第5話 外された鞍
竜医の鞄は、俺の道具袋より小さい。
もっと大きな鋏や、太い鎖を運んでくるのかと思っていたので、俺は思わず手元を見た。革の鞄を持った女は、それに気づくと口の端を上げた。
「道具で驚かせる前に、顔を見たいの。リーネです」
「ダグといいます。昨夜は、連絡をしてしまって」
「して正解。息が荒い理由はひとつではないから。今朝の様子を教えて」
謝る続きを言う前に、質問が来た。
俺は夜番から受け取った紙と、自分の手帳を並べた。真夜中から明け方にかけては眠れていた。水は飲み、朝の餌も半分以上食べた。肩を壁へ寄せる動きは、食後に一度あった。
リーネは俺の紙をじっと見たあと、夜番の紙にも目を通した。
「触れたのは顔だけ?」
「はい。青い刷毛で鼻の横を撫でました。肩には触っていません」
「よかった。痒がっているように見えても、強く擦られるとつらいことがある」
俺は頷いた。正しかったと褒められるより、触らなくてよかった理由が分かる方がありがたい。
イリス隊長が装具置き場の鍵を持ってきた。
「診察の前に、鞍も見ますか」
「先に普段どおり歩くところを見せてください。よく見せようとして、いつもより動かさないでね」
リーネは柵の手前に椅子を置いた。竜の頭の正面を外した位置だ。
シグは見知らぬ人間の匂いを確かめるように、首を伸ばした。
俺は水桶を置く位置へ行き、空の手を見せた。触ろうとはしない。隊長がいつもの低い声をかけ、竜は隣の囲いへゆっくり移動した。
左前足が出るとき、首が右へ逃げる。
リーネの目がそこへ止まったが、すぐ結論を口にしなかった。反対側からも見て、床が滑っていないか靴底で確かめ、それから隊長に鞍を持ってくるよう頼んだ。
鞍は二人がかりで台へ載せられた。馬のものとは違い、翼の付け根を避ける大きな形をしている。厚い当て布は、片側だけ硬く潰れたままだ。
俺が手を伸ばすと、リーネが止めた。
「順番に見ましょう。先に使っていた向きを教えて」
隊長が前後を示した。ガランが下の支えを添える。リーネは左右の厚さを指で押し比べ、縁を裏返した。
折れた芯の端が、布の中へ食い込んでいる。
外から見ただけでは、分からない。強く体重がかかると、左側だけ硬い線が浮く。
隊長の顔から血の気が引いた。
「毎回、締め具は確認していました」
「締め具ではなく、中の傷みが問題なの。交換の記録はありますか」
ガランが棚から薄い帳面を出した。当て布は替えていたが、芯は以前のままだった。飛べなくなってからは使わない日も増え、見た目の摩耗はかえって少なくなっていた。
リーネは帳面を閉じた。
「これが原因のすべてとはまだ言えません。痛みを避ける動きがあるので、肩を確かめてから別の場所も見ます」
彼女は隊長へ安全な保定の方法を確認した。力で押さえつけるのではなく、竜が慣れている囲いと合図を使う。俺は頼まれた位置に立ち、シグが顔を向けられる場所を空けた。
シグが青い刷毛を見た。
俺が持ち上げると、鼻先がこちらへ来た。リーネはそれを待ち、隊長と呼吸を合わせて左肩を見た。
鱗の一部が乱れ、隙間の皮膚が赤くなっている。リーネが近づけた手に、竜の筋肉が跳ねる。
「ここまで。いったん離れます」
全員が手を引いた。シグの尾が一度床を打ち、それから止まった。
俺は刷毛を動かさず、息を吐いた。竜がまた鼻を寄せてきたので、短く撫でた。
リーネは一度で全部を済ませようとしなかった。間を置き、姿勢を変え、必要なところだけ確かめる。俺には長く感じられるが、竜は囲いを壊そうとはしない。
診察が終わるころ、朝の光が床を横切っている。
「肩に擦れと炎症があります。深い傷ではないけれど、今の鞍で飛ばすことはできません」
リーネははっきり言った。
隊長は目を閉じ、開いた。
「分かりました。使用を止めます」
「皮膚の手当てはこちらで指示を出します。歩く量も抑えめから始めてください。食欲や熱、腫れが変わったら呼んで。治ったかどうかを懐き方だけで決めないでくださいね」
最後の言葉は俺にも向けられていた。
俺は頷いた。昨夜、顔を撫でさせてもらった嬉しさが、肩のことまで良くなったような気分にさせかけていた。鼻先を寄せることと、痛くないことは別だ。
