3-3 次回、エトソン死す!
〇これまでの登場人物(主に三話登場)
・朝尾秀一
この物語における騒動の中心である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・パレネ/宵原晴音
人を舐めた態度だがどこか憎めない小悪魔的少女、に見えるが、その正体は——?
『新律者』の一人であり、エトソンの命を狙う。
・紅那須偲歩
ミス研会長。ホラー好きで、中でも七不思議を愛する眼鏡少女。趣味は怪談の自作だが、ミス研内ではやや不評。
・雁野康介
ミス研所属の少年。これといって特徴のない、秀一の友人。
・ミス・バードフェイス
『新支配者の饗宴』参加者の一人。鳥を自在に使役し、標的を追い詰める西洋人の女。
宇宙人との戦いでは、秀一と共闘したが、殺伐とした生活に嫌気がさし、足を洗うことを決意した。
夢を、見ていた気がする。
そんな感覚が、最近多くなった。明確に夢を見ていたと意識することは、前よりも少ない。寝汗をかくほどの悪夢も、今月は一度もなかった。
誰に起こされるでもなく目が覚めたのは、不健康な生活リズムのせいだろうか。薄暗い部屋では、自分がどのくらい眠ったのかも分からない。
意識の覚醒に少し遅れて、枕元で鳴ったアラーム音。ちょうど普段と同じくらいの睡眠時間らしい。止めるでもなく、寝ころんだまま天井に手を伸ばしてみる。
もし僕が、もっとしっかりしていたら。もっときちんと、校内探検という行為を、夜の学校という場所を、危険だと認識していれば、紅那須も雁野も、辛い目に遭うことはなかったのだろうか。エトソンも、あんなに憔悴することはなかったのだろうか。
心の傷は、そう容易には治らない。それは僕自身、よく分かっていることだ。たとえ、宵原との交渉が上手く行ったとしても、彼女たちの心には暗く深い傷が残ることだろう。さしものミス研部長だって、もうホラーの話はできなくなるかもしれない。彼女にとって、生きる意味であり、人生の夢として膨らんでいた想像は、彼女に牙をむく悪夢へと変貌してしまう。
————僕のせいだ。
運命なんて、空想上のものだと目を背けた僕のせいだ。現実は、ゲームや映画の世界とは違う。あの時、気絶させてでも紅那須を抱えていれば。あの時、背負ってでも雁野を連れて行っていれば……。
「アーサー、お目覚めですか?」
軋みを最小限に抑えて、遠慮がちに扉が開かれる。金髪の居候は、僕が伸ばした手を引っ込めるのを見て、すり足で近づいてきた。今更、狸寝入りともいかないか。
「もう、平気なのか?」
「はい、アーサーも回復したようで何よりです」
「勝手に人のバイタルを見るのは止してくれ」
僕は立ち上がる気力が起きずに、ベッドの脇に背を付けて座った彼女の方に寝返りを打った。きれいに漉かれた髪からは、嗅ぎ慣れたシャンプーの甘い香りがする。
「私は、勇者様の補佐役ですからっ」
そんな役回りだったとは初耳な気もするが、すっかり元気を取り戻したようで、一安心ということにしておこう。僕が体を向けたことに気が付いたのか、エトソンは正座になって僕の方を向いた。
「そうですっ、アーサーにお教えしたいことがあったのでした」
エトソンは、宇宙人と交流するみたいに人差し指を突き出した。純真な丸い瞳に、僕も同じように差し出してみると、彼女の指先から、線香花火のような小さな光球が盛り上がる。今にもこぼれ落ちそうで、光る雫とでも言った方がいいだろうか。
「これは、『孤独な光』という魔力操作の一つです。アーサーでもこのくらいなら、聖剣を持たずともできるはずです」
「はずですったって、どうやるんだよ……」
指先に力を入れてみるが、ピンと伸びた人差し指が小刻みに震えるだけで、光の一つも出ない。集中が切れて、エトソンの指先を突いてみると、僕の指先に『孤独な光』がくっついた。
水滴のように指先を流れる光球は、少し吸着力があるのか、軽く指を振っても外周を回るだけで、飛んでいったりはしない。少し非日常的というか、感じたことのない肌触りではあるのだが、なぜだかそれは自然な暖かさに思える。
指先を下に向けると、位置エネルギーに負けたのか、滑り流れた指の先端から光球が落下する。ビー玉みたいに転がった光球が霧散すると、一抹の寂寥感が心に広がった。
もう一度、少しクセになってしまいそうな光球の転がる感覚を味わいたくて、指先に集中してみる。さっきまでそうあったように、柔らかな暖かさを思い浮かべる。指先と水滴が触れあってお互いに引き合うような、初めて筒の先からシャボン玉が出てくるときのような————。
「————さすが、お上手です」
僕の指先から、虫刺されが膨らむように、ぷくりと光球が現れる。その光は、いかにも初心者が作ったと思える暗さだ。
「これが、廊下まで光らせていた魔法か?」
「厳密には、違います。私には光魔法は使えませんから。この『孤独な光』は、たくさん寄り集まると、小さなエネルギーが爆発的に膨張し、激しい閃光を放つのです。魔力量の多いアカデミア生がよくする失敗ですが、時には光魔法よりも役に立ちます」
つまり、魔法ってことじゃないのか。とは思うものの、僕でもできてしまうことなら、異世界では常識過ぎて謙遜してしまっているのだろうか。こちらの世界でも、当たり前のようなあいさつや習慣をしていない人はごろごろいるのだから、これも魔法と言ってしまっていいと思うのだが。
「ええと、そうですね。光魔法を書道の作品だとすれば、この『孤独な光』は細い鉛筆で書いた線にすぎません。もちろん、練度や適性で変わる評価ではありますが」
「ちなみになんだが、光魔法の使い手は、どのくらいすごいんだ?」
「そうですね……歴戦の使い手であれば、『孤独な光』一つでポイズンアルケイアを討伐できます」
