4-2 グランドルートは忙しない
〇これまでの登場人物(主に四話登場)
・朝尾秀一
この物語における騒動の中心である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
・奔羽たあむ(ほんば たあむ)
日本中で話題沸騰中の直感系アイドル。『本バタ』『ばたみゅ』などの愛称で親しまれる国民的美少女。冥加学園からの融資を受けた返礼として、冥加市でテレビ出演等の社会参画を行なっている最中。
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・九沙吹藍良
冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。剣道部に所属しており、竹刀を携帯している。大体いつも第二図書室にいる。
・澪川冥加
冥加学園の学園長。年齢は不詳だが、若見えする方である。この世界がフィクションなら、確実に悪役だと訝しまれすぎて、最近は言葉遣いを寄せているらしい。少なくとも善人である一面を持つイケ中年。
・青枝桧希
衒いのない、感じの良い青年。ヒノキという名で殺し屋をしている手先の器用な男。
・ボリス
桧希の連れ。シャーマンみたいな服を着た女。水晶玉を抱え、モニと呼ぶ存在と話しているようだ。
現実味というやつは、いったい何に担保されているのだろう。
床下の暗さは、まさに舞台裏という冷たさで、僕を落ち着かせる。瞼に焼き付いた、ステージ上の眩しい脚光は、背負わされた非現実と思いたい巨大な責任を、はっきりと僕に向き合わせた。
そして、少し薄暗く感じる楽屋の照明は、ゆっくりと僕の目を現実に慣らしていく。
「まずは、一万五千六百人の中から選ばれたあなたの幸運に、おめでとうと言うべきかな」
「……世界的に人気なアイドルのプロデューサーになれるなんて、光栄の限りだよ」
楽屋に置かれた机の上には、分厚い資料が置かれている。彼女の事務所名が書かれたファイルには、大きく社外秘の印が押されていた。社内の人間になってしまった僕は、これを暗記しなければならないということだろうか。
用意された席に着けば、いよいよ逃げられなくなる気がして、僕は椅子に体重を預けて立ち尽くす。彼女は、気を悪くすることも無く、僕の顔を覗き込んで笑った。
「その割には、全然嬉しくなさそう。冥加学園の生徒って、こういうサプライズが好きって聞いたんだけどな~。ふふっ、そんなあなただから選ばれたのかもね、プロデューサー?」
締め付けの強い衣装を少しだけ緩めてから、奔羽は僕の対面に座る。示された席に、僕も渋々ながら座ることにした。何もかも、逃げ出すには遅すぎる。廊下にすらスタッフの気配がないことに、不審感を覚えながら、ゆっくりと腰を下ろす。
「そっちの資料は、まだ読まなくていいよ。万が一、あたしがあなたを気に入って、本当に事務所に引き抜きたくなったら、その時に死に物狂いで読んでもらうかもしれないけどね」
「……そんな日が来ないことを祈るよ」
「あはは、そうだね。とりあえず、これを見てくれるかな」
僕のような偏屈の対処に慣れているのか、それとも我が強いだけか、彼女は表情を変えずに、数枚つづりの資料を共有した。カレンダーのようだが、まるで学校の授業計画のように、びっしりと予定が刻まれている。見たことのあるワイドショーや、聞いたことのあるドラマの名前が並んでいるが、彼女に労働基準法は適用されないのだろうか。
「ひどいスケジュールだな。医者の予定も入れたほうがいい」
「専属のメディカルマネージャーがいるから、へーきだよ。
それより、資料を見てもらったら分かると思うけど、実は、あたしの予定って、来年までびっしり埋まってるんだよね。だから、プロデューサーとしてあなたは起用されたけど、私にぴったり付いてきて、お偉いさんに頭を下げて番組に参加させてもらったり、作曲家に擦り寄って楽曲を提供してもらったりする必要はないの」
実際に見たことがあるのか、自虐的な笑みを浮かべた奔羽に、少しの疑問が浮かぶ。別に、僕はもともとそんなことをするとまでは予想していなかったが、それはそれとして、筋を通さないといけない相手はいるはずだ。寝る間もない彼女の狂気的な予定表を見終えても、楽屋には誰一人として現れる気配がない。
「それはありがたいが、いくら個人事務所と言っても、スケジュールを管理するのが、僕と君の二人だけということはあるまい。元々のプロデューサーは、どうしたんだ。確か、前の事務所から一緒なんだろう」
奔羽たあむのプロデューサー兼マネージャーは、そのほとんどが謎に包まれた存在である。彼女の口から洩れた情報や、同事務所所属のタレントからのリークでも、これと言って大きな問題も魅力も語られない男だが、デビュー時から変わっていないあたり、有能な人間なのだろう。
「ああ、笹倉坂のこと? あいつなら、死んだよ」
「……殺し屋に、殺されたのか?」
真剣に聞いた僕に、奔羽は目を丸くして口を隠した。初めて、自然に思える笑みを見せた彼女は、バカらしいといった様子で背にもたれた。
「いくら芸能界が殺伐としているからって、殺し屋なんていないよ! ごめんごめん、死んだって言うのも冗談だから。今、笹倉坂は、イタリアで海外展開の準備をしてるの。あんなだけど、一応、自称敏腕だから、こうやって予定だけ押さえてくれてるってわけ。だから、あなたには、笹倉坂がいない間、メディア向けに話題作りのプロデューサー役をやってほしいの」
「要は、君の傍でニコニコしていればいいってことか? 僕に向いているとは思えないが」
「そう? よく見たら、あなた結構美形だし、週刊誌にも取り上げられちゃうかもね」
いったいこのスケジュールのどこに不貞に走る時間があるのかと、茶化すことよりも心配が勝る。何もしなくていいというなら、それ以上に楽なことはないのだが、彼女に物申せる立場にあるというなら、少し提言したくなった。
「それで、ここからが本題。あなたには、このスケジュールをぶっ壊してほしいの」
「————は?」
可愛らしく握りこぶしを作った少女に、一気に不貞の香りが漂い始める。直感系アイドルと持ち上げられてはいるが、実際彼女は同い年の少女に過ぎない。仕事漬けの日々に疲れ、インモラルなアバンチュールに夢を見てもおかしくはないのだ。
「ああ、もちろん、プロデューサーとして、ね。このスケジュールは、あくまでも、あたしと笹倉坂が立てた物。そこに、あなたという不確定要素を入れることで、どっかーんっ! と、化学反応が起こるはずっ」
「そんなこと、僕の一存で決めていいものなのか? 概算で組まれている予定もあるとはいえ、突然変えたら、各所に迷惑がかかるんじゃないか?」
「もう、そこは上手くやってよ、プロデューサー?
