3-1 日常。それとちょっとの波風。
〇これまでの登場人物(主に三話登場)
・朝尾秀一
この物語における騒動の中心である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
ひょんなことから聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
秀一同様に冥加学園の特待生であり、『新律者』の一人。正体を隠して秀一と過ごすその目的は——?
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・パレネ/宵原晴音
人を舐めた態度だがどこか憎めない小悪魔的少女、に見えるが、その正体は——?
『新律者』の一人であり、エトソンの命を狙う。
・九沙吹藍良
冥加学園の『孤高のマドンナ』。高い身長と無口で冷たい瞳は、軟弱な生徒を寄せ付けない。剣道部に所属しており、竹刀を携帯している。大体いつも第二図書室にいる。
・紅那須偲歩
ミス研会長。ホラー好きで、中でも七不思議を愛する眼鏡少女。趣味は怪談の自作だが、ミス研内ではやや不評。
・雁野康介
ミス研所属の少年。これといって特徴のない、秀一の友人。
・上吉小梅
入学式後に助けられたことで、秀一を慕う一年生の少女。少し不気味なくらい執着してくる。
・千家梢
校内奉仕部に所属するクラスメイト。なんとなく和を思い出させる落ち着いた見た目の少女。
・和泉劫雲
校内奉仕部の三年生。血気盛んな男子生徒。
・津川鳩冬
生徒会執行部の一年生。臆病で保守的な少年。
・葛御丘妙栄
冥加学園の生徒会長の少女。含みのある細目は、知慮に富んでいる。
・百合原恵夢
クラスメイトの少年。百合好きの明るいお調子者。なんだかんだ生徒会執行部の一人。
・ミス・バードフェイス
『新支配者の饗宴』参加者の一人。鳥を自在に使役し、標的を追い詰める。
ゴールデンウィークが明け、緩慢とした学生生活が戻ってきた。別に、休日中も大して何かしていたわけではないのだが、部室でダラダラしていると、一層に退屈が愛おしく思える。
僕の憩いの空間、ミステリー研究会は今日も平凡そのもので、一時間近く、互いに授業中の暇つぶしで考えていたクイズを出し合っていた。康介の国語教師あるある五連チャンが終わり、紅那須はファイルからルーズリーフを取り出した。
「それじゃあ、私の番ね。えっと、「男は、約束を破り、女を殺したが、女に感謝された。なぜか。」」
有り余る時間を埋める問いは、またしても紅那須独自の世界観で、僕たちは困惑せざるを得ない。ずるずると、椅子が後ろに下がっていく音が間延びする。怠惰に机へ体を預ける僕を見て、エトソンが読みかけの本を閉じた。
「アーサー、紅那須さんは何の話をしているのですか?」
「ああ、ウミガメのスープってやつだよ。一見意味の分からない文章の真相を、はい、いいえで答えられる質問で明かすっていうゲームだな」
キョトンとしたエトソンを置いて、康介が手を上げる。
「えっと、最初の女と最後の女は同一人物ですか」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、感謝された内容は、「女を殺した」ことについてで間違いないか?」
「まぁ、そうだと言っていいでしょうね」
「女は、死にたがっていましたか?」
「いいえ、死にたがってはいなかったわ」
「はいはいっ! 男が破った約束は、女との間のものでしたか?」
「いいえ、違うわ」
元気よく尋ねられた質問が、思わぬ方向へと話を広げた気がする。案外、先入観の少ない異世界人の方が、論理思考ゲームには向いているのかもしれない。
しかし、女は死にたくなかったが、殺されて感謝している。もう一人は別の人間がいるとして、この筋は無理がある気がする。
紅那須は、自慢の牙城を崩されるつもりがなさそうに、椅子に深く座って腕を組んでいる。こういうときは、かなりの確率で酷い結末である。もしかすると、殺された後に感謝したというのは、手紙やスマートフォンのメッセージみたいな、後でリマインドできるものを使ったわけではないのかもしれない。
「一応聞いておくが、女は不老不死だったか?」
「ええ、女は不老不死だったわ」
「えっ、そうなの!? 話変わってくるぞそりゃあ。ってことは、女は直接、男に感謝を伝えたのか」
「ええ、そうなるわね」
とりあえず、真っ当な現実のテクスチャ上の問題でないということが明らかになったところで、フィクションならフィクションで、考えるべきことは多い。酷い問題ばかり作ってくるが、紅那須も、何の筋も通らない結末で自信満々になるタイプではない。
例えば、不老不死と言っても様々なタイプがある。
不老不死伝説と言えば、人魚姫が有名だ。人魚の肉を食べた漁師が不老不死となり、仙人となって各地を旅することになる話も聞いたことがある。