「……百物語では、村を四つは壊して、王獣指定されていた気がするんだが」
「『一は全に通じ、全は一に還る』という言葉にあるように、あらゆる魔法の秘奥は、こうした魔力操作に集約されるのです」
魔法なんて、何か呪文を詠唱したら、杖みたいなやつから飛び出すものだと思っていたが、異世界ではずいぶんとストイックなものらしい。とはいえ、百物語で聞いた限りでは手の付けられなさそうな印象を受けた魔物を、そんなにも簡単に狩れる奴がいるなら、僕がわざわざ異世界に行く必要はあるのだろうか。
「そんなやつでも、魔王には勝てないのか?」
「魔法戦には、相性というものがあってですね………いえ、そんな話をしている場合ではないのですっ。この機に、初歩の魔力操作を覚えましょう」
僕は、思わず起き上がって、エトソンを見つめた。
「ちょっと待った。初歩ってお前、魔法は三十二種類あるって言ってなかったか」
正確には、百物語の最中にそう口を滑らせたというのが正しいのだが。フィクションという体裁でなら、自分の世界の話をいくらしてもいいと気が付き始めたエトソンは、確か60本目くらいにそう漏らしていた。
「それは厳密な数え方で、属性は八つですよ」
「今から覚えろなんて、無茶を言うつもりかっ。大体、そんな付け焼刃でどうにかなるわけ————」
「千里の道も百歩から、ですよっ。アーサーは、適性を見つけることから始めましょうっ」
結局、相田さんの残してくれた遅めの朝ごはんを食べた後、出発する時間まで、僕は魔力操作の練習をする羽目になった。どうやら、炎魔法以外はほとんど適性がないらしく、エトソンは不思議そうに僕の指をしげしげと眺めていた。その炎魔法も、ボンベの交換タイミングが来たカセットコンロのような弱弱しい種火が出せるくらいで、タバコに縁のない僕には役に立たないものだ。
「そんなはずはないのですが……」
「いやいや、なんか出ただけ頑張ったほうだろうよ。そもそも、僕は戦いに行くわけじゃないんだしさ」
そう、僕は何か巨悪を打ち倒しに行くわけじゃない。ただ、宵原と交渉しに行くのだ。攻撃魔法なんて、あるだけ警戒されるだけだろう。
それでも、僕が一応、彼女の魔力操作レッスンを聞いたのは、エトソンが唐突に、今まではどこか隠すようにしていた魔法のことを話してくれた理由が、僕と同じように、負い目を感じているせいなのかもしれないと思ったからだった。
遠慮して、躊躇っているばかりでは、この手の中には何も残らない。どうしたって日常を侵していく非現実に抵抗するためには、少しでも、異世界ってやつを頼るしかない。
夕暮れ色に紫がかった夜が近づくころ、僕たちは出発した。きっと、何もかも上手く行くと信じて、非日常に一歩を踏み出した。
*********
徐々に夜の気配が迫る山中は、あちこちから野良犬のような吠え声や、気の早いミミズクの声が騒がしい。約束の豪英館は、使われなくなったという話の割に、中に人がいるらしい。賑やかな明かりは、少なくとも宵原の狙う少女の実在を保証するようだった。
入り口が見え始めた時、ふと些末な不安が頭をよぎる。19時に豪英館で会おうといっていたが、もしかしたら、その時には交換するための少女を連れていないといけないのではなかろうか。だとすれば、僕はとんだ間抜けである。
急かすような狼の遠吠えに背を押され、僕たちは豪英館の扉に手をかけた。招き入れるように、軽く扉は開く。中は、紅那須が興味を示すのも分かるくらいには雑然としており、今が深夜だったら、そして明かりが消えていたら、幽霊屋敷と言われても信じてしまうだろう。階段の脇に置かれた騎士の像なんか、いかにもミステリーの事件現場になりそうだ。
「あれ、まだ愉快なお仲間がいたわけ~? って、子どもじゃんか。迷子かなぁ~?」
どこかで聞いたことがあるような声に視線を向けると、そこには見覚えのない外国人の女が、酒焼けした声で僕を見て笑っていた。その後ろから、筋骨隆々の軍人みたいな男と、伏し目がちな日本人の男が続いて出てくる。変わった集まりだが、そもそもここは外国使節の交流の場だったらしいし、そういう亡霊なのかもしれない。
「おいおい、バードフェイス。ちょっと飲み過ぎじゃないか? 綺麗な顔が、トキみたいに真っ赤だぞ」
「はっはぁ! 言えてるなぁ。っておい、ジョバンニ! 今イカサマしただろっ」
「おいおい、見てないほうが悪いだろ。それとも、何か証拠でもあんのか?」
部屋から出てきた男の言葉に、さらに後ろから大きなヤジが飛ぶ。ぼんやりと暖かみのあるランプでわずかに見える樽から察するに、酒場を模したバーのような部屋なのだろうか。クールジャパンも大人の前では都合よく切り取られるらしい。他国との仲間づくりと考えれば、意味合いは合うのだろうか。
「少し道に迷ってしまったんだ。もう夜も近い。降りるのは危険だし、夜が明けるまでここにいさせてくれないか?」
とっさに出た嘘は、バードフェイスと呼ばれた女の鋭い眼光に精査される。おかしなニックネームをしているが、確かにちょっと、鷲顔かもしれない。
酒の回った頭で、僕とエトソンを舐めるように見たバードフェイスは、千鳥足で横を通り過ぎると、入り口扉にもたれこんだ。石造りの冷たさが心地いいのか、頬を押し当てたまま、扉を押し開けようとしている。ふらついた脚では力も入らないのか、扉はびくともしていない。
「知ぃらないわよ、あなたの事情なんて。アタシたちは、大事な仕事中なんだからさぁ………ァタシは一攫千金してぇ、殺し屋なんて辞めてやるんだからぁ」
「おい、バードフェイス。それ以上話すと、今度はこいつらを返せなくなっちまうだろう。ふざけるのはそこまでにして、さっさと摘まみだすぞ」