私が思うに、プロデューサーに必要な資質は、自分の自我を信じること。もちろん、ファンの要望や世間の目は大切だけど、強い意志で前に進むことができなければ生き残れないわ」
そうだとすれば、僕なんかよりも、ずっと才能が有りそうなアイドルは、勝気に笑う。あるいは、だからこそ、彼女はソロアイドルとして大成したのかもしれない。
「あなたには、何よりも大切にしたいことはある?」
「平穏で暖かな日常、それ以上に求めるものはないよ」
「それなら、私の事務所なんてどうかな。今来てくれれば、五年後にはFIREさせてあげられるけど」
「結構だ。こんな日々に耐えられるほど、僕には情熱はない」
改めて見ても、一人の人間がこなせるとは思えない過密なスケジュールに、頭が痛くなる。彼女が個人事務所を立てて独立した理由は、おそらく、雇用形態を変えるためだったのだろう。そうまでして、求められる姿を演じる理由は、僕には理解できそうもなかった。
遠い予定を今考えても仕方ないかと、今月のカレンダーに戻ってみる。彼女は、すべてに付いてくる必要はないと言っていたが、かといって学校に行くのも気が滅入った。超人気アイドル、奔羽たあむの臨時プロデューサー。そんな肩書を押し付けられて、平常な学校生活になるわけがない。
「何か予定があるなら、ある程度は優先してもらっていいけど、都合の悪い日とかあるかな」
「いや、学校以外にほとんど予定はないからな。だが、一つだけあるには————む、このミニライブって、そこでやるのか?」
「ああ、それね。せっかくの機会だし、何日か冥加市でのイベントをしたくて、前からやりたかった遊園地での営業を入れてみたんだ。呼びたい人がいるなら、チケットもらってこようか? 商店街の福引とか、まだ残っていたら譲ってくれるかもしれないし」
日程を見て、まさかと思っていたが、珍しく埋められていた休日の予定は、疑いようも無く、同じ場所であった。うまい言葉が見つからず黙ったままの僕を、奔羽の直感が見通した。
「もしかして、元からご予約済みでしたかな?」
「少し事情があって、譲り受けたんだ。まさか、君のイベントがあるとは思わなかった」
「もう、オフで来るんなら、そんなこと忘れなよ? あはっ、笹倉坂なんて、プロデューサーとして顔出ししてないせいで、名物ファンだと思われているくらいなんだから。あ、そうだっ。イベント前なら時間あるし、ちょっとだけ、プロデューサーと一緒に回ってもいい?」
「構わないが、身バレ対策はしっかりな。入り口でサインを書いて一日が終わるのは、ごめんだ」
「ありがと。あたし、遊園地って、人と行くのは初めてかも。CM撮影もさ、全部グリーンバックだから、本物を見たこと、意外とないんだよね」
自慢か自虐か分からないラインの言葉に、少しだけ空気が和んだ気がした。彼女にとって、限りのあるプライベートの話は、分厚いアイドルの像に隠された少女の側面を窺わせる。
一通りの説明を受けたところで、ステージ下の長い廊下から、足音が聞こえてきた。落ち着いた足音が二つと、不規則な足音。子連れだろうかと振り向いた先で、見慣れた顔が楽屋に入ってくる。
「わわっ、本物のたあむちゃんですかっ?」
「エトソン、叶夢、それに理事長……どうしてここに?」
「いやぁ、僕も特別観覧席に招待されていたんだが、君のお手伝いさんから、エトソン嬢が暴れて困ると連絡をもらってね」
元気よく駆け寄ってきたエトソンを、奔羽が慣れた手つきで抱き留めて、頭を子犬のように撫でる。子供の扱いには慣れっこのようだ。苦笑いで肩をすくめた理事長に、僕も愁眉を開いた。
質問をしたいのはこちらの方だと言わんばかりに、叶夢は、気が気で無さそうな目で二人を見つめながら、僕の方へ歩み寄ってきたかと思うと、ラリアットかと思うほどの勢いで飛びついてくる。何とか受けとめたものの、黙ったままの幼馴染は、僕の胸を濡らした。
「ど、どうした?」
「もう、びっくりさせるのも大概にしてよね……秀一が急に選ばれたかと思ったら攫われちゃうし、みんなになんて言えばいいのかと思って……」
「ま、まずは落ち着け。別に、どこかに行くわけじゃないんだから……どこかに行くわけじゃないんだよな?」
「ああ、そう聞いているよ。まさかアーサーが選ばれるなんて、さすがに予想していなくて驚いたけれどね。きちんと特別課外活動として申請しておくから、授業や留年の心配はしなくてもいい。存分に運命を楽しみなさい」
学校の全権を握る男に言われては、杞憂できるほど頭が上がらない。ひとまず、幼馴染の背を撫でて落ち着かせていると、奔羽が思い出したようにエトソンの頬をつつく。
「キミ、どこかで見た顔だと思ったら、幻の踊って見た動画の子じゃない? あれのおかげで、配信チケットの売り上げ伸びたって聞いたよ~。
ね、理事長先生。この子も冥加学園の生徒なら、コラボ動画とかダメですか?」
澪河理事長は、困ったように肩をすくめて僕を見た。僕も困り眉でエトソンを見る。残念なことに、彼女のプライバシー権を憂慮するべき保護者は異世界にいるはずだ。
「私っ、たあむちゃんと一緒に踊れるのですかっ?」
「そうだよっ。ステージ……は、お兄さんの心臓が持たなそうだし、撮影スタジオにしよっか。学園にも、設備ありましたよね」
別棟、などと揶揄されたりする、いつでも工事中の敷地は、特待生の要望に合わせて様々な設備がそろえられている。一握りの生徒しか使えない場所ではあるが、奔羽たあむは間違いなく規格外だ。
「ああ、確か校内撮影の日があったはずだから、そこで時間を作ろう。もちろん、アーサーも踊るんだろう?」
「……本当に勘弁してくれ」
「ふふっ、プロデューサーはちょっと乗り気じゃないくらいが、一番ファンにウケるんだよ?」
指でカメラを作ったアイドルに切り取られ、僕はため息を吐いた。これからの予定は、何のイレギュラーが入り込むすきがないほど、びっしりとカレンダーにまとめられていたが、これから先の日々がどうなっていくのか、僕には予想もできなかった。
**************
到底冥加市の権力者とは思えない、オンボロな(あるいはこれをヴィンテージと呼ぶのだろうか)車で家まで送ってもらった僕たちは、不安も興奮も冷めやらぬまま、理事長と別れた。隣家に帰っていく叶夢に手を振り、僕たち三人も家に帰ることに————。
「ちょ、ちょっと待って、なんで奔羽さんがまだいるの?」
叶夢の家に背を向けたところで、早戻しのように玄関から帰ってきた叶夢が、奔羽に詰め寄る。言われて見れば、確かにそうだ。当たり前のようにエトソンの肩を支えて笑っているが、いつ帰るのだろう。夜道は危険だし、プロデューサーとして、ホテルか事務所か知らないが、送ってあげるか。
「なんでって、理事長先生が、朝尾くんの家に泊まっていくといいって勧めてくれたからだけど? ほら、今から大阪の事務所まで戻るのも手間でしょ」
「ほ、ホテルとか押さえてないの?」
「押さえてたけど、ファンが溢れてる市内のホテルよりは、プロデューサーの家の方が安全でしょっ? ちゃんと許可は取ってるし、パパラッチもいないし、へーきへーき」
「僕は何も聞いていないが……」
「アーサーの家は、安心安全、ですっ」
超有名美少女アイドルが家に泊まるらしいと突然聞いても、少し頭痛がするくらいで済んでしまうのは、きっと感覚が麻痺してしまったせいだろう。もうエトソンとの生活にも慣れてきたからか、一人増えたぐらいで動揺することもない。なんて、ファンが聞いたら大激怒しそうなものだが。
「そ、それなら、私も一緒に、秀一の家に泊まるわっ!」
「な、なんで叶夢まで押しかけてくるんだよっ」
「それは、その、監督責任があるもの!」
なんの責任なんだ……とは思うが、実際、燃え盛る炎のような奔羽と、爆弾のようなエトソンの二人を一緒にしておくのも少し不安ではあるし、保護者としていてもらう方が僕としても楽ではある。決して、二人の面倒を任せたいという怠惰な思いからではない。
「これが本当の『押しかけパジャマパーティーっ』ですか」
「あははっ、確かにねっ」
「エトソンは学校もあるんだから、早く寝ないとだめよ? 身長、伸びなくなっちゃうわ」
三人寄れば姦しいのは当然なわけで、僕の方が居候のような気分になってしまう。いろんなことがあり過ぎて、早く眠りたいという気持ちの方が何よりも優先だった。
「わっ、すっご~い。ドラマのセットみたいな一軒家だね」
「普通の家だよ。有名人には珍しく映るかもしれないが」
「え~、褒めてるのにぃ」
驚くほど少ない奔羽の荷物をリビングに置いて、一通り生活に必要な場所を新たな居候に教える。二階に上がると、妹の部屋で叶夢が腕を組んで考え込んでいた。
「理亜ちゃんの部屋、三つもお布団敷けたかしら」
「あたし、ソファでいいよ」
「だめよ。アイドルなんだから、身体が一番の資本でしょ? エトソンちゃん、お布団一緒でもいい?」
「はいっ。叶夢とお泊り、久しぶりですっ」
