2-5 エクスドリーマー
〇これまでの登場人物(主に二話登場)
・朝尾秀一
この物語において、概ね視点人物である少年。
両親の逝去後、冥加学園理事長である澪河に引き取られる。
聖剣に選ばれたが、異世界に行く気はなし。恋愛に忌避感を抱いている。
『新支配者の饗宴』で狙われているらしい。その身には、世界を意のままに操れる力が埋め込まれているというが……?
宇宙人に埋め込まれた『自由』で自在に妄想を駆使して宇宙人と戦う。
・遥原叶夢
秀一の隣家に住む少女。彼の幼馴染として、幼い頃から毎朝起こしにやってくる他、両親のいない秀一にお弁当を作り、夕食を共にしている。
・エトソン・プルルライナ
異世界から来た少女。聖剣を秀一に託し、現在は流されるまま冥加学園に編入し学生生活を謳歌している。『透明化』の魔法を使うことができるが、使用時に右目が赤く染まる。地形や建物のマップ把握や、相手の強さを解析したりできるらしい。
・イガ
高い身長をすすきのように揺らすお調子者の殺し屋で、秀一の戦友。秀一を兄弟と呼ぶほか、支離滅裂で適当な言動が目立つが、その実力は本物。Phaseと呼ぶスタイルを変更し、異なる力を扱うようだ。
秀一と再会を誓い合い、互いの背に棘の刻印を埋め込んだ。
・ローズ
中央教会の大司教の男。少し老いた見た目と反して、規格外の戦闘能力を見せる。
・オレノン
『新支配者の饗宴』参加者の一人。イタリア出身の殺し屋で『ヴェネツィアの葉脈』に所属している。主に衛星に侵入することで標的を追い詰める。
・ミス・バードフェイス
『新支配者の饗宴』参加者の一人。鳥を自在に使役し、標的を追い詰める。
・宇宙人
地球の言語では表現不能な名前らしい侵略者。『自由』と呼ぶ未知の物質の使い方を探して、文明を滅ぼして回っている。
・青枝桧希
衒いのない、感じの良い青年。その正体は、休暇中の殺し屋。その狙いは秀一のようだ。
・ボリス
桧希の連れ。シャーマンみたいな服を着た女。モニと呼ぶ存在と話しているようだ。
・澪川冥加
冥加学園の学園長。年齢は不詳だが、若見えする方である。この世界がフィクションなら、確実に悪役だと訝しまれすぎて、最近は言葉遣いを寄せているらしい。
————宇宙を漂っている。クラゲみたいに、というよりは、霊体になったみたいという方が正しいだろう。すべてを出し切った僕は、もはや抜け殻だ。
不思議と、気分がいい。いや、実際のところ、何も不思議なことはないのかもしれない。自分の持てる限りの力と、少しの偶然と運命で、僕は、僕たちは、強敵を退けたのだから。
それでも、ああ、それでも。
「………やっぱり、平和な日常が一番だよ」
僕は、全身を襲う疲労感に、そう苦笑するほかにない。くたくたの体がホワイトアウトしていく。暗闇の宇宙が塗りつぶされ、夢から覚めるように、世界が描き変えられていく。
**********
「————秀一、大丈夫? 朝ごはん、ちゃんと食べていたわよね………?」
何もないところでつんのめって転んだ僕に、叶夢が手を差し伸べる。自分でもよく分からないが、慢性的な疲労が祟ったのだろう。お節介焼きな幼馴染の手を取ると、なんだか反対の手が寂しく思えた。
「まったくもう、せっかくきれいな服を着てるんだから、気を付けなさいよ」
「ああ、ちょっと疲れていたみたいだ」
校内にも着て行ける、お気に入りのパーカーが少し汚れてしまい、軽く手で払ってきれいにする。幸いにも、洗わなくても白さは保たれたままだ。
「あれ、エトソンはどこに行った。まったく、迷うからはぐれるなって言ったんだが」
「う~ん、この辺だったら、レトワールにいるんじゃない? あの子、好きそうだと思うし」
「そういえば、もう大通りの方か。どうせならお昼にしてもいいな」
鼻をくすぐる小麦の匂いに、空腹が刺激された。気が付けば、モスキート音みたいな違和感が、いつの間にか無くなっている。晴れ渡った空は爽快で、絶好の散歩日和だ。心なしか、身体も軽い。なんて思っていたら、また転んでしまいそうだが。
