第8話 空けてあった椅子
雨音が変わったのは、夕食の鐘が鳴る少し前だった。
屋根を打つ細かな音のあいだに、板へ水を落とす低い音が混じった。俺は藁を運ぶ手を止め、上を見た。梁の端から雫が続いている。
最初の一滴は、空の餌皿へ落ちた。次は床へ。その隣には、今朝洗って乾かした布の籠がある。
俺は籠を持ち上げ、乾いた通路へ移した。
「奥の梁から雨漏りしています」
声をかけると、ガランがすぐ来た。杖で床を確かめながら、濡れていないところを選んで歩く。
「風が東から回ったな。前は、ここまで吹き込まなかった」
俺は梯子を取りに行こうとした。
ガランが呼び止めた。
「今、屋根へ上がる気か」
「上から塞いだ方がいいと思ったんですが」
「瓦が濡れてるうえに、これから暗くなる。今は下で受けろ」
俺は梯子へ伸ばした手を下ろした。第三馬厩では、雨が止むまで待つと藁が駄目になるので、何度も登ったことがあった。落ちずに済んだことと、登ってよかったことは違うのだと、ガランの顔を見て思った。
彼は空桶を二つ運ばせた。直接真下へ置くと音が大きいので、底へ古い布を敷く。水が跳ねず、竜を驚かす音も柔らかくなった。
シグは囲いの奥で立っている。雷はまだ遠いが、耳の後ろが立ち、尾が床を擦る。
隊長が戸口に現れた。ミナも一緒だった。
「役を分けましょう。ガランは雨を受ける作業を、ミナは布の用意と濡れた床の目印をお願いします。ダグさんはシグを見てください」
俺は天井を見たまま頷いた。雨のことを放って竜を見るのが、少し悪い気がした。
ガランはもう板の長さを測っている。
「シグは頼んだ。俺が見るより、おまえの方がいい」
言われて、俺はようやく柵の方へ向いた。
シグの寝床の端へ、水の筋が近づいている。
肩を庇って寝返りが少ないので、濡れた方へ押しやるわけにはいかない。隊長と相談して、隣の囲いを使うことになった。
先に乾いた藁を敷き、水桶を置いた。俺が袋を抱えて運ぼうとすると、ミナが半分取った。
「竜が移る前なら、ここまでは入っていいんですよね」
「はい。移すときは外へ出ていてください」
ミナは入口の段差に気づき、藁を置いてから濡れた靴底を拭いた。雨で運んだ泥があった。俺は見落としていたので、一緒に拭いた。
準備が済むと、隊長が戸を開けた。
シグは動かない。
風が大きな扉の隙間を鳴らし、灯りが揺れる。竜の目も灯りの動きを追う。俺は青い刷毛を持っていたが、出せば必ず来るわけではない。今日は鼻先より、外の音が気になっている。
「扉の留め具を確認してもらえますか」
俺が言うと、隊長は外側の当番へ合図を送った。扉が閉まり、低い唸りが止んだ。
俺は作業口の前に立った。新しい囲いはいつもの寝床と匂いが違うので、使っていた乾いた藁を少し混ぜてある。
シグがその匂いを追うように首を伸ばした。
「こっちは乾いてる」
声の意味が分かるとは思わなかった。ただ、俺が慌てていないことだけは伝えたかった。
一歩、二歩。
大きな身体が戸口を通ったとき、屋根が強く鳴った。シグの翼の端が開きかける。俺はその正面から外れ、隊長も横へ下がった。
竜は足を踏み直した。通る場所は空いている。前へ進み、新しい藁の上で止まる。
戸が閉まってから、俺は息を吐いた。ミナが少し離れたところで、両手を握っている。
「今、何か手伝えることはありますか」
「外の桶に水を足してください。俺も一緒に行きます」
彼女はすぐ動いた。怖さを口にしなくても、持つ仕事があれば手を使える。その感じは俺にも覚えがあった。
雨漏りの下には、細い樋ができている。
ガランが二枚の板を斜めに合わせ、梁の低い位置から受けた水を桶へ流している。高い所へ上らずに済むよう、長い竿で支えてある。
「明日、明るくなってから屋根を見ます」
隊長へそう言って、ガランは継ぎ目を布で巻いた。
俺は桶が一杯になる前に取り替え、濡れた床を拭いた。少し拭くと、別の場所へ水が来た。雨は強く、仕事は終わりが見えない。
食堂から誰かが呼んだ。俺は聞こえないふりをしたわけではない。ただ、今行けば誰かが代わりに拭くことになると思った。
桶をもう一つ運ぶと、ガランが柄を押さえた。
「交代だ」
「まだこっちの作業が残っています」
「残っているのは見えてる。だから交代するんだ」
