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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第10話 額を預ける相手

 トトが生まれてから、厩舎の朝に小さな音が増えた。


 敷物を掻く爪の音。鼻から抜ける細い息。空腹のときの、喉を擦るような鳴き声。どれもシグのものとは違い、俺は聞こえるたびに足を止める。


 リーネの指示で量った餌を用意し、温度を確かめる。トトは食べ始めると勢いがよく、皿へ鼻を押し込みすぎる。皿を追いかけて身体が冷たい床へ出ないよう、縁のある低い台へ置いた。


「慌てなくていい」


 言っても、もちろん待たない。


 ミナが横で量を記した。食べた分と残った分を分ける。俺が皿を動かすと、トトの前足がついてきたので、ミナが囲いの外から指を立てた。


「足が出ています」


「ありがとう」


 俺は手を止めた。トトが戻るのを待ち、皿を引いた。


 可愛いと思う気持ちが、いつも注意より先に立つ。それを誰かが教えてくれるのは助かる。爪はまだ小さいが、布を裂く力はある。


 世話が済むと、ミナが新しい敷物を置いた。トトは端を鼻で押して丸まり、あっという間に目を閉じた。


「食べて、眠って、また食べますね」


「今はそれが一番大きな仕事なんでしょう」


 俺は空の皿を持ち上げた。


 そのとき奥の厩舎から、重い鼻息が聞こえた。シグの朝の水を忘れたわけではない。だが、いつもの刷毛の時間より少し遅くなっていた。



 シグは柵の近くにいる。


 俺が通路へ入ると、顔を向けた。肩の手当ては続いているが、壁へ擦る回数は減っている。鞍はまだ使えない。良くなったように見える日ほど、前のように戻したくなるのを堪えなければならない。


「遅くなったな」


 俺は水を確かめ、青い刷毛を出した。


 鼻先がすぐに寄ってきた。


 最初の日には、柵の外でも身体が固まった。同じ大きさの竜が今も目の前にいる。怖さがなくなったわけではない。それでも、目の動きや鼻息の長さに、見覚えのあるものが増えている。


