3-5 そして、夜は明ける
〇これまでの登場人物(主に三話登場)
・朝尾秀一
この物語における騒動の中心である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・パレネ/宵原晴音
人を舐めた態度だがどこか憎めない小悪魔的少女、に見えるが、その正体は不死身の吸血鬼。
『新律者』の一人であり、『夜の原風景』の力で秀一を襲う。
・千家梢
校内奉仕部に所属するクラスメイト。なんとなく和を思い出させる落ち着いた見た目の少女。
夜の神社に百日連続で参拝すると、神仏に願いが届くという。
だけど、神様だって、人の命を取り戻せはしないし、忌まわしい記憶を忘れさせてもくれないだろう。神様も、この世界に生きているのだ。何もかも自由にできるなら、現代で信仰が薄れるようなことにはならなかったはずだ。
「さぁ、選びなよ! ボクを殺すか、すべて忘れて日常に帰るかをさ————!」
例え、僕が何かの物語の主人公だったとしても、難題を後腐れなく解決したり、巨悪を倒して平和な日常を取り戻したり、そんな格好の良いことはやっぱりできそうにないらしい。
「お前が、そんなことをするメリットがない。でたらめを言って逃げようとするほど、命に執着があるのか」
「でたらめなんかじゃあないさ。メリットなんて言うなら、ボクにはキミたちを傷つけるメリットだって、本当はないんだ。言ったろう? ボクは、キミと同じ『新律者』だ。後輩が伸び悩んでいれば、少し手を出したぐぅっ————!!」
聖剣の纏う炎が、パレネの肌を融かす。自分を正当化しようとする言い分は、もう聞き飽きた。どこまでが真実か分からないが、この怪物が僕の大切な人たちを脅かしたのは紛れもない事実だ。
「仮に、お前が本当に記憶を曖昧にできるとしてだ。素直に、その通りの行動をするとは思えない。体よく逃げ出したいだけに決まっている」
「酷いなぁ。キミには、人の心があるんだろう? もう少し信用してほしいのに。
でも、逃げ出したいなんて当たり前じゃないか。ようやく主人公が目覚めたっていうのに、ここで退場なんてつまらないだろう。だから、ボクは渋々ながら、キミがボクを思い出して殺しに来ないように、せっかくの記憶を消さないといけない。キミにとっては、ボクを忘れれば、元の平穏な日常に戻れる。どうだい、悪い話じゃあないだろう。それとも、そんなにボクを殺したい? 血に濡れた手で彼女たちの背を擦って、しとしと自己満足に耽りたいんだ?」
窮地でありながら煽り口調を止めないパレネの言葉は、静かに僕の心を侵し始める。
コイツをこの場で殺してやりたい。それはヒロイズムの暴走でもあり、エトソンの死への復讐の気持ちからでもあった。だが、それはどちらも僕の個人的な感情に過ぎない。
法的な裁きが必ずしも国民感情と一致しないように、僕がここでパレネを殺せば、彼女の言う通り、この先の人生に晴れ間は見えないのかもしれない。新鮮な幸福などない、緩やかに終わっていくモノクロの世界で、傷を舐め合うだけの悲劇のエピローグが冗長に続く人生になってしまう。
それならば、いっそ、忘れてしまった方がいいのだろうか。こんな非日常なんて、無かったことにした方が、みんなが幸せになれる。日常に、勇者なんて必要ない。穏やかに笑い合って、ほんのちょっとの波風を大げさに驚き合って、それが普通の人生ってやつなんじゃないのか。僕のせいで、彼女たちから、そんな未来を送る権利を奪っていいのか?
