第10話 額を預ける相手
トトが生まれてから、厩舎の朝に小さな音が増えた。
敷物を掻く爪の音。鼻から抜ける細い息。空腹のときの、喉を擦るような鳴き声。どれもシグのものとは違い、俺は聞こえるたびに足を止める。
リーネの指示で量った餌を用意し、温度を確かめる。トトは食べ始めると勢いがよく、皿へ鼻を押し込みすぎる。皿を追いかけて身体が冷たい床へ出ないよう、縁のある低い台へ置いた。
「慌てなくていい」
言っても、もちろん待たない。
ミナが横で量を記した。食べた分と残った分を分ける。俺が皿を動かすと、トトの前足がついてきたので、ミナが囲いの外から指を立てた。
「足が出ています」
「ありがとう」
俺は手を止めた。トトが戻るのを待ち、皿を引いた。
可愛いと思う気持ちが、いつも注意より先に立つ。それを誰かが教えてくれるのは助かる。爪はまだ小さいが、布を裂く力はある。
世話が済むと、ミナが新しい敷物を置いた。トトは端を鼻で押して丸まり、あっという間に目を閉じた。
「食べて、眠って、また食べますね」
「今はそれが一番大きな仕事なんでしょう」
俺は空の皿を持ち上げた。
そのとき奥の厩舎から、重い鼻息が聞こえた。シグの朝の水を忘れたわけではない。だが、いつもの刷毛の時間より少し遅くなっていた。
◇
シグは柵の近くにいる。
俺が通路へ入ると、顔を向けた。肩の手当ては続いているが、壁へ擦る回数は減っている。鞍はまだ使えない。良くなったように見える日ほど、前のように戻したくなるのを堪えなければならない。
「遅くなったな」
俺は水を確かめ、青い刷毛を出した。
鼻先がすぐに寄ってきた。
最初の日には、柵の外でも身体が固まった。同じ大きさの竜が今も目の前にいる。怖さがなくなったわけではない。それでも、目の動きや鼻息の長さに、見覚えのあるものが増えている。
刷毛を見せて待つ。シグが横顔を寄せる。目や鼻の穴を避け、乾いた土を短く払う。
青い柄の端に、新しい歯形が一つある。昨日、匂いを嗅ぐついでに噛みかけたので、俺が引いた。何をしても許すわけではない。シグもそのあと、口を閉じて待つようになった。
「そこまでだ。これは食べ物じゃない」
今日も一度言うと、鼻先が下がった。言葉より、俺が刷毛を引く動きを覚えたのかもしれない。
俺は身体を少し横へ向けた。作業口は十分広いが、腕を長く出さなくて済む位置を選ぶ。
シグの顎が下がる。
いつもならそこで止まるはずだ。
大きな額が、俺の胸の少し下へ近づいた。角のある側を避けようと、俺は手を引きかけた。だが竜は押してこなかった。鼻を低くし、頭の重さを少しだけ、俺の掌へ預けた。
刷毛を持っていない左手に、温かい鱗が触れる。
俺は動けない。
力で押せば、俺など簡単に倒れる。けれどその重さは、倒すものではない。手を引けばいつでも離れられる程度で、ただ、そこにいる。
シグの瞼が下りる。
俺は喉の奥で息を飲み、ゆっくり吐いた。
「……そうか」
何がそうなのか、自分でも説明できない。
竜の額は馬の額とは違う。硬く、大きく、掌よりずっと広い。けれど預けられた重みを受け止める手つきは、俺の身体が知っていた。
俺は指を動かさず、しばらくそこにいた。
後ろで、誰かが息を呑んだ。
振り向きたいのを堪えていると、隊長の低い声がした。
「止まってください。道を空けて」
朝の用事で来た騎士が三人いた。書類と装具の採寸道具を持っている。誰も柵へ近づかなかった。
シグの目が一度開き、俺の背後を見る。俺は掌を押しつけず、そのままにした。黒竜は鼻から長く息を出し、もう一度目を閉じた。
「シグが自分から頭を預けている」
騎士の一人が呟いた。
隊長は答えなかった。少し離れたところで立ち、俺と竜を見ている。
やがてシグは頭を上げた。俺の手が空いた。掌に、鱗の角ばった感触が残る。
俺は刷毛を布へ包んだ。
「おしまい。またあとで」
竜は桶の方へ戻った。名残惜しそうに引き留めたりはしない。水を飲むために首を伸ばす、大きな生き物だ。
それが妙に嬉しかった。俺へ頭を預けたあとも、シグはシグの朝へ戻っていける。
騎士たちは、ようやく息を吐いたようだった。
「どうやったんです」
一人が聞いた。
俺は手を見た。青い刷毛の染みと、洗い残した土が爪の端にある。