比較的シラフに見える男は、いつまでも扉と相撲を組む女に首をかしげる。自慢なのだろう、肩を慣らして力こぶを動かした男は、扉を開けるにしては大げさな予備動作で掌底を叩き込んだ。扉が爆発したのではないかと思えるほどの破壊的な音が鳴り響いて、バードフェイスは数歩後ずさった。
「ちょっと、やりすぎ………」
「おいおい、これは………どういうことだ?」
依然として、あんなにも簡単に入ってこられた入り口扉は、閉じられたまま佇んでいる。男が蹴りつけ、タックルをしたところで、揺らぐ予兆すらなかった。
「ちょっと、あなたたち何か知ら————」
酔いも覚めた様子のバードフェイスが、僕たちに目を見開いた瞬間、金属の擦れる不快な音が屋敷中から響き渡る。その擦過音は一瞬にして僕たちの前にも現れ、無機質な金属製の檻を壁に張り巡らせた。
見上げれば、館中のあらゆる窓が同様に塞がれ、僕たちは絶望的な閉鎖空間に包まれてしまっていた。間接照明は轟音と共にかき消え、不安定な蝋燭の火だけが広間を照らす。無骨な金属の格子を見回したバードフェイスの呼吸が、次第に荒くなっていく。
「な、なによこれっ! どういうことなのっ!」
「何かは分からないけれど、ともかく、ようやく仕事が始まるということかもね」
静観していた日本人のように見える男が、思わせぶりに口を開く。その後ろから、バーに籠っていた男たちも、異変に気が付いて飛び出してきた。
「なんかデカい音がしたが、腹でも壊し————おいおい、んだよこれぁ!」
「おいサスケ、ゲームを降りるにしたって他に言い訳が………まじかよ」
細身の白人は、彼より少し背が高い黒人の男の肩をからかうように叩いた後、逃げ場のなくなった館の様子を見て、口をだらしなく開けて絶句する。
「おい、そいつら誰だよ。ガキみてぇだが、こいつらのせいか?」
「ならよぉ、こいつら殺せば、このクソ鉄格子も外れるんじゃねぇのか!」
動揺した様子の黒人の男は、壁を覆う黒い障壁を蹴りつけて、甲高い音を立てた。この短い時間でも、彼らの直情さは理解できる。
「落ち着け、お前ら。とにかく、シュガーの安否を確認してからだ。バードフェイス、頼めるか?」
「仕方ないわね。ねぇ、そこのガキんちょ。そこの女の子を連れていくけど、文句はないでしょう? 私なんかより、あの子の心を開けそうだし」
「………構わない。だが、情報の共有はしてもらうぞ」
バードフェイスは、軍人風の男に目線を送ると、エトソンの手を引いて、ホールの階段から二階へと向かった。軽く僕に頷いたエトソンの表情で、僕は一応彼女を信用することにする。少なくとも、エトソンを昨日襲った相手ではない。
「情報の共有、だったか。いいだろう。立ち話もなんだから、バーに行こうか。君に飲めるものは、十年物のぶどうジュースくらいしかないがね」
思考を整理するためだろう、ランタンのような光の漏れるバーカウンターへ歩き出した軍人の男の後ろをついていく。この中では、比較的正義感が強いのだろう。困惑や秘密が表情に出やすいのは、優しい人間の欠点だ。
僕の後ろを、今にも襲い掛かってきそうな殺気を放ちながら着いてくる、肌の色が違う男二人を警戒していると、塩顔の日本人が話しかけてくる。
「安心してくれていい。彼らは悪い人間だけれど、その中では良識がある方だ。意味も無く襲われたりはしないよ」
洋館には似合わない和装の男は、同郷の人間に安心したのか、優しい声で教える。そう言われても、安心できるわけではないが、ともかく、話をするほかにないだろう。
外から見るよりかなり広いバーは、夜の街というよりは、ガンマンが押しかけてきそうな古めかしさだ。少し埃臭いのは、掃除されていないせいだろうか。
「俺たちは、この館を守ってる警備員だ。金持ちの爺さんに雇われてな。今晩、娘を狙う殺し屋から守り抜けば、相応の謝礼がもらえるってんで来たわけだ」
「警備員にしては、物騒な話だな。その娘というのが、さっき言っていたシュガーか」
「おいおい、それ以上詮索するのは身のためにならねぇぜぇ? 警備員っつっても、俺たちゃ殺しに躊躇はねぇからなぁ」
太い腕が、僕の前の机を力強く叩いた。多分、こいつらは殺し屋なのだろう。それがなぜ、この館に集まっているのかは知らないが、少なくとも、僕を狙っているわけではないらしい。それとも、本当にその娘を守るためだけにいるのだろうか。だとすれば、むしろ、僕にとっては好都合なのかもしれない。
「お前らのことを詮索する気はない。だが、僕からも共有したいことがある。できれば、協力してほしい」
僕は、彼らに宵原から電話越しに告げられた条件を、手短に話した。エトソンと三人で会おうとは言われたが、現地で協力者を見つけてはいけないとは言われていない。
「宵原晴音………心当たりはないな。だが、君の言う条件と、シュガーはおおむね一致している。俺たちが警戒するべき相手が、そのハレネという少女の可能性は捨てられないだろう」
「念のため、聞いておきたいんだが、シュガーというのは、どんな見た目だ?」
僕が宵原の身体的特徴を伝えると、軍人風の男は笑いながら答えた。
「シュガーは、長いブロンズ髪の子供だよ。君の言うハレネとは似ていないね」
「こう見えて俺は、変装のプロフェッショナルだ。断言できるが、あのガキは誰かが化けたりはしていないね」
白人の男が横槍を入れたとき、ちょうど二つの足音が帰ってくるところだった。談笑するバードフェイスとエトソンの周りを、小鳥が飛び回っている。
「バードフェイス、シュガーの様子はどうだった?」
「問題ナシ。呑気におねんねしていたわ。一応、あの部屋には、私のカナリアを監視に置いてきたから、何かあればすぐに分かる」
「カナリアさんの鳴き声、可愛かったですっ」
「そうよねぇ。もうエトソンちゃんったら、ウチで働かない? 可愛いアーヴィたちの声を聞き放題よ」
