脳裏にはぼんやりとした恐怖が思い出されていることだろう。


「お、落ち着つついいてくださいっ! な、なにも怖いことはしませんからっ」


「ゆ、誘拐っ!? お、俺のために金を出してくれる人なんていないって!」


「わ、わわわわっ、と、とにかく、静かにしてくださいっ。じゃないと、こ、こここ————」


「まずは、お前が落ち着け、カラヒナよ」


 老爺が立ち上がると、半泣きの少女も気が動転した少年も息を飲む。落ち着いた足取りは、むしろ安息よりも恐怖を感じさせる。


 老爺の影が少年に落ちた。少年は、自分の鼓動が張り裂けそうなほど早くなっていることに、ようやく気が付いた。浅い呼吸は酸素を送り返してしまう。


「少年よ。君は、百合原恵夢(ゆりはら めぐむ)で間違いないな」


 小さく、しかし何度も頷いた少年を見て、老爺は続ける。


「私たちは君の命に興味があるわけではない。君は、朝尾秀一(あさお しゅういち)という少年を知っているか?」


「——く、クラスメイト。た、ただの友達って言えるかも、分かんない、けどっ。な、なんで俺にそんなことっ」


「君を人質にして、彼を呼び出すのだ。級友の危機であれば、無視もできないだろう。さぁ、その端末で電話をかけるといい」


「で、電話って……あいつのアドレスとか、お、俺(・)知(・)ら(・)な(・)い(・)よ(・)」


 未熟な愛弟子に、脅迫のいろはを教えようとしていた老獪は、予想外の発言に眉を顰(ひそ)める。震える指先で解除された携帯端末を、少年は素早く操作する。三人の目が精査したアドレス帳には、目的の少年どころか、ほとんど電話番号の登録がない。


「ふ、普通、クラスメイトのアドレスとか知らないって………」


「あ、あの、後藤さん……」


「みなまで言うな、カラヒナ。人選を誤ることくらい、ままあることだ」


「ひ、人違いってことっ!? じ、じゃあ俺はこ、ここここ——」


 少女の腕が伸び、少年の四肢を押さえつけた。六本の腕に拘束された少年は、茫然と恐怖に怯えている。老爺はため息を吐いて、二人に背を向けた。


「命までは取らぬ。もちろん、私たちのことを他人に話せば、保証はしないがな」


 老爺は、くたびれた様子でがれきの上に座ると、不思議そうに見つめる少女に首を振った。少年の体が解放され、脱力したまま地面に倒れ込む。


「カラヒナよ、脅迫の前に、まずはその対人恐怖を克服するところからだ。私は少し出かけてくる。……そうさな。その少年と、しばらく話しておけ。まともな人間と話す機会も、そうあるまい」


 少年は、それだけ言って去ろうとする老爺に愕然(がくぜん)とする。恐る恐る仰ぎ見た少女の顔は、想像しているよりはずっと人間的であった。むしろドキリとするほど整った、幼さの残る表情に、恐怖が少しだけ薄れる。


「え、えっと……カラヒナさん?」


「な、ななななんですかっ!?」


 ばたばたと手を振る少女に、少年はくすりと表情を緩める。もしかすると、案外話ができる相手なのかもしれない。とはいえ、機嫌を損ねれば、命の危険があることに違いはないが。


 穏やかな顔になった少年に、少女は不思議そうに首を傾げた。自分の体をざっと見ても、人間としておかしな点は無いはずである。


「えっと、す、好きな食べ物とかってあります?」


「に、二の腕のお肉、ですかね……」


 恍惚とした視線が弱弱しい腕に向いた。到底常人とは思えない回答に、少年は思わず絶句してしまう。しかし、彼女の気を損ねれば、命の保証はない。まだ自分はうら若き高校生なのだ。生徒会として磨いてきたコミュニケーション能力を今まさに発揮するときである。


 千夜一夜と命を長らえさせるため、少年は不屈の心で会話を試みるのであった。


 **************


 十二時を知らせるサイレンが、背に鳴り響いている。ブザービートのように、何とか冥加埠頭に着地し、叶夢の携帯を探知した。突然思い出した超技術(リベルテ)は、不安ながらも使いこなすことができる。


 海上を飛行することで、本来三時間ほどかかる陸路を、一時間程度に短縮することができた。電話の主も、まさか遊園地からこんなに早く来られるとは思っていないだろう。今なら不意を突ける可能性がある。


 腰に携えた聖剣を改めて確認する。操られた一般人を相手にしたときのまま、その刃は丸まり、竹刀のようになっていた。『自由(リベルテ)』とは関係なく形状が変化するこいつのことは、あまり気にする必要もないのだろうが、果たして、この先に待ち受ける狂人に、僕は手加減なんてする必要があるのだろうか。