「毎朝、顔を払っていました。嫌がったらやめることだけは、いつも守っていました」
「それで、あのシグがここまで懐いたんですか」
「今日はこうしてくれましたが、明日も同じかは分かりません」
隊長が頷いた。
「今の様子だけで乗れるとは判断しません。採寸は予定どおり、竜医と相談しながら進めます」
騎士は少し身を正した。さっきの驚きを、すぐ自分の用事へ変えないようにしてくれたらしい。
俺は隊長に頭を下げた。彼女は小さく首を振り、視線だけでシグを示した。
黒竜は水を飲んでいる。いつもの位置の桶で、静かに。
採寸道具を置く台を動かすことになり、俺は片側へ手をかけた。朝の騎士の一人が、反対側を持った。
「こちらへ寄せればいいですか」
「はい、そこまでお願いします。竜が通る側は空けておきたいので」
台は重かった。俺たちは一度持ち上げたあと、声を合わせて下ろした。騎士が掌についた埃を払う。綺麗な袖へ茶色い筋がついていた。
「汚してしまって、すみません」
「運んだんですから、つきますよ」
彼はそう答え、道具を並べ始めた。
俺は言い返せず、台の脚が揺れないか確かめた。第三馬厩では、誰かの服へ藁がつくだけで、先に謝った。ここでもその癖は抜けない。だが彼は、俺の謝罪を必要としていない。
「さっきの刷毛は、専用のものですか」
「馬に使っていたものを洗って、今はシグだけに使っています」
「同じものを用意した方がよさそうですね」
「この柄は減っていますから、買うならもう少し手に合うものがあると思います」
騎士は刷毛の大きさを紙へ写した。古い道具を見て笑うのではなく、新しく揃えるために見ていた。俺は毛の硬さも話した。いつ買ったかは思い出せなかったが、どこが使いやすいかなら、すぐに言えた。
◇
昼の引き継ぎのあと、隊長に呼ばれた。
机には、採寸の紙とは違う帳面がある。俺は何か壊したかと考え、朝からの仕事を順に思い出した。
「今の給料を確認させてください」
隊長は椅子を勧めた。
俺は座らず答えかけ、彼女が待っているのを見て腰を下ろした。
額を言うと、隊長の指が帳面の上で止まった。
「それは月の基本給ですか」
「はい」
「夜番の手当は別にもらっていますか」
「いいえ。同じ袋で受け取っていますが、金額が増えたことはありません」
隊長が俺を見た。俺は膝の上で両手を重ねた。
少なすぎると言われても、俺が決めたものではない。長く働いてその額なら、俺にはその程度の値しかなかったのかもしれない。そんなことを、何度も考えないようにしてきた。
「二十年、ずっとですか」
「ずっと決められた額のままです。でも食事は出ますし、休みも必要なら申請できます」
「実際に休みを取った日はありますか」
俺は黙った。
馬がいれば、毎日水が要る。誰かに頼むより自分で行く方が早いと思っていた。休みの申請を書く紙も、そのうち使わなくなった。
隊長はすぐには何も言わなかった。窓の外で荷車が通り、留めた鉄輪は鳴らなかった。
「ここでの仕事と待遇を整理します」
彼女は帳面に線を引いた。
「今日すぐに額を変えるとは約束できませんが、今の待遇でよいとは考えていません。夜番の記録と異動後の仕事を確認して申請します」
俺は椅子の縁を掴んだ。
「竜が懐いたからでしょうか」
「それも成果の一つです。でも、働いた時間と仕事への対価は、懐いたかどうかだけで決めるものではありません」
隊長は俺の手を見るように、少し目を下げた。
「シグが水を飲み、眠れるようになったことを書きます。あなたが夜に呼ばれて起きた時間もきちんと記します」
俺は返事をしようとして、言葉が出なかった。
出ないまま、頷いた。
隊長は急かさず、確認したいことを一つずつ聞いた。いつから働いていたか。誰の指示で夜番をしたか。今の寝床はどうか。分からないところは分からないと答えた。それでも話は止まらなかった。
◇
部屋を出たあと、俺は掌を見た。
朝、竜の額が載ったところは、もう乾いている。だが重みは残っている気がする。
俺の手を必要とするものがいる。
そのことは、馬の世話をしていたころから、きっと変わっていない。変わったのは、それを見て、俺の名前で話す人がいることだ。
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