いよいよ女子会じみてくると、僕の家なのにすっかり邪魔者扱いだ。僕の悪口が聞こえてくる前に、さっさと退散しよう。
庶民の家に好奇心が湧いたのか、奔羽はあちこちタンスを物色して回っている。一応他人の家なんだから、プライバシーとかだな……。
「むむ、エトソンちゃんって、今何歳? さすがにこの下着は、子供っぽ過ぎるよ」
「それは、アーサーの妹さんのものなのですっ。私の下着は、叶夢とアーサーに選んでもらったのですよっ」
恥ずかしげも無く服をたくし上げようとするエトソンに、僕は頭を抱える。それじゃあまるで、僕がエトソンの下着を吟味したような言い方じゃないか。買い物についていっただけなのに、語弊のある言い方である。
「あれ、あなたはプロデューサーの妹ちゃんじゃないんだ。あはは、どうりで。プロデューサーの妹がこんなに可愛いわけがない、と思ってたんだよね」
「失礼な。僕の妹は、もっと可愛いよ」
しばらく見ていないせいで、今どんな成長を遂げているかは分からないが、絶世の美少女にすくすくと育っているに違いない。そんなことを考え始めると、会いたくなってくるが、初等部の特別プログラムで海外にいる理亜は、そうそう帰ってくる気配はなかった。よく考えたら、奔羽たあむのプロデューサーになったことがニュースになったりしたら、海外にいる彼女にも届くかもしれない。なんだか気恥ずかしいが、頑張っている兄の姿を見せたいものだ。
「さぁさぁ、奔羽さんも明日早いんでしょう。シャワー浴びたら寝ちゃいましょ」
「プロデューサー、覗いたら慰謝料請求するからね?」
「先に宿泊料を払ってくれ……」
**************
「秀一、もう朝よ」
「プロデューサー、朝だよぉっ」
「アーサー、起きてくださいっ」
華やかな三連星のジェットストリームアタックに体を揺らされ、僕はゆっくりと目を覚ます。そこまでして起こさなくてもいいのだが、叶夢がいるせいかいつもよりも過保護だ。
「朝ごはん食べたら、エトソンちゃんは私と学校ね。奔羽さんは、お仕事?」
「そうだね、朝配信inプロデューサーの自宅でもしよっかな」
「大炎上するぞ」
朝から、鈴のようなきれいな声で笑う奔羽は、本当にやろうとしているのかひやひやする反応だ。ひとまず、何事も無く朝を迎えられたことに安堵する。とんでもないファンが、僕の家に大挙していたらどうしようかと思ったが、大丈夫そうだ。
「ま、今日はプロデューサーも黙ってあたしに着いてきてよ。心配しなくても、お昼と送迎は事務所持ちだからさ」
「それはありがたいな。エトソン、僕がいなくても、授業は平気か?」
「はいっ、ご心配なさらず! お昼の配信、楽しみにしてますねっ」
そういえば、そんな予定も入っていたかと思いながら、まさか僕が出ることはあるまい。いやしかし、ファンからすれば得体のしれない男がプロデューサーになったなんて、説明してほしくもあるだろうし、何か話す方がいいのだろうか。
「そう緊張しないでいいから、流れるまま行ってみよ~」
「直感系アイドルが言うと、簡単そうで困るよ————」
**************
一生分の愛想笑いを使い果たすみたいに、昼配信のことなど、すっかり忘れるほどの過密スケジュールが過ぎていく。ついてくるだけでいいと言っていたが、実際現場に同行すれば、彼女に悪影響を与えないよう、脚本家や共演者、監督にその他のスタッフなど、取り繕わなければならない相手が湧き続ける。家にいる時と変わらない振舞いの奔羽に、売れっ子の余裕を感じ、尊敬の念を覚えた。
「みんな、こんバタ~っ! 学生さんも、お仕事中の人も、ちょっと一息、お昼のラジオだよ~。今日のゲストはぁ、みんなも気になって仕方がない臨時プロデューサー、朝尾Pで~っす。ほら、挨拶っ」
「あ、朝尾です……この度は、臨時プロデューサーに選ばれまして————」
「も~、堅すぎっ。でも、そんな真面目なPだから、週刊誌に期待してたみんなは、反省だぞっ」
冥加テレビ局の屋上スペース。開放感のある社員用空間は、ちらほらと他のスタッフが休憩している様子も見られる。隙間時間の配信のようで、テレビ局側の福利厚生をアピールさせる姑息な取引だ。
「わぁっ、いつもよりコメント速くない? ほら見て、プロデューサー。みんな羨ましがってるよ~っ」
「あ、あはは。なんだか申し訳ないですね」
絶えず数値の変動する配信画面に視線を流されながら、ようやくコメント欄を見つける。急流のように溢れるコメントの波は、好意的なコメントの方が多いようだった。言われ慣れていない誉め言葉はむずがゆく、時々混じる本気で怒っているコメントの方が安心できる。
最近の投稿サイトは便利なもので、外国語のコメントもすぐに翻訳されるらしい。いろんな国の人が見ているのかと感心する間もなく、翻訳された最低なスラングに呆れる。ネットミームだとしても語気の強い、ほとんど殺害予告みたいなコメントから目を逸らしながら雑談を続けた。
「そういえば、プロデューサーって、冥加学園の特待生? なんだよねぇ。何か特技とかあったりするの」
「特技……と言われても、これといって得意なこともないんですよ」
苦手なものもあまりないが、配信上で豪語できるようなものもなく、言葉を濁した。コメントでは、特待生という言葉に驚く様子が見える。市外での認知度もある程度高い冥加学園は、当然特待生についてのエピソードも語られていた。ほとんどが根も葉もないうわさ話だが、実際にオリンピアンも輩出している系譜ではあるわけで、期待してしまう気持ちも分からないでもない。
「確かに、プロデューサーって、アスリートって感じでもないもんねぇ。あっ、でも今回選ばれたっていうことは、特待生レベルの幸運ってことなんじゃない? 冥加学園だから、超学園級の幸運、的な」
言いたい放題の奔羽に、僕は緊張から、頭をかいて困り顔を浮かべることしかできない。絶対にアーカイブは見たくないが、エトソンに何か言われそうで冷や汗が出てきた。
奔羽がコメント欄の話題を読み上げている姿を眺めていると、ふと、背後から足跡が聞こえて、僕は意識だけを集中させる。場所の占有許可は取っているし、テレビ局の抗議ということも無いはずだ。他の職員は普通に休憩中だろうから、指示が行き届いていなかったのだろうか。
「————っ!」
「たあむちゃぁんっ! どうして、どうして僕じゃないのぉ!!」
振り向いた瞬間、挙動不審なその男の動きに危機感を覚える。懐からカッターナイフを取り出した男は、ひらひらと首で揺れる社員証を投げ捨てた。周りで休憩中の他の社員は、異常な目の男にまだ気が付いていない様子で、のんきにうたたねしている。奔羽も、コメントに夢中だ。
「たあむちゃんっ、僕の方を見てよぉっっ!!」
大声を張り上げた男に、ようやく奔羽は冷たい視線を向ける。投げつけられたペットボトルを、僕は椅子で防いだ。どうやら、配信を無事に終えることは難しいようだ。
「あっはは~、ちょぉっと待っててねぇ、元気なリスナーが現地参加してきちゃったぁ」
「言っている場合かっ! 少し下がっていろ」
男の半狂乱の様を見ても、動じることなく笑顔を浮かべている奔羽にため息を吐いて、僕はカッターナイフの刃を伸ばした男と向かい合う。屋上の入り口から、数名の警備員が出てきたが、走ってくるにも少し遠い距離だ。
「お、お前! お前なんかより、僕の方がぁ————!」
無駄の多いストロークで振りかぶられた右腕を、勢いがつく前に押さえて、何もしなくてももつれそうな脚を引っかけて転ばせる。不健康な細さの体は、不健康な生活のせいだろうか。テレビ局は、社員の私生活の充実も考えてやるべきだろう。
配信に映りこまないよう、腕を掴んだまま、奔羽のスマホから遠ざける方向に背を蹴り出す。捻られた腕の痛みに耐えかねて、男はカッターナイフを落とした。
「ひゅ~、プロデューサーが守ってくれたよ~。大丈夫、ケガはしてな……あっ、もしかして、音が入ってた? あはは、そうそう、そういう演出ってことで……」
警備員に、茫然とした男を引き渡した後も、奔羽は平然と配信を続けている。これが現代の若者というやつなのだろうか。
「プロデューサーっ。みんなも、プロデューサーのかっこいいところが見たいってさ。映画とか、出てみない? もちろん、主役はあたしで」
「結構です。呑気にしすぎるのも考え物ですよ」
「あははっ、もう。コメントで、さっきのタメ口、もう一回お願いしますだって!ほら、言ってみてよ。
「俺の三歩後ろで下がってな」————フ。って感じで」
「脚色するな……しないでもらえますか。ほら、もう時間が」
「あ、ホント! それじゃあみんな、明日は冥加学園からお送りするから、お楽しみにっ」
そんな予定は立ててなかっただろ、という前に配信を手早く閉じた奔羽は、椅子の上で脱力した。かと思うと、あっという間に切り替えると、立ち上がって僕を急かす。
「さ、プロデューサー。さっきの不審者の後始末の話とかは聞いといて。あたしは次の現場に行ってくるから。じゃ、よろしくね~」
