第9話 殻の向こうから
木箱に、息をするための穴が開いている。
荷車から下ろされたとき、俺は中に小さな竜がいるのだと思った。箱の横には毛布が巻かれ、運んできた男は何度も上下を確かめた。
「卵です。孵る時期が近いので、こちらで見ていただくことになりました」
リーネが荷車の後ろから下りてきた。今日は鞄のほかに、丸い敷物と小さな秤を持っていた。
隊長が送り状を受け取る。北へ来る予定だった卵だが、向こうの飼育室の修繕が延び、早めに移すことになったらしい。リーネは元の場所で状態を確かめ、途中も付き添ってきたという。
「世話の方法は、ここで一緒に覚えましょう。成竜とは違います」
俺は頷いた。馬の仔は何度も見た。けれど卵から生まれるものの世話は、したことがなかった。
箱を置く部屋は、シグの囲いから少し離れた小さな保温室だ。ガランが床を確かめ、隙間風の入る下枠へ布を挟んだ。ミナは洗った敷物を運び、俺は水と空桶を用意した。
何かを始める前に、リーネへ聞いた。
「どこを持てばいいですか」
「箱ごと水平に持ってください。中の卵は私が出します」
俺たちは四人で持ち上げた。重さは思っていたほどではなかったが、中にあるものを考えると足がゆっくりになった。
部屋へ着くと、リーネが蓋を開けた。
藁と布の中に、淡い褐色の卵がある。俺の両腕で抱えられるくらいの大きさで、表面に細かな斑点がある。触れば温かいのか、それとも冷たいのか。分からないまま、俺は両手を後ろへ回した。
「今は触らず、置いた向きを保ちます。動いたら、その時刻を書いてください」
リーネは卵を台の低い巣へ移した。温める石は直接当てず、布越しに距離を取る。部屋の温度を測る細い管を、卵のそばへ置いた。
「熱ければよいわけではありませんから、この目盛りを超えないようにしてください。温度が下がったら、石を一つ替えて様子を見ます」
俺は管の目盛りを覚え、紙へ写した。
世話をする相手は、まだ顔を見せていない。
石を温める場所と、冷ました石を置く場所を別にした。見た目が同じなので、俺は最初、取り違えそうになった。リーネが机へ二枚の布を敷き、こちらが温める前、こちらが使う前、と示した。
「触れば分かると思っていると、眠いときに間違えます」
俺はその言葉を紙へ書いた。自分なら間違えないと言えるほど、夜中の自分を信用していない。
ミナが洗濯物につけるのと同じ印を提案した。色ではなく、結び目を一つと二つにする。灯りが弱くても指で分かる。ガランが石を置く浅い木枠を作り、転がって卵の台へぶつからないようにした。
俺は替える石を持って、巣の脇まで一度歩いた。手袋を外す場所がないことに気づき、台の脇へ小さな籠を置いた。実際に動くと、足りないものは顔を出す。夜番で慌てるより、今のうちに気づけてよかった。
◇
昼を過ぎて、殻が一度揺れた。
俺は声を出しかけ、飲み込んだ。ミナが机の端で記録を書いている。
「今、卵が動いた」
「はい。私も見ました」
彼女の炭筆が走った。時刻、動いた向き、部屋の温度。書く欄はリーネと決めてあった。
もう一度動くまで、長い時間があった。
俺は昔、仔馬が立つのを待った朝を思い出した。手を貸したくて、何度も膝を浮かせた。必要なときには獣医を呼ぶ。けれど、立とうとしている脚の邪魔をしないことも仕事だった。
今回は殻の向こうが見えない。見えないぶん、何かしてしまいたくなる。
「殻を割るのを手伝うこともあるんですか」
ミナが尋ねた。
「勝手にはしません」
リーネは同じ高さに椅子を置いた。
「殻を出るにも順番があります。中で準備をしているうちに開けると、かえって危ないの。変化が止まったときの判断は私がしますから、皆は起きたことをそのまま知らせてください」
ミナが頷いた。俺も頷いた。
卵の上に、小さなひびが入った。
音は意外に小さい。乾いた豆を爪で押したような音だ。俺は近づきすぎないように椅子を後ろへ引いた。
ひびの先が少し白くなり、そこへ小さな突起が出る。
中から、生き物が押している。
何十年も、生まれたあとの身体を世話してきた。それでも、生まれる前から必死に働いているものが目の前にあるのは、胸にこたえる。
俺の指が膝の上で握られた。手を使わないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