「いえ、結構ですっ」
この短時間でバードフェイスに気に入られた、人たらしのエトソンは、きっぱりと断ると、僕の隣に座った。彼女の肩に乗っていた小鳥が、僕の肩に飛び乗ると、小刻みに首を動かして髪の付け根をつつく。
「バードフェイスの鳥が懐くなんて、僕たちも疑い合うばかりじゃいけないのかもしれないね」
「アンゴの言う通りだな。少年、俺のことは、ジャックナイフと呼んでくれ。こう見えても、元は軍人だ。何かあっても、一般人の安全は約束するよ」
どうみても元軍人の彼は、腰元に携えたサバイバルナイフを軽く指で回すと、得意げに微笑んだ。洋館に閉じ込められている異常事態の中でも落ち着き払っているのは、経験のたまものなのだろう。
「俺は、ジョバンニだ。こっちの、ゴリラみたいな野郎が、サスケ。脆そうな場所があれば教えてやれ」
示された黒人の男、サスケは、ゴリラと称されたことを誉め言葉と受け取ったのか、太い腕の力こぶを叩いてみせた。半袖のシャツは、筋肉のせいでパンパンだ。ニッと笑った唇の間から覗く黄色い歯に、バードフェイスが顔をしかめる。
「私は、バードフェイスよ。気軽に、ミス・バードフェイスって呼んでちょうだい。まったく、心機一転のために小遣い稼ぎのつもりで来てみれば、こんなむさ苦しい男たちに囲まれるわ、閉じ込められるわで散々ね」
彼女が手を前に出すと、僕の肩に乗っていた小鳥が帰っていく。長いブロンズの髪の中からは、小さなくちばしが覗いていた。鳩のマジックとか、頼んだらやってくれないだろうか。
「僕は、鴉野安吾。君は、日本人だよね。なんだか、外国の人ばかりで落ち着かなかったから、君のおかげで少し落ち着いたよ。どうぞよろしく」
「ったく、こんな意味不明なことになるなら、キモンってやつを調べてもらえばよかったぜ。そしたら、こんなブタ引くことも無かったのによ!」
僕が鴉野と握手した時、サスケが、テーブルにカードを叩きつけて愚痴った。チップの山を移動させたジョバンニは、やれやれと肩をすくめる。
「申し訳ない。風水に関しては、不勉強なんだ。占いは信じない主義でね」
話しながら賭けの席についた鴉野の引いたカードを見ると、二枚のエースが顔をそろえている。イカサマはすでに勉強済みらしい。
「僕は、朝尾秀一。彼女は、エトソンだ。今晩だけだが、よろしく頼む」
「もちろんだ。夜明けまでの、あと六時間ほどは協力関係と行こう」
「へっ、協力ったってよぉ、んなガキと協力してどうするよ」
背を向けて遊戯に熱中しながら、サスケが吐き捨てる。たしかに、僕が彼らに提案できるメリットは何もない。警備の仕事を代われるわけでもなく、腕が立つというほどでもない。
反論する必要もないかと、ジャックナイフの意見を待っていると、バードフェイスが僕の肩に腕を回して、舐めるように顔中に視線を巡らせた。鳥に好かれるのだろうか、野草のような爽やかな香水の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
「子供と言っても、本当は、ただのボウヤじゃないんでしょう? この屋敷だって、私たちを雇った爺さんの監視くらいついているはずよ。普通の人間が迷い込める場所じゃない。特別な子供………例えば、『新律者』とか」
「ニューオーダー?」
バードフェイスがその言葉を口にしたとき、部屋の空気が凍り付いたように引き締まった。全員の視線が、突き刺さるように僕を見る。
「バードフェイス、そのくらいにしておけ。俺たちはもう、『新支配者たちの饗宴』からは足を洗うと決めただろう」
「だからこそ、でしょう? もし、『新律者』が存在して、協力してくれるとしたら。それ以上に過去を断ち切れる方法は無いわ。使えるものは、何でも使うべきよ」
バードフェイスは、立ち上がってジャックナイフに体を寄せると、両手を絡めて、囁くように笑った。サスケの舌打ちを聞くに、二人は浅からぬ関係らしい。
「悪いが、僕はそのニューオーダーとやらは知らないな。買い被られても困る」
「ふぅん。ま、そうでしょうね。こんな簡単に会えたら、苦労しないわ」
彼女は、カウンターに座ると、氷の入ったグラスに琥珀色の液体を注いで、涼しい音を鳴らした。さっきまでかなり酔っぱらっていたのに、まだ飲むつもりなのか。
「どちらにしても、やることは変わらない。俺たちは、シュガーの護衛を続ける。今のところ異常はないし、あの鉄柵も、爺さんが念のために用意した防衛策なのかもしれない。アサオ、君さえよければ、少し体を動かすのに付き合ってくれないか?」
「ああ、分かった。あんたについて行けるかは分からないがな」
「はは、ここは軍じゃない。オンユアペースで構わないよ」
軽く肩をすくめたジャックナイフに従って、僕はバーを後にした。直接口にせずとも、ツンと来るアルコールの臭いは、未成年の僕には少し堪える。入り口広間に出ると、少し空気が良くなった気がした。
広間から階段裏の通路を進むと、外に通じていそうな仄明るいコンクリートの一室が開ける。何かの倉庫だったのだろう、サンドバックやダンベルなど、広い空間が今はジャックナイフのジム代わりだ。念のため、部屋を隅から隅まで見てみたが、やはり出口はすべて塞がれてしまっていた。そもそも、この部屋は放棄されて久しいのか、出口となるような場所はがれきで塞がれている。月光のおかげで涼しい明度が保たれているのが救いだ。
「それで、アサオ。君はこれからどうするつもりだい?」
五十キロはありそうなダンベルでアームカールを楽々こなしながら、彼はそう聞いてきた。トレーニング中とはいえ、お互いの呼吸音だけが響く部屋は少し気まずい。
