第6話 今日は地面にいる
赤い布を結んだ鞍を、見知らぬ騎士が持ち上げようとしている。
「それは使用を止めています」
俺が声をかけると、騎士は手を離し、こちらを見た。襟元に銀の飾りが二つある。俺には階級の細かな違いは分からないが、隊長に命令を届けに来る人だとは分かった。
「代わりの鞍はないのか」
「まだありません。竜医からは、鞍を合わせ直すまでは使えないと言われています」
「今日、上空の巡回に一頭必要なんだ。北で余っていると聞いた」
余っている。
シグは囲いの奥で水を飲んでいる。肩の赤みは昨日より落ち着いて見える。それでも左へ身体を曲げると、首が先に逃げる。
「飛べないからここにいるんです」
「おまえは世話係だな。隊長を呼べ」
俺は頷いて人を呼びにやった。騎士は鞍を見下ろす。布の下の芯は外されている。それを知らなければ、ただ使わず置いてあるように見えるのだろう。
隊長が来るまで、俺は鞍の前に立っていた。
足をどかせと言われたらどうするか、考えた。言い争う言葉など持っていない。けれど赤い布を外してはいけないことは、昨日みんなで決めていた。
イリス隊長は歩きながら書類を受け取った。
「巡回の増便ですね。シグは診療中です。昨日、報告を提出しました」
「まだ上には回っていないようだ。短い飛行でいい。天気もよい」
「天気ではなく、肩の状態の問題です」
隊長の声は静かだ。俺はその横で、手帳を握っている。
騎士が俺へ視線を移した。
「さっきは普通に歩いていたぞ」
普通に見えるなら、紙だけでは足りないのかもしれない。
「歩くときと、重さを載せるときは違います」
口に出すと、二人が俺を見た。俺は舌が乾くのを感じた。
「ここが肩に当たっていました。短い時間でも当たる場所は同じですから、今日は載せないでください」
それ以上の言葉は出なかった。
騎士は俺の手元を見た。手帳の端が汗で暗くなっている。隊長が一歩前へ出た。
「運用の判断は私が負います。巡回は別の部隊へ振り替えるよう連絡します。こちらは回復後のための地上訓練を行います」
騎士は不満そうだったが、鞍へはもう手を出さなかった。
「地上で何ができる」
「ご覧になりますか」
隊長が問い返すと、彼は少し迷い、昼までならと答えた。
◇
俺は訓練のことを知らなかった。
隊長が外の囲いへ立ち、合図用の短い布を持つ。ガランは門の掛け金を確かめ、歩く道から小石を拾った。俺は水桶を運び、リーネの指示にあった歩行の量を隊長と確認した。
「速く歩かせる必要はありません。向きを変えるときに、嫌がらないかを見たいです」
俺が言うと、隊長は頷いた。
「では、私が合図を出します。ダグさんは肩と足を見てください。ガランは柵をお願いします」
俺の仕事が、先に決まった。
第三馬厩の訓練場では、馬を渡せば柵の外だった。騎士たちが走り、俺は水と布を用意して待つ。それが嫌だったわけではない。ただ今日は、始める前に俺の見る場所が必要だと言われた。
シグは戸口で止まった。
外の光が眩しいのか、鼻を少し上げている。隊長が布を動かしたが、前足は出ない。
見学の騎士が喉を鳴らした。
俺は地面を見た。戸口の先は乾いているが、内側に水の筋が残っている。昨日、掃除のとき流した水が溜まったのだろう。竜の足からすれば薄いものかもしれないが、左へ体重をかけたくない今は気になるのかもしれない。
「砂を少し入れてもいいですか」
隊長は合図を止めた。シグを後ろへ無理に押さず、その場で待つ。俺は柵の外から長い柄で砂をならした。
隊長がもう一度、同じ合図を出す。
黒い前足が出る。
土へ下りた爪が、低い音を立てる。シグは一度首を振り、それから広い囲いを見回した。
「よし」
隊長の声に、竜の顔が向く。
彼女は肩より前へ出すぎず、歩く。竜は二歩進み、立ち止まる。布が止まる。隊長も止まる。シグが再び歩けば、彼女も動く。
見学の騎士が腕を組み直した。
「命令に従っているようには見えんが」
「身体の状態に合わせて、合図の出し方を確かめ直しています」
隊長は振り向かず答えた。
俺は左の足を見続ける。まっすぐ歩くときより、曲がる前に慎重になる。隊長が小さく内側へ曲がろうとしたので、俺は手を上げた。
「もう少し大きく回ってください」
彼女はすぐ弧を広げた。シグの首が逃げず、足が順に出た。