生じた迷いは、突き立てた聖剣の圧をわずかに緩める。疑念を映すように、刀身を陽炎が揺らめかせた。たなびく焔の向こうで、パレネが口角を吊り上げた。
僕が聖剣をとっさに握り直した刹那、聖剣に体を切り裂かれながら、強引にパレネが体を跳ね起こした。地面に突いた聖剣はすぐに防御に回せない。暗闇を纏った血まみれの両手が、泡立つ漆黒に支えられながら僕の顔に伸ばされる。
「————『夜』に消える」
眠り落ちるような淡い笑みと共に、パレネの体が、そして目に映る全てが暗黒に飲み込まれていく。先刻の暗闇とは違う、現実感の喪失。確かにここに体があるのに、五感が正しく働いていないような浮遊感に包まれていた。
僕は立っている。足元に波紋のように映った白い影に、ようやくその実感を得た。精神世界とでも言うのか、真っ暗な世界はどこまでも続きそうである。ここはもう神社の境内でもないどころか、現世ですらないように思えた。
「あらら、これはちょっと予想外……でも、考えてみれば当然なのかな」
「お前————!」
悪びれる風もないパレネの声に、すぐさま腰に当てた手は、聖剣の不在を伝えた。彼女は、敵対の意志がないとでも言いたげに、両手をひらひらと振って、儚げに微笑む。
「無駄だよ。ここはキミの記憶の中でしかない。今まさに消えていく記憶のね」
どこか穏やかな表情のパレネは、静かに近づいてくる。その腕は、細い少女のままだ。殺意も敵意もない彼女の意図が分からず、僕は立ち尽くしたまま接近を待つ。
「キミの力の厄介な制約だ。律儀なことに、キミがそう自覚しなくても、勝手に応えてしまうらしいね。不意打ちとはいかないわけだ」
彼女の言葉は婉曲的で、僕には状況を理解しきれない。少なくとも、ここが現実世界でないことは確かのようだ。
パレネは、僕の目の前まで歩いてくると、挑発的な目で僕を見上げた。その表情は、ミス研の門を叩いた少女、宵原晴音と重なる。
「キミが記憶を完全に忘れるには、その記憶を一度認識する必要がある。部屋のゴミが、意識して掃除するまで無くならないみたいにさ。あ~あ、せっかく親切で綺麗にしてあげようと思ったのに、お節介な話だよ」
「認識しなければ、忘れることも無いのか?」
「それはシュレディンガーの猫、と言いたいところだけど、答えはノーだ。キミは傍観者に過ぎない。例えば、強くてコンティニューと言っても、すべてを引き継げないみたいに、ただ消えていくものに対して、確認して承認することしかできない。強いて言えば、キミが望めば、より多くのことを忘れられるというくらいだ」
どうやら、僕の中に眠っているという力は、パレネの力を無効化できるほど便利ではなかったらしい。むしろ、むざむざと消えていく記憶を見せつけられるとは、なんと意地の悪い力だろう。
「どうせ結果が変わらないなら、早くしてくれ。僕が油断して、お前に一泡吹かされたことは認めるよ」
「はいはい。キミって、ほんとに強情なんだね。キミを好きになったら、とっても苦労しそうだ」
余計なことばかり垂れ流し続ける口を塞ぐ手段は、今の僕には無かった。ここでどう足掻こうと、何も変わらないのだ。
「それじゃあ、まずはキミに伝えた通り、宵原晴音に関する記憶だ。すなわち、この『夜の原風景』に関する記憶だね。キミの小悪魔的に可愛い後輩、晴音ちゃんは、実は超絶クールな吸血鬼で、夜の学校にミス研を誘い込んで襲ったのでした……なんてキュートでホラーな記憶は、まるっと消えてしまうよ」
走馬灯のように、生意気でミステリアスな少女の記憶が思い返される。いささか倫理観にも敬意にも欠けた後輩だったが、彼女が目の前の憎たらしい吸血鬼だと理解している今でも、あの短いながらも活気のある部活の時間は、悪くない思い出だったように思えてしまう。
紅那須が張り切り、雁野が呆れて、宵原が苦笑する。そんな凸凹した三人だったが、もしかしたら、相性が良かったのかもしれない。