「どうもこうもだ。仮に宵原がここに来ても、この有様じゃ中に入ってこれない。むしろ、朝までシュガーって少女がここにいる保証がされたと考えたら、手間が省けたとも言えるな」
「一応言っておくが、俺たちの最優先事項はシュガーの安全だ。お前が、ハレネに彼女を引き渡すというなら、協力関係も解消する」
そんなつもりはさらさら無さそうに、ジャックナイフは淀みなく確認した。
「分かっている。誰かが傷つくような選択肢は取りたくない。頼むつもりはないんだが、もし、お前たちの言う襲撃者と宵原が違っていたとしても、彼女を取り押さえるのを手伝ってくれるか?」
「水臭いことを言うな。たかが少女一人、俺たちにとっては、口説き落とす方がずっと難しい。その程度のことを気にする必要はないさ。もっとも、これだけ厳重に守らせているくらいだ。襲撃者は一筋縄ではいかない相手かもしれない。警戒を怠るつもりはないがね」
三セットのルーチンを終えて、適度に汗をかいたジャックナイフは、軽くサンドバックに拳を打ち込んだ。筋骨隆々な肉体は、後ろから見ても、格ゲーのキャラみたいに見える。黄色の螺旋弾とか撃てないのだろうか。
「ところで、あのエトソンという少女、置いてきてよかったのか? 君は、それほど彼らを信用しているように見えないのだが」
「ああ、信用はしていない。だが、エトソンはあんたが考えるより、ずっと生きるのがうまい。たとえ襲撃者が来たとしても、サスケあたりを囮にして逃げるだろうよ。それに、あのバードフェイスは、何となく頼っていいと思えるんだ」
「おっと、若い君に狙われるとは、彼女もまだ盛りのようだ。だが、男が連れの女を一人にするものではないぞ。酔っぱらった彼女の好色は、底知らずだからな」
「エトソンはそういうのじゃない。………だがまぁ、そう言われると少し不安になってきたな」
体感では一時間ほどはトレーニングをしたつもりだったが、時計の針は半刻も回っていないようだった。さっき見た時とほとんど同じ位置にある長針は、微細動を繰り返している。もしかしたら、壊れているのだろうか。廃墟の洋館にある置時計なんて、信じるほうがいけないのかもしれない。
ジャックナイフの忠告に、エトソンの身というよりも、アルコールや違法なアレコレを勝手に拝借していないだろうかという不安が募り始めた。外国風のあの男たちは、いかにもいろんなものを吸っていそうだ。エトソンが気に入られたら、副流煙でも吸ってしまうかもしれない。
「一度戻らないか。心配というわけではないが、何か変わったことがあるかもしれないしな」
「ああ、いいとも。ちょうど喉も乾いてきたところだ」
静謐極まりない通路を抜けて、広間まで戻ってくると、バーカウンターの方から、賑やかな声が聞こえてくる。どうやら、エトソンも含めて、何かのゲームに熱中しているらしい。
「何しているんだ?」
「ああ、戻ったのかい。………それがね、バードフェイスが中々戻ってこないから、誰かが見に行こうという話になったのだけれど」
「おい、またジョーカーじゃねえかっ!!」
「ふふん、まだまだ甘いですねっ」
「いいや、今度こそ俺が最初にあがるねっ!」
どうやらババ抜きをしているらしい三人は、お互いに二枚のカードを持っている。唯一、不揃いの二枚とジョーカーを顔の前に掲げたサスケが、鼻息を荒くしてジョバンニを睨んでいる。ゆっくりと伸びた手が、素早く一枚のカードを抜き取る。背から見た僕たちからすれば、茶番にすら見えるその一枚を裏返し、ジョバンニは天を仰いで、手持ちの三枚をシャッフルした。
「こんな調子で、さっきから決まらないんだ。かれこれ、三十分はやっているかな」
「まったく、お前たちは………」
同じ湿度のため息を共に吐き出して、僕とジャックナイフはは呆れかえる。再びエトソンがジョーカーを引き、堂々巡りは終わらない。
「バードフェイスは、シュガーのところに行ったんだな?」
「ああ、そうだね。彼女、シュガーを気にかけているみたいだったし、起きたなら心細いだろうとでも思ったんじゃないかな。話してくると行ったきり、音沙汰がないんだ」
奇跡的な確率でジョーカーを回し続ける三人組を見ていると、バードフェイスが帰ってこない理由も察するに余りある。とはいえ、この異常な状況で単独行動をしているのは心配だ。
「もういい、俺が見てくるから、お前たちは館内の警備に戻れ。あんな大仰な柵こそあるが、どこから誰が入ってくるか、分かったものじゃない」
「俺もついていこう。エトソン、遊ぶのはそこまでにして、バードフェイスのところへ行くぞ」
「ま、待ってくださいっ。後一枚だけ………はっ、やりましたっ!!」
ようやくペアのカードを引き当てたエトソンは、手持ちの一枚をサスケに渡すと、僕に駆け寄ってきた。すっかり上機嫌だ。このガラの悪い男たちも、案外子供の扱いがうまいのかもしれない。
「ちっ、しょうがねぇ。別に、壊せそうなところは壊してもいいんだろ? 襲撃者をうっかりヤっちまったら、手柄は俺がもらうからな」
「俺もついでに、金になりそうなもんが転がってないかみてくるぜ」
動機はどうあれ、バーにたむろしているよりはいいだろう。不揃いな足並みで別れた僕たちは、シュガーのいる二階へ向かった。洋館というものは、案外散策する機会がないものだが、外から見るよりかなり広く感じる。広間の階段を上がった先には、個室へつながる廊下が、先が見通せないほど長く続いていた。
「アーサー………」
「どうかしたか?」
廊下を歩きながら、エトソンが僕の服の袖を掴んだ。怯え、というわけではない。先ほどまでの気の抜けた表情は消え、警戒した表情で彼女は静かに息を吸った。
「————カナリアの声が、聞こえません」