その瞬間、隊長が俺を見た。笑う余裕はなさそうだが、目が確かに頷いた。
ひと回りしたところで、隊長は訓練を終えた。
見学の騎士が意外そうに言う。
「もう終わりか」
「決めた量まで歩いたので、ここで終わりにします。続きは戻ってから様子を見て考えます」
シグは柵の近くにある水桶へ行った。首を入れやすい位置を、朝のうちに俺が確かめていた。水を飲むと、大きな胸がゆっくり上下する。
俺は囲いの外から汗の量と呼吸を見た。竜の汗は馬と同じではないので、見慣れないものを勝手に決めつけない。熱がこもっていないかは隊長にも聞いた。
「普段より落ち着いています」
彼女が答えた。
見学の騎士は水桶の前まで来ようとした。ガランが杖を横へ置いた。
「ここから見てください。竜が戻る道は空けておいてください」
「私は騎士だぞ」
「竜の通り道です。俺も空けます」
ガランが先に一歩下がった。騎士はその後へ立った。
シグは二人を見て、鼻を鳴らした。それ以上は何もしなかった。奥の戸が開くと、自分から歩き始める。
隊長が慌てず横につき、同じ速さで戻った。
柵が閉まると、見学の騎士は腕をほどいた。
「前に来たときは、戸を開けるだけで壁を蹴っていた」
俺は床の砂を見た。今日はそこへ足跡がついている。
「怖いものが減ったのかもしれません。まだ何を一番怖がっていたのかは分かりませんが」
「まだ分からんのか」
「はい」
騎士は少しだけ息を吐いた。
「飛べるようになったら知らせてくれ。今日の報告には、使用中止と地上での状態確認を書いておく」
隊長が礼を言った。彼は返事をし、門へ向かった。
鞍の赤い布は、外されずに済んだ。
◇
昼の片づけで、俺は何度か縄を結び損ねた。
指先がまだ落ち着かない。さっきは平気な顔で立っていたつもりだが、身体はそうでもなかったらしい。
ガランが隣へ木箱を置いた。
「座れ。結び目は逃げん」
俺は腰を下ろした。掌を膝へ置くと、かすかな震えが伝わってくる。
「さっきは余計なことを言ってしまったかもしれません」
「何を言った」
「今日は載せないでくださいと言いました」
「昨日の竜医と同じだ。いいだろう」
「俺が言っていいことだったのか、迷っています」
ガランは縄の端を拾い、俺へ渡した。
「鞍のことを聞かれたのがおまえなら、おまえの知ってることを言えばいい。飛ぶ飛ばないの書類は隊長が持つ。全部をひとりで抱えんでも、口は使える」
俺は縄を受け取った。今度は指が順番を思い出した。
◇
食堂へ行くと、隊長は巡回の振り替え先へ手紙を書いている。俺が入ったのに気づき、筆を置いた。
「先ほどは止めてくれて助かりました」
「隊長がいなければ、うまく話せなかったです」
「私が来るまでの時間を作ってくれました」
彼女は机の端へ椀を寄せた。俺の座るところができた。
「次に同じことがあれば、使用中止の札を見せてください。あなたひとりが説明して耐える形にはしません」
◇
午後、ガランが小さな板を削った。隊長が、竜医の指示により使用中止、と書いた。俺は赤い布の結び目を締め直し、その板を鞍へ掛けた。
板を掛ける高さを決めるとき、ガランは俺に端を持たせた。
「上すぎると持ち上げる奴の目に入らん。下すぎると布に隠れる」
俺たちは二度位置を変えた。隊長が実際に鞍を持つ姿勢を取り、手より先に文字が見えるところで頷いた。止めるための札ひとつにも、置く場所がある。
◇
夕方、朝の騎士が残していった命令書を、隊長が別の紙と一緒に綴じた。飛行できなかった日の記録になるらしい。俺は失敗の紙に見えないかと尋ねた。
「できることを確かめて、別の部隊へ頼みました。巡回も行われます。何を判断したかが分かればいいんです」
彼女は紙の角を揃えた。俺が砂をならしたことまで短く書かれていた。地面の小さな段差も、今日の仕事の中に残った。
黒い文字は遠くからでも読める。
明日また誰かが持ち上げようとしても、今日より少し早く伝わるだろう。
俺は余った紐を道具袋へ戻した。袋の中には、前の厩舎から持ってきたものしかない。それでも今日、この紐は、あそこで使ったのとは違う仕事をした。使う人間も、結び方も同じまま、守れるものが少し変わった。
厩舎の奥で、シグが長く息を吐いた。地面にいる一日にも、やることはあった。そして今日は、その一日を守れた。