次点で有名と言えば、プロメテウスの受けた拷問だろうか。不老不死の神であるプロメテウスは、鳥たちに内臓を生きながら啄まれるという残酷な罰を与えられた。
他に不老不死と言えば、吸血鬼もいる。これまでの二者と違い、太陽の光に弱い、十字架やにんにくを嫌う、などの弱点も語られるが、基本的には不老不死であるという設定が多い。
文脈を考えるなら、女は人魚の肉を食べて不老不死になったか、吸血鬼だったか、という筋が濃厚だ。とはいえ、それがなぜ殺されて感謝することになるのかは、「約束」の内容が関係してくるということだろう。ここから真相を絞るには、より具体的に核心へ迫る必要がありそうだ。
「えっと、それなら————」
僕が加えて質問しようとしたとき、いつまでも改装されないオンボロ扉が開かれた。一年生だろうか、見覚えのない小柄な女子生徒………一瞬、活発そうな外見で男子生徒かとも思ったが、スカートを履いているから、おそらく女子生徒だ。制服の性差はそう厳しくないが、わざわざ履き替える生徒なら、一度くらい気に留めるはずだ。
「あら、一年生? 何か用事かしら」
「すみませ~ん、ホラー研究会があるって聞いたんですけど、ここで合ってますか?」
「それなら、隣の————」
「ここ! ここよっ! ミステリー研究会というのは仮の名前、私たちは怪談を愛し、都市伝説に愛されたホラー研究会の選ばれし戦士たちなのっ」
そんなことはない、と否定したいところだが、むしろ新入生には刺激が強い先輩の姿は、彼女の入部しようなんて言う意志をそぐだろうと思い、僕は割り込まれたことにも静観を決め込む。少女は、呆気にとられた様子で、勢いよく立ち上がった紅那須を見つめていたが、真ん丸な猫目を細めて笑顔を浮かべた。
「ボク、宵原晴音って言いま~す。入部希望って、まだ間に合いますかぁ?」
小悪魔的な上目遣いは、調子乗りのミス研会長には、澄んで見えたことだろう。廃れた研究会に入部希望なんて、よっぽどの変人か、災いの種にしか思えない。だが、彼女が変人であれ、何か悪意を持った脅威であれ、後輩として入部を希望されてしまえば、僕たちは先輩として、その表面的に思える熱意を受け取らなければならないのであった。
「もっちろん! 朝尾くん、これで廃部の危機は免れたわねっ」
**********
「————それじゃあ、真相を言いますね。えっと、男は勇者として、ポイズンドグラウスを狩猟する任務を受けましたが、罠にかかった対象を見た男は、それが自分の育ての親であった古龍だと気づき、親殺しの苦悩と村人たちの命を天秤にかけ、最後には涙を流して討伐したのでしたっ」
「ううっ、泣ける話ね………」
「あははっ、何それ!」
「いや、ポイズンの部分は何なんだよ」
水平思考ゲームにすっかりはまった異世界人の出題に翻弄され、なんだか真剣に考えたぶん、悔しい気持ちすら湧いてくる。
新たな部員、といってもまだ入部届は受理されていない仮入部生を交えた歓談は、案外今までと変わらない穏やかさだった。少女、宵原は聞き上手で、少しフランクすぎるきらいはあるが、後輩としてはちょうどいい憎らしさともいえる。
「ポイズンドグラウスの方が、普通のドグラウスよりも危険度が高いのですっ」
「それはなんとなく理解できる。だが、そういうのはチェーホフの銃って言うんだ」
「そうそう、回収されない伏線を思わせぶりに入れるのは、水平思考的に良くないんだぜ」
勤勉な王女は、作問用に紅那須からもらったルーズリーフに、描写の心得を書き足していく。あんまり教えすぎると、勝手に僕の伝記を書かれそうで怖いが、さすがに自意識過剰だろうか。
「ですが、現実は往々にして、そんなことはないではありませんか」
「そう言われると弱いが、あくまでフィクションだからな。きれいにまとまっている方が、解く方も気持ちがいいんだよ」
エトソンの言う通り、現実には伏線のようなただの事実も存在する。僕だって、両親を事故で亡くしたが、その犯人に復讐を誓ったりしていない。理事長は糸目だが裏切ったりしないし、エトソンが日本語を流暢に話せるのだって、これから先の未来で理由が明確になるわけでもないだろう。
仮入部の少女は、雁野の隣の席で、机の上に肘をついた。銀髪の隙間から見える小さなピアスも、何かの伏線にはならないだろう。
「ホラー研究会って、いっつもこんな感じなんですかぁ。あははっ、愉快ですね」
「まぁ、本当は廃墟探索したり、肝試ししたりしたいのだけれどね。なかなか許可が下りないのよ」
「そんな申請出しているのか」
「紅那須、結構いろんなところに課外活動申請出してるだろ? あの、ほら、山の方にあるなんだっけ、降霊の館みたいな」
「豪英館ね。元々は、海外使節を誘致するために建てられたのだけれど、悲惨な事件が起きて使われなくなったと噂の館よ。管理はされていないらしいけれど、土地の権利は市が持ったままだから、学校に申請すれば伝手で認可してくれると思ったのだけれど」