広い道に出ると、叶夢の予想通り、エトソンはパン屋のショーウインドウに目を輝かせていた。
「アーサーっ、このパン、光魔法が使われているのですかっ!?」
「それは揚げパンだ。光って見えるのは砂糖がまぶしてあるからだ」
「なるほど、それでこんなにキラキラなのですね」
食べたかったわけではないのか、単純に糖質を避けているのか、案外すんとした態度に面食らう。交差点で走り回られても困るので、エトソンの手を取り、どこかお昼ご飯によさそうな店がないか、辺りを見回してみる。叶夢の両親に頼んでも、家で適当なカップ麺にしてもいいが、せっかく外に出たのだ、外食も悪くないだろう。
「アーサー、あの梅屋というお店に行ってみたいです」
「ああ、いいんじゃないか。エトソンは、初めてだよな」
「はいっ。梅干しのお店なのでしょうか」
自動ドアを通り、二重扉の真ん中にある券売機で、豊富なメニューを眺めながら、僕を見上げるエトソンの肩を優しく押さえる。店内は外よりもさらに走り回ってはいけない。
「いや、そういうわけではないよ。確か、創始者の出身地が由来で——エトソン、何か食べたいものはあるか」
「私は何でもだいじょう————カツっ! カツとは、カツのことですかっ!?」
「? そりゃあ、カツはカツだろう。とんかつだよ」
「エトソンちゃん、とんかつ好きなの?」
聞かれても、異世界の王女の好物など、知る由もない。好きな食べ物とか、そういう話題は、なんちゃらザウルスの肉とか言われても困るので、普段はしないのだ。思い返してみれば、叶夢の家族がとんかつを作ったことは、今のところ無かった気がする。それほど頻繁に食べるものでもないし、今日が初めての邂逅でも不思議はない。
「はいっ! ………と言っても、食べたことはないのですが。祝勝会で勇者様たちが嬉しそうに食べておられるのをお見かけしたもので、つい」
それなら、なぜ食べたことがないのだ、と聞くのも野暮な気がして、とりあえず味噌カツ定食のボタンを押す。カツ定食は一番リーズナブルなので、味噌ソースが百円だとしても追加する価値はある。
「じゃあ、僕は………」
僕も普段は、カツ定食を食べるのだが、なんとなく同行者と注文を被せたくないので、今日は絶品トマトハンバーグ定食にしてみる。何かと話題にはなるが、そのせいで敬遠して自分で注文したことはなかった。
僕が注文ボタンを押そうとすると、叶夢が注文数を二に変えた。同行者に配慮したつもりが、うっかり、叶夢のお気に入りを選んでしまっていた。いつも隣で同じものを注文されているうちに、気になるリストに入ってしまっていたのかもしれない。これがサブリミナル効果というやつか。
「お金、払っとくから座っといて。どうせ口座は一緒でしょ?」
「ああ、すまない」
僕と叶夢は、ともに理事長からの特待制度を受けており、(これは個人的な援助だが)日常生活の支援も受けている。実質的に、援助金の入る口座を共にする僕の財布は叶夢が握っており、夕食代もそこから引いてもらっているのだ。
エトソンを座席に着かせ、水を汲んでくる。疑い深く、茶のような水のような液体を覗き込んだ彼女は、僕が一口飲むのを見てから、恐る恐る口を付けた。
「ほうじ茶だから、大丈夫だよ」
「水にしては風味が強いと思いましたが、ほうじ茶というのですね」
「まぁ、どっちか分からないところも、あるにはある」
「何の話?」
会計を終えて隣の席に座った叶夢を交えて、談笑しながら十分弱の待ち時間を過ごす。店内はいつも通り、混雑というほどでもなく、閑散というほどでもない繁盛具合だ。
「そういえば、エトソンは元の世界でどんな料理を食べていたんだ?」
「どんな………というと、難しいですね。私、あまり料理の名前を教えていただかなかったのです。ですから、その………お肉とお野菜を温かくしたもの、としか」
「それでもほら、炒め料理とか、それこそ、揚げ料理とか、どんな調理方法だったんだ?」
