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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第5話 外された鞍

 竜医の鞄は、俺の道具袋より小さい。


 もっと大きな鋏や、太い鎖を運んでくるのかと思っていたので、俺は思わず手元を見た。革の鞄を持った女は、それに気づくと口の端を上げた。


「道具で驚かせる前に、顔を見たいの。リーネです」


「ダグといいます。昨夜は、連絡をしてしまって」


「して正解。息が荒い理由はひとつではないから。今朝の様子を教えて」


 謝る続きを言う前に、質問が来た。


 俺は夜番から受け取った紙と、自分の手帳を並べた。真夜中から明け方にかけては眠れていた。水は飲み、朝の餌も半分以上食べた。肩を壁へ寄せる動きは、食後に一度あった。


 リーネは俺の紙をじっと見たあと、夜番の紙にも目を通した。


「触れたのは顔だけ?」


「はい。青い刷毛で鼻の横を撫でました。肩には触っていません」


「よかった。痒がっているように見えても、強く擦られるとつらいことがある」


 俺は頷いた。正しかったと褒められるより、触らなくてよかった理由が分かる方がありがたい。


 イリス隊長が装具置き場の鍵を持ってきた。


「診察の前に、鞍も見ますか」


「先に普段どおり歩くところを見せてください。よく見せようとして、いつもより動かさないでね」


 リーネは柵の手前に椅子を置いた。竜の頭の正面を外した位置だ。


 シグは見知らぬ人間の匂いを確かめるように、首を伸ばした。


 俺は水桶を置く位置へ行き、空の手を見せた。触ろうとはしない。隊長がいつもの低い声をかけ、竜は隣の囲いへゆっくり移動した。


 左前足が出るとき、首が右へ逃げる。


 リーネの目がそこへ止まったが、すぐ結論を口にしなかった。反対側からも見て、床が滑っていないか靴底で確かめ、それから隊長に鞍を持ってくるよう頼んだ。


 鞍は二人がかりで台へ載せられた。馬のものとは違い、翼の付け根を避ける大きな形をしている。厚い当て布は、片側だけ硬く潰れたままだ。


 俺が手を伸ばすと、リーネが止めた。


「順番に見ましょう。先に使っていた向きを教えて」


 隊長が前後を示した。ガランが下の支えを添える。リーネは左右の厚さを指で押し比べ、縁を裏返した。


 折れた芯の端が、布の中へ食い込んでいる。


 外から見ただけでは、分からない。強く体重がかかると、左側だけ硬い線が浮く。


 隊長の顔から血の気が引いた。


「毎回、締め具は確認していました」


「締め具ではなく、中の傷みが問題なの。交換の記録はありますか」


 ガランが棚から薄い帳面を出した。当て布は替えていたが、芯は以前のままだった。飛べなくなってからは使わない日も増え、見た目の摩耗はかえって少なくなっていた。


 リーネは帳面を閉じた。


「これが原因のすべてとはまだ言えません。痛みを避ける動きがあるので、肩を確かめてから別の場所も見ます」


 彼女は隊長へ安全な保定の方法を確認した。力で押さえつけるのではなく、竜が慣れている囲いと合図を使う。俺は頼まれた位置に立ち、シグが顔を向けられる場所を空けた。


 シグが青い刷毛を見た。


 俺が持ち上げると、鼻先がこちらへ来た。リーネはそれを待ち、隊長と呼吸を合わせて左肩を見た。


 鱗の一部が乱れ、隙間の皮膚が赤くなっている。リーネが近づけた手に、竜の筋肉が跳ねる。


「ここまで。いったん離れます」


 全員が手を引いた。シグの尾が一度床を打ち、それから止まった。


 俺は刷毛を動かさず、息を吐いた。竜がまた鼻を寄せてきたので、短く撫でた。


 リーネは一度で全部を済ませようとしなかった。間を置き、姿勢を変え、必要なところだけ確かめる。俺には長く感じられるが、竜は囲いを壊そうとはしない。


 診察が終わるころ、朝の光が床を横切っている。


「肩に擦れと炎症があります。深い傷ではないけれど、今の鞍で飛ばすことはできません」


 リーネははっきり言った。


 隊長は目を閉じ、開いた。


「分かりました。使用を止めます」


「皮膚の手当てはこちらで指示を出します。歩く量も抑えめから始めてください。食欲や熱、腫れが変わったら呼んで。治ったかどうかを懐き方だけで決めないでくださいね」


 最後の言葉は俺にも向けられていた。


 俺は頷いた。昨夜、顔を撫でさせてもらった嬉しさが、肩のことまで良くなったような気分にさせかけていた。鼻先を寄せることと、痛くないことは別だ。