 目の前で人が死ぬことと、僕が叶夢の目の前で人を殺すのとでは、意味が大きく違うだろう。彼女の手を、あるいはエトソンの手を握るとき、その手は二度と清らかにはならない。宇宙人を散々殺しておいて今更なんだとも言えるが、僧侶だって蚊は憎いはずだ。


 要は気持ちの問題なわけで、果たして、幼馴染の命を救うために、他人の命一つを軽視することができるのかという平和ボケした悩みである。自分でも馬鹿らしい、甘い考えだとは思いつつ、心に残ったのは陽気な戦友の言葉だった。


「半殺し屋ってのは、どうにも締まらないがな」


 思い詰め過ぎて固くなっていた体をほぐしながら、埠頭の倉庫内に侵入する。重たい倉庫の扉は、潜伏には向かない重厚な音を響かせた。二股に分かれた道を、直感で進むと、どうやら方向を間違えてしまったらしい。


「……何をしている?」


「アーサーっ、もう少しで私の未来を教えていただけるそうなので、少し待っていてくださいっ」


 か細い電灯の下、胡坐(あぐら)を組んだ二人は、緊張感も無く僕を見た。ひとまず元気そうなエトソンは、眼前の怪しげな占い師をすっかり信用しているらしい。


「あなたがこちらに来ることは、予想外だった。これで一つ、占いが外れた。必ずしも吉兆とは言えないけれど、あなたは運命の外に踏み出しつつある」


「忠告どうも。あんたは、エトソンに危害を加える気はないのか?」


 民族風のベール越しに、女は僕を伏し目がちに見上げた。答えるつもりはないらしい。


「エトソン、あまり油断し過ぎないようにな」


「アーサーも、お気をつけて」


 自分が誘拐されたことなど気にも留めていないのか、エトソンは呑気に拳を握った。



 ほぐれてしまった緊張感を締め直し、もう一つの扉まで戻る。奇襲できないものかと辺りを探ったものの、暗い倉庫ではむしろこちらが罠にかかりそうだ。


「叶夢っ!」


「————秀一っ!?」


 僕は主人公でも、まして救世主なんかにはなれないが、それでも通さなければならない義理のような、暗黙の了解はあるように思えて、扉を開けてすぐに、幼馴染の名を呼んだ。幼馴染を助けるというのに、奇襲なんて考えるほうがどうかしていた。そんなことで胸を張って助けたと言えるわけがない。


 倉庫を薄暗く照らす電灯の下、叶夢は両手足をコンテナに拘束されていた。口を塞がれていないのは、犯人の悪趣味だろうか。汗ばんだ髪は乱れ、聖剣を構えた僕を見て驚いた様子だ。注意が飛んでこない辺り、犯人は奇襲する気はないらしい。


「やぁ、ずいぶん早かったね。さすがは救世主だ」


「勝手に世界を背負わせるな。僕が助けに来たのは、幼馴染だ」


 コンテナの影から姿を現した青年は、人懐こい笑みを浮かべると肩をすくめる。その明るい表情に、既視感を覚えた。確か、占い屋ですれ違った、死神を三枚も宣告された不運な男である。思い返せば、さっきのターバンの女も、服装の特徴は似ていた。


「そりゃあ、誰にだって救世主の自覚なんて持てやしないさ。僕だって、自分が世界でどんな役割を持っているかなんて、認めたくはない。自分が主人公だって信じていたいし、世界はいつまでも続くと思いたいよ」


 青年は、地面に伸ばした手を前に向ける。まるでマジックのように、腕に沿った黒いダガーが姿を現した。滑らかに指で転がされた黒刃は、軽いペンのように彼の手に収まる。水面のように滑らかな表面は、錆びを知らないようだ。


「でも、残念ながら、僕は主人公ではない。だから、運命を享受しているだけではいけないんだ。誰かを救うためには、人としての正しさも、人間としての当たり前も捨てなければならない」


「殺し屋が、大層なことを考えているものだな。それに、僕から見れば、あんたはもうとっくに、人間として当たり前の価値観なんて持ってない。それに、人としての正しさなんて、気にするようには見えないね」


 青年はおかしそうに笑うと、軽いストロークで何かを放った。その動きの流麗さからは想像できないほどの速度で放たれたソレを、とっさに聖剣で叩き落とす。

 やけに重い手応えに刃へ視線を落とすと、宇宙人の攻撃にも揺るがなかった聖剣の芯に、放たれた五枚のカードが食い込んでいた。聖剣は、憮然としたように刃を露出させ、カードを弾き出す。聖剣の言いたいことは、直接語り掛けられなくても伝わってくる。この男は、手加減や体裁なんて考えていられる相手ではない。