シュガーのもとへは初めて行く僕にとっては、廊下の静寂は、この夜の洋館において当然のことだと思っていたが、彼女の言葉で異常性に気が付く。同じように、バードフェイスの言葉を思い出したのだろう。ジャックナイフは足を止め、素早くサバイバルナイフを手に取ると、少し僕たちより先行した。
目的の部屋の前で立ち止まったジャックナイフは、扉を開ける前に、一度頷いて示す。張り詰めた緊張感が高まり、ナイフを構えたまま、彼は静かに扉を開いた。慎重な彼の目線が室内を探り、一歩中に踏み込む。少なくとも、シュガーとバードフェイスが仲良く談笑していたわけではないらしい。
「なっ————嘘だろ………」
僕は廊下の前後を確認しながら、エトソンを先に部屋へ入れる。静かに扉を閉めて、絶句したジャックナイフの視線の先を辿る。僕はその現実を受け入れる前に、同行者の精神状態を確認した。エトソンがさっと悲しい目を伏せた先には、喉元が抉り潰され、使い古された人形のように中身の飛び出したカナリアが転がっていた。
「エトソン、辛ければ————」
「————大丈夫です。今はそれよりも、犯人の特定を」
はっきりとしたエトソンの声に、僕は改めて、床に倒れたその死体に目を落とした。
まるでゾンビに襲われたように、首元を丸く抉り取られたその無惨な死体は、バードフェイスで間違いない。長いブロンズの髪は血の色に濡れ、あらぬ方向に折れ曲がった両手足は、犯人の凄惨な加虐を歴々と残していた。室内には争った形跡がほとんど無いにもかかわらず、異常なほどに損壊した四肢は、非現実じみた狂気を感じさせる。
ジャックナイフが、血だまりを避けて屈みこみ、静かに彼女の瞼を閉じさせた。脈を測る必要がないことは、誰の目にも明らかだ。
「………すでに、襲撃者はこの館の中にいる」
「シュガーの姿がない。彼女は、この部屋にいたんだよな?」
「ああ、そこの拘束具で縛っていたんだが、根元から壊されているな。こんなことなら、バーにいさせるべきだった」
「なぜこの部屋に? それも、拘束までして」
ジャックナイフは、眉間にしわを寄せて、こめかみを押さえた。バードフェイスの変わり果てた姿に視線を落とすと、大きく息を吐いた。
「俺たちは、その、本当は警備員じゃないんだ。シュガーも、どこかから誘拐されてきた金持ちの子供だ。どこの筋か知らないが、殺してでも彼女を取り戻そうとする奴から、俺たちは彼女を守るよう依頼された。当然、シュガーは暴れ出したから、気絶させて、逃げないようにここに閉じ込めておいたんだよ」
なんとなく、まともな人間たちでないことは分かっていたが、それにしたって杜撰な警戒態勢だ。
ともかく、そんなことを言っていたって仕方がない。襲撃者はすでに行動を開始しているのだ。今ならまだ、シュガーは取り返せるかもしれない。
「あいつらのところに戻るぞ。緊急事態だ、まとまって行動した方がいい」
ジャックナイフの言葉に、僕も頷いて廊下に飛び出す。長い直線的な通路には、明るい月の光が差し込んでいる。高貴な木目の色は、今は不安を煽る青みを帯びていた。
広間へ通じる階段の方から、慌てたような足音が上ってきている。ジャックナイフと示し合わせ、通路の角で待ち構えていると、勢い余ったジョバンニが壁に体を打ち付けた。憔悴した表情で僕たちを見つけると、膝から崩れ落ちる。
「さ、サスケが、殺されたっ! あ、あんな怪物が来るなんて、聞いてねぇぞ!!」
「落ち着け、ジョバンニ。何があった?」
ジャックナイフが優しく肩に触れ、息を整えさせる。未だ不規則な呼吸を繰り返すジョバンニは、ゆっくりとその言葉を発した。
「き、吸血鬼だ………間違いない、振り向いたときにはもう、あいつは、腕を飛ばされて………顔を………食い破られ————」
アルコールの混じった胃酸を吐き出して、ジョバンニの顔は数刻前とは比べ物にならないほど歪んでいる。震えた手は互いに温め合うことも難しく、白い肌が一層青白く生気を無くす。
「きゃぁっ————!」
「シュガーの声だ!」
震えるジョバンニが静かに気を失った時、階下から小さな子供の悲鳴が響き渡る。扉を蹴り開け、大広間へ続く回廊に駆けた。
二階のギャラリーから大広間を見下ろすと、血の足跡を付けた少女から、血の跳ねたワンピースを身にまとった童女が後ずさっている。
「そこまでだっ!」
響き渡った銃声よりわずかに早く身を翻した少女は、驚異的な跳躍力で広間のシャンデリアにぶら下がり、尖った犬歯を輝かせた。腰を抜かした様子の童女は、何とか階段の陰に身をひそめた。
「アサオ、シュガーを頼んだ。銀の弾丸はないが、足止めくらいは請け負おう」
「………ああ、任された」
二階に飛び移った吸血鬼とでも呼ぶべき怪物と入れ替わりに、僕は階下へ飛び降りた。銀髪の少女は、僕を一瞥したが、追ってくることはなく、ジャックナイフを見て舌なめずりした。
胸を駆る不安を押しとどめて、僕はシュガーのところまで走る。これは、考え得る限り、最悪の展開だ。
ジャックナイフたちの言う襲撃者と、宵原が同一であるだけならいい。襲撃者が、彼らの手に負えないほどの手練れであるだけならいい。宵原が、僕が楽観視していられる相手であればいい。そんな甘い考えは、すべて艱難辛苦の煮凝った現実の前に破られた。
宵原晴音は、殺し屋でも手に負えないほどの怪物だった。僕のようなただの学生に、何ができる? 狂人、奇人なんて言葉では収められない、倫理の欠けた人殺しの怪物を前に、僕に何ができるというのだ。
「アーサー、彼女は無事です」
「ああ、シュガーを安全な場所へ運んでくれ」
階段を回って降りてきたエトソンに、怯えた様子の童女を任せる。気丈な王女は覚悟を決めたように頷き、シュガーを抱き上げると階段奥の通路へ駆け出した。
ジャックナイフと示し合わせた、僕たちにとっての最優先事項は果たされた。だが、それで安心できるわけがない。まるで遺言のように優しく微笑んでいたジャックナイフのもとへ、僕は駆けだした。