「壁を擦っているのを見たときに、もっと早く知らせればよかったです」


「最初に見たのは昨日でしょう。きちんと記録して知らせてくれました。それでよかったんです」


 リーネは俺の手帳を返した。


「次は、いつ擦ったかだけでなく、その前に何をしたかも書いてください。寝起きなのか、食後なのか、移動した後なのかが分かると考えやすいので」


 俺は頁に線を一本引いた。時刻の横へ、前にしたこと、と書いた。


 ガランは鞍の帯を外し、赤い布を結んだ。使用しない印だ。棚へ戻すと誰かが間違えるかもしれないので、修繕台の下へ置くことになった。


「俺が運びます」


 俺が言うと、ガランは顎をしゃくった。


「二人でな。腰まで傷めたら、明日の水桶は誰が動かす」


 隊長が反対側を持った。俺たちは重さを確かめ、声を合わせて下ろした。鞍の底が板へ当たり、低い音がした。


 それで、今日飛ぶ道具がひとつ使えなくなった。


 リーネが帰る前に、俺たちは手当てに使う布の場所を決めた。水桶を拭く布と混ざらないよう、棚を一段空ける。棚板には古い油が染みていたので、洗った板を敷いた。


「薬を多く塗れば早く治る、とは思わないでね」


 リーネは分量を見せ、俺が同じ量を取るのを確かめた。俺の指先は細かな作業には太すぎる気がしたが、小さな匙を使えば揃った。


「これなら誰が塗っても量を揃えられます」


「ええ。あなたが眠っている間も、ほかの人が同じようにできます」


 俺は匙を布へ包もうとして、もう一度止まった。これを自分の袋へ入れたら、夜番が探すことになる。空けた棚へ戻すと、リーネがそこへ置き場所を書いた紙を貼った。


 俺は夜番を呼び、使った布を分ける桶を一緒に置いた。説明をしてみると、自分がまだ曖昧に覚えている箇所が一つあった。リーネがいるうちに聞き直せてよかった。



 昼過ぎ、隊長は書類を持って厩舎へ来た。


 上へ報告する紙だという。俺は鞍のことをもっと聞かれるのかと思い、手を洗ってから近づいた。


「診察を受けた理由と、使用停止の判断を書きました。ダグさんの観察について、ここを確認してもらえますか」


 紙の中ほどに、俺の名前がある。


 ダグが足跡の偏りと壁面の擦れを発見。夜間の様子を記録し、竜医へ連絡。


 俺は文字を指で追った。そんな立派なことをしたのかと、自分の知っている昨日と紙の上を見比べたくなった。


「夜の記録は、夜番の人も書いてくれました」


「追記します。ほかにもありますか」


「ガランさんが、前の壁は違ったと教えてくれました」


「それも書き足します」


 隊長は余白に二つ書いた。俺の名前は消さなかった。


「俺の名前は書かなくてもいいんですが」


「それでは、どうして診察につながったのか分からなくなります」


 隊長の声は叱るものではない。ただ、紙に必要なことを話している声だ。


 俺は手を下ろした。


「書いてあることは間違っていません」


「ありがとうございます」


 隊長は書類を畳んだ。そのまま帰るのかと思ったら、俺の正面で足を揃えた。


「ダグさん、シグの不調に気づいて知らせてくださって、ありがとうございました」


 頭が下がった。


 俺は反射的にもっと深く下げそうになった。だが濡れた床が目に入り、膝が止まった。隊長の肩が、俺の前にある。鎧を着ていなくても騎士の肩だ。


「いえ、俺はまだ竜のことをよく知らないんです」


「だからこそ、分からないと伝えてくれたのでしょう。私が見落としていたことを見せてもらいました」


 顔が上がる。


 何と答えればいいのか分からない。謝るには、彼女が言った礼の置き場所をなくしてしまう気がした。


 俺は両手を前で重ねた。


「明日も見ます」


 隊長は頷いた。


「お願いします」



 夕方のシグは、昨日より壁から離れて伏せた。肩の手当てを受けたので眠いのか、目を開けてもすぐ閉じる。青い刷毛を見せると、鼻先だけが少し上がる。


 俺は作業口の前で立ち止まった。


「今日は休もうな」


 刷毛をしまっても、竜は怒らなかった。大きな息が抜け、鼻先が床へ戻る。


 修繕台の下には、赤い布をつけた鞍が置かれている。あれを使わないと決めるために、俺の小さな字が必要だった。


 手帳を開くと、今朝引いた線が少し曲がっていた。俺はその横へ、診察のあと、壁に寄らずに眠る、と書いた。


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