「そうかもね。だから君も、僕がいつ彼女を傷つけるか、気を付けておいた方がいいというわけさ。僕は、世界を救うためなら、命を奪うことに躊躇いはないよ」


「妄想症も大概にしてくれ。世界を救うため? 僕にとっては、彼女と過ごす日々こそが、当たり前の世界なんだ。あんたの電波じみた義務感で、叶夢を傷つけられてたまるか!」


 一撃必殺のつもりで突っ込んだ斬撃は、あいさつ程度の軽さで受け止められた。逆手で持たれた長刀は、聖剣の攻撃にもびくともしていない。余裕そうな笑みは崩れず、次の一手の気配も悟れない。第六感の立てた鳥肌に飛び退くと、鋭く跳ね上がった蹴りが眼前を掠めた。隠し刃の輝きを認識すると同時に、カウンターの回し蹴りを仕掛ける。


 まるで時の流れが違っているように、青年は冷静に僕の足を横に払うと、ダガーを突き出そうとする。僕は意識を集中させ、注意のそれた彼の背後から『自由(リベルテ)』の切っ先を伸ばした。完全に死角から伸びた氷柱のような奇襲は、卑怯ではあるが仕方ない。それが命の奪い合いだ。僕はあくまで攻撃を受ける体で、聖剣を体の前に寄せる。


「へぇ————!」


 『自由(リベルテ)』の簡易的な槍が青年の後頭部を貫くと思った瞬間、彼はダガーを逆手に持ち替えると、勢い良く振り向いて背後の刃を斬り壊した。頑丈なはずの『自由(リベルテ)』の生成物が、ガラスのように砕かれる。その状況を理解するよりも早く、彼の回し蹴りが僕を襲う。


「なにっ————!」


 全身を駆ける危険信号。瞬時にプリドゥエンを生成し、衝撃を受け止める。

 特にその組成に気を配っていない雑な武器と違い、白盾はしっかりと攻撃を捉えた。それでも骨が軋むほどの重たい一撃に踏ん張りがきかず、僕は重力に逆らうように吹き飛ばされた。コンテナを三つは大破させながらなんとか着地する。きっとどこかの業者が頭を抱えることになるだろうが、弁償は教会持ちでお願いしたいところだ。


「面白い武器——いや、教会の魔(・)術(・)みたいなものかな。でも、小手先でどうにかなるほど、君の前にやって来る壁は薄くも低くもないよ」


 幸いにも、柔らかな雑貨の詰まったコンテナにぶつかり、裕福な家のように服に囲まれながら、僕は立ち上がった。彼の言葉通り、相手を人間だと考えないほうがよさそうだ。オンライン対戦のチートプレイヤーのほうが、よっぽど人間らしい動きをする。


「いかにも現実らしい理不尽さだな。そういうことなら、僕だってお前に手加減をしないで行かせてもらう。ここからは、本気モードだ」


 僕の発破に、彼は怯える様子など当然見せず、子どもと遊んでいるかのように優しい笑みを見せた。その余裕そうな表情を、今に剥がしてやる。よく考えれば、即死さえしなければ、『自由(リベルテ)』で救命することは可能なはずだ。四肢を落とせば済むのだから、殺す心配も無い。


 僕は聖剣を地面に突きたて、忌まわしくも甘美な宇宙戦争の記憶を思い出す。


「換装————!」


 十何年連れ添ってきた幼馴染の前で、未だに昔から妄想していたヒーローごっこを引きずっているとバレる変身は恥ずかしいものだ。イガが詠唱を躊躇っていたことも、今の僕には気持ちがよく分かる。

 だが、そういった恥ずかしさはすべて、これからの行動で塗り替えればよい話だ。なにしろ、装備自体は格好いいのだから、あとは行動を伴わせるだけなのである。冴えない幼馴染から勇者に職業変更するのは気が進まないが、今はそうも言っていられない。


 緩い袖口が光に包まれ、薄手の防護膜が全身を包む。黒い外装が堅固に組み合わさり、非日常の重さを筋肉に伝える。排熱機構と隣接したスラスターが動作確認の排気を行い、全身の装甲が現実世界に存在を確定させた。


 鳥の爪のように尖った硬質な手部装甲に視線を落とすと、視界が暗闇に包まれる。古い電灯のように瞬いた世界は、光学センサーによってスキャンされ、窮屈に感じるほど空間が理解できた。