「壁を擦っているのを見たときに、もっと早く知らせればよかったです」
「最初に見たのは昨日でしょう。きちんと記録して知らせてくれました。それでよかったんです」
リーネは俺の手帳を返した。
「次は、いつ擦ったかだけでなく、その前に何をしたかも書いてください。寝起きなのか、食後なのか、移動した後なのかが分かると考えやすいので」
俺は頁に線を一本引いた。時刻の横へ、前にしたこと、と書いた。
ガランは鞍の帯を外し、赤い布を結んだ。使用しない印だ。棚へ戻すと誰かが間違えるかもしれないので、修繕台の下へ置くことになった。
「俺が運びます」
俺が言うと、ガランは顎をしゃくった。
「二人でな。腰まで傷めたら、明日の水桶は誰が動かす」
隊長が反対側を持った。俺たちは重さを確かめ、声を合わせて下ろした。鞍の底が板へ当たり、低い音がした。
それで、今日飛ぶ道具がひとつ使えなくなった。
リーネが帰る前に、俺たちは手当てに使う布の場所を決めた。水桶を拭く布と混ざらないよう、棚を一段空ける。棚板には古い油が染みていたので、洗った板を敷いた。
「薬を多く塗れば早く治る、とは思わないでね」
リーネは分量を見せ、俺が同じ量を取るのを確かめた。俺の指先は細かな作業には太すぎる気がしたが、小さな匙を使えば揃った。
「これなら誰が塗っても量を揃えられます」
「ええ。あなたが眠っている間も、ほかの人が同じようにできます」
俺は匙を布へ包もうとして、もう一度止まった。これを自分の袋へ入れたら、夜番が探すことになる。空けた棚へ戻すと、リーネがそこへ置き場所を書いた紙を貼った。
俺は夜番を呼び、使った布を分ける桶を一緒に置いた。説明をしてみると、自分がまだ曖昧に覚えている箇所が一つあった。リーネがいるうちに聞き直せてよかった。
◇
昼過ぎ、隊長は書類を持って厩舎へ来た。
上へ報告する紙だという。俺は鞍のことをもっと聞かれるのかと思い、手を洗ってから近づいた。
「診察を受けた理由と、使用停止の判断を書きました。ダグさんの観察について、ここを確認してもらえますか」
紙の中ほどに、俺の名前がある。
ダグが足跡の偏りと壁面の擦れを発見。夜間の様子を記録し、竜医へ連絡。
俺は文字を指で追った。そんな立派なことをしたのかと、自分の知っている昨日と紙の上を見比べたくなった。
「夜の記録は、夜番の人も書いてくれました」
「追記します。ほかにもありますか」
「ガランさんが、前の壁は違ったと教えてくれました」
「それも書き足します」
隊長は余白に二つ書いた。俺の名前は消さなかった。
「俺の名前は書かなくてもいいんですが」
「それでは、どうして診察につながったのか分からなくなります」
隊長の声は叱るものではない。ただ、紙に必要なことを話している声だ。
俺は手を下ろした。
「書いてあることは間違っていません」
「ありがとうございます」
隊長は書類を畳んだ。そのまま帰るのかと思ったら、俺の正面で足を揃えた。
「ダグさん、シグの不調に気づいて知らせてくださって、ありがとうございました」
頭が下がった。
俺は反射的にもっと深く下げそうになった。だが濡れた床が目に入り、膝が止まった。隊長の肩が、俺の前にある。鎧を着ていなくても騎士の肩だ。
「いえ、俺はまだ竜のことをよく知らないんです」
「だからこそ、分からないと伝えてくれたのでしょう。私が見落としていたことを見せてもらいました」
顔が上がる。
何と答えればいいのか分からない。謝るには、彼女が言った礼の置き場所をなくしてしまう気がした。
俺は両手を前で重ねた。
「明日も見ます」
隊長は頷いた。
「お願いします」
◇
夕方のシグは、昨日より壁から離れて伏せた。肩の手当てを受けたので眠いのか、目を開けてもすぐ閉じる。青い刷毛を見せると、鼻先だけが少し上がる。
俺は作業口の前で立ち止まった。
「今日は休もうな」
刷毛をしまっても、竜は怒らなかった。大きな息が抜け、鼻先が床へ戻る。
修繕台の下には、赤い布をつけた鞍が置かれている。あれを使わないと決めるために、俺の小さな字が必要だった。
手帳を開くと、今朝引いた線が少し曲がっていた。俺はその横へ、診察のあと、壁に寄らずに眠る、と書いた。