「もう一つは、『夕暮れの原風景』についての記憶。気に入らないから消しちゃおうと思ったけど、バレると恥ずかしいねこりゃ」
「……やはり、お前を信用しないほうが良かったんだな。もう後の祭りだが」
『夜の原風景』は、直接パレネと関係ない記憶まで干渉できるらしい。もっと用心深くなっていれば、詐欺のようなやり口に騙されることも無かったのかもしれないが、忘れてしまうのでは、経験にも後悔にもならなかった。
なんだかずっと昔に思える橙の思い出は、思い返せば、まるでゲームの中のような出来事だ。不思議な世界にエトソンと迷い込み、気丈に立ち向かう生徒会および学園奉仕部と出会った。僕が何をしたわけでもないが、彼女たちは少しずつ前進し始め、『迷い道』の五階層を突破するに至った。
パレネは、あの世界を出来損ないだなんだと嫌っていたが、危険に立ち向かうための努力は葛御丘たちを間違いなく成長させた。それが、無意味な危険を生んでいるとしても、彼女たちにとって意味があったことは確かだろう。
「なぁ、パレネ。さっきお前は、忘れる記憶を増やすことはできると言ったよな」
「うん、そうだね。今見た記憶を覚えておくことはもうできないけれど、キミが痴呆症になることはできるよ」
「それなら、葛御丘たち————生徒会と学園奉仕部、それにミス研についての記憶も消すことはできるか? もちろん、僕だけじゃなく、彼女たちの覚えている僕についての記憶も」
パレネは、僕の言葉に目をぱちくりと瞬かせてから、仕方ないなぁと言いたげに肩をすくめて笑った。
「キミが望むなら、何だってその通りになるさ。でも、いいのかい? キミにとって、非現実的であったとしても、それは大事な日常だったはずじゃないか」
「……ああ、構わない。きっと、その方があいつらにとっても、幸せなはずだ。僕と関わらないほうが、ずっと、彼女たちにとって幸せな日々のはずだ」
そうだ。僕のせいで、紅那須たちは余計な危険に晒され、葛御丘たちは日常から逸脱させられたのだ。僕がいなければ、すべて上手く行く。
ミス研は多分廃部だろうが、それも含めてあいつらのためだ。紅那須はまじめにやれば堅く進路を決められるだろうし、雁野も覚悟を決めれば自分の道をきちんと決められるヤツだ。
非現実なんて、実際には未来を狭める傍迷惑な障害でしかない。
迷惑そうに振舞いながら、戦闘で活躍することにまんざらでもなさそうだった葛御丘も、正しく生徒会長として未来を見据えられるだろう。劫雲先輩は………あまり変わらないかもしれないが、千家は芯の強さでたくましく進んでいけるだろう。一年の生徒もこれからの可能性が待っているだろうし、百合原は会話のドリブルが上手い。
「————っ!?」
害意を感じさせること無く、静かに擦り寄ったパレネに、僕は首筋を噛まれた。甘い歯型がひんやりとした跡になって、その存在を主張する。意図不明の行動に、思考が停止した。いや、吸血鬼なのだから、噛みつくという行為の意味は明確じゃないか。
「ふふっ、安心して、甘噛みだから。血を吸ったわけでも、キミを吸血鬼にしようというわけでもない。ただ、キミが他人のことばかり考えて真面目ぶっているから、からかいたくなっただけだよ」
細い吸血鬼の指が、きれいに残った歯形をなぞる。乾いた指が潤いを塗り広げた。少し粘り気を帯びた輪郭を馴染ませるように、優しく楕円が描かれる。
「この跡、どれくらい残ってくれるかな」
「なっ————」
てっきり、現実では消えるものだと静観していたが、消えないのか!? こいつ、自分を忘れさせようとしているくせに、とんだ二枚舌じゃないか。
消えないと意識した瞬間、熱く火照り始めたような聖痕に、くすぐったく笑った彼女の吐息がかかる。呟かれた言葉は、か細くてうまく聞き取れない。まったく、傍迷惑で最後まで意味の分からないヤツだ。
「……それじゃあ、またね」