大広間から見上げる回廊で、力強いナイフの風切り音が聞こえている。動きの良い軍式格闘術は、健在に見えた。
「ジャックナイフ————!」
余裕そうな笑みの少女に、ジャックナイフは猛攻をしかける。しかし、二倍以上の体格差をものともせず、宵原はするりと攻撃をかわすと、一瞬の隙をついて彼の首を掴み、壁に掛けられた肖像画に叩きつける。轟音は粉塵と共に、絶望的な静寂に変わる。
宵原の手は、猛禽のように鋭いかぎ爪が伸び、とても人の姿には見えない。熟れた果実を潰すように容易く、彼女はジャックナイフの胸を抉り、噴き出す鮮血の中から、まだ脈打つ心臓を取り出した。何気ないことのように人間の命を食みながら、彼女は僕を見下ろした。
「宵原、お前————!!」
「こんばんは、朝尾先輩。って、後輩ごっこはもういいか。ボクの方が、『新律者』の先輩なんだしさ。ほら、パレネ先輩って呼んでみてよ」
学校で生徒のふりをしていた時と変わらない口調に、僕はまだ困惑を隠せない。さっきまで談笑していた相手の心臓を食らいながら、彼女はからかうように笑っている。
「あ~、紅那須パイセンたちは、冥加神社に置いてきたから、ここにはいないよ。返してほしかったら、あの子を連れて来てね~って、聞いてる??」
張り出した回廊から滴り落ちる血の音は、いやに不格好で、どうしようもない現実を確かめさせた。
死んだ。ジャックナイフは死んだ。バードフェイスは死んだ。もう、その命は戻らない。歪んだ日常は、戻ることはない。修正しようのない絶望に、人生が捻じ曲げられる音が聞こえるようだ。
僕は、どうすればいいのだろう。戦って、何を得るというのだろう。ここで彼女が説得に応じたとして、僕はそれで現実に戻れるのだろうか。紅那須と雁野を上手くごまかして、元の学園生活に戻れるというのか。
「アーサーく~ん、ほらほら。早くあの子を連れて来てよ。無辜の少女を無理矢理引っ張って、ボクの前に突き出してみなよっ。お邪魔な大人はみぃんな殺したからさ、後はキミの良心次第だよ?」
足元にまで流れてきたジャックナイフの血は、河のように僕を飲み込む。平穏な日常から最も遠い鉄の匂いが、僕の意識を遠くする。
その瞬間、腰元で鳴った金属音が耳を掠める。金色の聖剣は、静かに僕を見上げている。まっすぐに伸びた刀身は、争いの象徴に見えた。それに触れてしまえば、もう二度と、平穏な世界には戻れない気がした。
指先が震えている。掴まなければならないのに、手に力が入らない。平和を取り戻すためには、平穏と決別しなければならない。それはこれまでの全てを否定するようで、当たり前のようで二度と同じ時間のない日常を捨てるようで、手を伸ばせない。いっそもう、僕が殺された方がいいのではないかと、悲観的な絶望が囁く。
「————ぃあああ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁぁ!!!!」
「エトソンっ————!?」
不意に飛び込んできた断末魔の悲鳴に、意識が急速に覚醒する。硬直していた体に、急速に血液が巡り始めた。
僕を退屈そうな目で見下ろしていたパレネは、顔をしかめて舌打ちすると、違う次元で生きているかの如く、背を向けると壁の方へ歩き消えていく。
「はぁ………冥加神社で待ってるから、生きてたらまた会おうね」
「ま、待て————!」
制止も聞かず、暗闇に霧散していったパレネに、僕はひとまずエトソンの方へと向かうことにした。悲鳴の反響からするに、階段裏の通路の先だろう。もしかすると、今になって、ジャックナイフたちの言っていた襲撃者が来たのだろうか。エトソンの声だととっさに思ってしまったが、彼女にそうそう危機が迫ることもあるまい。きっと、シュガーが死体を見てしまったのだろう。死んでしまった彼のためにも、宵原、もといパレネの去った今、なんとしてもシュガーの安全だけは守る必要がある。
ほんの一時間前には、元気だったジャックナイフと通った道を駆ける。自分の足音のほかに、道の先からは誰かの呟く声が聞こえてくる。
少し入り組んだ道の先、ようやく開けた一室の惨状に、僕はいかに自分が甘かったかということに気が付かされる。どうしたってもう、日常など戻ってこないのだ。
「な………んで————」
「あら、あらあら、人間さんがまだ生きてらっしゃるなんて、もしかして、パレネお姉さまはお帰りになったのかしら。それとも、お兄さんは私のメインディッシュのために残しておいてくれたということ? もうっ、パレネお姉さまってば、妹思いなんだからっ。
でもぉ、せっかく言いつけ通りにこの子を始末したのに、なでなでの一つも無しに帰ってしまうなんてひどいわっ。ああっ、お姉さま、どんなふうに褒めてくださるかしら。きっと、この子の鮮血のように赤く澄んだ、美しいお言葉で愛してくださるに違いないわっ」
どうしてか、さっきよりもずっと冗長な、意味も無くくだらないその言葉の一つ一つが、耳障りなほどによく聞こえた。防衛本能は視界をぼやけさせたが、聴覚は鋭敏にしてしまったらしい。
瞬くほどに明瞭になる視界が、ようやくその赤い塊の正体にピントを合わせる。認識しても、理解は追いつかない。それは、日常に存在しないもの。存在してはいけないもの。初めて見たわけではない。バードフェイスも、ジャックナイフも同じように、そうなっていたのに、ソレがエトソンであると理解した瞬間、体ではなく、自分の存在そのものを強く殴られたように、僕の全てが揺らぎ始める。
「それにしても、お美しい顔が台無しね。わたくしは楽に殺してあげようと思ったのに、抵抗するのがいけないのよ? 人間風情が吸血鬼に敵うわけがないのに、意味も無く逃げ回って。ふふっ、活きは良かったわね」