「認可されてから行くのは、肝試しなのか………?」
「お化け屋敷だって昼間に入るじゃない。細かいことは気にしないの」
まぁ、世の心霊系動画投稿者も、実際には下調べや入念な許可取りをしているかもしれない。それに、何もないと思われる場所に行くのなら、実際、何も起こらないだろう。心霊や怪奇現象なんて言うのは、人間心理の誤謬や科学現象の曲解に過ぎないのだ。
「それなら、まずは学校で肝試しなんてどうですか?」
「晴音ちゃん、それアリね!」
「無しだろ。大体、普通の学校より、うちの校舎は警備とか厳しいんじゃないのか?」
僕が指摘すると、紅那須は待ってましたと言わんばかりにふんぞり返った。この表情は、占いに行かされた時と同じ、もう何を言っても意見を曲げないときのパターン行動だ。
「五人いれば、それはもう部活よ。大抵の申請は通るようになるはずだし、この機にホラー研究部に名前を変えたら、きっと夜間学校も認可されるはずよ」
そうと決まれば、と決まってないことを決めつけた紅那須は、脱兎のごとく部室を飛び出したかと思うと、一枚の用紙を持って戻ってきた。嫌な予感と共に既視感が知識を呼び覚ます。あれはたしか、特別事由書だ。叶夢が部活の遠征なんかのときに、授業担当者に提出していた。
「聞いてきたわ。次の金曜日、明後日ね。休日の前ならオーアンドケーだそうよ」
「即断即決、さっすが先輩!」
「晴音ちゃん、あんま紅那須おだててもいいことないぞ~」
すっかり明るい空気になってしまった部室で、ここから出席をうやむやにする逆転の手はないだろう。
いくらこの学校と言えど、呪物が保管されているわけでもなければ、元々墓地だったわけでもあるまい。変な異空間はあったが、実質七不思議のオリジナル部分が解決できている状態と考えれば、むしろ気を楽にしてくれる。
「準備は私がやっておくから、明日は集合無しでもいい?」
「ああ、すまないな。任せるよ」
「俺も手伝おうか? 別に、ミス研無いと放課後暇だし。あ、暇だったら晴音ちゃんもどう?」
「ボクも行っていいんですか? なら、お言葉に甘えちゃお。ところで、やっぱりこの学校にも、七不思議みたいなものってあるんですか?」
新入部員の迂闊な一言に、思わず「あ」と僕は康介と目を見合わせる。交差した視線は、そろってオカルト眼鏡部長を諦念と共に捉える。
「ふっふっふ! 聞かれたならば答えてあげましょう! ホラーと言えば私、怪談と言えば私の大好物。紅那須偲歩の七不思議解説のお時間よっ!!」
**********
いつもより上機嫌な紅那須によって、一時間も七不思議のうんちくを聞かされた僕たちは、夕闇が存在感を強めるころになって、ようやく下校した。
夕食を終えて、入浴も済ませた僕は、ふと思い立ってエトソンをリビングに呼んだ。学校の七不思議探検なんて、児童書ならもってこいの題材だが、異世界にそんな啓蒙が拓かれているとも思えない。念のためではあるが、ホラーとはどういうものかをエトソンに教えるべきだろう。聖剣があるからって、人体模型を切り倒すようなことをしてはいけないのだ。
「アーサー、今日は夜更かしですか?」
「ああ、ホラー映画っていうのは、夜に部屋を薄暗くしてみるほうが、雰囲気が出るんだよ。叶夢も呼ぼうか」
「叶夢は朝も早いですから、迷惑をかけられませんっ」
ちょうど買い置かれていたポップコーンを大きめの皿に盛り、コップにコーラを注いだ。エトソンは、太ももに手を置いて、行儀よくテレビの前で待機している。
エトソンの横に座り、サブスクで見れそうな名作ホラーを適当にピックアップしてみる。なんだかんだ、話の筋は知っていても見たことがない物も多いから、僕にとってもいい機会だ。
「あっちの世界にも、幽霊とかお化けはいるのか?」
「ゴーストですねっ。聖なる攻撃が有効ですよ。マクルワリオンは相性がいいはずですっ」
「いや、そういうことじゃなくてだな………」
やはり、懸念していた通り、エトソンは幽霊を敵だと認識してしまっているらしい。そういえば、紅那須の七不思議講座も、恐怖というより、クエスト依頼を受けるような神妙さで聞いていた気がする。もしかすると、次の課外活動の間で、学校の怪異を全部祓おうと考えていたのかもしれない。
「エトソン、この主人公の女性がいるだろ」
不安をあおる仄暗い画面の中で、薄汚れた廊下を若い女が歩いている。ひたひたと、どこからか別の足音が聞こえ、女は懐中電灯を後方に向けた。分岐した廊下は、壁に備え付けられた手すりの万端さで、病院だということが分かる。
「こんなに暗いのに、どうして電気を付けないのでしょう?」
「それは夜勤だからじゃないか? 患者さんは寝ているからな」
足跡の消えていった廊下の先へ、女は訝し気に歩を進める。真夜中の廊下には、巡回中の彼女以外に人がいるはずも無かった。懐中電灯を突き当りの壁に向け、直線状に人がいないことを確認した女は、安堵から長い息を吐いた。その呼吸音の上を歩くように、しずくが垂れるような音が後方から聞こえる。