パレネの腕が、弱弱しく僕の胸に当てられた。暗闇の世界に、遠くから白い光が迫ってきている。僕は彼女から視線を背けたまま、じっと光が日常をもたらす時を待っていた。僕の胸を優しく押す感触は、世界がホワイトアウトしても、ずっと残ったままだった。
**********
僕の胸を誰かが押している。それは遠慮するような優しさだったが、小柄な足音が一度遠ざかってから戻ってくると、傍迷惑で元気な目覚ましに変わった。子供のように無邪気な両手が僕を揺らす。
「アーサーっ、起きてください! はっ……この首の紋章は、叶夢が教えてくれた、キスマでは!? ば、絆創膏はどこですかっ!」
朝から騒々しい声に、僕は寝ぼけまなこを擦る。エトソンはなにやら慌てた様子で部屋中の引き出しを開けて回っている。何でこうも元気が有り余っているのだろうか。
「エトソン、ケガでもしたのか? 絆創膏なら、一階の押し入れだ」
ベッドから体を起こしながら声をかけると、異世界人の美少女は、節操なく部屋を飛び出していった。こうもお転婆では、国の召使たちも苦労したのではないか。
「ん……?」
一階を荒らしまわる足音に呆れながら、少しチクリとした違和感のある首元に手をやると、そこには歯形としか思えない楕円形の凹みがあった。いつもの寝間着、特に乱れているということも無いベッドだが、昨夜の記憶は一つとして思い出せなかった。ぽっかりと空いた記憶の穴は、瞬時に良くない想像を膨らませる。
首に残った歯形、インモラルなワンナイト、未成年飲酒、記憶喪失、奨学金の剥奪、叶夢の軽蔑する目————。
「い、いや、そんなこと、あるわけ————」
動揺して立ち上がった僕は、いつもは鍵こそ開けているが、閉めているはずの窓が開いていることに気が付く。カーテンは朝の少し暖かい風を受けて揺らめいている。まるで、そこから出て言った誰かを追うように、僕はゆっくりと窓に向かって進む。窓の近くに置かれた勉強机に陽光が差していた。
よく見れば、机上には一枚の手紙が置いてある。ノートをちぎって書かれたのだろう、歪な紙切れには読みやすい丸文字でこう書かれていた。
「大人の世界へようこそ。キミの親愛なる先輩兼後輩より」
直感的に、それが何の意味も無い、ただ僕をからかうためだけに書かれたものだと理解した。全く心当たりのない差出人は、最悪な置手紙を残してさぞ愉快だったろう。
だがもし、本当に何か過ちを犯していたとしたら? ————いや、いやいやいや、絶対にありえない!! 馬鹿なことを考えるものではないっ!!
首筋の噛み跡は、僕に温度の分からない汗を、滝のように垂れ流させる。こんなもの、叶夢に見られたら何と言われるか、何をされるか分から————いや、エトソンがうるさかったのは、これが理由か!
僕は、休日で相田さんのいない一階を走り回るエトソンに向かって、全霊を込めて叫ぶ。
「エトソン、誤解だ————!!」
いったい、どんな言い訳をすればいいのかも見当がつかない。けれども、少なくとも、僕の貞操の危機を乗り切るには、声を上げるしかない。
「アーサー、絆創膏、一階にありましたよっ」
無邪気に声を上げたエトソンに、僕は肩を落とした。あまりにも前途多難である。
階段を軽いテンポで上がってくる足音を聞きながら、寝起きには酷な危機的状況の打開策を検討する。なにか、もっと大事なことを忘れているような、考えるべきことがあったような気もするが、今は後回しだ。異世界では多重婚が普通なのか、僕の浮気に奔放なところがある金髪美少女が、武勇伝のように教室で僕の過ちを(心当たりは全くないが!)喧伝する前に、どうにか言いくるめるほうが重要である。
「う~ん、昨日の記憶が曖昧なのですが……私ではなさそうですねっ」
自分の歯と歯型を、指でなぞり比べて、なぜか満足げに笑ったエトソンの肩を、僕はしっかりと掴んだ。落ち着いて息を吸って、僕は不甲斐なく情けない、どうにもこうにも無理がある言い訳を口にする。フル回転した僕の頭脳が導いた解決策は、それ以上の答えを導き出せなかった。