————僕のせいだ。
目の前の童女、シュガーは、血だまりに沈んだエトソンの死体から視線を上げると、僕を見て勝気に微笑む。モノみたいにエトソンの髪を踏みつけて、腕を組んで体を揺らしながら高笑う。口の端から覗く鋭い牙は、彼女がパレネと同じ吸血鬼であることを誇るようだった。
初めから、僕たちは全員騙されていたのだ。金持ちの娘なんて、最初からいなかった。すべては、吸血鬼のおままごとに過ぎなかった。馬鹿な人間を騙して、自分たちの快楽のままに欲求を満たそうとするだけのお遊び。徒に日常を壊して嘲笑う、悪趣味な饗宴に僕たちは弄ばれていただけだった。
「すこぉし手間取ってしまいましたけれど、お兄さんで最後ね。さっさとお姉さまに褒めてもらいたいわっ。お姉さまったら、演技とはいえ、本気で叩くんですものっ。わたくしの可愛さが余ったのかしら」
エトソンは、シュガーが吸血鬼だと、守るべき対象ではなく、自分たちを騙していた敵なのだと気が付いて、この場で応戦していたのだ。きっと、僕がパレネを倒して駆けつけると信じていたから、大広間に戻らずに、この場所で戦っていたのだ。僕に、負担をかけないようにと、一人で………。
それを、僕は————。僕は、足踏みをして、立ち向かうこともできず、彼女を、エトソンを救えなかった。誰一人、守れなかった。自分の平穏なんてくだらないことに意固地になって、大切なものを失ってしまった。
日常は、もう戻ることはない。
ほんの一か月と少しに過ぎないのかもしれない。少ない思い出かもしれない。だけど、エトソンは、僕にとって、もう家族に等しい存在だったと、今なら断言できる。叶夢とエトソンと、三人でいるあの日々が、僕にとって日常と呼ぶべき平穏だったのだ。
僕のせいで、エトソンが死んだ。叶夢に申し開きのしようもない。死は、もうどうすることもできない過去のものになっていく。ぽっかりと空いた喪失感は、後悔と慰めの薄膜で覆われ、傷跡として日々に埋没していく。
————そんなこと、許されてはいけない。僕は、許されてはいけない。彼女の死を、平常化してはいけない。二度と、日常に戻ってはいけない。後悔を抱え、傷を抱え、苦しみ続けなければならない。それだけが、僕にできる彼女への贖罪だ。
「それじゃあ、せっかくお姉さまが残してくださったメインディッシュですもの。新鮮なうちに、頂いてしまいましょうっ。
それにしても、どうしてお姉さまは、こんな冴えないお兄さんにご執心だったのかしら。せっかくのフィナーレなのに、そう暗い顔をされては盛り上がりませんわっ。まずはその冴えないお顔から————————は?」
正面から飛び込んできた小柄な吸血鬼の顔は、広げた手の中にちょうど収まる。まるで、時間が止まったようだ。月の光は、空気中の塵を浮かして幻想的に光る。エトソンの死肉にたかる蠅が、まるで星のように光を反射した。
これは、悪夢だ。僕は、悪夢を見ている。身近な人が亡くなってしまう、怪談話なんかではよくある不吉な凶兆は、今、現実を侵食していた。
日常が崩れていく。取り返しのつかない方向へ壊れていく。僕は、その歪みに、身を委ねる。こんな世界、もう日常に戻らなくたっていい。僕の手は、いくらでも穢すから、だから————。
勢いのまま、吸血鬼の顔を地面にたたきつけた。薄灰色のコンクリートの床に、鳥の糞みたいな染みが弾ける。手のひらに地面の感触が伝わるほど凹んで圧し潰れた頭部は、元の形を探して微動し始めた。頭部がなくなっても起き上がろうとする肩を、縫い付けるように殴り潰す。この後悔を受け止めるには、あまりにも脆すぎる肉体だ。
「————返してくれよ。なぁ………返せよ! どうしてっ! 彼女が! 死なないと! いけなかったんだ!!」
吸血鬼は不死身だ。顔が潰れても死にはしない。だけど、どこかに核があるかもしれない。どこかに、この不条理をまるごと無かったことにできるスイッチがあるかもしれない。
慟哭を床にたたきつける。そこにあるのは、もはやただの肉塊だ。生命と呼ぶには中途半端な怨敵だ。拳を叩きつければ、豆腐のようにあっけなく細胞は崩れる。床に指がぶつかる痛みは、もう感じられなかった。どこにも行き場のない感情を、終わりのない生命に投げかけ続ける。晴れることのない怒りが消えてくれることを信じて、憎しみの形を潰し続ける。
拳を振り下ろすと、水音すらしなくなっていた。赤い染みの付いた床を、僕は殴り続けた。それは、もう彼女の血ですらないのかもしれない。それでも、胸の衝動は止むことは無かった。
「————N'appartenez plus au mal, mais au bien.」
「待て………まだ、終わって————」
静かな声が風に乗って運ばれてくる。床に染みこんでいた肉片が蒸発するように消えていった。僕は、憎しみが晴らせないままに消えていくようで、その光を手で押し止めようと掬おうとしたが、光子はすり抜けて浮上していく。体で防ごうとしても、何の意味も無かった。
整った足音が近づいてくる。振り子時計のようなその調子は、悪意のない、むしろ善意故のためらいを感じさせた。
「落ち着いて、話をしよう。君の大切な人はまだ、助けることができる」
声に振り返ると、和装の男、鴉野安吾は揺るぎのない双眸でこちらを見つめていた。
月の光が、救いようのない僕を照らしている。どうやら、夜明けはまだずっと遠いようだった。
次回3-4「魔法使いと夜」
エトソンの死。それは秀一にとって、日常の終わりを告げる、絶望的な越境であった。
まだ彼女を助けられると語った鴉野の策とは………。
果たして、秀一はパレネを倒し、夜明けを迎えられるのか————。
「君は、魔法ってものが存在すると言ったら、信じるかい?」