 惑星を滅ぼして回るような宇宙人に相対した装備は、眼前の殺し屋ごときに必要な物だろうか。そんな疑問は、換装を終えればさらに意味のない不安だったと分かる。


 この男に、手加減などは必要ない。ああ、どうしてだろう。全霊を尽くせるだなんて、日常とは程遠いはずのことが、心(・)か(・)ら(・)嬉(・)し(・)い(・)。


 僕がこの足を踏み出すのは、本当に叶夢を助けるためだけなのだろうか。

 本当は、心のどこかでこんな戦いを求めていたんじゃないだろうか。


「準備は終わったかい? 見せてくれよ。君が本当に、運命を切り開けるのかどうかをさ————!」


 聖剣を引き抜く。敵が魔王でなくても、いつでもその輝きは僕の意志に呼応してくれる。空気中に漂う埃の一粒すら鮮明に見えるほど、世界が止まって感じられる。実際、この戦いが決着しても、そう長い時間ではないのかもしれない。


 一撃必殺。それが戦闘行動におけるもっとも重要な考え方だ。どれだけ鍛えたって、一つの傷が致命的になる。それは洗練された相手との戦いであればなおさらだ。常にすべての一撃で命を奪うつもりでいなければならないし、相手の一撃すべてに命を奪われる可能性がある。


「……始めよう」


 それは僕の運命か、あるいはもっと壮大で果てしない世界の物語か。


 躊躇いなく全速力で踏み出した一撃は、力強く受け止められる。絶え間なく浴びせる剣戟(けんげき)は、重厚な合奏のように心を震わせた。緊迫感、高揚感、湧き上がるのは闘志と呼ぶには不純な、世界への希望。まだ僕は世界に絶望しないで済む。こいつを倒すには僕でなければならないと思わせてくれる血の匂いにこそ、僕は自分が主人公であると錯覚できる。


 本当は僕だって、日向を歩けるような人間ではないんだ。誰かと笑い合ったり、誰かの隣を歩いたりするなんておこがましい穢(けが)れた人間だ。僕の意志はかつて両親の命を奪った。今だって、目の前の男の命を奪いたいと願っている。


 でも、それでも、僕は前に進みたいと思うんだ。幸せな日常というものを求めたいと思うんだ。この手がどんな汚辱にまみれたって、平穏な世界に手を伸ばし続けたい。


 だって、それが僕の————。


**************


 広い倉庫のあちらこちらから、拮抗(きっこう)した暴力の奏でる金属音が響いていた。一度見失えば、もう追いつけそうもないほどの速度で、二人の戦いはヒートアップしている。


 きっと、彼を応援するべきなのだろう。そして、その声は戦いを決着させるための合図となるはずだ。私は今この瞬間、幼馴染として、血の気の多い活劇のヒロインとして、物語を先に進める裁量権を持っている。悠長にしていれば、流れ弾で死んでしまうかもしれないが、自分はそんな運命を歩んでいないはずだと、秀一の力を見れば確信できる。


 それでも、「勝って」と一言すら発せないのは、美しさすら覚える攻防に見惚れているからでも、命の奪い合いに怯えているからでもなかった。


「これが、秀一の力っ……!」


 後ろ手に結ばれた紐が、圧力に耐えかねて弾け飛ぶ。拘束が外れても、私は囚われの姫であり続けなければならない。震える手は、それでもこの世界を繋ぎ止めるために握り続けた。


 この倉庫を中心に、運命が歪み始めている。それは間違いなく、秀一の中で目覚めた『原風景』の力だ。神に愛されたと理事長が称するその力は、今目の前で運命を鷲掴みにしている。きっと、彼自身が葛藤しているのだろう。果たして、殺し屋と戦えるような人間が、日常や平穏と相容れるのだろうかと。


 歯を食いしばって、その運命力に弾かれないように意識を集中させる。私の『原風景』は、この時のために世界を包んでいるのだ。必ず秀一が、平穏で幸福な学生生活に戻ってこられるように。決して、血に染まった暗い日々を思い出してしまわないように。


 私の世界の外殻にひびが入るほど秀一の力は膨れ上がり、接続された脳神経が悲鳴を上げる。それでも私が耐えなければ、二度と私たちは日常に戻れなくなってしまうかもしれない。彼が正義であるために悪を欲してしまえば、平穏は運命から弾かれてしまう。


 爆発音が天井を弾き飛ばし、風が吹き抜けたかと思うと、目の前で数本の暗器が弾き飛ばされ、秀一の頼もしい背が私に影を落とした。およそ日常とは思えない黒色の外装は、けれど不思議と、昔彼が語ったヒーローの物語から出てきたような温かさを思い出させた。


「すまん、ガラスの破片が飛んでないか。もしケガをしていたら、今なら離脱もできる」


「ううん、大丈夫だよ、秀一。それより————」


 砂埃の奥から、殺し屋の青年が悠長に歩き出てくる。ここまでの力を発揮する秀一と互角というのは、彼の方がおかしいのかもしれない。未だに楽しそうな笑みを見せる青年はまだ余裕そうだ。