風のように去っていった奔羽に、僕は呆れてものも言えない。よく不審者に襲われそうになった後に、一人行動しようとするものだ。さっさとテレビ局の謝罪を受けて彼女の後を追うことにしよう。まったく、一日目からロクなことがない。それとも、社会というのは、こういうものなのだろうか。
**************
冥加市内を駆け巡るプロデューサー体験がようやく終わり、疲労感から魂が抜けかけている僕を、専属だというタクシーが運ぶ。窓に映る夕焼け空に、本来なら、奔羽はこの時間からが最も忙しい時間なのだと、カレンダーが脳裏をよぎった。運動部的な物とは違う、根本的な体力の違いを見せつけられ、ますます尊敬の念が強まる。売れっ子というのは、ニコニコしているだけではないらしい。
「大丈夫、プロデューサー? 今週は市内だけだし、そんなに忙しくないはずだけど……」
「なら、来週には戻ってくるように、笹倉坂とやらに頼んでおいてくれ……」
くすくすと笑いながら、SNSのコメントにリプライを返し続ける奔羽は、一日働き続けても、宝石のように輝いて見える。それに比べて僕は、撮影を横で見ていただけで枯れ木になってしまった。帰ってこないにしても、笹倉坂Pに多少心得くらいは教えてほしいものである。
「え~? あいつ帰ってきても変わんないって。そもそも、笹倉坂は現場に来ないし」
「じゃあ、何で僕は現場に行かされてるんだ……?」
「そりゃあ、話題づくりと、多少の裏回し的な? みんなさ、あたしの話聞きたがるでしょ? いっつも一人で現場に行くから、裏ではPをいびってるとか、性格悪い話を仕入れたいんだよ」
「性格に難があるというのは、あながち間違いではないと思うがな」
「そこはあたしの魅力でしょ?」
視線だけをこちらに向けて、軽いウインクをした彼女は、夕焼けに照らされ、グラビアの一ページを切り取ったみたいだ。今日一日連れまわされた台風のような存在でさえなければ、恋に落ちてしまうところである。
「……奔羽は、なんでアイドルになろうと思ったんだ?」
自宅までの長い帰路。何気ない話題に、彼女も退屈そうに答えた。
「知らない人の方が少ないと思うけど、プロデューサーは、インタビュー記事とか読んでないの?」
「目は通したが、一応、直接聞いてみただけだ。夢はまだ叶わないのか」
奔羽たあむがアイドルになった理由。
多くのインタビューの中で、一貫して語られたそれは、『夢』というありふれたものだ。プロデュースを受け、その時に、アイドルになった自分の姿を想像して、居ても立っても居られないほどに焦がれたのだという。
「どうかな。実際、まだまだ先は長いかも。でも、叶わないと思った日は一度もないけどね。
あ、そうだ。プロデューサーなら知ってるよね。あの理事長先生の話。雷に打たれたのに、無傷だったって話」
「飽きるほど聞かされてるよ。回心がどうのって話だろ」
「そうそう。実はあたしも、似たようなことがあってさ。ちょうど、プロデューサー————笹倉坂と初めて会った時、あたしは初めて、アイドルってものを知ったの。ステージ上で何よりも輝いて、誰もの目を奪う存在。その時ね、「ああ、そこが私の人生の一番高いところなんだ」って、直感的に分かった。そこに立てば何かに迷うことも無くて、何もかもを救えるんだって……。
ま、そんなこんなで笹倉坂のお尻に火をつけて、ここまで走り抜けてきたってわけ」
「一応聞くが、本当に火をつけたわけではないよな?」
奔羽は、頬に指を立てて、考え込むように視線を空に向ける。
「……忘れちゃった。どうだったかな」
「なんだか、笹倉坂さんにも同情するよ」
ゆっくりと家の前で停車にしたタクシーに礼を言って、記者がいないことを確認しながら降車する。市内での移動の時には、両手で数えるのが面倒なほどの数の視線を感じたものだが、不思議とプライベートは守られているようだった。
排気音で気が付いたのか、玄関でエプロン姿の叶夢が迎えてくれた。ガスの音が聞こえてくるあたり、相田さんもまだいるらしい。まさかエトソンに火を任せるわけもない。
「一応、栄養には気を遣ったつもりだけど、口に合わなかったらごめんなさいね」
「だいじょーぶだよっ。もういい匂いしてるしっ」
パタパタとスリッパの音を立てて台所に戻る、叶夢の背は甲斐甲斐しい。案外、料理中の姿を見ることも無かったな、と新鮮な気持ちを覚えていると、すするような鼻の音で、外履きを脱ぐ足が止まった。
荷物を置いて、靴紐をほどく奔羽の目から、一筋の雫が垂れていく。思わず手を伸ばして、頬に流れる涙を受け止めてしまった。少し乾いた肌が触れあって、湿った温度で繋がった。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない。ちょっと、叶夢ちゃんが、お母さんに見えちゃって」
うれしそうに笑いながらも、奔羽は目を潤ませている。安心したような声は、彼女の心が涙と同じように温かく動かされたのだと伝えてくれた。涙で濡れてしまった指先を、僕の服に押し付けて拭いた彼女は、恥ずかしそうに顔を逸らす。
「……これがプロデューサーの言ってた、温かな日常ってやつ?」
「ああ。これが穏やかで温かい、いつも通りの僕の家族だよ」
僕も彼女の顔は見ずに、ほんの少しだけ幸せな気持ちで確かめた。この温かさを守ることが、僕にとっては何よりも大切なのだ。いつの間にか、異世界の少女が入り込んではいるが、平穏で変わらない日々こそが、僕の夢なのだ。
**************
明くる日は、冥加学園の校舎を奔羽に紹介しつつ、彼女自身の希望ですべてのクラスを回ることになった。奔羽が質問を受けている間、その百倍近い質問攻めを受け、聖徳太子でもない僕は、情報の波におぼれそうになりながら、もみくちゃにされ抵抗もできない。中等部のクラスを回り終え、見慣れた高等部の校舎に来れば、嫉妬や妬みよりも同情してくれたのか、それとも有名人には慣れているのか、穏やかな質問時間が続いた。
「それじゃあ、お昼はダンス部に呼ばれてるから、プロデューサーは休んでていいよっ」
「着いて行かなくていいのか?」
「もう。顔、げっそりしてるよ? 無理しないで、休む時は休んで次に備えるのっ」
超人気アイドルに頬を突かれては、言い返す隙もない。というか、言い返そうとしたときには、彼女はすでに廊下の向こうへ消えてしまっていた。
食欲も湧かず、どこに行こうかとふらついた脚は、自然と喧騒から離れていく。縋りついた扉は、静謐とした冷たさを伝えてくれた。
初夏でもしんとした冷たさの第二図書室で、先客の少女は静かに僕に視線を向けると、じっと見つめてからまた読書に戻った。声をかけるのを躊躇うほどに、傍目から見た僕は疲れているらしい。
「……遊園地」
空気に溶け込むような流麗な響きの声に、一瞬自然音かと聞き流してしまいそうになる。僕が視線を向けると、九沙吹さんは本を置いて、改めて話し始めた。
「遊園地の日、少しだけ用事があって、遅れるかもしれない」
「ああ、全然。そう気にすることじゃあないよ。実は、もう一人一緒に回ることになって、予定通りとはいかないかもしれないからさ」
「それなら、よかった」
九沙吹さんは、落胆することも安心することも無く、淡々と首を傾げて返答した。ゆっくりと姿勢正しく戻っていった瞳が、まだじっと僕を見つめている。まだ何か伝えたいことがあるのだろうか。何事にも落ち着いている彼女だが、さすがに人が増えすぎて、誰が一緒に来るのかそろそろ知りたくなってきたのかもしれない。
「……行きたい場所」
涼やかな風のような、心地の良い声色に、つい聞き入ってしまいそうになったが、九沙吹さんが何かを呟いた。僕は難聴系主人公ではないので、彼女の言葉に聞き返すこともない。だが、その言葉だけで真意をくみ取れるほどのスーパーダーリンでもない。
「朝尾くんは、カラオケに行ったことはある?」
「あ、ああ。カラオケなら、何度か」
「それなら、カラオケを案内してほしい。カラオケは学生の定番、なんでしょう?」
なんでしょう? と言われても、音楽に疎く友達の少ない僕には、ほとんど無縁の場所である。見栄を張って、慣れた風に答えたが、僕自身も初心者なのだ。とはいえ、せっかくの彼女の誘いを断るわけにもいかない。いや、待て。そもそも————。
「プロデューサー、ここにいるでしょ?」
静謐とした図書室の空気を、直感系アイドルの元気な声が切り裂いた。僕を探しに、おそらく直感的に、一直線に向かってきたであろう彼女は、僕を見つけて、自信気に頷いた。
「やっぱり、プロデューサーもいたほうが絵になるって話になって、探しに来たんだけど……お取込み中だった?」
「いや、ほんの雑談をしていただけだよ」
奔羽は、僕と九沙吹さんの顔を交互に見ながら、頬に指を当てて考え込む。頻繁にコマーシャルで使われる、直感系アイドルの決めポーズの一つである。
頬から離れた指が確信じみた視線と共に、僕の方に向いた。
「明日の放課後の時間なら、予定、空けられるよ」
……それはもう、直感というより超能力じゃないか?