「いため………? え、えっと、や、柔らかかった、です?」
キョトンとした表情でとんちきな返答をするエトソンにも、多少は耐性が付いたつもりだ。まぁ確かに、僕が初めて酢豚を食べたとして、どんな製法で作られたかなんてわかる気がしないし、興味がなければなおのことなのかもしれない。
「エトソンちゃん、そんな調子じゃ家庭科の授業、大変になるわよ。料理、少しは教えようか?」
「確かに、それもいいかもしれないな。ゆくゆくは、エトソンが料理担当になるかもな」
「その時は秀一もやるのよ」
優しめのげんこつをくらい、僕は肩をすくめた。別に、僕の分くらいは僕が作るとも。
会話が一区切りしたところで、ちょうど料理ができたらしい。モニターに叶夢が持つ食券の番号が表示された。こういう時は気を利かせて取りに行ってやる方がいいのかもしれないが、三人分の定食を運ぶのはさすがに厳しい。
「エトソン、お待ちかねのカツだぞ」
「超待望、ですっ」
カウンターまで三人で向かうと、同じタイミングで、おかわりをしに来たのだろう、外国人の男が横に並んだ。目深にかぶった帽子の下で、青い瞳がこちらを見上げた。
「こら、エトソンちゃん。あんまりはしゃがないの」
「うおっと………すみません」
トレーを持って急旋回したエトソンに押され、僕は外国人の方にバランスを崩す。こけたりこそしなかったが、身体がぶつかってしまい、とっさに謝罪の言葉が出た。
「ああ、こちらこそ」
どこの言葉か、ぱっとわからなかったが、なんとなく意味は理解できた。背を向けて去ろうとする彼の肩を軽くたたき、振り向いた顔の前に片手を差し出す。
「日本でも、スリには気を付けたほうがいい」
男は、青い瞳を見開いて僕を睨みつける。その視線が交差した瞬間、どこかで出会ったような既視感を覚えたが、すぐに手の上の発信機を奪い取られる感触で我に返る。
「アーサー、何かありましたか」
「いや、あんまりエトソンが楽しそうだから、羨ましがられただけだよ」
「そりゃあ、カツですからっ! ほら、アーサーっ! 早く座ってくださいっ!」
エトソンは、拍手するように手をパタパタと動かしながら、僕を急かす。習慣でこそなかったらしいが、いただきますの文化を知っていたらしい彼女は、今では夕食時のいただきます大臣だ。
「ああ、わかったよ」
姿勢を正して待っていた叶夢も、僕が座ってから手を合わせる。一応、括りで言えば僕たちは高校の同級生でしかないのだが、いつの間にか家族みたいになってしまっている。隣家で支え合う同士、そんな関係性も悪くないかと、落ち着いた気持ちで手を合わせた。外行きの小さめの声で、食事前の祈念の呪文がそろう。
エトソンは、カツにがっつくかと思っていたが、衣の輝かしい魅力に魅せられて、手を伸ばさないままだ。ちらちらと僕の方を見て、良く躾された犬みたいに口を開けている。
「食べないのか?」
「食べても、いいのですよねっ」
ついに、細い二本の棒の先端で揚げ肉を掴み上げた異世界人は、何も付けずに、とんかつを一口齧った。ジワリとしみ出した肉汁、いきなり真ん中の一切れを食べるあたり、欲望のままだ。グルメリポーターもかくやという蕩けた表情を浮かべ、エトソンはゆっくりと素朴な肉の味を噛みしめた。
「う~~~ん、おいしいですっ!」
聞こえている厨房もきっと喜ぶだろう反応に、僕たちも笑みがこぼれてしまう。今更、チェーン店の料理で喜べるのは大変幸せなことだが、思い返せば、僕も初めて食べた時は、これで千円しないのかと驚いたものだ。
「エトソン、そのソースもつけてみたらどうだ」
「この黒い液体ですか。くんくん、味噌でしたか? 叶夢の家で毎晩出てくる、スープと似た匂いがします」
「そうそう、味噌ソースだよ」
エトソンは、疑うような目で僕を見上げて、心配そうな顔で味噌ソースに視線を落とした。半分食べたまま箸に掴まれたカツを浸すと、真っ黒になったカツを見て、再び疑うような目で僕を見る。僕が頷いて促すと、エトソンの喉が鳴る音が聞こえた。子供が大切なものを隠すように勢いよく、エトソンが味噌カツを口に入れる。