 脳を鷲掴みにされるような痛みをこらえていると、秀一は目を逸らした私の態度をうまく勘違いしてくれる。


「えっと、この見た目のこととかは、ちょっと説明が難しくてな……また、後で話すよ」


「いいの。それより、秀一———」


 警戒体制のまま、少しだけ秀一は私に顔を向けた。仮面越しに確かに目が合って、私は幼馴染としての言葉を紡ぐ。彼が飛び去ってしまわないように、紡いできた関係性の錨を降ろす。


「絶対に勝って、一緒に日常に戻ろう」


「———ああ、約束だ」


 彼が笑った。それは感覚的にしか分からなかったが、確かにそう思える。禍々しくも勇ましい彼の力が、私の『原風景』と同調していく。平穏を、日常を守るために、同じ方向へ溶け合っていく。


 秀一の力が、背中からでも増したように見えた。きっとそれが、守るべきものを持つ者の強さなのだ。


 駆け出していく彼の背を見て、自分の心に問いかける。私は、この世界の、この運命の悪意から、彼を守ることができるのだろうか。


 なんて、そんなことは考えるまでも無かった。私は、私の全てを賭しても彼を幸せにすると決めたのだから。


「これが救世主の力か。ごめんね、ついつい手加減を忘れてしまってさ」


「いつまでそんな余裕そうな顔をしていられるかな——!」


 当事者のアドレナリンと過集中が無ければ、動きすら追えない激闘は、倉庫のあちこちで粉塵を上げ、コンテナの置かれたスペースを更地に変えていく。


 原風景の力が流れ込んでいるとしても、きっと秀一はまだ自分の力の本質を知らない。私やパレネのように世(・)界(・)を作り出すことができないのだろう。劣勢ではないにしろ、未だ決め手に欠けることは間違いがなさそうだった。


「悪いが、僕もなりふり構ってはいられないらしい。お前と同じ手を使わせてもらうぞ」


 私の目の前に舞い戻ってきた勇者は、聖剣と呼んでいる金ピカの剣を力強く構えた。真剣であることは私も確かめたことこそあるが、倉庫の端まで届く間合いではない。あるいは、彼の力はそんなことも可能にしてしまうのだろうか。


 青年は軽く後ろを振り向くと、肩をすくめて笑った。さらりと流れた髪は少し汗で湿っている。


「僕が避けたら、ボリスに当たるとでも言いたいのかい? それなら、君のもう一人の友人だって避けられないはずだ。正気で言っているとは思えないね」


「ああ、正気じゃあないさ。だが、この聖剣はエ(・)ト(・)ソ(・)ン(・)に(・)当(・)て(・)る(・)よ(・)う(・)な(・)こ(・)と(・)は(・)し(・)な(・)い(・)んだよ。行くぞ、マクルワリオン——!」


 秀一の持つ刀身から、光芒(こうぼう)が噴出する。天の川のようなきらめきは、それでいて繊細に倉庫の天井を突き破らない程度に収まっていた。かといって、私の髪が乱れるほどのエネルギーの流れは、特定の誰かだけを避けるとは思えない。


 止めるべきなのか? だが、エ(・)ト(・)ソ(・)ン(・)が(・)こ(・)れ(・)で(・)消(・)え(・)て(・)く(・)れ(・)る(・)な(・)ら(・)———おぞましい考えを必死で追い出す。あの子はもはや、秀一の大切な友人の一人であり、疑似的でこそあるが、私と秀一にとっては、子供のように愛情を注ぐべき存在ですらある。そんなエトソンちゃんが消えるような選択をさせていいはずがない。


「秀一、待っ————」


 拘束されている体(テイ)など忘れて伸ばした手は、それでも彼の背には遠い。振りかぶられた聖剣は、確かに聖なる輝きをたたえて殺し屋を狙う。災害というべき破壊力が倉庫の天井を突き破り、陽の光と共に落ちていく。


「くらえええっ————!」


 長剣のような光線が殺し屋を轢き潰すかと思われた瞬間、線香花火が落ちたような呆気ない音と共に、膨大なエネルギーの塊がぽ(・)っ(・)き(・)り(・)と(・)折(・)れ(・)る(・)。サーチライトのように、唐突にその先端は天を向き、空に勢いを吸われていく。勢いを外された秀一の体がつんのめり、即座に聖剣は出力を弱めた。


「———実に素晴らしい技だが、出力もまだお粗末な上、このように狭い場所で放つには狙いが大雑把だ。例えば君は、毒を塗った暗器を海に投げ捨てることの危険性を考えたことはあるかね、少年?」