「十五メートルほど後方でしょうか。気配は感じ取れませんね」
画面越しの気配なんて感じてもしょうがないが、エトソンは僕の腕を軽く摘まみながら展開に集中している。僕は口を潤すと、女がゆっくりと振り向くのを待った。
女が振り向くと、顔を舐められるほど近くに、赤い液体を額から垂らした長髪の女が、がらんどうの瞳で視線を奪った。甲高い悲鳴が響き、腰を抜かした女を俯瞰のカメラがとらえる。
「は、速いですっ。先手は取られましたが、ここから逆転できるのでしょうかっ」
エトソンは僕の腕から手を離し、呪いなのか何なのか、穢れた無数の手に足を掴まれた女を応援するように、前のめりになった。僕はポップコーンを軽く摘まんで、女が異空間に連れていかれる様を眺める。スプラッターシーンで食べるのは、趣味が悪い感じがして癪だが、日常シーンで体が塩味を欲することはほとんどない。
「いいか、エトソン。ホラー映画って言うのは、怖さを楽しむんだ。だから、別に倒すわけじゃないんだよ」
「では、この方たちはずっとゴーストに困らされたままということですか?」
「それは作品によりけりだが、少なくとも、僕たちはこのゴーストの倒し方を考える必要はあまりないんだ」
除霊師みたいなうさん臭い登場人物が現れ始めると、大抵のホラー映画は尻すぼみになっていく。そういう時は、よっぽどパニック映画の方が、求めていたものを見れるものだ。
「怖さを楽しむというのは、どのようにすればよいのでしょうか」
主人公の日常生活パートに入り、エトソンは背もたれに体を預けた。おそらく、この後被害者になるだろう登場人物たちは、彼女の目からすればゴーストに太刀打ちできる強さではなかったのだろう。
「さっきの女性を真似てみるんだよ。怖さっていう非現実で、普段とは違う感覚を刺激するっていうかさ」
「きゃっ! ————こ、これで合っていますか?」
主人公が手に取ったリンゴが、一瞬だけ蠅のたかる頭蓋骨にサブリミナルしたのを認識したエトソンは、少し遅れてから、棒読みの悲鳴と共に僕の腕を抱いた。涙ぐみながら僕の顔を見上げるエトソンは、思ったよりも演技派だ。僕が首肯すると、次なる驚きポイントを待ちわびて、エトソンは目を輝かせながら画面に視線を戻す。やっぱり間違っていたのかもしれない。
「きゃーーーっ!!」
恐怖ポイントで悲鳴のフルコンボを決めたエトソンは、エンドロールが始まると自信気に僕を見つめた。なんというか、それはそれで違う気がするがまあ、良しとしておこう。少なくとも、これでエトソンがベートーベンの肖像画を破いてしまったりする可能性はなくなったはずだ。
次は何を見ようかと思案しながら、コーラを一口飲む。生温くなってしまった糖液を継ぎ足そうと飲み干した僕は、コップの結露が背中にも垂れたように感じて動きを止めた。静かな吐息が首筋にかかる。
「しゅ・う・い・ち? こんな夜中に、何しているのかしら?」
「か、叶夢——これは、その、ホラー映画をだな————」
振り向いた僕の腕を、エトソンはまだしっかりと抱きしめたままだ。驚く練習で少しはだけた寝間着から、色素の薄い鎖骨が覗く。吸い寄せられた視線は、沸々と爆発に近づく幼馴染の怒りを察知した。
「悲鳴が聞こえるから来てみれば………何しとるんじゃぁぁっ!!」
「誤解だぁぁっっ!!」
「これが、ホラーなのですねっ」
全然違う、と思いながら、説明の余地すらなく僕は宙を舞った。テレビの電源プラグを抜いて、ぷりぷりと怒りながら叶夢は帰っていく。その背を引き留める力もなく、僕はエトソンに歯磨きさせた後、大人しく就寝したのだった。こんなにも怖い現実の後だ、悪夢など見るわけも無かった。
**********
明くる日の昼休み。僕は昼食を終えてぼんやりと校舎を歩いていた。親切なのかお節介なのか分からない程度に長い休憩時間の余りを、校舎の隅で過ごすことを決め、僕は第二図書室の扉を開く。
孤高のマドンナ、九沙吹藍良は長いまつ毛を瞬かせて、ほんの一瞬だけ僕に視線を向けた。往年の名作文学を読み進める彼女の前に、僕も腰を落ち着ける。他に誰もいない図書室だが、近くに座ることが不審でないくらいには、彼女に認識されているはずだ。
「………面白い男」
「————えっ?」
囁くように呟いた彼女の言葉に、僕は思わず、突かれた虚を口から転び落とした。笑顔とも落胆ともつかない表情の同級生は、丁寧に栞糸を挟む。シンキングタイムが終わるまでの時間制限のように、机の上に置かれた本ののどに、朱色の線が伸びていく。
「あなたは、幸せ?」
「えっと、まぁ、それなりに幸せにさせてもらってる、と思う。少なくとも、不幸だと思う日は、ほとんどないよ」
「それは、よかった」
今までとは違い、本を机の上に置いたまま、立ち上がるでもなく僕を見つめたままの九沙吹さんに、僕は困惑してしまい、質問の意図がつかめない。静かな図書室では沈黙が一層際立ち、決まずい空気に耐えかねて、僕は質問を返すことにした。