「————!」
「ほら、白米も」
「————!!」
「むせないように、お味噌汁も飲みなよ」
「————! ~~~っ!」
味噌カツの濃い味に、白米をかき込んだエトソンは、味わうようにしばらく咀嚼してから、僕が蓋を開けた味噌汁を啜った。彼女の鼻腔に、海苔の香りが広がっているのがよく分かる。食に詳しくない彼女には、この感覚を言葉にするのは難しいのだろう。茶碗の上に箸をおいて、何かを言いたげに指を曲げ伸ばしている。
「おいしいか?」
エトソンは、勢い良く何度も頷いた。味噌ソースとカツを見比べると、まだ何切れも残っている美味の桃源郷に圧倒されてすらいる。再び、味噌カツを口に運んだエトソンは、同じルーチンで食のカタルシスを堪能した。異世界の王女とは思えない食への感動具合に、僕も安心する。彼女にとって、この世界に留まることが少しでも充実した時間になったなら、それ以上の幸いもない。
「エトソン、キャベツも合間に食べてみたらどうだ。ほら、ドレッシングも何種類かあるから、好きなのをかけてみるといい」
「しーざー、わふう、ごま! ごまは、叶夢の家のものと同じですかっ?」
「ええ、そうね」
和風ドレッシング派の叶夢は、特に押し付けることもなく首肯した。いつの間にか、特盛のご飯が半分になっている。さすがは、運動部のエースだ。
エトソンは、冒険することなく、胡麻ドレッシングを山盛りの千切りキャベツにかける。重なり合った繊維の隙間に、粘り気のある調味液が染みこみ、瑞々しい葉野菜の輝きを際立たせた。
「アーサー、口の中がさっぱりして、胃が軽くなったみたいですっ」
「キャベツとご飯は、おかわりできるからな」
「そうなのですか? 太っ腹ですねっ」
無邪気に笑ったエトソンは、爽やかになった口で、カツたちと向き合った。これほどとんかつで喜べるなら、今度の休みはインドカレーの店にでも連れて行ってみようか。チーズナンを食べたら、骨抜きになってしまうかもしれない。反対に、ハンバーガーチェーンの魅力には、まだ気づかせないほうがいいだろう。こうした美味は、店に入ることで、特に僕たちと一緒にいることで体験できるものだと刷り込ませておかないと、勝手に買い食いを始めてしまうかもしれない。
なんて、親みたいな心配をしてしまうのも、なんだかんだ、彼女との生活がこれからも続くのだということに、安心感を覚え始めているせいなのだろう。
異世界に魔王を倒しに行く。この日常は、その道程にある不安定な一瞬でしかない。けれど、心のどこかで、それがずっと続いてほしいと願ってしまう。あるいは、この平和で平凡な日常のために、僕はどんな運命とも向き合わなければいけないのかもしれない。
**********
————冥加学園理事長室。一般入学者の親子面接会場でもあるこの部屋は、入室が許された対象にのみ貸与される、船の模様が彫られたコインによって、堅牢な深紅の扉を開錠することができる。必要性の感じられない完全防音の設備は、裏口入学を望む部外者たちの密かな支援によって、誰からも苦言を呈されることなく存在していた。あるいは、当の理事長自身が、居城に居座ることなく、構内を散歩しているからなのかもしないが。
ゴールデンウィークが明け、休暇明けの倦怠感で、授業中にもかかわらず、秀一が瞼の重さを感じ、エトソンが電子辞書で『源氏物語』を読み始めたころ、遥原叶夢は校舎を一人歩いていた。
多くの学校でそうあるように、授業中の廊下は静謐そのものだ。彼女は、健康不調でないのなら、素行不良ということになるが、こと冥加学園における遥原叶夢という存在は、そうした悪評からは縁遠い生徒である。
コインをはめる丸いくぼみに、叶夢はそっと指を押し当てた。指紋認証システムが起動し、理事長室の扉が開く。こめかみを押さえながら入室した彼女の前に、小柄な影が躍り出た。
「久しぶり、叶夢おばさんっ」