 気配すら感じさせないままに現れたその男は、わずかに拳から煙をくゆらせて、そう秀一に問いかけた。

 青年から感じた以上の危険信号が体を駆け巡る。明(・)ら(・)か(・)な(・)規(・)格(・)外(・)、世界から浮き出た異質な存在。想像のさらにその先を行く新たな脅威。この男は、『原風景』の力をもってしても、どうしようもない———。


「何のつもりだ———ロ(・)ー(・)ズ(・)!」


 秀一は渾身の一撃を邪魔された衝撃から我に返ると、聖剣を構えたまま叫ぶ。ローズと呼ばれた壮年は、落花生の殻のような指を握ると、悲しそうに天を仰いだ。


「ただの仕事だよ。実につまらない殺しの仲裁と思っていたが、そうか、朝尾秀一くん。『新支配者の饗宴(ティタノマキア)』の護衛対象である君が、あのアーサーだったいうわけか。とんだ僥倖(ぎょうこう)もあったものだよ」


「今はそんなことを聞いているんじゃない。教会が何をしに来た!」


「血の気が多いのはいいことだ。だが、周りを見たまえ。あまり派手にやられては、こちらとしても困るのだよ。守護者から連絡を受けて来てみれば……全く、これだから素人は困る」


 殺し屋に素人も何もあるか、と思ったが、蒼天(ランス)の杜撰(ずさん)な計画といい、秀一の破壊した倉庫といい、確かに粗末さは言い返せなかった。とはいえ、秀一の言う通り中央教会の人間だとして、こんな禍々しい殺気の漏れだす男を信用できるのだろうか。


「この場は私が引き受けよう。君は、その少女を連れて帰るといい。すでにもう一人はこちらで保護している。洗脳の類を受けていなければ、すぐに解放するつもりだ」


 エトソンちゃんは素面(しらふ)でも言動が怪しいから、長丁場になりそうだ。なんて言っている場合ではないが、ともかく、エトソンちゃんが傷つくことなく場が収まりそうである。彼が信用できるかは判断に困るが、少なくとも、秀一はその言葉を信用したらしい。長い吐息の後に、聖剣を腰元に収めた。


「……分かった。だが、その男の処遇は後で聞かせてもらうからな」


 黒い外装が溶けるように消え、私は秀一に力強く抱きかかえられた。普段はなよなよとしているが、思っていた以上に大人になっている体に少し胸が高鳴る。もう彼は私が思っているほど子供ではないのだ。


 私を抱えたままで、秀一は軽々と倉庫から飛び出した。常人離れした自身の身体能力に、まったく疑念を抱いていないようで少し安心する。大丈夫、私たちはまだ普通の学生に戻ることができるはずだ。まだこの世界の運命は定まり切っていない。


 風を切って都市の屋上を駆けていく秀一の背に身を預けると、私を抱える手が優しく引き寄せた。


**************


 薄ら眼を開けると、穏やかな夕暮れの光に影が落ちていた。見慣れた門扉の前で、地面の感触が足に伝わった。


「落ち着いたか?」


「……ううん、まだ」


 優しく肩を回した秀一に、私はそっと身を寄せる。肉体を損傷したわけではないのに、ほとんど担がれるように運ばれる自分が情けなかったが、今は彼の優しさに身を委ねていたかった。


 予見していた様に玄関が開いて、相田さんが心配そうな顔を見せる。扉を開けたまま私たちを中に招き入れた。


「お疲れでしょう。湯治(とうじ)の準備は済んでおります」


「助かるよ。エトソンもすぐに帰ってくると思う」


 補助を受けながら靴を脱ぎ、二人三脚で浴室まで向かった。タオルの置かれた洗濯機を見ると、急激に日常に戻ってきたという安心感が胸に湧き上がる。でも、まだ、もう少しだけ————。


「一人で入れそうか? 心配なら相田さんを————」


「————秀一、一(・)緒(・)に(・)入(・)ろ(・)? …… 一人じゃ、怖いの」


 垂れ下げていた右腕を彼の背に回し、視線が合わないように抱き寄せる。困惑したように離された腕が、再び私を選んでくれるまで体温を混ぜ合わせた。


 こんなわがままは、きっと日常(幼馴染)の境界線を越えてしまっているのだろう。だけど、今を逃せば秀一がずっと遠くへ行ってしまう気がして、繋いだ手を放したくなかった。ずっとそばにいてほしい。幼馴染としてではなく、もっとずっと深く、幸せに落ちていきたい。


「……落ち着くまでは、一緒にいるから……な?」


 静かに彼の手が私の背を撫でた。それは優しく温かく抱き寄せるようで、ゆっくりと突き放すような冷たさを秘めている。


 声を出そうとして、知らず上っていた嗚咽(おえつ)を飲み込んだ。視界が熱い。雫が彼の目に映らないように服に押し当ててから、抱擁を緩めた。近くで見る彼の顔は、もうすっかり大人びていて、また弱弱しく涙腺が震える。