エトソンも記憶が曖昧なら、彼女の特性を理解したうえで、僕と彼女の言うことを、それ以外の全員に嘘だと思わせればいいのだ。
「これは、その……吸血鬼に噛まれたんだよ————」
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「————こんなところにいるなんて、死にたいの?」
朝の光は、優しく吸血鬼の肌を照らしているが、むしろ気持ちよさそうに微笑んで、少女は顔の前で指を交差させた。小さな十字架を傾けて、顔なじみの来客に示して見せる。
「ボクは今から逃げるからさ、理事長には内緒にしてくれる? 計画は失敗しちゃったけど、彼の力は確かに見ることができたよ。……あ、そうだ。ちょっとだけ彼に悪戯してきたから、上手く丸め込んでおいてねっ」
「あなた、やっぱり馬鹿でしょう。それを伝えるためだけに、わざわざここに残っていたの?」
銀髪の吸血鬼ただ一人だけが部室だと認識しているその空き教室で、彼女はガラクタで袋をいっぱいにしていた。不揃いの蝋燭、くだらない会話を書き留めたルーズリーフ、くたびれた藁人形と肩を並べて寄り添う毛糸人形。机上はすっかりと片付き、そこには何の思い出も残っていない。
「彼の首を見たら、ふふ……キミは嫉妬に狂ってしまうんじゃないかな。忠告しておかないのも、悪いと思ったんだよ」
「心も通わせずに、一方的な傷跡でしか自分を勝ち誇れないなんて、いかにもあさましいケダモノの考えね。やっぱり、怪物には人間の愛なんて理解できないのかしら」
パレネはうんざりとした表情で、飄々と愛を語る相手に背を向けた。教室の窓に身を乗り出し、脱走の準備は万端である。窓枠に足を乗せたまま、吸血鬼は空っぽになった教室に振り返った。
「……早く行きなさいよ」
「本当に、ボクを逃がしてくれるんだ。苦労することになるのはキミの方なのに、優しいんだね」
「秀一は、あなたを殺さないことにしたんでしょう? それなら、私もその判断に従うまで。せいぜい、他の誰かに殺されないようにね」
「あはは、キミこそ、うかうかしていると、彼を他の人に取られちゃうかもよ? だってもう、運命は始まっているんだからさ————!」
飛び出した吸血鬼の姿は、瞬く間に消える。着地音すら発さずに、気配は町に消えていく。教室の扉に背を預けたまま、少女は小さなため息を吐いた。
「……構わないわ。別に、彼女になりたいわけじゃないもの。私は、ただの幼馴染なんだから、秀一の傍にいられたら、それだけでいい————」
**********
週が明け、僕は何事も無い日常に戻っていく。何とか、叶夢の邪推から逃れることにも成功した僕は、夏だというのに、制服のボタンをきっちりと閉めて登校する羽目になった。誰がやったのか、僕がヤったのか分からないが、また余計な傷が増えてしまった。
「おはよう」
「おーっす、おはよ~。相変わらず仲良いねぇ」
「え、あ、ああ……」
教室の端の席の男子生徒に話しかけられ、僕は曖昧に頷く。朝一から会話するほど、彼と親交があっただろうか。席次から考えるに、五十音の最後半であろう彼の名前は、確か、漢字としては簡単だったような気がするが、故にひらがなで思い出そうとすると難しい彼の名は………。
「そう、百合原だ」
「お、おう。俺は百合原だけど……。全く、クラスメイトなんだから、名前ぐらい覚えててくれよな。って、そういうお前は……朝尾、だっけか」
「名前も覚えてないのに、ずいぶんとフレンドリーだな」
「いいだろ、これから仲良くなればさ。なんだか、お前とは話が合いそうな気がする」
「気のせいだ」
なんだか、彼は特殊な嗜好を持っている気がして、即座に否定してしまった。肩をすくめた彼から離れて、僕は自席につく。