「九沙吹さんは、幸せか?」
「………分からない。でも、何も起きない今は、幸せな時間なのかもしれない」
哲学的な返答に、僕は感想に窮した。前から思っていたが、もしかすると、これは彼女なりの冗談なのかもしれない。とはいえ、上手い返し方も思いつかず、何かを言い始めそうな淡い朱の唇に視線が吸い込まれるばかりだ。
「あ、あのさ。九沙吹さんは、夏休みに、何か予定とかあるか?」
「………分からない。どうして、そんなことを聞くの?」
「そ、それは、その………」
沈黙に耐えかねて口にした世間話のつもりだったが、これではまるで、デートの誘いを断られたかのようだ。いや、多少は九沙吹さんをどこかに誘ってみる口実にしようという気が、心の中に無かったかと言われれば、それを否定することはできないのだが、本心で世間話のつもりで予定を聞いたのも確かであって、下心があったとかそういうわけではない。
だからこそ、どうしてもこうしてもないのだが、誘うつもりがないといえば、他人の予定を意味も無く把握しようとする怪異だと思われ、今後の関係性に支障をきたす可能性もある。いや、今後の関係性って何のことだ。別に、僕は彼女と深い関係になりたいと思っていないわけではないとしても、そんな自分の感情を理由に、九沙吹さんに迷惑をかけたいわけではないのだ。
「用事なら、あなたの予定に合わせるほうが、私も都合がいい。休日にしかできないことなら、明後日でも構わないけれど」
「あ、明後日は………ちょっと、忙しくて————あ、いや、別にそんな、用事があったというわけじゃあ、なかったんだ」
脳裏に、ミス研の陽気な仲間たちが地球儀を回しながら、僕を見てのんきに笑っている様子が浮かぶ。別に学校探検なんてどうでもいい予定だ。僕がいなくても、紅那須はそれほど気にしないだろうし、エトソンだって話せばわかってくれるはずだ。
視線を遮るように顔の前に出した手が、力なく膝の上で眠った。ミス研のせいじゃない。僕はただ、九沙吹さんと予定を入れるという行為が怖くて、逃げたのだ。今度ははっきりと、失望とも取れる悲哀の色が、彼女の瞳に影を落としている。僕の弱さ、不甲斐なさが彼女を撥ねつけた。
僕には、彼女の気持ちは何一つ分からない。彼女が何を思って、僕に予定を合わせてくれようとしたのかも、彼女が今、幸せかどうかすらも、僕には分からない。でも、誰かの気持ちが分からないなんて、人間にとって当たり前のことで、それはただの言い訳に過ぎないのだ。
乾いた木が擦れる音は、いつもよりも鮮明に耳に入って、彼女の高い上背が落とした影は、いつもよりも長く思えた。それは絶望的な終幕のように、狼の影が無垢な羊を食らうように、僕に覆いかぶさろうとしている。それは、現実として、一瞬の苦悩でしかない。長い一生からすれば、すぐに忘れてしまう後悔でしかない。
だけれど、間違いばかりの人生で、目を瞑って明日になるのを待つことが、日常を続けるための正解だったとしても、僕は確かに今、一歩を踏み出そうと欲した。正解でない人生だとしても、日常を壊すようなことだとしても、確かに君に、近づきたいと思った。
「く、九沙吹さん!」
伏し目がちな双眸が、少しだけ驚いた様子で僕の声に反応する。荘厳な滝のような、静かで迫力のある彼女に抱いた感情は、恋や愛なんて呼ぶにはまだ不定形の、不格好な思いで。躊躇いながらでも踏み出す一歩が後悔に変わらないように、また進んでいけることを夢見る。
「用事、きっと作るから。また、誘ってもいいかな」
「————ええ、ありがとう」
ほんの少しだけ、彼女の表情が和らいだように見えて、僕が呼吸を思い出した時には、彼女はもう図書室から去っていた。
それは進展というにはあまりにも小さな一歩だったが、平凡で代わり映えのない、何よりも理想的で美しい日常から飛び出した、偉大な一歩だった。
**********
人が人生の転機を迎えようが、大層な思考を巡らせて達観しようが、変わらず授業は始まり、放課後を迎える。少しだけ晴れやかで、余裕のある気持ちになった僕は、嫌がるエトソンを何とかなだめて、『夕暮れの原風景』に向かうことにした。
HR前に千家に聞いてみたところ、以前に僕が行ってから、毎日のように生徒会はトレーニングに励んでいるそうだ。一朝一夕で変わるものでもないだろうが、継続が力となるのも確かである。トレーニングの何たるかなんて、総合格闘技の特進組にでも聞けばいいと思うのだが、今日くらいは聞きかじりの知識で教師面してやろう。
放課後になり、廊下からはすっかり人がいなくなる。部活動に励む生徒が多い普通の学校なら、ありえない光景なのかもしれない。だが、僕たちはそんな光景すら、当たり前のことだと思い込んで生活していたのだ。
「————時間ね」