 刷毛を見せて待つ。シグが横顔を寄せる。目や鼻の穴を避け、乾いた土を短く払う。


 青い柄の端に、新しい歯形が一つある。昨日、匂いを嗅ぐついでに噛みかけたので、俺が引いた。何をしても許すわけではない。シグもそのあと、口を閉じて待つようになった。


「そこまでだ。これは食べ物じゃない」


 今日も一度言うと、鼻先が下がった。言葉より、俺が刷毛を引く動きを覚えたのかもしれない。


 俺は身体を少し横へ向けた。作業口は十分広いが、腕を長く出さなくて済む位置を選ぶ。


 シグの顎が下がる。


 いつもならそこで止まるはずだ。


 大きな額が、俺の胸の少し下へ近づいた。角のある側を避けようと、俺は手を引きかけた。だが竜は押してこなかった。鼻を低くし、頭の重さを少しだけ、俺の掌へ預けた。


 刷毛を持っていない左手に、温かい鱗が触れる。


 俺は動けない。


 力で押せば、俺など簡単に倒れる。けれどその重さは、倒すものではない。手を引けばいつでも離れられる程度で、ただ、そこにいる。


 シグの瞼が下りる。


 俺は喉の奥で息を飲み、ゆっくり吐いた。


「……そうか」


 何がそうなのか、自分でも説明できない。


 竜の額は馬の額とは違う。硬く、大きく、掌よりずっと広い。けれど預けられた重みを受け止める手つきは、俺の身体が知っていた。


 俺は指を動かさず、しばらくそこにいた。


 後ろで、誰かが息を呑んだ。


 振り向きたいのを堪えていると、隊長の低い声がした。


「止まってください。道を空けて」


 朝の用事で来た騎士が三人いた。書類と装具の採寸道具を持っている。誰も柵へ近づかなかった。


 シグの目が一度開き、俺の背後を見る。俺は掌を押しつけず、そのままにした。黒竜は鼻から長く息を出し、もう一度目を閉じた。


「シグが自分から頭を預けている」


 騎士の一人が呟いた。


 隊長は答えなかった。少し離れたところで立ち、俺と竜を見ている。


 やがてシグは頭を上げた。俺の手が空いた。掌に、鱗の角ばった感触が残る。


 俺は刷毛を布へ包んだ。


「おしまい。またあとで」


 竜は桶の方へ戻った。名残惜しそうに引き留めたりはしない。水を飲むために首を伸ばす、大きな生き物だ。


 それが妙に嬉しかった。俺へ頭を預けたあとも、シグはシグの朝へ戻っていける。


 騎士たちは、ようやく息を吐いたようだった。


「どうやったんです」


 一人が聞いた。


 俺は手を見た。青い刷毛の染みと、洗い残した土が爪の端にある。


「毎朝、顔を払っていました。嫌がったらやめることだけは、いつも守っていました」


「それで、あのシグがここまで懐いたんですか」


「今日はこうしてくれましたが、明日も同じかは分かりません」


 隊長が頷いた。


「今の様子だけで乗れるとは判断しません。採寸は予定どおり、竜医と相談しながら進めます」


 騎士は少し身を正した。さっきの驚きを、すぐ自分の用事へ変えないようにしてくれたらしい。


 俺は隊長に頭を下げた。彼女は小さく首を振り、視線だけでシグを示した。


 黒竜は水を飲んでいる。いつもの位置の桶で、静かに。


 採寸道具を置く台を動かすことになり、俺は片側へ手をかけた。朝の騎士の一人が、反対側を持った。


「こちらへ寄せればいいですか」


「はい、そこまでお願いします。竜が通る側は空けておきたいので」


 台は重かった。俺たちは一度持ち上げたあと、声を合わせて下ろした。騎士が掌についた埃を払う。綺麗な袖へ茶色い筋がついていた。


「汚してしまって、すみません」


「運んだんですから、つきますよ」


 彼はそう答え、道具を並べ始めた。


 俺は言い返せず、台の脚が揺れないか確かめた。第三馬厩では、誰かの服へ藁がつくだけで、先に謝った。ここでもその癖は抜けない。だが彼は、俺の謝罪を必要としていない。


「さっきの刷毛は、専用のものですか」


「馬に使っていたものを洗って、今はシグだけに使っています」


「同じものを用意した方がよさそうですね」


「この柄は減っていますから、買うならもう少し手に合うものがあると思います」


 騎士は刷毛の大きさを紙へ写した。古い道具を見て笑うのではなく、新しく揃えるために見ていた。俺は毛の硬さも話した。いつ買ったかは思い出せなかったが、どこが使いやすいかなら、すぐに言えた。



 昼の引き継ぎのあと、隊長に呼ばれた。


 机には、採寸の紙とは違う帳面がある。俺は何か壊したかと考え、朝からの仕事を順に思い出した。


「今の給料を確認させてください」


 隊長は椅子を勧めた。


 俺は座らず答えかけ、彼女が待っているのを見て腰を下ろした。


 額を言うと、隊長の指が帳面の上で止まった。


「それは月の基本給ですか」


「はい」


「夜番の手当は別にもらっていますか」


「いいえ。同じ袋で受け取っていますが、金額が増えたことはありません」


 隊長が俺を見た。俺は膝の上で両手を重ねた。


 少なすぎると言われても、俺が決めたものではない。長く働いてその額なら、俺にはその程度の値しかなかったのかもしれない。そんなことを、何度も考えないようにしてきた。


「二十年、ずっとですか」


「ずっと決められた額のままです。でも食事は出ますし、休みも必要なら申請できます」


「実際に休みを取った日はありますか」


 俺は黙った。


 馬がいれば、毎日水が要る。誰かに頼むより自分で行く方が早いと思っていた。休みの申請を書く紙も、そのうち使わなくなった。


 隊長はすぐには何も言わなかった。窓の外で荷車が通り、留めた鉄輪は鳴らなかった。


「ここでの仕事と待遇を整理します」


 彼女は帳面に線を引いた。


「今日すぐに額を変えるとは約束できませんが、今の待遇でよいとは考えていません。夜番の記録と異動後の仕事を確認して申請します」


 俺は椅子の縁を掴んだ。


「竜が懐いたからでしょうか」


「それも成果の一つです。でも、働いた時間と仕事への対価は、懐いたかどうかだけで決めるものではありません」


 隊長は俺の手を見るように、少し目を下げた。


「シグが水を飲み、眠れるようになったことを書きます。あなたが夜に呼ばれて起きた時間もきちんと記します」


 俺は返事をしようとして、言葉が出なかった。


 出ないまま、頷いた。


 隊長は急かさず、確認したいことを一つずつ聞いた。いつから働いていたか。誰の指示で夜番をしたか。今の寝床はどうか。分からないところは分からないと答えた。それでも話は止まらなかった。



 部屋を出たあと、俺は掌を見た。


 朝、竜の額が載ったところは、もう乾いている。だが重みは残っている気がする。


 俺の手を必要とするものがいる。


 そのことは、馬の世話をしていたころから、きっと変わっていない。変わったのは、それを見て、俺の名前で話す人がいることだ。


ここまでお読みいただきありがとうございます。ダグの物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価をいただけるとうれしいです。

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