なんだか、まだ土日の疲れが残っているような気分だ。いくら友人関係が希薄とはいえ、クラスメイトの名前も分からないとは、これが五月病というやつだろうか。
ファイルの端で折れ曲がっていた、クラスの名簿票を引っ張り出して、改めて奇妙な空席にため息が出る。今は金髪美少女の聖地となっている僕の隣席は、不思議と彼女の名前にぴったりの位置だ。
ふと、視線を感じて僕が教室を見回すと、教室の前の方で談笑している少女が、不自然に顔を逸らした。ぎこちない笑みをじっと見つめても、彼女の名前は分からない。
名簿票に視線を戻し、席の場所を確認してみると、千家梢という、なんだか和風でお淑やかな雰囲気の名前にたどり着く。茶道か薙刀でもやっていそうな少女には、ぴったりと似合う名前だ。
何気なく顔を上げると、再び僕を見ていた彼女と視線が合ってしまう。とっさに目を逸らしたが、椅子を引いて立ち上がる音に、僕は小さな運命の起こりを感じてしまう。目と目が合う瞬間好きだと気づいたみたいな、いやそれだと別れになるのか。
「あの、朝尾くん、だよね?」
「ああ、そうだが。何か用か、千家」
極めて平静を保ったまま、僕は大和撫子とでも称するべき少女に返答する。美少女と言って差し支えのないクラスメイトに話しかけられたとはいえ、あまり期待をし過ぎれば、彼女が暴言サディスティックガールだった時に、不必要に傷つくことになってしまう。まぁ実際、大した用事ではないはずだ。
「その、変な話、してもいいかな」
「変な……? ああ、構わないが」
自分でも苦笑いをしながら首を傾げる千家に、僕も困惑する。一日が二十四時間じゃないとしたら、どうする? とか聞かれても困ってしまうのだが、真面目そうな彼女が、そう変な話をするとも思えなかった。
「理由は分からないんだけど、私ね、あなたに感謝しないといけないことがあった気がするの。今の自分があるのは、朝尾くんのおかげのような、もしかしたら、そんな夢を見ただけかもしれないんだけどね。ふふっ、変な話でしょう? 私たち、こうして話すのも初めてなのに」
「ああ、変な話だ。見ての通り、僕は誰かを助けられるような特別な人間じゃないし、君に参考にされるほど、きちんとした人間でもない」
見るからに優等生然とした千家は、僕のような怠惰な人間を尊敬したり、師事したりするようには思えない。彼女なら、僕が助けられる程度の問題なら、一人で乗り越えていけそうだ。
「それはどうかな。こうして少し話しただけで、あなたが優しい人だってことは私にもわかるよ」
「千家さんっ、アーサーに何か御用ですか?」
朝礼の時間が迫り、叶夢と過ごしていたエトソンが教室に戻ってきた。未だに僕の首筋の噛み跡に半信半疑な彼女は、期待に満ちた目線で千家を見ている。余計なことを言い出さないか心配だ。
「あっ、エトソンちゃん。ちょうどよかった。それでね、朝尾くん。もしかしたら、あなたにとっては迷惑で、心当たりも無いことかもしれないんだけど、これを受け取ってほしいの」
千家は制服のポケットから、束になった紙きれを取り出した。細長くカラフルな紙片は、紙幣ではないようだ。とりあえず受け取っておくと、千家は満足そうに頷いた。
「これ、遊園地のチケットか?」
ビビッドな紙切れは、日付の指定された遊園地の入場チケットのようだ。五枚が一束になっているが、最近は結構高いんじゃなかろうか。僕が賄賂をもらったとでも勘違いしたのか、エトソンはそそくさと自席について顔を背けている。
「商店街の福引でもらったんだけど、私、その日予定が入っていて行けそうにないの。だから、朝尾くんにプレゼントするのにちょうどいいかなって思って」
「ありがたいが、本当にいいのか? 僕以外にも、欲しがるヤツは多いと思うが」
冥加市の観光産業はセントラル・スカーヴァティーという郊外の興行施設群に支えられている。ライブホールや競技場に始まり、季節を問わず観光客を呼ぶリゾートや遊園地は評価も高い。施設が細かく分かれているため、僕のもらった入場券では、遊園地エリアにしか入れないが、それでも一日は十分に楽しめるだろう。