「———おねがい」


 どうにか絞り出した言葉は、何の魔力も帯びていない。胡乱な視線は何の催眠術もかけられないし、不思議な運命は私たちを二人きりにするばかりだ。


 ただ、君(・)がいて、私(・)がいた。そんなあの日を思い出した。ほんの少しの時間が永遠のように思えたあの日を。失われた時間を埋めるようにささやかな幸せを分かち合った宝物のようなあの日を。


 そんな幸せな原風景はもう二度と来ないのだと、なぜだか分かってしまって、月を目指す虫のようにもうすべて終わらせたくなったのだ。


 逡巡する彼の瞳が、背けられる。驚いたような、怖がるような、けれどとても優しい視線は、ゆっくりと曇りガラスのふちをなぞった。


 重力が私の体を吸い寄せて、彼の腕がなんとか私を抱きとめる。どうしようもなく不格好でみっともない私を、それでも泣き止むまで彼はそばにいてくれた。


「……遊園地、また予約してみるよ。ほら、今日は行けなかっただろう? エトソンも連れて、その、家族(みんな)で一緒にさ」


 遠くで扉が開いた音がして、元気な声がくぐもって聞こえてくる。二人だけの世界は融解し、現実が重くのしかかる。蛇口からこぼれた雫が洗面台を濡らして、ブラインドから漏れた光を反射した。


「……絶対だよ?」


 無理矢理に引き上げた口角を温かい筋がかすめた。微笑み返した秀一は、最後に優しく背を撫でて、するりと立ち上がって行ってしまった。



 賑やかな話し声が聞こえないように、脱衣所の扉を閉める。


 いつの間にか汗ばんだ服は、脱ぐのにも一苦労だ。

 浴室に入ると、さっぱりするほど愚かな自分の姿に迎えられる。あんなに苦しかった笑みが、自然と反射されていた。


 いったい誰が、こんな人間を愛してくれるというのだろう。いいや、そんなことは、望むべきではなかったのだ。私の目的は彼を幸せにすることであって、彼に幸せにしてもらうことではないのだから。


 だから、こ(・)ん(・)な(・)気(・)持(・)ち(・)は(・)忘(・)れ(・)る(・)べ(・)き(・)な(・)の(・)だ(・)。私は、彼の幼馴染であり、それ以上に手を伸ばしてはいけない。そうしないと、何もかもが壊れてしまう。


 『原風景』の力でも消えてくれない、幾重にも伸びたケロイドをそっとなぞる。それは救世主が遺した聖痕(スティグマ)であり、私の人生を決めた呪いでもあった。


 なんだ、私はもう十分に幸せになっているじゃないか。


 くたびれた顔を吐息で隠して、決して叶わない夢みたいな名前を書いてみたりして、私は笑う。まるで、思春期の少女みたいに、幸せに笑うのだ。


**************


「それじゃあ、テロリストの撃退を祝ってぇ、かんぱ~いっ!」


「乾杯ですっ!」


 威勢の良い二人に釣られて、僕も苦笑いで盃を交わす。といっても、もっぱらオレンジジュースではあるが。


 エトソンが帰ってきてすぐ、奔羽も力強く門扉を叩いた。屈強な殺し屋に占拠されていたとは思えないほど元気が有り余った様子は、むしろトラウマ由来の躁症状ではないかと不安になる。


 奔羽を家まで運んでくれたのであろう九沙吹さんは、中央教会との用事が込み入っているそうで、祝勝会と勝手に奔羽が言い始めた慰労会には参加できそうにないとのことだ。


「上吉、そう遠慮せずに食べていいぞ」


「い、いいんですかぁ? 私、今日家を出てからの記憶があまりなくって……」


 叶夢の両親にも勧められて、ようやく臆病な箸が進み始めた。安心して向かいの席を見ると、いつも通りの穏やかな笑みで幼馴染は僕を見つめる。


 叶夢は何事も無かったように、豪勢な晩餐(ばんさん)に舌鼓を打っているように見える。だが、家に帰ってきてすぐの不安定な様子を思えば、そう簡単に消えていく恐怖ではないはずだ。中央教会は身辺警護の強化を約束してはくれたが、これ以上彼女に危害が及ばないよう、気を付けなければならない。


「アーサーっ、難しい顔をしていると、エ(・)ビ(・)フ(・)ラ(・)イ(・)ー(・)が無くなってしまいますよっ!」


「それはお前が食いまくっているからだろっ」


「わ、わわっ、いっぱい食べてしまってすみませんっ」


「あははっ、小梅ちゃんのイチ押しはローストビーフかな? このお店のやつ、おいしいよね~」


 エトソンが取り分けたのか、僕の皿には余りもののサラダが山盛りになって主食を取ることができない。異世界にマナー講師はいないのだろうか。一番の功労者と言われてもいいはずなのに、ひどい扱いである。