生徒会長、葛御丘妙栄の言葉に遅れて、部活動時間を知らせるチャイムが鳴る。それは学業から部活動への切り替わりの通達でもあり、昼という活動の時間が夕へ、休息へと向かう準備時間へのモラトリアムに切り替わる合図でもあった。その電子音は、学生の誰もが耳慣れた『夕暮れ』の始まりの音だ。
世界が陽の色に浸食されていく。生徒会室前の廊下が、海に潜ったように一瞬でその色を変え、憂いを呼び起こす橙で視界を埋め尽くす。遠くの校舎から、呻くような悲し気な鳴き声が響いた。あれから一月ほど経ったはずだが、やはり怪物たちは変わらずそこにいるらしい。
「今日はいつもよりも少し長いみたいね。三時間くらい余裕があるわ」
「それなら、途中で休憩した方がいいだろうな」
テレビもゲームも一時間、だ。過負荷は体にいい影響を与えない。それは、才能という天恵を授からなかった者なら一層意識すべきことである。
『迷い道』までの道のりは、大きな障害もなく、日中と同じように進んでこれた。
「そういえば、『迷い道』で特訓しているのはいいが、校内の巡回はいいのか」
「ええ、校内に私たち以外が入ってきたら信号が送られるように、廊下に監視装置を設置してもらったの。頼んだ次の週には置かれているなんて、やっぱりあの人は怪しいわね」
好待遇な割に、やっぱり理事長を疑ってやまない葛御丘は、含みを持った笑みを浮かべた。学園出身の成功者として、理事長を妬みたくなるのも分からなくはないが、あの人に策謀なんかは似合わないと思う。
「実力は、まぁ十分だと思います。今の皆さんなら、五階までなら問題なく進めるかと」
「だそうだ。とりあえず、進んでみるか。僕はあまり手を出さないほうがいいんだよな」
「ああ、そうだぜ、リーダー! ま、百合原くんの大活躍を見ててくれよ」
たどたどしく槍状の武器を回す百合原に、葛御丘が頭を抱える。なんだかんだ、こいつがいたほうが雰囲気は明るくて気が楽だ。後は実力が伴っていればいいのだが。それと、僕はリーダーじゃない。
「さっそく会敵だっ。攻撃に備えろ!」
劫雲先輩の発破に、他の生徒も武器をひしと握る。エトソンは、子供の遊びを見るような、遠くを見る目だ。あまりそう退屈そうな顔をするものではないといいたいが、五階までこの調子なら時間がかかりそうで心配になる。
振り下ろされた鞭のような触腕を、劫雲先輩の大剣が受け止め、その脇をすり抜けた百合原の一撃が怪物に突き刺さる。怪しく蠢いたもう一つの腕を、無駄のない動きで振り下ろされた千家の薙刀が押さえ込んだ。
のたうち、怒るように暴れるナキゴエに、百合原は連続で突きを繰り出していたが、不意に深く刺さった武器が抜けず、焦りの表情を浮かべる。絶望的に彼の顔に落ちた太い触腕の影は、夕暮れの湿った空気を突き抜ける銃声によって払われた。
「くらえぇぇっ!」
目のような空洞が天を向き、隙を見せた怪物を、劫雲先輩の大振りな一太刀が切り裂いた。いささか不安定な気もするが、無事に怪物は霧となって消える。
「経験値はどのくらい入るんだ?」
「………?」
僕が尋ねると、エトソンは困惑した表情で首を傾げる。レベルとか、新しいスキルとか、そういうわけではないのか。そりゃあ、現実だもんな。勝手に勘違いした僕が悪かったよ、ごめん。
「津川は、戦わないのか?」
「あの子はまだ、前に出る勇気が出ないの。小さな敵で今は練習中よ」
パーティからあぶれて、廊下の隅で震えながら観戦していた男子生徒が気になって尋ねたが、一応成長中ではあるらしい。微速ではあるが探索を続けると、葛御丘の話した小さな敵が現れ、千家の優しい声援と共に、津川は及び腰で一進一退の攻防を繰り広げた。まぁ、もしかしたら、良成長持ちかもしれないし、長い目で見よう。
前は確か、二階で立ち止まったはずだが、トントン拍子で四階までたどり着いた。連戦となった一同も、前のように肩で息をするわけではなさそうだった。体力という面では、かなり成長がみられる。
「次の階層には、少し強い敵がいるみたいです。少し休憩してから行きましょうか」
エトソンの助言に、葛御丘は腕時計を僕に向けてくれた。チャイムが鳴るまでは、まだ一時間はある。小休息の後で進んでも、十分に時間はありそうだ。時間までに入り口に戻る必要がないのはありがたい仕様である。
「今日はありがとうね、朝尾くん。みんな、今日はいつもより動きがいいみたい」
「それは、千家たちの努力の結果だろう。僕は何もしていないし、むしろ不義理なくらいだよ」
「もう、そう思うなら、もっと来てくれたらいいのに」
困ったように笑う千家に、僕は肩をすくめた。休憩をひどく退屈そうに歩き回るエトソンを視線で示すと、千家は身を引き締めるように制服の襟を正した。
「あんなに可愛らしい子なのに、私たちよりもずっと覚悟があるんだもんね。弱音、吐いていられないな」
「千家は十分しっかりしているさ。それ以上覚悟を決めたら、劫雲先輩みたいになるぞ」
「ふふっ、聞こえたら怒られるよ?
