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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第6話 今日は地面にいる

 赤い布を結んだ鞍を、見知らぬ騎士が持ち上げようとしている。


「それは使用を止めています」


 俺が声をかけると、騎士は手を離し、こちらを見た。襟元に銀の飾りが二つある。俺には階級の細かな違いは分からないが、隊長に命令を届けに来る人だとは分かった。


「代わりの鞍はないのか」


「まだありません。竜医からは、鞍を合わせ直すまでは使えないと言われています」


「今日、上空の巡回に一頭必要なんだ。北で余っていると聞いた」


 余っている。


 シグは囲いの奥で水を飲んでいる。肩の赤みは昨日より落ち着いて見える。それでも左へ身体を曲げると、首が先に逃げる。


「飛べないからここにいるんです」


「おまえは世話係だな。隊長を呼べ」


 俺は頷いて人を呼びにやった。騎士は鞍を見下ろす。布の下の芯は外されている。それを知らなければ、ただ使わず置いてあるように見えるのだろう。


 隊長が来るまで、俺は鞍の前に立っていた。


 足をどかせと言われたらどうするか、考えた。言い争う言葉など持っていない。けれど赤い布を外してはいけないことは、昨日みんなで決めていた。


 イリス隊長は歩きながら書類を受け取った。


「巡回の増便ですね。シグは診療中です。昨日、報告を提出しました」


「まだ上には回っていないようだ。短い飛行でいい。天気もよい」


「天気ではなく、肩の状態の問題です」


 隊長の声は静かだ。俺はその横で、手帳を握っている。


 騎士が俺へ視線を移した。


「さっきは普通に歩いていたぞ」


 普通に見えるなら、紙だけでは足りないのかもしれない。


「歩くときと、重さを載せるときは違います」


 口に出すと、二人が俺を見た。俺は舌が乾くのを感じた。


「ここが肩に当たっていました。短い時間でも当たる場所は同じですから、今日は載せないでください」


 それ以上の言葉は出なかった。


 騎士は俺の手元を見た。手帳の端が汗で暗くなっている。隊長が一歩前へ出た。


「運用の判断は私が負います。巡回は別の部隊へ振り替えるよう連絡します。こちらは回復後のための地上訓練を行います」


 騎士は不満そうだったが、鞍へはもう手を出さなかった。


「地上で何ができる」


「ご覧になりますか」


 隊長が問い返すと、彼は少し迷い、昼までならと答えた。



 俺は訓練のことを知らなかった。


 隊長が外の囲いへ立ち、合図用の短い布を持つ。ガランは門の掛け金を確かめ、歩く道から小石を拾った。俺は水桶を運び、リーネの指示にあった歩行の量を隊長と確認した。


「速く歩かせる必要はありません。向きを変えるときに、嫌がらないかを見たいです」


 俺が言うと、隊長は頷いた。


「では、私が合図を出します。ダグさんは肩と足を見てください。ガランは柵をお願いします」


 俺の仕事が、先に決まった。


 第三馬厩の訓練場では、馬を渡せば柵の外だった。騎士たちが走り、俺は水と布を用意して待つ。それが嫌だったわけではない。ただ今日は、始める前に俺の見る場所が必要だと言われた。


 シグは戸口で止まった。


 外の光が眩しいのか、鼻を少し上げている。隊長が布を動かしたが、前足は出ない。


 見学の騎士が喉を鳴らした。


 俺は地面を見た。戸口の先は乾いているが、内側に水の筋が残っている。昨日、掃除のとき流した水が溜まったのだろう。竜の足からすれば薄いものかもしれないが、左へ体重をかけたくない今は気になるのかもしれない。