「はーい、おかわりのそうめんもできたわよ~」


 叶夢のお母さんが、大皿に盛られた絹のような糸束を机に置いた。氷に反射して輝くミルクロードに、子どもみたいに元気な二人がキャッキャと騒ぎ出す。さっきたらふく食っていたくせに、まだ食べる気らしい。


「アーサーっ、叶夢っ! そうめんちゅるちゅるですっ!」


 そう珍しいものでもないのに、目を輝かせて振り向いたエトソンの明るい声を聞いて、叶夢と顔を見合わせて笑った。なんだかそれだけで、今日一日のことなんてどうということはなかったように思えてしまう。


 あるいはそれが、何よりも尊い日常の幸福というものなのだ。


**************


 電気を消すと、少し肌寒くすら思えていた部屋も、互いの体温で温かく感じるほどだった。来客用の布団があるとはいえ、一人用の部屋に四人も雑魚寝するのは、やはり少し窮屈である。奔羽さんに遠慮した小梅ちゃんが蚤(かいこ)のように縮こまったとはいえ、冊の字で寝る必要は無かったはずだ。


 もぞもぞと動き回るエトソンちゃんに、ついに小梅ちゃんが弾き出され、奔羽さんも私の方へ寄ってきた。後でお転婆姫はベッドに移動させよう。


「ねえ、叶夢ちゃん」


「どうかした?」


 暗闇でも輝いて見える彼女の肌のきめ細かさは、若さだけが理由ではないのだろう。洗練された努力に裏打ちされた自信気な笑みが、少しだけ恥ずかしそうに俯いた。


「あの、ここだけの話なんだけどさ」


 囁くように小声になった奔羽さんに、ドキリと嫌な予感がする。まさか、なんだかんだで秀一のことを好きになったなんて言わないだろうか。一時はエトソンちゃんよりは堅い相手だと思ったが、どちらがどちらにとは言わないが、釣り合う相手ではないと思う。


「私ね、学(・)校(・)に(・)行(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)が(・)な(・)い(・)の(・)。って、それは公式でも言ってるんだけど。本当に行ったことが無くて、小学校に入る前からグラビアに連れていかれてさ。今考えてもイカれてるよね。中学も、途中でアイドルデビューして行けなかったし、そのまま成人って、なんか笑っちゃう」


 自虐的な笑みを浮かべた奔羽さんは、かつての自分と重なった。社会に出て人と交流しているからだろうか、ずっと普通の人間に見えた彼女も、教育を受けられていない子供に違いはない。それは学の問題ではなく、ずっと奥深くの寂しさだ。誰もが知っていることを知らないでいること、誰もが知る普遍を通らずに進んできたこと。そんな不安を幾度となく彼女も体験してきたのだろう。


「この前、冥加学園に行ってさ。授業は受けられなかったけど、すっごく楽しくて。もし、アイドルじゃなくて、普通に学生として生きられたら、なんて思っちゃったりして。みんなともっと一緒にいたいって———」


 柔らかな頬に流れた雫が、枕を濡らす前に拭った。いつかの自分を肯定するように、初心に帰ったような気持ちで告げる。


「夢を見てはいけない人なんていないわよ。誰だって、いつだって、夢を叶えていい。ねぇ、想像してみて。奔羽さんが、学生として過ごす時間を」


 それはきっと、古典的で普遍的で典型的な学生生活。言い換えるなら、まさしく原(・)風(・)景(・)と呼べるイメージだ。私なら、それを叶えてあげられる。


「夏休みまでの、ちょっとの間だけでも、学園に編入できるよう、理事長に掛け合ってみるよ。きっと、あの人のことだから、快く了承してくれると思う」


 誰もを幸せにするアイドルが、今、自分の幸せに微笑んだ。誰のためでもなく、ひとえに己の幸せのために喜びをかみしめる。


 私もきっと、彼女のためじゃない。あの日の私のために、微笑み返す。まだ青く透明だった自分がここにいると示すための、小さな波を起こした。


 それはきっと、運命を少しだって変えたりはしないけれど、ただ、また一人が、ささやかな夢を叶えるのだった。



4-5 「それが不格好な運命だとしても」

 何とか収束を見た殺し屋による同時多発事件は、それでも世界に波紋を起こす。

 少しずつ変わっていくのは、秀一の日常もまた然り。緊迫した状況でうやむやになっていたアレコレと、秀一は対面することに———。


「それじゃあお互い、良い休みを」


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