第11話 その手を止めてください
聞き覚えのある声が、門の向こうからする。
「竜使いのおっさんって、どこだ」
俺は濡れた布を絞る手を止めた。
ラウルがいる。第三馬厩で見たときと同じ、磨いた長靴に細い剣。隣には若い騎士が二人いて、何か面白いものを見に来たような顔をしている。
俺は布を桶へ置いた。
「何かご用でしょうか」
「おまえ、本当にここにいたのか。馬に飽きたら竜とは、出世したな」
俺は返事を探した。飽きて来たわけではない。異動の紙を渡されて来た。その説明をしても、ラウルが聞きたい話ではない気がした。
彼は俺の服を見た。袖にはトトの餌が少しついている。朝、拭いてから替えるのを後回しにしたものだ。
「匂いは変わらんな」
隣の騎士が笑った。
俺は袖を内側へ折った。笑われると分かっていても、汚れたまま立つよりはいいと思った。そこへミナが来て、洗った布の籠を台へ置いた。
「ダグさん、手当ての布はこの段へお願いします」
彼女の声は普段どおりだ。俺は助かった気がして、棚を開けた。
ラウルが顔をしかめた。
「ダグさん、ねえ」
ミナは彼を見たが、言い返さなかった。代わりに籠を通路から引き、俺へ手当ての分を渡した。
俺は受け取った。布は乾いていて、きれいに畳まれている。今朝も使うものだ。名前をどう呼ばれたかより、まず置き場所へ戻す必要がある。
棚を閉めるとき、俺は栗毛のことを聞いた。
「左の奥歯を診てもらえましたか」
「何だよ、急に」
「乗っておられる栗毛のことです。餌を残していたので気になっていました」
「最近は食ってる。獣医が来たとは聞いた」
俺は息を吐いた。引き継ぎの紙は、少なくともその箇所は読まれたらしい。ラウルが不思議そうに俺を見た。
「もうおまえの仕事じゃないだろ」
「はい。食べているなら、よかったです」
それ以上聞くと、機嫌を損ねそうだった。けれど聞けたことは嬉しかった。笑われた朝の中にも、馬が餌を食べているという確かなものがひとつあった。
ラウルたちはシグを見に来たらしい。
隊長は別棟で打ち合わせ中で、門番には短い見学の許可をもらっていた。ただし柵の外から、という条件だった。
俺は立ってよい場所を示した。
「この線から先は、竜が移る道です。空けてください」
「線一本で仕切りか。ずいぶん気楽な厩舎だな」
床には、ガランが引いた白い線がある。柵がないのではない。人が扉を開け閉めするため、その前を空ける目印だ。
俺は説明し、ラウルが頷くのを待った。彼はシグの方を見たまま、片手を振った。
黒竜は奥で横になっている。顔を上げ、こちらを見る。昨日までより人が多いので、俺は近づかず、水の減りだけを遠くから確かめた。
「懐いてるところを見せろよ」
「今は休んでいます」
「ちょっと呼べばいいだろ。頭を下げるんだってな」
俺は青い刷毛を袋へ入れたままにした。
「毎回同じようにしてくれるわけではありません」
「何だ。話を大きくしただけか」
ラウルが柵へ近づいた。
俺は半歩横へ動いた。邪魔をするつもりと分かる位置だ。胸が早く打ち始めた。
「そこから見ていただくようお願いします」
彼は俺を見下ろした。背が特別高いわけではないが、顎を上げて話す癖がある。
「馬糞のおっさんが、騎士に指図か」
背中で、ミナの籠が小さく鳴った。
俺は口を開きかけて閉じた。何と呼ばれても、自分の仕事をすればいい。そうしてきた。今もそうすれば、話は早く終わるかもしれない。
だがラウルの手が、腰の手袋を抜いた。
革を手のひらへ打ちつける、乾いた音がする。
シグが立つ。
尾が床を払い、柵の柱へ当たった。ラウルの隣の二人が一歩下がる。ラウルだけが、その場に残った。
「ほら、起きた。こっちへ来い」
もう一度手袋が上がった。
「その手を止めてください」
自分の声が、思ったより低く出た。
ラウルの手が空中で止まる。
俺は柵へ背を向けず、横へ立った。シグの肩が上がっている。鼻先はラウルの手を追い、喉の奥が鳴る。
「音を出さずに、ゆっくり二歩下がってください」
「おまえ」
「先に下がってください」
俺は同じ言葉をもう一度言った。
ラウルの顔が赤くなった。けれど竜の爪が床を掻く音を聞いて、足が動いた。隣の騎士が彼の肘へ手を添え、二人で白線の外へ出る。
俺も距離を取った。竜へ近づいて宥めるのではなく、人の塊を小さくする。ミナはすでに棚の陰へ退いている。