空けられるというのは、多少の無理をするという意味でもある。僕の個人的な事情で、奔羽の予定を変えるというのはいかがなものか。予定をぶっ壊してほしいと言っていたが、彼女に迷惑を掛けたくはなかった。
「安心して。ただのレッスンの時間だから、迎えに来る必要もないし」
「それならいいが……」
気を遣わせて申し訳ないが、それはそれで、九沙吹さんとの予定が決まったことに緊張感が走る。
———ちょっと待て。強引に話が進んでしまったが、九沙吹さんと二人でカラオケに行くのか!?
当の九沙吹さんは、僕たちの結論を待つように、じっとこちらを眺めていた。本はすっかり閉じてしまい、話を逸らせそうにもない。
「え、えっと、急で申し訳ないんだけど、明日の放課後って、空いてたりする?」
「わかった。校門で待っていればいい?」
「あ、ああ。そうしてもらえると、助かるよ」
偶然予定が入っていないかと期待しても、残酷に運命は進み始める。いや、ただカラオケに行くだけだ。別に何も進展しまい。
とはいえ、叶夢と買い物に行ったりすることはあっても、女の子と二人でどこかに行くなんてことはほとんど経験がない。そもそも、叶夢があまり気にする方ではないからだろうが、僕は人に気を遣えているかも不安だ。エスコートできるほど慣れた場所でもないし、嫌われてしまったらどうしよう。
「ね、決まったんなら早く行きましょう? ダンス部の子たち、待たせてるからさっ」
「あ、ちょっと————」
無理矢理腕を引かれ、僕は第二図書室を後にする。元気良く手を振った奔羽を、九沙吹さんはきょとんとした目で見つめていた。
人気のない廊下を速足で進む。健脚のアイドルは、エネルギーが有り余っているようだ。
「さっきの子、美人さんだったけど、攻略中?」
「人聞きの悪い言い方をするな。人間はNPCじゃないんだ」
「似たようなものでしょ。相手が好むことをすれば好かれて、それが分からなければ嫌われるだけ。あたしには恋とか分からないけどさ、それってそんなに恥じることなの?」
「……僕にだって、そんなこと分からないさ」
そもそも、この気持ちは恋と呼ぶのか。家族を大切に思いながら、誰かを想う気持ちを醜く感じてしまう不整合の理由も、僕には分からないままだ。九沙吹さんを気にかけてしまう気持ちを、「好き」だなんて言葉で表すのは、正しいことなのだろうか。
**************
昼休みの終わりから放課後まで、僕にとっては永遠の地獄に思えた撮影がようやく終わった。カメラになんて、一般人である僕が慣れているはずも無く、キラキラした少女たちに囲まれて、うろたえる様を記録に残された僕は、今すぐ叫び出したいほど恥ずかしい。ダンスだけは少し褒められたが、僕にはファンサというやつは向いていないらしい。まぁ、二度とやることはないだろうが。
「それじゃあ、カラオケ行っちゃお~」
次の現場に行くために荷物をまとめていると、奔羽が高らかに宣言する。僕は予定表に目を落として、ため息を吐いた。
「何を言っている。この後も予定は入ってただろ」
「叶夢ちゃんと、エトソンちゃんも呼んでるから、そんな恐縮しなくていいよんっ」
恐縮とかではなく……いや、大人気アイドルとカラオケに行くなんて、恐縮した方がいいのかもしれない。だが、今の僕は、一応プロデューサーなのだ。勝手なことをしようとする担当を、引き留めることも仕事の内だ。
「次の予定、理事長先生からのインタビューなんだけど、別にいいよね?」
「それなら、まぁ……」
ドラマ撮影とかだったら困るが、あの人なら別にどうとでもするだろう。一応、謝っておいた方がいいかもしれないが、顔を合わせるのも面倒だし、メールで済ませておこうか。念のため、叶夢にも相談したが、同じような考えで安心した。
「ウブなプロデューサーのために、モテるカラオケ術を伝授してしんぜようっ」
「あたしにも恋は分からない、とか言ってなかったか?」
「他の有名Pの受け売りだよっ。噂では、業界内で八股してるとかって」
「そんなアウトローに師事してたまるかっ」
エトソンを連れた叶夢と校門で合流し、近場のカラオケ店に向かう。適当な変装をした奔羽は、案外町で声を掛けられない。ファンの民度がいいのだろうか。
「三時間でお願いしますっ、できればマットの部屋で」
キャップの下から笑顔を見せた奔羽を見て、声を震わせながら接客していた店員に、カウンター近くの大部屋を案内される。十人ぐらいいてももてあましそうだが、追加料金の心配はないのだろうか。
慣れた手つきでマイクを机に並べた叶夢は、充電台の上に乗った操作端末を抱えたまま、僕の方に振り向いた。
「秀一、カラオケ初めてなんだっけ。採点、入れないほうがいい?」
「まぁ、無料なら入れておいていいんじゃないか」
「入れるに決まってるでしょ? アタシの歌唱力に刮目しなさぁいっ」
現役アイドルと競わされる身にもなってほしいが、そもそも、僕のカラオケ練習ではなかったのかと問いただしたいところだ。それで奔羽がストレスを解消できるなら別に構わないが、競争というなら負けてはいられない。高め合って強くなる、スパルタ式の特訓の開始だ。
「え~っ、たあむちゃん、聖子ちゃんとか歌うんだ!」
「ちょっと古いかな? でも、大先輩の曲、十八番なんだっ」
**************
「ねぇねぇ、たあむちゃん。マイケルだったら、こっちの曲とかもさぁ」
「えぇっ、叶夢ちゃん分かってるぅ! もしかして、結構曲の趣味合うのかもねっ」
二時間ほどが過ぎ、この世界の曲をほとんど知らないエトソンと共に、早々に聞き専となった僕は、膝の上のタンバリンにため息を吐いた。まさか、自分がここまでカラオケが下手だとは思わなかった。
「もうっ、プロデューサーってば、担当の生歌を聞いてため息なんて吐くぅ? 初めてなんだから、七十点の一つや二つで落ち込まないのっ」
「いや、でも、BGMがさぁ……」
華々しい九十点台の音楽が流れ、非の打ち所のない奔羽の採点結果が表示される。歌と踊りで世界を魅せているだけあり、僕が戦うだとか不相応なことを言う相手ではなかった。僕が頑張って歌っても、もの悲しい音楽でノイローゼになるだけである。
曲を入れる気にもなれない僕に、四つ足で這い寄ってきた奔羽は、躊躇いのない距離の詰め方で、僕の頬を引っ張った。後ろに倒れそうになる僕を、慌ててエトソンが支える。
「い~い? 人とカラオケに行くときに一番大事なのは、楽しそうにすること。相手が変な歌入れたり、音程がずれずれだったりしても、その空間を冷ますようなことはしない。カラオケで鍛えられるのは、魅力じゃなくて勇気なんだよ」
凄みのある彼女の理論に気圧され、僕は思わず頷いてしまう。確かに、一緒に行こうと言っておいて、下手な歌を歌った挙句ため息を吐くなんて最低だ。それならせめて、下手でも楽しく笑っている方がずっといいだろう。なんとなく、エトソンが僕と比べて、クラスの人と仲がいい理由が分かった気がした。
「それじゃあ、プロデューサーをコール係に任命しますっ」
「はいはいっ、私もやりたいですっ!」
「じゃあ、エトソンちゃんはコール大使ね。叶夢ちゃん、この曲、デュエットなんだけど、いいかな」
「わっ、ちょっと迷ってたやつ! いいよ、やろやろっ」
なんだか少女のようにはしゃいでいる叶夢を見ると、こちらまで嬉しくなる。叶夢にとって、奔羽は憧れのアイドルというわけでもないはずだし、単純に肩を並べて話せる相手が嬉しいのだろうか。学校では肩肘を張ったツンな態度を取っているのは、特待生としての責任感からなのだろう。ある意味で、学校とは関係のない友人として、そして、叶夢を特別視しない相手として、奔羽は心地の良い存在なのだ。あるいはそれすらも、奔羽の魔性なのかもしれないが。