「いいの。お礼の気持ちなんだから、気にしないで受け取って。別のお返しを考えるより、あなたもその方が楽でしょう?」
「ああ、分かったよ。ずいぶんと棚からぼた餅ではあるが、ともかく、ありがとう」
千家の言う通り、僕からすれば心当たりがなさ過ぎて怖いくらいだが、突き返して彼女に執着されるよりはいい。何かも分からないことのお礼を、いつまでも考えさせるのも悪いし、ここは厚意に甘えることにしよう。
しかし、五枚か……。僕にそんなに誘える友人はいただろうか。
「あっ、チャイム。それじゃあ、渡したからね」
千家は淑やかに席に戻り、もう僕を気にすることはなかった。僕も、格別に彼女を気にする必要はない。とりあえず、昼休みにでも叶夢を誘ってみるか。彼女の両親も入れたら、ちょうど五人だ。
僕はかばんにチケットをしまい、いつも通り始まる授業に意識を向ける。
……変な話。確かに、話したことも無い相手に感謝するなんて変な話だが、そのくらいの波風は、明日にでもなれば忘れていくだろう。きっともう思い出すこともないその既視感は、担任が教室に入ってくる音と共に薄れて消えていくのだった。
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まだ穏やかな空調の中で、淡い赤色を反射した雫がテーブルに垂れた。向かいに座った老齢の男は、湯気の上るコーヒーカップをじっと見つめたままでいる。ゆったりと二本の指をコップに添えた少女は、雫を押し潰すように、残りの指を張り付ける。ぴたり、ぴたりと、垂れていく雫に合わせて指が伸び、最後には十本の指がタコ足のように、コップに接続された。
「————殺し屋殺しのコツを教えてやろう。標的が、「まさか、こんな時に」と思う場面を狙え。殺し屋というのは、どいつもこいつも夢見がちで、自信過剰なバカばかりだ。空っぽの脳が、夢で溢れた有頂天を打ち抜けばいい。どうだ、簡単な話だろう」
老いた男は、皺の寄った指で、しかし確かな動作でカップを持ち上げると、唇の先を液につけ、顔をしかめるとソーサーに戻した。華やかな色を吸い上げた対面の少女は、長い前髪の下で不安そうに視線を落とす。コップの底から垂れた水滴をもう一つの手のひらで受け止め、そのまま揉み込むように握った。
「わ、私っ、待つのとか苦手で……そ、それに、夢とか目的とか、もう死ぬ人のことを知るなんて、じ、時間の無駄じゃないですかっ?」
少女の手が震え、机の上に雫が垂れる。老獪は、静かに体を揺らして笑うと、丁寧に黒色の液に波紋を作った。湯気がほのかに男の睫毛を湿らせる。指先で軽くカップの側面に触れた男は、少女を見据え、両手を顔の前で組んだ。
「カラヒナ。そう生き急ぐものではない。夢は、誰にだって見ることができる。私のような死に損ないにも、お前のような怪物にもな。だからこそ、夢は誰にとっても弱点となり得るのだ」
「そ、それって、後藤さんの体験談ですか?」
「ああ、そうさな。自戒ともいえる。私たちが絶頂にあったあの瞬間、あの時の私にしか、奴は殺せなかっただろう、とね」
後藤と呼ばれた男は、コーヒーカップを持ち上げ、軽く回した。立ち上る風味を楽しんで、再びソーサーに戻す。カラヒナと呼ばれた少女は、その穏やかな仕草をぼうっと眺めた。
「………そんなに、『葬る足跡』って強いんですか?」
「その名を正しく冠するのは、私たちが二にして一であった、あの素晴らしき時だけだ。今ではもう、その影も無い。奴はそう衰えてもいないが、人殺しが名ばかりを受け継いでも形骸化するばかり。
教会の崩壊は近いだろう。度重なる離反、統制の利かない情勢。秩序の崩壊を望むものが上に立てば、それも必定というもの」
