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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第4話 青い刷毛と夜の息

 門前のパン屋は、車輪の片方へ平たい石を噛ませている。


 坂の途中なので、そうしないと荷車が動くらしい。俺は門を出ると、転がりかけた石を靴で押さえた。店主がこちらを振り向く。


「助かった。今日は地面が乾いて滑る」


 白い髭を短く刈った男だ。荷車の蓋を開けると、焼いた麦の匂いが流れてきた。俺は腹より先に懐の銅貨を確かめた。


「いちばん小さいパンをひとつください」


「固い方なら二つで同じ値だ。昨日焼いたやつだが」


 俺は並んだパンを見た。新しい丸パンは割れ目から柔らかそうな白いところが覗いている。その隣の平たいパンは耳が少し反り気味だ。


「固い方をお願いします」


「汁に浸すなら、こっちも悪くない。俺はハルだ。毎朝ここへ来る」


「ダグといいます」


「ああ、北へ来た人だな」


 俺は銅貨を渡しながら顔を上げた。もう噂になっているのかと身構える。


「門番に、新しく一人口が増えたと聞いた。明日は一個多く焼くか」


 ハルは紙へパンを包んだ。竜がどうしたとも、馬糞がどうしたとも言わなかった。一人口が増えた。俺はその一人として数えられたらしい。


「毎日は買えないかもしれません」


「買える日に買えばいい。パンは逃げん」


 俺は包みを胸へ寄せた。温かくはないが、麦の匂いはする。


 釣り銭を落とすと、ハルは荷車の下を覗いて拾ってくれた。たった一枚でも、俺には明日の食べ物だった。礼を言って受け取ると、彼は掌についた土を前掛けで払い、次の客へ同じ調子で声をかけた。



 昼の仕事では、シグの寝床に敷く藁の束を解いた。新しい束には細かな草の実が混じっていて、袖口から入り込む。俺が腕を掻くと、ガランが藁をひと掴み持ち上げた。


「この束だけ少し違うな」


 捨てるほど悪くはない。乾いていて、黴の匂いもしない。ただ、寝床の上に散らせば、硬い実が鱗の隙間へ入りそうだ。俺たちは実の多いところを除き、下敷きに回した。


「こういうのを選り分ける時間も、表へ書くのか」


 俺が尋ねると、ガランは当たり前だと言った。


「手を動かした時間だ。誰も見てないから消えるものではない」


 俺は作業表の欄を探し、藁の選り分け、と書いた。細かな仕事まで書くと怠けていたと思われそうで、これまでは掃除の一言にまとめていた。


 ガランは表を見ても笑わず、隣に留め具の確認と書き足した。彼の文字も綺麗ではなかったが、読めた。俺の字だけが目立つ紙ではなくなった。



 その夜、宿直室でパンを水に浸した。


 食堂の夕食は済んでいた。ただ、慣れない仕事で腹が減るのか、夜中に空腹で目が覚める。明日の分を残そうと半分に割ったら、耳が指の付け根に刺さった。


 机はなく、膝の上に皿を置いた。部屋には使っていない馬具棚があり、その下へ俺の袋が収まっている。仮の寝床としては雨も風も防げる。悪いところを数えるほど、ほかを知っているわけでもない。