元気に声援をあげるエトソンにつられて、僕も声を上げて合いの手を入れた。微笑んできた叶夢の表情を見ていると、なんだか、明日のカラオケも上手くいきそうな気がしてくる。思わず拍手してしまう二人の圧巻の歌唱力に、アイドルが二人になったかと錯覚する。
「……ふぅ。それにしても、なんで急にカラオケに行こうなんて誘ってくれたの? たあむちゃん、忙しいんでしょう?」
「それはプロデューサーが————あ、ううん。何でもない。ちょっと行きたくなったからってだけだよっ」
明日の仕事に響かないように、残り時間をゆっくりと過ごす中で、何気なく叶夢が聞いた一言で背筋にひんやりと汗が流れる。いや、別に僕がカラオケを練習することの、何に背徳感を覚える必要があるというのか。
「えぇ~? ま、楽しかったからいいけどさ。また今度、って言うのはさすがに難しいか……でも、こんなに楽しかったのも初めてかも」
「もう、あたしだって楽しかったよ? へたれプロデューサーと違って、叶夢ちゃんのためなら、冥加市までいつでも歌いに来ちゃうよっ」
「誰がヘタレだ————」
音漏れのひどいカラオケでもよく響く呼び出し音を、エトソンが素早く対応する。残り十分の知らせに、僕たちはいそいそと退店した。
**************
明くる日、だんだんとあいさつ回りにも慣れた僕は、むしろ放課後の予定にそわそわとしながら、奔羽の後ろをついて現場を駆け巡る。やっぱり、どう考えても過密すぎるスケジュールに、僕は幾度となく人力車となって彼女を運んだ。慣れた動きで僕の背におぶさる奔羽に、おそらく被害者仲間の笹倉坂に同情する。いい年の大人には、リンゴx個分の体重は、きっと腰にクるだろう。
「若いからって、あんまり無理したらダメよ? ADさんとか、二十代でも働き過ぎで体を壊したりするんですもの」
「は、はい。気を付けます……」
中年のスタイリストに気を遣われながら、撮影を眺めながら一息つく。奔羽は、自分の悪口や悪評を聞いておけと言っていたが、彼女は裏でも良い子で評判のようだった。冥加市内の放送局特有の、少しゆったりとした空気感故かもしれないが、ローカル番組で落ち着いた笑みを見せる彼女は、田舎に帰ってきた孫のように見える。
「そういえば、あの噂、聞いた?」
「噂、ですか」
「そうそう、なんでも、市内の記者とかテレビマンが襲われてるって話でね。それも、変な話、お金目的じゃないみたいなの」
声をひそめたスタイリストの話は、かえってよく聞こえる。安定した奔羽の振舞いに退屈し始めていたのか、番組プロデューサーらしき男も、話に割り込んできた。
「あれだろ?「この町で一番有名な奴を探している!」ってやつ。チンピラってよりは、熊みたいな男で、今度特番組もうかってくらい界隈じゃ有名だよ」
「特番って、番組に呼ぶ気? ローカルだからって、無茶しすぎでしょ。格闘家とかでも、素人は素人なんだから、ほっとけばそのうち消えるわよ。それより、あなたも気を付けなさいよ。この町で一番有名、なんてあの子以外にいないんだから」
僕は、お茶の間に笑顔を届ける直感系アイドルを観察する。この町どころか、いまや世界で一番有名まである彼女は、確かにその不審者の格好の的だ。しかし、なんの理由があって有名な人間を探しているのだろう。案外、サインが欲しいだけとか、単純な人間だったりしないだろうか。
楽観視ならいくらでもできるが、タレントの安全には代えられない。しばらくは、現場の往復と我が家に缶詰で休息する生活だが、今度のミニライブではそうもいかない。ある程度往来の制限された撮影と違い、オープンな場所では危険もつきものだ。前のように、厄介なファンも来るかもしれない。
とはいえ、彼女に影響されているのか、直感的に、どんなことも乗り越えられそうに思えた。それは有名な狂人の対応にしても、難攻不落の高根の花とのカラオケにしても。
**************
夕暮れというものは、いつだって未知との出会いに胸を膨らませる。逢魔が時とも言われたことに納得もいく。幻想的な橙の陽を受けて、その少女は僕の足音で顔を上げた。
「ごめん、九沙吹さん。お待たせ」
「今来たところだから、大丈夫」
形式的な言葉を交わして、僕たちは歩き出す。今までは、ほとんどが図書室で座ったまま話すことばかりだったからか、横に並ぶと彼女の身長の高さには驚かされる。
姿勢の良さも相まって、見上げるほどに高い彼女の隣は、どこか安心感さえある。僕が庇護されてどうする、と車道の側を歩いても、弟がするような見栄に思われそうで不安になった。
これといった会話もないままに、カラオケ店の前に到着してしまう。道中で曲の趣味なんかを聞いておけと忠言されていたのに、余計な劣等感のせいで機を逃してしまった。まぁ、まだ取り返せる範囲だろう。
昨日作ったばかりの会員証をかざして、ポイントを付ける。二桁しかないポイントは、僕の焦りを悟らせただろうか。それとも、普段からポイントを消費するタイプなのだと思われただろうか。
「水だ……」
ドリンクバーでジュースを入れようとすると、ちょろちょろと一筋の水流が垂れて、透明な液でコップが満たされた。念のため、慎重に口を付けると、やはり水でしかなかった。希釈するべき原液の方が出ていないのだろうが、一々店員に伝えるのも面倒で、別の飲料に変える。
九沙吹さんはどうしたのだろうと目をやると、ゆったりとした動作で、アイスストロベリーラテを入れているところだった。ホットの什器だと思っていたが、アイスティーも入れられるらしい。今度試してみよう。
「思っていたより、狭い」
「確かに……」
レジに他の客はいなかったが、店内は混雑しているのか、昨日とは打って変わって、一人でも狭く感じそうな部屋に通され、思わず室内を見回す。昨日の僕と同じく、本当に初めて来たのだろう、九沙吹さんは入り口で立ち止まったまま、物珍し気に視線を巡らせている。
「これで、曲を予約するの?」
大きなモニターの前で、屈みこんで操作端末を観察する九沙吹さんに、椅子に座るよう促す。そんなつもりはなかったが、端末を机に移動させると、自然と隣に座ることになった。
「朝尾くん、何か歌ってみて」
彼女に急かされ、僕は無難で歌いやすいと勧められていた邦楽をチョイスする。昨日の夜、何度もリピートしたから、歌詞は頭に入っている。それでも、前奏とともに現れたカラオケの音程バーを見ると、背筋にひんやりと緊張感が流れた。そもそも、採点なんてする必要はなかったかもしれない。
自分でも、声に力が入って固くなっていることが分かる。アーティストは軽々と歌い上げていた高音は、僕にははるか上だ。逸る僕を煽るみたいなしゃくりの判定に心を蝕まれながら、それでもなんとか歌いきる。一曲歌っただけで、動悸がするようだ。じっと隣で座ったままの九沙吹さんは、僕が歌い終わっても、クレジットが表示された画面を眺めている。
もはや聞き慣れたイントロから、加点が入っても八十点に届かない点数がむざむざと表示される。舐めるように僕の評価を見た九沙吹さんが、僕に視線を向けた。
「これは、上手いの?」
「いや……下手だと思う」
九沙吹さんが、きょとんとした表情を浮かべると、採点結果が流されて、嫌みなまでに騒々しいコマーシャルに切り替わる。僕は脂汗を誤魔化すように、愛想笑いを浮かべながら、少し薄いコーヒーを口にした。今の僕には、甘いジュースよりも、このチープな苦みの方がずっと合う。
「九沙吹さんも、歌ってみる?」
「……そうする。立った方がいいかな」
立ち上がった彼女は、往年の歌手のような落ち着きだ。いったい、彼女はどんな曲を入れるのかと画面を眺めていると、意外な曲が選ばれる。それは、誰もが知っているという点では、意外ではないのかもしれなかったが、こと彼女の口から発されるとは思えない言葉ばかりの一曲であった。