シグはしばらく立っていた。それから鼻を鳴らし、奥へ戻った。肩を壁へ押しつけず、十分離れた場所で伏せる。
俺はそれを見届けるまで、手を袋へ入れなかった。
「何をしているんです」
隊長が来た。
ガランが呼びに行ってくれていた。彼は隊長の後ろで杖をつき、何も言わず扉の前へ立った。
ラウルが先に口を開いた。
「見学していただけです。ここの世話係が妙に大げさなんです」
隊長は彼の手袋を見た。それから俺へ目を向けた。
「起きたことを順に話してください」
俺は話した。白線の説明をしたこと。柵へ近づいたこと。手袋を打った音でシグが立ったこと。二度目を止め、下がってもらったこと。
馬糞と呼ばれたことは、入れなかった。竜が立った原因には関係がないと思ったからだ。
ミナが一歩出た。
「説明は最初にありました。音を出す前にも、そこで見るように言っていました」
隊長は頷いた。
「ラウル、見学はここまでです。次は必ず私か当番の指示に従ってください。シグの回復中に、このような刺激は認めません」
「騎士が竜を見ただけで」
「見たことを問題にしていません。止めるよう言われた後の行動です」
隊長は声を大きくしなかった。ラウルは言葉を切った。
ラウルの後ろで、一人は目を逸らし、もう一人はシグを見ていた。俺には、どちらが何を考えているか分からない。笑っていた顔が曇ったからといって、俺の気持ちを分かってくれたことにはならない。それでも、三人とも今は白線の外にいる。守ってもらいたかった場所は、空いている。
連れの騎士の一人が、小さく頭を下げた。
「こちらも止めるのが遅れました。失礼しました」
俺は頷いた。ラウルは俺を見ず、手袋を腰へ戻した。
門へ向かう背中が、第三馬厩で見送った朝と重なった。そのときは馬を渡し、俺は黙って戻った。今日は、竜の前で手を止めてもらった。
彼が変わったわけではない。それでも同じ朝ではなかった。
隊長は、俺を引き止める前にシグの様子を見た。竜が水を飲み、尾を床へ落ち着けたのを確かめてから、口を開いた。
「あなたが何度も耐えなくて済むよう、見学を受ける当番には、指示を守らない人には帰ってもらってよいと伝えます」
「俺は、あの方たちを追い返したかったわけでは」
「ええ。見てもらう条件を守ってほしかった。それで合っています」
俺は頷いた。嫌いな人間だから駄目だと言ったのではない。その違いを、説明しきる前に分かってもらえた。
隊長は帰り際、ミナにも礼を言った。見ていたことを話すのは簡単ではない。ミナは両手を前掛けへ押し当て、少し照れたように頭を下げた。
◇
隊長が帰ったあと、俺は水場で布を絞った。
強く捻りすぎて、指の付け根が痛んだ。ゆっくり戻すと、ミナが空桶を差し出した。
「あの呼び方をされたことは、報告しなくてよかったんですか」
何のことか聞き返す必要はない。
「昔からああ呼ばれていたので、わざわざ報告することでもないと思いました」
ミナは桶を置いた。
「昔からなら、いいんですか」
俺は布を見た。よくない、とすぐ答えられなかった。慣れたことを悪いと呼ぶと、我慢してきた時間をどこへ置けばいいのか分からない。
「いいとは思いません」
やっと言うと、ミナは頷いた。
「私はあの呼び方は使いません」
それ以上、俺に何かを言わせようとはしなかった。新しい布を棚へ入れ、午後の洗濯へ戻っていった。
ガランが水場へ来た。台の脚を確かめるふりをして、俺の隣へ腰を下ろす。
「竜を止めるより、人を止める方が厄介な日もある」
「声が震えていたかもしれません」
「止まれと言う声はちゃんと聞こえた」
ガランはそれだけ言って、道具を取り出した。俺も布を絞る手を緩めた。
◇
夕方、シグに青い刷毛を見せると、竜はいつもより長く匂いを嗅いだ。朝に大きな音があったことを、まだ覚えているのかもしれない。
俺は待った。
鼻の横が毛先へ触れる。
短く撫で、いったん引く。シグがもう一度寄ってきた。肩に力が入っていないことを確かめ、もう一度。
俺を何と呼ぶかは、相手の口から出ることだ。すぐに全部を変えられるとは思わない。
だが、この竜の前でしてよいことは、ここで決められる。
シグの瞼が下りる。俺は今日、自分の手を必要なところへ使えたのだと思った。