………私ね、二人のおかげで、色んなことがうまく進み始めている気がするの。本当に感謝してもしきれないくらいに」
彼女の私生活は知らないが、生活が向上しているなら良いことだ。百合原が学校でダル絡みしてこなくなったのも、別に友達ができたりして充実し始めたからなのだろうか。それほど未練がある友人関係でもないし、本心から良かったと安堵できる。
「そうだ。ちょっと気が早いかもだけど、今度何かお礼させて? なんでも、とは言えないけど、朝尾くんが喜びそうなこと、考えておくから」
「そんなに気を遣わなくてもいい。こんな非日常な空間を無くしてくれるなら、その方が僕にとっては嬉しいさ」
退屈に耐えかねたエトソンが袖を引いて、会話から意識を戻された。瞑想にふける校内奉仕部の生徒たちは、すでに準備万端のようだ。
「そろそろ出発するか。葛御丘、行こう」
「ええ、待ちわびたわ」
流れるような動作で、立ち上がりながら二丁拳銃を構えた葛御丘に、百合原も立ち上がって槍を高く掲げた。夕暮れのほの暗い世界は、友情や絆なんかを育むには最適な空間だ。
今までと変わらない階段を降りると、渡り廊下のような、少し広い直線の階層が待ち受ける。道の先の暗闇を見るに、この先に広間がありそうだ。
「俺も加勢した方がいいか?」
「必要ないと思いますよ、アーサー。彼らは十分に、チームとして結束しています」
エトソンの言葉に、広間で待ち構える巨大な猪のような形をしたナキゴエに立ち向かう生徒たちを眺める。
「ぐううぉぉぉぉおおお!!」
「俺の本気見せてやるっ!」
「百合原くん、そっちに倒れるわよっ」
血気盛んで度胸とフィジカルの強い劫雲先輩が、猛進を受け止める。鍔迫り合いの隙をついて、左右から間合いの長い槍を持つ百合原と津川が横っ腹を攻撃し、傷口を広げるように千家と葛御丘が的確な一撃を与えて、態勢を崩させた。
「のわあああぁぁっ!」
「————好機だっ!!」
足に裂傷を負ったナキゴエは、ゆっくりと自己治癒を始めるが、立ち上がることができない。動けない難敵を前に、校内奉仕部と生徒会の全力攻撃が始まる。傍から見る分には、石器時代の狩猟を見れたようでなんだか少し面白い。威厳のある監督のように腕を組んだエトソンは、深く頷いて歴戦の風格だ。
影のような体液を噴き出すナキゴエに、少しやり過ぎな気もするが、見た目以上に耐久力があるらしい。数分の総攻撃の果てに、ついに巨猪は溶け消えていった。へとへとの兵士たちは、微笑み合いながらハイタッチを交わす。見ていただけの僕も、少し感動だ。こうした勝利体験の積み重ねが、人を成長へと導く。
「ありがとう、朝尾くん。あなたは、何もしていないと謙遜するでしょうけれど、そこにいてくれるだけで、みんな勇気が湧いてくるのよ」
「らしくないことを言われても困る。それに、まだ最初の関門なんだろ?」
エトソンの首肯を確認したのとほぼ同時に、百合原の呼ぶ声が広間に響く。声の方へ集まると、そこにはエレベーターのような扉が僕たちを待つように口を開いていた。ボタンは上りの一つだけだ。
「これで、入り口からすぐに戻ってこれるということでしょうか」
「一々、今日と同じ時間をかけて進まなくていいのは助かるな。体力には問題ないつもりだが、時間は深刻な問題だからな」
果たして、僕たちを乗せた鉄の箱は、一階まで僕たちを運んだ。開いた扉の目の前には、『夜のカタチ』へ続く底冷えする暗さが構えていた。『迷い道』へ続く廊下も、すっかり便利になっていくらしい。その内、ショップなんかができるかもしれない。
「もう数分でチャイムが鳴るわ。次は五階から進めそうね。できれば、一度に五階層ずつ進みたいけれど、まだ私たちだけでは不安かしら」
視線を一身に受け、僕はそろった首肯から顔を逸らす。そもそも、何階あるかもわからないダンジョンに挑むというのは気が進まない。いっそ、僕が駆け抜けたほうがいいのではないかとも思ってしまうが、それはそれで、この非現実を下地にした日常世界において、ハッピーエンドを運ぶようには思えなかった。退屈でも非効率でも、あらゆるものにはセオリーが存在するのである。
「まぁ、また気が向いたらな」
「すぐに、秀一が必要ないくらい強くなってやるぜ」
「それでも、一緒に来てほしいけどね」
「強制するつもりは無いわ。でも、出来ればまたすぐにお願いするわね」
満月が来れば終わりが訪れるわけでもなく、僕が急ぐ理由は何一つない。本当に気が向いたら、例えば今日みたいに少しだけ良いことがあれば、考えてみよう。
そうこうしているうちに、わずかな異音が耳に入り、チャイムを予感させる。気が付けば、僕たちは夜更け泥む第一体育館の廊下に戻っていた。
活動記録を書かなければならないという勤勉な学生たちに別れを告げ、僕とエトソンは帰路についた。グラウンドの運動部も、ストレッチを始めている。
「あ、朝尾先輩っ」
校門に差し掛かった時、表情を見るからに明るくして、一人の少女が駆け寄ってきた。僕は撥ねつけるわけにもいかず、軽く手を上げて応じる。乗り気でない僕を見かねて、エトソンが小突いてきた。お前だって、『夕暮れの原風景』ではいじけていただろうが。