「不老不死は、大人しく年寄り面してなさいよ。夜更かしばっかりしてるから、そのコドモみたいな体に合わせて、頭が退行しているんじゃない?」
「あははっ、怒った? ねぇ、イラついたんでしょっ」
「パレネ、その辺りで止めなさい。叶夢も、座るといい」
深く腰掛けた理事長、澪河冥加は、賓客用の革張りのソファを手で示した。パレネと呼ばれた少女が、座った叶夢の後ろについて、背もたれに腕を乗せる。幼く見える風貌に反して、軽薄でありながら余裕のある態度で、短い銀髪を傾かせた。
「急に呼び出したからには、大事な用があるんでしょうね。学校には干渉しないって約束も破るくらいに」
「破ってはいないさ。元々、その約束は、彼が『力』を発現させるまでの話じゃないか」
「………いつ?」
特待生の少女は、時間を惜しむように、続きを急かした。理事長はカレンダーに目を落とし、一列目を埋めるバツの印を指でなぞった。予定の多い彼だが、その多くは取るに足らないことだ。
「ゴールデンウィークの初日だ。ほんのわずかな時間だが、異常なエネルギー波を観測している。計器が振り切れてしまったから、正確には言い切れないけれど、君たち『新律者』と同じ波形だ」
「機械の故障って可能性は?」
「もちろん、可能性はゼロじゃない。でも、よく考えてみてほしい。彼が力に目覚める瞬間が来るとして、それを僕たちが予想できると思うかい?」
「エトソン・プルルライナのことが言いたいの? その日は、一日中二人といたけど、おかしなことなんて何もなかったわ」
澪河は立ち上がると、薄型のタブレット端末をローテーブルの上に置いた。姿勢正しく、詐欺師のようなうさん臭さを携えた男は、画面に映された写真を手で示す。
「彼女だけじゃあない。『新支配者の饗宴』については、君も聞いているだろう。すでに、この町には両手で数えきれないほどの殺し屋が紛れ込んでいる。いつどこで、彼らが仕掛けてくるか分からない。教会はまだ君たちのことを知らないし、殺し屋だってプロフェッショナルだからね。あまり守護者というのを信用してもいられない」
叶夢は、巧みに隠し撮られた殺し屋たちの写真に目を通す。お見合いの候補者よりも数が多い手配書は、一方で、彼らが取るに足らない脅威であることを示してもいた。
「それで、どうするつもり?」
「こちらから先に仕掛ける。アーサーが彼らに殺されるなんてことは、微塵も心配していないよ。懸念するべきは、彼が僕たちの観測外で力を発揮することだ。例えば、エトソン嬢の言う『異世界』とかね」
「私に、彼女を退学させるつもり?」
叶夢が目前に向けた殺気を感じ取り、パレネはソファから飛び退いた。飄々とした顔で、声を上げて笑う澪河を窺いながら、警戒態勢に入る。
「相変わらず、君は先を読み過ぎる癖が抜けないね。だけど、君の手はきれいなまま取っておきなさい。そう悪い話じゃない。エトソン嬢は、上手く彼の日常に溶け込んでくれた。全く想定外の珍客ではあったけれど、君の代わりになる理想的な方向に進んでくれている」
「ボクがあの子を殺したら、秀一くんは残された君と傷を舐め合う、より深い関係になる。秀一くんが大好きなキミには、願ってもないことじゃない?」
叶夢は、否定も肯定もせず、ただ静かに長く息を吐いた。一触即発の殺気は、爆発寸前で部屋を満たしたまま、時計の針を押しとどめる。
「彼が君に依存してくれれば、次の計画もやりやすくなる。彼の力のトリガーをこちらで管理できるなら、君が命を懸ける必要すらない。君はただ、彼にとってのヒロインであるだけでいい」
タブレットの画面が暗くなる。ソファに押しつけた指が、柔らかなクッション材を締め付けた。よく磨かれた大理石のテーブルに、憂いの表情が反射している。軽く口を開いて、遺言を託すようにか細い声で、叶夢は呟いた。
「一つだけ、お願いがあるの」
「僕にできることなら、なんでも言ってみなさい」
「————秀一に、普通の夏休みを与えてほしい。学校の主なら、それくらいの権利はあるでしょう?」