 夜番の足音が遠ざかったあと、大きな擦れる音が聞こえた。


 昼にも聞いた音だった。


 俺は皿を棚へ置き、上着を羽織った。厩舎へ続く戸口には夜番の灯りがある。若い世話係が、眠気を追うように目を擦っている。


「シグですか」


「さっきから何度か起きています。水はあるんですが」


 柵の外から見ると、シグは立っている。左肩を壁へ近づけ、触れる寸前で離す。また近づける。その動きのたび、息が短くなる。


 俺は昼の絵を思い出した。擦れた板の高さと、竜の肩が重なった。


「隊長へ知らせてください。俺はここで見ています」


「近づかないでくださいよ」


「入らない」


 約束して、俺は柵から一歩下がった。


 竜は俺を見つけた。喉の奥が鳴ったが、昼の威嚇ほど強くなかった。水桶の方へ首を向け、それからまた戻す。飲むつもりではないらしい。


 何がつらいのか、俺には分からない。壁へ擦りたいのか、触れると痛いのか。その両方なのかもしれない。


 俺は手を伸ばさず、目が合い続けないように床へ視線を落とした。


「眠れないか」


 答えはない。鼻から漏れる息が、床の藁を小さく動かす。


 隊長は上着の前を留めながら来た。腰には剣があったが、抜かなかった。


 俺が見たことを話すと、彼女は壁の側へ灯りを向けた。シグが顎を上げ、瞳が細くなった。


「灯りを少し横へ動かしてもらえますか」


 隊長はすぐ動かした。竜の目に光が直に入らなくなる。俺は自分が先に気づいたから正しいとは思わず、肩の動きをもう一度見た。


「明日の診察まで待てるか、竜医に連絡して確かめます。息がさらに荒くなったら、すぐ呼びに走ってもらいます」


 隊長は夜番へ告げてから、俺の隣にしゃがんだ。


「触ってほしいのでしょうか」


「まだ分かりません。馬なら、痒いときは鼻で人の手を探すことがあります。ただ、触られたくなくて壁を選ぶときもあります」


 シグが首を伸ばす。柵までにはまだ距離がある。鼻先が上下し、俺の上着の方へ向いた。


 上着の内側には青い刷毛を入れていた。昼間、道具を片づけたあと、そのまま持ってきてしまった。古い馬の匂いと革の匂いが染みついている。


「これが気になるのか」


 俺は刷毛を取り出し、身体の横で止めた。


 竜の鼻先が少し近づく。隊長の手が俺の袖へ添えられた。止めるときには引く、ということだろう。俺は頷いた。


 柵の隙間から手を出すのは危ない。挟まれたら逃げられない。隊長が教えた小さな作業口なら、手をすぐ引ける。それでも俺は竜へ届かせようとはしなかった。刷毛を見せ、こちらから動かない。


 シグは匂いを嗅いだ。


 熱い息が手首に当たる。俺の指が震える。刷毛を落とさないよう握り込むと、竜が少し下がる。力を入れすぎたのかもしれない。俺は肘を脇につけ、刷毛の柄を持ち直した。


 長い沈黙のあと、鼻の横が毛先へ触れた。


 ほんの一瞬だった。シグはすぐ引いた。


「嫌ならそれでいい」


 俺は刷毛を追いかけさせなかった。


 今度は竜の方から、同じところへ鼻が来た。硬い鱗のあいだに、細かな土が溜まっている。鼻の穴と目を避けて、短く一度だけ撫でた。


 竜の瞼が半分下りる。


 隊長の指から、少し力が抜けた。


 俺はもう一度撫でようとして、やめた。シグが同じ位置を寄せてくるのを待った。来れば一度。離れれば止める。馬を洗うときより、ずっと遅い。


 肩には触れなかった。何があるか分からない場所へ、気持ちよさそうだからと手を出すわけにはいかない。


 やがてシグは頭を下げた。顎が柵の手前の床に近づき、息が長く抜ける。俺は刷毛を引いた。


 黒竜は今度、壁へ擦らずに身体を伏せた。


 隊長が立ち上がると、膝が小さく鳴った。


「朝までここにいます」


 俺が言うと、彼女は首を振った。


「夜番が見ます。あなたも私も休みましょう。連絡が来れば起こしてもらえます」


「でも、また眠れなくなったら心配です」


「そのための夜番です。眠れたかどうか、朝に聞いてください」


 夜番の若者が頷いた。彼には彼の仕事がある。その前で俺が全部見ますと言い続けるのは、頼りにしていないのと同じかもしれない。


 俺は刷毛を布で包んだ。


「肩を擦った時刻と息の様子を覚えておいてもらえますか」


「さっきの時刻から紙に書いておきます」


 若者は灯りの横に紙を置いた。俺より大きい字で、夜の鐘を記した。



 宿直室へ戻ると、パンが水を吸っていた。さっきより柔らかい。俺は皿を持ち、黙って食べた。


 戸を叩く音がした。


 隊長が杯をひとつ持っている。湯気が上がり、薄い乳の匂いがする。


「食堂に残っていたんです。眠る前に飲むといいと、夜番が教えてくれました」


「俺の分まで、すみません」


 隊長は棚の皿へ目をやった。固いパンの残りが見えていたが、何も聞かなかった。


「熱いので、気をつけて」


 杯を受け取ると、両手が温まった。竜の息の熱とは違い、掌に長く留まる温かさだ。


 俺は戸を閉める前に言った。


「隊長も眠ってください」


 彼女は少し驚いた顔をして、それから短く笑った。


「そうします。明日の私に叱られますから」


 下手な冗談だと思った。それが妙に嬉しくて、俺は杯を落とさないよう両手で持ち直した。


 寝床に入る前、青い刷毛を窓の下に置いた。乾いた毛先が、月の明かりを少しだけ拾った。


 シグの肩が治ったわけではない。明日、竜医に見てもらわなければならない。それでも、触れてもよい場所をひとつ教わった。


 俺の手を遠ざけなかった、大きな鼻の重みを思い出す。


 隣の厩舎は静かだ。俺はその静けさに耳を澄まし、それから、夜番が聞いていてくれるのだと思って目を閉じた。


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