「砂を少し入れてもいいですか」


 隊長は合図を止めた。シグを後ろへ無理に押さず、その場で待つ。俺は柵の外から長い柄で砂をならした。


 隊長がもう一度、同じ合図を出す。


 黒い前足が出る。


 土へ下りた爪が、低い音を立てる。シグは一度首を振り、それから広い囲いを見回した。


「よし」


 隊長の声に、竜の顔が向く。


 彼女は肩より前へ出すぎず、歩く。竜は二歩進み、立ち止まる。布が止まる。隊長も止まる。シグが再び歩けば、彼女も動く。


 見学の騎士が腕を組み直した。


「命令に従っているようには見えんが」


「身体の状態に合わせて、合図の出し方を確かめ直しています」


 隊長は振り向かず答えた。


 俺は左の足を見続ける。まっすぐ歩くときより、曲がる前に慎重になる。隊長が小さく内側へ曲がろうとしたので、俺は手を上げた。


「もう少し大きく回ってください」


 彼女はすぐ弧を広げた。シグの首が逃げず、足が順に出た。


 その瞬間、隊長が俺を見た。笑う余裕はなさそうだが、目が確かに頷いた。


 ひと回りしたところで、隊長は訓練を終えた。


 見学の騎士が意外そうに言う。


「もう終わりか」


「決めた量まで歩いたので、ここで終わりにします。続きは戻ってから様子を見て考えます」


 シグは柵の近くにある水桶へ行った。首を入れやすい位置を、朝のうちに俺が確かめていた。水を飲むと、大きな胸がゆっくり上下する。


 俺は囲いの外から汗の量と呼吸を見た。竜の汗は馬と同じではないので、見慣れないものを勝手に決めつけない。熱がこもっていないかは隊長にも聞いた。


「普段より落ち着いています」


 彼女が答えた。


 見学の騎士は水桶の前まで来ようとした。ガランが杖を横へ置いた。


「ここから見てください。竜が戻る道は空けておいてください」


「私は騎士だぞ」


「竜の通り道です。俺も空けます」


 ガランが先に一歩下がった。騎士はその後へ立った。


 シグは二人を見て、鼻を鳴らした。それ以上は何もしなかった。奥の戸が開くと、自分から歩き始める。


 隊長が慌てず横につき、同じ速さで戻った。


 柵が閉まると、見学の騎士は腕をほどいた。


「前に来たときは、戸を開けるだけで壁を蹴っていた」


 俺は床の砂を見た。今日はそこへ足跡がついている。


「怖いものが減ったのかもしれません。まだ何を一番怖がっていたのかは分かりませんが」


「まだ分からんのか」


「はい」


 騎士は少しだけ息を吐いた。


「飛べるようになったら知らせてくれ。今日の報告には、使用中止と地上での状態確認を書いておく」


 隊長が礼を言った。彼は返事をし、門へ向かった。


 鞍の赤い布は、外されずに済んだ。



 昼の片づけで、俺は何度か縄を結び損ねた。


 指先がまだ落ち着かない。さっきは平気な顔で立っていたつもりだが、身体はそうでもなかったらしい。


 ガランが隣へ木箱を置いた。


「座れ。結び目は逃げん」


 俺は腰を下ろした。掌を膝へ置くと、かすかな震えが伝わってくる。


「さっきは余計なことを言ってしまったかもしれません」


「何を言った」


「今日は載せないでくださいと言いました」


「昨日の竜医と同じだ。いいだろう」


「俺が言っていいことだったのか、迷っています」


 ガランは縄の端を拾い、俺へ渡した。


「鞍のことを聞かれたのがおまえなら、おまえの知ってることを言えばいい。飛ぶ飛ばないの書類は隊長が持つ。全部をひとりで抱えんでも、口は使える」


 俺は縄を受け取った。今度は指が順番を思い出した。



 食堂へ行くと、隊長は巡回の振り替え先へ手紙を書いている。俺が入ったのに気づき、筆を置いた。


「先ほどは止めてくれて助かりました」


「隊長がいなければ、うまく話せなかったです」


「私が来るまでの時間を作ってくれました」


 彼女は机の端へ椀を寄せた。俺の座るところができた。


「次に同じことがあれば、使用中止の札を見せてください。あなたひとりが説明して耐える形にはしません」



 午後、ガランが小さな板を削った。隊長が、竜医の指示により使用中止、と書いた。俺は赤い布の結び目を締め直し、その板を鞍へ掛けた。


 板を掛ける高さを決めるとき、ガランは俺に端を持たせた。


「上すぎると持ち上げる奴の目に入らん。下すぎると布に隠れる」


 俺たちは二度位置を変えた。隊長が実際に鞍を持つ姿勢を取り、手より先に文字が見えるところで頷いた。止めるための札ひとつにも、置く場所がある。



 夕方、朝の騎士が残していった命令書を、隊長が別の紙と一緒に綴じた。飛行できなかった日の記録になるらしい。俺は失敗の紙に見えないかと尋ねた。


「できることを確かめて、別の部隊へ頼みました。巡回も行われます。何を判断したかが分かればいいんです」


 彼女は紙の角を揃えた。俺が砂をならしたことまで短く書かれていた。地面の小さな段差も、今日の仕事の中に残った。


 黒い文字は遠くからでも読める。


 明日また誰かが持ち上げようとしても、今日より少し早く伝わるだろう。


 俺は余った紐を道具袋へ戻した。袋の中には、前の厩舎から持ってきたものしかない。それでも今日、この紐は、あそこで使ったのとは違う仕事をした。使う人間も、結び方も同じまま、守れるものが少し変わった。


 厩舎の奥で、シグが長く息を吐いた。地面にいる一日にも、やることはあった。そして今日は、その一日を守れた。


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