隊長が濡れた上着を脱いで来た。手には、乾いた布が二枚あった。
「夜番に引き継ぎます。危ない変化があったら、呼んでもらいます」
俺はシグの方を見た。竜は新しい藁を鼻で押し、寝る場所を作っている。水桶はまだ半分以上ある。
「俺だけここで食べることはできませんか」
「食堂に席を用意しました」
隊長が言った。
席、と聞いて、俺は桶の持ち手を握り直した。
ガランがそれを俺の手から取った。
「飯を食ってから、また確認に来ればいい。おまえがここで冷えると、明日が困る」
俺は夜番へ桶の替えどきを説明した。水面のここまで、と指で示す。若者は頷き、自分で次の空桶を持ってきた。
それを見て、ようやく足が食堂へ向いた。
◇
椅子は、ガランの隣に一脚空いている。
俺はいつも、端の立ち食い台で済ませていた。出入りの邪魔にならず、呼ばれたらすぐ戻れるからだ。今日はその台に食器がなく、大きな卓に椀が四つ並んでいる。
「そこです」
ミナが椅子を指した。髪の先が濡れ、前掛けは替えていた。
俺は座る前に手を見た。爪の周りに黒い筋が残っている。洗い直そうとすると、隊長が湯の入った盆を示した。
「ここでどうぞ。皆も使いました」
手を浸すと、指の節がじわりと痛んだ。温まると分かる疲れだ。
椅子に座ると、足の裏が床についた。俺には当たり前の高さだったが、片脚を伸ばすガランの前だけ、卓の下に荷物がなかった。ミナが先に籠を寄せてくれていたらしい。俺の椅子も、濡れた上着を掛けられるよう、隣との間が少し空いていた。誰かが座る前から、人の身体の場所が考えられていた。
椀には豆と肉の煮込みが入っている。パンは切ってあり、俺が門前で買ったものより柔らかい。最初のひと口を食べたところで、喉がうまく動かなくなった。
腹は減っていた。それなのに飲み込むまでに時間がかかった。
「熱すぎましたか」
ミナが聞いた。
「いや。ちょうどいいです」
俺はもうひと口食べた。今度は飲み込めた。
ガランは樋の傾きをどう変えるか話していた。隊長は明日の屋根職人を頼む手順を答える。ミナは濡れた布を干す場所が足りないと言い、食堂裏の竿を使えることになった。
俺は聞きながら食べた。仕事の話なのに、身体を急がせなくてよかった。
煮込みの底に大きな人参が残った。食べ残しかとミナがこちらを見るので、俺は慌てて匙に載せた。
「最後に食べるんです。味が染みてるから」
「私も好きなものは最後に食べます」
ガランは逆だと言った。若いころは最後に残していると、横から取られたらしい。隊長が、騎士学校も似たようなものだったと話した。
俺は人参を食べた。誰も手を伸ばさなかった。もう一切れ鍋に残っていると聞いたが、腹は十分だったので首を振った。断っても惜しくないほど食べたのは、久しぶりだった。
「ダグさんは、朝はいつも早いんですか」
隊長が匙を置いた。
「前の厩舎では、四つ鐘の前に起きていました」
「ここでは、決めた時刻まで眠っていてください。今朝も早かったでしょう」
見られていた。
「どうしても目が覚めてしまうんです」
「それなら、起きても仕事を始めずにいる練習からですね」
ミナが吹き出しかけ、匙を口へ運んで堪えた。俺も少し笑った。そんな練習があるとは知らなかった。
食事が終わり、椀を重ねようとしたら、ガランが半分持った。
「一度で全部運ばんでいい。割ったら余計な仕事だ」
俺は二つだけ運んだ。流しへ置く音が、いつもより軽かった。
◇
確認に戻ると、シグは眠っている。夜番は樋の下の桶を一度替えたと言った。床はさっきより乾いている。
俺が食べている間にも、仕事は進んでいた。
ミナが最後の濡れ布を運んできたので、俺は戸を押さえた。彼女は洗濯場まで戻らず、今夜は食堂裏で干して帰る。隊長が通用門まで送ることになっていた。
「帰る時間も決めてくれるんですね」
俺が言うと、夜番が頷いた。
「終わるまでと言うと、終わらない晩がありますから」
俺は樋を見上げた。水はまだ落ちている。けれど受ける桶も、替える手もある。今夜の雨を全部自分の手で拭き終える必要はない。
夜番に朝の引き継ぎの時刻を聞き、俺はその時刻を手帳へ書いた。明け方に目が覚めたら、この頁を見ることにした。
青い刷毛を見せる必要もなく、黒い背は静かに上下している。俺はその姿を見届け、今度は呼ばれる前に、暖かい廊下へ戻った。