「上吉、何か用事か?」
「え、えっと、用事ってわけではないんですけど、先輩と一緒に帰りたいなぁって思って………め、迷惑でしたか?」
僕の傍にぴったりとくっついたエトソンを見て、上吉の声が尻すぼみになる。真っ当な部活に所属しているわけでもなく、帰る時間も未定な僕を校門で待つなんて、よっぽどの執念だと思うが、今更迷惑なんて気にしているのだろうか。
「別に、それくらいなら」
「やった! それじゃあ、隣失礼しますっ」
なぜかわざわざエトソンとの間に割り込んできた上吉は、通学かばんを抱き込んで、僕たちに歩調を合わせた。両手に花というには、片腕がタイラントのように広がってしまったが、傍から見れば羨ましいと思われるのだろうか。エトソンは、悪感情を使い果たしたのか、上吉のことはあまり気にしない様子だ。
「先輩とエトソンさんは、帰り道が同じなんですね」
「ああ、まぁ。帰り道というかまぁ、そんなところだ」
居候といえばそれだけなのだが、クラスメイトと同棲しているなんて、普通に聞いたら、とんだ遊び人だと思われるかもしれない。それで失望してもらえるなら、それはそれで構わないとして、彼女が一年生の間にあらぬ噂を流すかもしれない。美少女を家に連れ込んであれやこれやしているなんて風評被害を受けては、普通の学校生活なんてままなるはずもない。とりあえず、上吉にはいろいろと上手くごまかしていくしかないだろう。
「いいなぁ。私も、先輩とずっと一緒に帰りたいです」
「それは、難しいんじゃないか? 僕は帰る時間もまちまちだし、合わせてもらうのも悪い」
「いいじゃないですかっ。アーサー、メアドを交換すれば、待ち合わせも楽ですよっ」
どこで学んだのか、余計なことを言うエトソンを睨みつけると、悪びれる素振りもなく、舌を出して片目から星を飛ばしてくる。これは少し、叶夢にも何を吹き込んだのか問い詰める必要があるかもしれない。
すぐに食いついてくるという予想とは違い、上吉は抱えていたかばんを両手で前に持ち直し、声を落として呟いた。
「す、すみません。私、スマホ持ってなくて………あ、い、家の固定電話なら………って、だめですね。学校に持ってこれないや」
「気にすることじゃない。まぁ、予定がなければ合わせることにするよ。休み時間は別に空いているからさ」
冥加学園の生徒のほとんどは、親のいない独り身で、特に寮生の内進組は奨学金を含めても、贅沢をできる余裕のない生徒ばかりだ。一年生なら、バイトもまだままならないだろうし、仕方ないことだろう。
「あれ、秀一。寄り道なんて珍しいじゃない」
少し学校から離れた場所にある、特進組以外の割り当てられる寮への道を進んでいると、商店街で叶夢と出くわす。躊躇いなく、僕の空いた左手に、パンパンに食材が詰まったビニール袋を押し付けてきた。なんでこの量を買うのに徒歩なんだ、お前は。
「は、遥原さんっ!? え、えっと、お知り合いなんですか?」
「知り合いっていうか、幼馴染だし………?」
むしろ、上吉が叶夢を知っていることの方に驚く。まだ新学期が始まって二か月もない。バスケ部でエースをしているとはいえ、それほど有名だったのか。
叶夢は自然とエトソンの隣を歩き始め、片腕に花束だった僕は、小柄な二人を挟んだ円満家庭を形成してしまう。上吉は、妹っぽいエトソンより妹っぽい。
「それより、アーサー。エトソンちゃんって、お魚苦手じゃなかったわよね?」
「あれ、食べさせたことはなかったっけか。まぁ、大丈夫だろ。異世界って、魚ばっかり食べてそうだし」
「アーサー、何か聞き捨てならない偏見が聞こえましたよっ」
「え、え、え………み、皆さん、どういう関係なんですかっ!?」
つい叶夢が加わるといつもの調子で話してしまったが、そういえば僕たちはただの同級生なのだ。今日の夕飯をどうするかなんて、普通は話題にならない。
「家族みたいなもの、ですよねっ」
「えええええええぇぇぇっ!?」
商店街に上吉の絶叫が響き渡り、高校生の奇行には慣れっこの住人たちが通り過ぎていく中、彼女は気持ちを整理しきれないのか、小刻みに震えたまま俯いている。覚悟を決めたように顔を上げた上吉は、肌を上気させて肩を強張らせた。
「わ、私、負けませんからぁぁぁっ!!」
文化部っぽい見た目からは想像もつかない速度で逃げ帰っていった彼女に、思わず呆気にとられる。特に事情を知らない叶夢の視線が痛い。
「秀一、一年生をたぶらかすのは、ほどほどにしておきなさいね」
「………大きな誤解だ」
結局、エトソンは魚を好き嫌いせず食べたが、僕の茶碗に盛られたご飯は、いつもより少なくされていた、気がする。
次回 3-3「検証!学校の七不思議!」
ミス研の一般部員、朝尾秀一は強引な部長の独断によって、夜の学校を探検することになってしまう。
何も無いはずだと祈る彼の前に現れるのは、悪戯な日常か、それとも凶暴な悪意か————。
「————『夜』が覆う」