「ろ、ローズ、でしたっけ。もうおじいさんなんですよね。わ、私に殺せますか?」
退屈そうに後藤の話を聞いていたカラヒナは、照れるように愛想笑いを浮かべながら尋ねた。後藤はぬるくなり始めたコーヒーに、静かにスティックシュガーを注ぎながら、感心したように笑う。
「その可能性は、まったくのゼロといえるだろう。奴は強さにしか興味がなく、奴が隙を見せるとしたら、それはこの世界の人間すべてを殺し尽くした後だ。
カラヒナ、お前は強い。故に、気を付けろ。目を付けられれば、奴はお前を殺してしまうだろう」
がらんとしたファミリーレストランの店内の静寂を、来店音が裂いた。カップルのような二人組は、飾らない距離間でテーブル席に向かう。異国風の布をまとった少女に急かされた青年は、後藤と目が合った瞬間、ぎこちない笑みを浮かべた。後藤が軽く手を上げて示すと、元の穏やかな笑みを張り付ける。
「お知り合いですか?」
「ああ、昔のな。お前と同じ、教え子のようなものだ」
カラヒナは髪の間から視線を向けて、仲睦まじげな二人を観察する。大人しい声の女は、とても殺し屋には見えなかった。
「ご、後藤さん。わ、私もパフェ頼んでいいですか?」
「きちんと自分の口で食べるなら、一つだけ注文していい」
カラヒナはさっそく店員を呼ぶと、肩から伸びる右手の先にある指を一本立てて、注文を終えた。
「は、話を戻しますが、ターゲットは普通の高校生、なんですよねっ?」
「そう聞いている。だが、カラヒナ。お前にとって重要なのは、標的を殺すことではない。その過程で、人間らしさを学ぶことだ。お前はもう、研究所の実験生物ではない。一人の人間として、自分の人生を歩んでいるのだ」
「だ、だからって、接触を禁止するのは、回りくどいと思いますっ。コドモ一人くらい、さっさと殺せばいいじゃないですかっ」
後藤は音を立てて、冷たくなったコーヒーを啜る。店の奥のテーブルに、先にパフェが届き、嬉しそうな声が聞こえてきた。
「もう少し生命を楽しめ、カラヒナ。標的を殺せば、また新しい標的が生まれる。それがお前という兵器の運命だとしても、その過程にこそ、生命の真なる価値は存在している。見て学ぶのだ。お前が獣である限り、生きる意味など見つけようもない」
パフェを置いて去っていった店員の背を、カラヒナは無表情で見送った。
カラヒナは、クリームが山のように盛られたパフェを物珍しそうに見回す。側面には細く切られたバナナが飾られ、チョコレートソースの等高線はすでに少しとろけている。無言のまま外観を観察し終えた少女は、豪快に容器を掴んだ。バットのように縦長の器を握った少女は、前髪の下まで大口を開けて、白い巨塔を齧り取った。
「甘くて、なんだかふわふわした気分になります」
「美味いという感情は、研究所ではインプットされなかったのか」
穏やかな笑みで見つめていた後藤は、すぐに容器に手を突っ込んで食べ始めたカラヒナに、長く大きなため息を吐いた。
少女の腕の先で、四枚の舌が容器を舐め上げている。器用にシャツとズボンの間から腕を出したカラヒナは、容器を持つ腕と突っ込んだ腕の間を通して、顔についたクリームを指ですくい取った。指の先の甘味を舐めてから、数刻前に目前の老爺と交わした言葉を思い出し、少女は視線を逸らす。
「まずは、食事のマナーを覚えるところから始めるとするか」
「す、すみませんっ」
殺し屋たちの跋扈する冥加市は、今日も平和に日々が過ぎている。店の端では、向かいの席に座った女の鼻先についたクリームを、青年が微笑んだまま見つめている。穏やかで暖かな風は、しかし、期限の近い春を知らせてもいるのだった。
次回4-1「角じゃなくても出会いはある」
表面的な平和を取り戻した秀一は、クラスメイトにもらったチケットで誘う相手を考える。
思わぬ幸運で踏み出した一歩は、甘酸っぱくも泥臭い運命へと引き寄せられていく————。
「………好きなの?」