理事長は、意表を突かれた表情で、背もたれに体重を預けた。頭のカレンダーをめくりながら、彼は足を組む。髭の生えていない顎をさすってから、理事長は頷いた。
「構わないよ。八月までに計画が上手く行こうと行くまいと、君に彼の夏を預けよう。ただ、生憎と、僕は普通の夏というものに疎くてね。管理は君に一任するよ。」
「嫌だなぁ、理事長さん。ボクが計画を失敗すると思ってるなんてさ。八月には、彼に日常なんて存在していないよ。もしかして、ボクのこと、あんまり信用していなかったりする?」
理事長は、腕時計に視線を落とすと、扉の方へと歩を進めた。わずかに口角を上げると、焦点の合わない瞳で目を細めた。
「信用の問題じゃあないさ。ただ僕は、運命というものは予想外である方が良いと、そう思っているだけだよ」
それじゃあ、と手を軽く上げて去っていく澪川に、何とも不用心だと、叶夢は毒気を抜かれる。そもそも、学園の秘部と言える学園長室すら、彼にとっては使い捨ての空間に過ぎないのだろう。
親の目を盗む子供のように、小柄な少女は背もたれを軽く飛び越えると、傷一つない座面に寝転んだ。スカートから伸びる行儀の悪い細脚の先で、学年色の体操ズボンがのぞいている。叶夢は、眉をしかめながら、机上のタブレット端末を手に取った。
「一年生の学年色は、その色じゃないわよ。『夜』に目が慣れ過ぎて、色が分からなくなったんじゃないの?」
「ん~、別にボクは、キミみたいに青春ごっこがしたいわけじゃないからさ。そんな細かいところ、どうだっていいじゃん」
パレネは、気ままな猫のように伸びをすると、跳ね起きてソファの上で膝を丸めて座った。視線を向けることすらしない同僚の横顔に、塗りたくるように声をかける。
「それよりさぁ、異世界人の肉って、どんな味がすると思う? どこが一番おいしいかなぁ。ボクはねぇ、やっぱり肩肉だと思うね。でもさでもさ、内臓を開いてみて、もし知らない臓器が入っていたらと思うと、ワクワクが止まらないよねぇ」
「体組成も、骨格も私たちと同じだって、報告書を読んでないの? 彼女は、異世界人なんかじゃない。精神障害を起こしているだけの、どこかの研究の被検体だって、研究班は結論を出しているわ」
「そうだとしたら、とっても優秀な人間爆弾だね。君が十六年もかけて築き上げた場所を、たったの一か月で占領しているんだからさ」
楽し気な嘲笑にも、主人公の幼馴染は顔色一つ変えない。タブレット端末を小脇に抱えると、静かに立ち上がり、ボーイッシュな少女を見下ろした。
「確かにそうね。彼女が殺し屋だとしたら、とても優秀だと思うわ。でも、私が育ててきた愛情は、その程度で揺らぐものじゃない」
「おげー。さすが、聖処女様は言うことが違うなー。愛情なんて、体のいい依存の言い換————え」
時計の秒針が止まって、また動き出す瞬間には、二人の腕は交差していた。パレネの細い首にかかった力強い指は、今にもその骨を砕こうと微動している。見下ろす少女の首には、猛禽のように鋭く伸びた爪が押し当てられていた。
叶夢は、忌々し気に舌打ちをすると、首の拘束を解いた。わざとらしく深呼吸するパレネを置いて、理事長室の扉へと向かう。
「私は、理事長とは違う。あなたを信用なんてできない。そのくだらない計画も、きっと失敗するでしょうね」
「言ってなよ。『新律者』どうしに信頼は不要だと思うからさ。ボクたちは、自分が一番だと信じていればいい」
叶夢は、返答の代わりに鼻を鳴らすと、扉の向こうへと歩き去った。一人になったパレネは、一層脱力して天井を眺めた。
「さぁて、どんな表情で絶望してくれるかなっ」
次回3-1『日常。それとちょっとの波風』
朝尾秀一は、取り立てて特徴のないと自認する一生徒である。
ミス研に入部希望の一年生。歩み始めた迷い道。駆け引きの難しい青い春。そんな少しの凸凹は、けれど安心できる彼にとっての日常なのであった————。
「アーサー、今日は夜更かしですか?」