廊下から足音がした。隊長だった。見たいのだろうが、戸口で止まった。
「入れますか」
「人数が増えると室温が変わるので、一人ずつ交代でお願いします」
リーネが言った。
俺は席を立った。隊長に見てもらう間、シグの水を替えに行くことにした。卵の前から離れたくなかったが、黒竜の朝は終わっても、昼の世話は残っていた。
◇
シグは俺を見ると鼻先を寄せた。青い刷毛を短く当て、水桶を確かめる。大きな身体のいつもの匂いに触れているうちに、俺の呼吸も少し落ち着いた。
「おまえも、ああして出てきたんだな」
竜は返事をせず、桶へ首を伸ばした。今は、こちらの水の方が大事だ。
◇
夕方、殻の割れ目が広がった。
俺が戻ると、ミナは椅子を空けていた。何時間も同じ姿勢でいたので、背中が固くなったらしい。交代して、彼女は食事へ行った。
卵は何度か揺れ、止まり、また揺れる。リーネは時計と殻の両方を見ている。俺は言われた範囲で温度を確かめ、石を一つ交換した。
殻の一片が落ちた。
濡れた銅色が見える。
小さな頭が押し出され、首が続く。小さいと言っても、卵の中にどう収まっていたのか分からないほど長い。翼は折り畳まれ、身体へ貼りついている。
幼竜は力を使い切ったように、殻の縁へ顎を載せた。
俺は息を止めた。
「呼吸しています。待って」
リーネが言った。
細い脇腹が動いた。確かに動いた。俺はようやく息を吐けた。
次の動きで、前足が出た。爪が布へ引っかかる。ミナが戻ってきたが、戸口で立ち止まり、音を立てなかった。
幼竜は一度足を滑らせ、それでも自分で身体を押し出した。殻が転がりそうになったので、リーネが台の縁へ支えを入れた。幼竜そのものは引っ張らなかった。
銅色の身体が、敷物の上へ出た。
俺の喉から、笑いとも息ともつかない音が漏れた。
「出た」
ミナが小さく言った。
「ええ。出ましたね」
リーネの声も、さっきより柔らかい。
幼竜は目を細く開けた。頭を持ち上げようとして、すぐ下ろす。濡れた鱗が灯りを反射して、銅鍋の底のような色になる。
リーネが身体の状態を確かめ、俺たちは清潔な布を渡した。拭く場所と強さを教わり、俺は背中の端をそっと押さえるように拭いた。
爪が俺の袖を掴んだ。
布の一筋が引かれたので、俺は手を動かさず、リーネに外してもらった。可愛いからと顔を近づけてはいけない。小さくても、竜の爪だ。
「よく出てきたな」
俺は少し離れたところから言った。
銅色の目が一瞬、俺の方へ向いた。見えているのかどうか分からない。それでも俺は、その目を覚えておきたかった。
◇
隊長とガランが来たのは、幼竜が落ち着いてからだった。
ガランは杖を戸口へ預け、音を立てずに椅子へ座った。大きな男が小さくなって覗き込むので、ミナが笑いを堪えている。
「名前を決めないと、記録にはずっと卵と書くことになってしまいます」
ミナが紙を示した。
隊長が幼竜を見る。銅の頭が上がり、敷物の上を前足で二度叩いた。と、と、と短い音がした。
「トトという名前はどうでしょう」
俺は音の方を見た。もう一度、小さな爪が鳴った。
「呼びやすいですね」
ガランが頷き、ミナが名前を紙の上へ大きく書いた。
トト。
卵だった欄の隣に、初めて名前ができた。
今夜の見守りは、リーネの指示で交代する。すぐ餌を詰め込まず、休ませること。温度を保ち、呼吸と動きを見ること。気になる変化は早めに呼ぶこと。
俺は最初の番を引き受けた。全部やると言いかけたところで、隊長が次の番を自分の名で書いた。
「その次は宿直の者が見ます。ダグさんは時間になったら休んでください」
俺は頷いた。
皆が出ると、部屋は静かになった。トトの呼吸は小さく、耳を澄ませなければ分からない。シグの寝息とは違う。重い羽音も、壁を擦る音もない。
机の上には、殻の一片がある。リーネが記録のために残したものだ。俺は触らず、その薄さを眺めた。
あの中で、今日まで生きていた。
トトが前足を動かした。布の端が少し皺になり、鼻先がその上へ乗った。俺は直してやりたくなったが、息が楽そうなのを確かめて、そのままにした。
見守るという仕事が、またひとつ増えた。
手帳へ名前を書こうとすると、トの字の二本目が少し震えた。俺は書き直さず、そのまま時刻を添えた。