つい最近、生音で聞いたイントロは、自然と頭を振りたくなるが、和風庭園のように落ち着いた九沙吹さんの雰囲気に、僕も思わず姿勢を正して、彼女の第一声を待つ。
「抱きしめて、もっと————」
いつも通りの彼女の声で——有り体に言えば棒読みで——彼女は歌い始める。壊れそうな透明感すら覚える声は、不思議と小さくても聞き取れた。明るい曲調と穏やかな声の温度差で風邪をひきそうになりながら、僕は努めて元気に、九沙吹藍良の『拾って、パンケーキ!』を聞くのであった。
二番のサビが終わり、本物の奔羽でもライブでは舌が回らなくなることもあるラップパートに突入する。バイブスにこそ乗っていないが、活舌の良い九沙吹さんは、どうやって歌うのだろうと、採点バーから彼女の方へ視線を移した。マイクを脱力した手で持った彼女は、ブレイクが挟まっても、星を見る子供のようにじっと固まったままだった。
BGMの反響を拾っているのか、歌っていなくても振動する音程バーは一つも合わないまま流れていく。ラスサビに入ったところで、ようやく彼女は口を開いた。再び、抑揚のない声が音の段差を無機質になぞる。
採点が終わり、画面にクレジットが表示されると、九沙吹さんは静かに体を向け、僕を無言で見下ろした。少し長い前髪に隠れた瞳は、何を考えているのか分からない。彼女が口を開こうとした瞬間、明るいジングルで点数が表示された。僕より十点以上高い点数は、正確な音程に担保されているらしい。
「ごめんなさい。私、歌詞が分からなくて」
「え……あ、ああ、ラップの所! 確かに、早口で難しいよねっ」
すぐに彼女がだんまりとした箇所の話だと分かり、僕はフォローしたつもりだったが、九沙吹さんは、長いまつ毛を静かに伏せた。再び開かれた時には、その冷たい瞳には静かな憂いが満ちていた。
「やっぱり、私には、こういう場所は向いていない」
「も、もしかしたら、もう少し静かな曲の方が、九沙吹さんに合っているんじゃないかな」
「それは、どんな音楽?」
僕が有名どころを検索して見せると、彼女は首を傾げて僕を見つめた。もしかして、僕に歌えと言っているのか? まぁ、子どもの頃に聞いたくらいの曲でもなんとか歌えるだろう。
穏やかな曲の方が、案外音域を必要とするもので、僕の軟弱な声帯では悲鳴のような搾りかすの声を出すことしかできない。案の定、七十点台を叩きだした僕は、本気でカラオケの練習を視野に入れ始めた。
「ふふっ、分かった。次までに練習しておく」
「あ、ああ。できれば原曲を聞いて……つ、次っ!?」
「? また今度、来る時までに。学生はカラオケによく行く、でしょう?」
「そ、それは……」
似たようなことは確かに言っていたような気がするが、まさか本当に何回も行くつもりだったとは思わなかった。これは本格的に練習するべきだろうか。
どちらにしても、奔羽たあむという不確定要素のせいで、今後の予定など全く分からない。それに、まだ三曲を終えただけだというのに、僕の額は脂汗でいっぱいだった。
「あなたが行きたくないなら、私も強制したいわけじゃない。でも、私はもっとあなたの歌う歌を聞いていたいよ」
「……そういうことなら。でも、九沙吹さんの歌も、僕は聞きたいよ」
「あなたがそう言うなら、他の曲も聞いてくる」
「大丈夫。案外、練習しなくても歌えそうな曲もいっぱいあるんだ。確か、昨日見たのは————」
卒業式の定番ソングをいくつか入れてみたが、穏やかな笑みを浮かべた九沙吹さんの前に、混声四部も(独唱)に早変わりする。僕はずっと待ってる、九沙吹さんが歌い出す時を。そんなことを考えている間に、僕の卒業曲メドレーが終わっていく。
「やっぱり、あなたは面白い。私に近づくなと言った次の日に、私に会いに来る。カラオケに慣れているって言ったのに、昨日練習していた」
「そ、それは……せっかく九沙吹さんにとって初めてのカラオケだから、張り切りもするさ」
「そんなに、気を遣わなくていい。きっと、あなたが思っているより、あなたといる時間は心地いいから」
まじまじと見つめられると、あまりの美しさに、ソファの隙間に溶け落ちてしまいそうになる。ほんの少しだけ上がった口角は、それでも初めて見る彼女の笑顔で、雪解けの大地に芽吹いた新芽のように尊く思えた。
「君が笑っているところ、初めて見た」
「私、笑っていたの? ……あなたの表情が、移ったのかもしれない」
僕が思わずつぶやくと、彼女は一瞬驚いたようにまばたきをして、それから、自分の感情を確かめるように、口の端に指を当てた。目を細めた彼女は、確かに笑っているように見える。
「もしかしたら、私は今、幸せなのかな」
呟いた彼女に、僕は頷く。きっとそうだ。そして、そうだとしたら、僕も幸せで間違いない。好きとか恋とか、そういうのとは関係なく、彼女の日常に光が差し込んでくれたことが、なによりも嬉しい。日向を歩いてはいけない人間なんていない。夢を見てはいけない人間なんていない。誰もがこの世界で、幸せになっていいのだ。
「週末、楽しみにしてもいいかな」
「もちろん。最高の一日にしよう」
僕たちは、まだぎこちない距離感で、そんな約束をする。少なくとも僕はまだ、こんないじらしい日々が、いつまでも続いてくれるのだと思っていた。
否応なく、人は運命に押し流される。僕たちにできるのは、それが手遅れになってしまう前に、先へ進んで行くことだけだとしても、そんな覚悟はまだ無かった。胸を暖める気持ちすら、誰も傷つけないままに消えてくれと願うほどに。
**************
指を軽く押し当てる。夕暮れの校舎は、部活動時間でも静寂そのものだ。それは偶然、運動部が学園外周をランニングし、文化部が部室内にこもって活動をしているからかもしれない。だが、それが偶然でも、聴覚がおかしくなったからでもないことを、指紋認証に識別された少女、遥原叶夢は知っていた。
いつも通り、扉の前でこめかみを押さえる。それは合図でもなんでもなく、彼女にとって、その扉の先にいる人物が、頭痛の原因であるというだけであった。
「失礼しま————」
扉を開きながら声を掛けようとした瞬間、彼女の顔のほんのすぐ横を、子どもくらいの大きさはある槍が突き抜けた。避けるまでも無く背後に飛んでいった凶器は、廊下の窓を突き破る————かと思われた瞬間、強固な障壁でもあるように、窓ガラスに突き刺さると微振動を発した後に、廊下へと弾かれた。
槍が窓から抜けた瞬間、世界に音が舞い戻る。時計の針が進み始めたように、運動部の声や吹奏楽部の旋律が校舎を満たし始めた。遅れて、激しい音を立てて窓ガラスが割れ、廊下に破片を散乱させる。廊下には、ガラス片の他には野球ボールが転がっているだけだった。
涼しい風を通らせた窓の向こうから、焦りの広がる野球部の声が聞こえる。叶夢は、傷一つない硬球を拾うと、開かれた理事長室の中に視線を向けた。言葉にこそしなくとも、こめかみの感情は豊かである。
「……これが、大事な用ですか? 澪川理事長」
「いやあ、ごめんごめん。どうしても、彼が君と会っておきたいというからさ。それで、ご満足いただけたかな」
澪川の示した先には、小柄な男が顔をしかめて、次の武器に手をかけていた。少し童顔な彼は、中学生だと言われても納得しそうだと叶夢は思う。
「簡単にゃ死なねえってことは分かったよ。うちで雇った奴らが手ぇ出して、壊れても文句は言われたくなかったからな。だが、本当に標的を連れてくるとは思わなかったが」
「それは認識違いというものさ。彼女は、君にとって標的ではなく、今回の相棒というわけだからね。多少の手出しは構わないが、それにかまけてアプローチを忘れてもらっては困るよ。いっそ、手を出すくらいなら、すべて中継してはどうだい?」
「……何の話をしているの?」
叶夢は、自分を置いて盛り上がり始めた二人に辟易として、野球ボールを机の上に転がした。集合的無意識の殻が剥がれ、可塑性のない武具はバラバラの破片に戻る。
「ああ、すまない。彼は蒼天くんだ。探し物をしているらしくてね、僕たちの知っている情報と引き換えに、殺し屋として雇うことにしたんだ」
「逃走した『夜』の捜索を打ち止めたかと思ったら、今度はあれだけ馬鹿にしていた殺し屋を引き入れる気?」
「大丈夫さ。なんてったって、あの中央教会が捜索中の指名手配犯だからね。僕が手を回さなくても、市内の警察に捕まったりすることがないはずだよ。彼が君のために力を覚醒させたとしても、瞬殺されるなんてことは……まぁ、及第点は出してくれると思うよ」
「舐められたもんだな。その男がどんな奴か知らねえが、殺しちまってもいいんだろ?」
蒼天の言葉に高笑いする理事長を見て、叶夢はまた頭を抱えた。運命論者と言うやつは、いつだって行き当たりばったりである。当人は、直感的に上手く行くと確信しているらしいが、巻き込まれる身にもなってほしい。もっとも、彼にとっては、この男もただの使い捨ての一人にすぎないのだろうが。
「それで、どういう計画なの?」
「単純なことさ。今度遊園地に行くんだろう? その日、君にはエトソンくんを連れて、蒼天くんと合流してもらう。そして、呑気に君を待つアーサーに、「いえ~い、見てるか~い」と脅迫するわけさ」
「要は、誘拐されたふりをすればいいってこと? こんな奴に?」
叶夢は、自分の胸よりも小さな殺し屋を鼻で笑う。フードを脱いで睨みつける姿は、まさに反抗期だ。理事長は、困ったように笑いながら、殺し屋をなだめる。
「簡単だけど、効果的だろう? 『新支配者の饗宴』で狙われているのは、アーサーも承知のはずさ。それで、彼に一番身近な君が攫われるという筋書きにも無理はないだろう。彼だって、演技のプロではない。三文芝居でも構わないさ。それでも、きっと彼はすべてを投げ出して君の元へやってくる。
もちろん、可愛い脱兎の言うことを信じるなら、アーサーはまだ力を制御できていない。上手く行かなければ、君が無かったことにしてくれればいい」
「現状、私は彼の幼馴染に過ぎないわ。助けに来てくれたとして、本当にそれだけで、力を目覚めさせるほどの衝動を呼べるのかしら。もしかしたら、彼の気にかけている相手を傷つける方が、効果的に働くかもしれない」
「僕の見立てでは、君たちは十分に、そんな関係を越えていると思っているけどね。だが、その心配性にも同意できる。それなら、順番に救えるように調整してみよう。確かアーサーと懇意にしてくれているのは、九沙吹くんと上吉くんだったかな。君と違って、生死の保証ができないから、少し骨が折れると思うが、蒼天くん、やってもらえるかい? プロとして————」
「要は、もう二人攫うだけだろ。少し下請けを増やしておく。ただの高校生如き、そう心配はいらねぇだろ」
澪川は、何かを助言しようとして、鼻息と共に空気に溶かした。彼の信条は、時に必要な言葉も隠すリスクもある。あるいは、その計画の穴こそが、より大きな穴からやってくる狢を捕まえる絶好の罠でもあるのだ。
未知に満ち満ちた計画を憂うるのは、ただ一人、特待生の少女だけであった。
**************
夜が静かに更けたころ、パチパチと炎の音が河川敷に消えていく。浅く地面に突き刺さっていた蝋燭がゆっくりと倒れるのを、薄着の女は予見していた様に差し出した手で支えた。袖口の緩いシャツを着た男は、指の間に挟んだ数本の手持ち花火を、サイリウムダンスのように振り回す。滝のように降り注ぐ火花は、夜の湿った雑草の上でぽつりぽつりと消えていく。
「ヒノキ、あんまりたくさん使うと、危ないよ」
「でも、二人で一本ずつ使っていたら、朝になっちゃうだろ? せっかくだし、豪華に行こうよ」
女は垂れてきた前髪を耳にかけると、次の線香花火を取り出そうと手を伸ばす。体の微妙な揺れで、火の玉が涙のように落ちていく。何とか指先で袋を手繰り寄せた女は、自分の持っている花火の命が尽きたことに、遅れて気が付いた。
「ボリス、楽しいかい?」
「うん。モニも、楽しいと言っている。でも、花火をするには、少し早い気もする。日本の夏は、これから始まるとニュースで聞いた」
「仕事を始めたら、ゆっくりする時間も無くなるかもしれないからね。できるうちにやっておこうと思ってさ。まさか、師匠まで来ているとは思ってなかったけど、もう僕には関わる気が無さそうで良かったよ」
「ヒノキの師匠って、どんな人?」
お徳用花火の大袋を漁る青年の背に、ノースリーブの女は疑問を投げかけてみる。困ったような笑い声が作業の手を止め、少ししてビニール袋の音がまた動き始めた。
「殺し屋の中では良い人、って感じかな。元々、中央教会に追われていたんだけど、当時から最強の狩人だったローズと意気投合してしまったから、表向きには殺したという体裁で、教会に引き入れられたんだってさ。それから、最強の番犬を手に入れた中央教会は、反対勢力をすり潰して勢力を広げてきた。
しばらくして、だんだんと教会と反りが合わなくなってきた師匠は、前線に出なくなって、後進育成を始めることにしたけど、今度は枢機卿に睨まれて、追放処分になっちゃったんだ」
「殺し屋を追放して、大丈夫なの?」
「お互いに睨み合っているからね。邪魔になったら排除するって意味の、追放だよ。それにしても、若い子を引っかけて、あの人は何をしていたんだか」
ボリスの前で、また一つ火の玉が落ちる。ゆっくりとその軌道を目で追って、靴底で火を消した。すっかりゴミで埋まったバケツの中に花火を捨てて、ボリスは蝋燭を慎重に持ち上げた。
「ヒノキの師匠は、ヒノキを見て安心していた、とモニは言っている」
「それはよかった、のかな。あっ、ねぇボリス。これに火を付けてみてよ」
固体燃料のような黒い円盤に、女は怪しまずに蝋燭を近づけた。運命を告げる声も、爆発物ではないと囁いている。炎の熱が外装を融かし、赤い波が円状に広がっていく。
声に従ってボリスが少し横に移動すると、モクモクと煙が立ち上り始め、黒い巨頭が姿を現す。健全な例えの難しい黒色の巨棒は、血管でも通っているかのように起き上がり、やがて重力に耐えかねて中から折れてしまった。
「あはははっ!」
高笑いする青年の横で、女は静かに、微動する黒色体を見下ろしている。
「……旗玉の最期も、こんな感じだった」
「ああ、それは……ごめん」
「きっかけはヒノキだけど、殺したのは私。むしろ、思い出せてよかった。もう、仕事に戻るんだよね」
冷めた蛇花火の残骸を片付けたヒノキは、立ち上がると深く息を吸った。
「そうだね。師匠や教会だけじゃない、この町の殺し屋の動きが活発になり始めた。そろそろ、僕たちも運命を確かめに行かないとだ。モニは何か言っているかい?」
「ううん。糸が一つほどけるみたいだけど、それはヒノキの運命にほとんど影響を与えない。だけど、彼を見極められる時間は、ほんのわずかしかない」
「ああ、分かってる。そろそろ、死神を追い越す時間だ。運命がなんだろうと、僕たちはその先に太陽があることを信じて、進むしかない。彼が本当に、救世主だというならね」
冥加市の夜は、清廉潔白であるかのように静かだ。それは決して平穏ではなくても、ある種の安定と呼ぶべきものなのかもしれない。殺し屋たちは、その足を、また一つ運命へと進める。その舞台の上で、誰もが己の最期を選べるはずだと盲信して、叶わぬ夢を描くのだ。
錯綜した運命は未だ交わらないまま、死神たちは己の鎌を磨き始めるのであった————。
次回4-3「きれいな花には茨がある」
待ちに待った遊園地ハーレムデート。しかし、秀一を待ち受けていたのは錯綜した試練の始まりであった。日常を守るため、秀一は運命に打ち勝つことができるのか———。
「しゅ、秀一ぃ…… た、助けてぇ……。私、誘拐されちゃった……」




