第4話 青い刷毛と夜の息
門前のパン屋は、車輪の片方へ平たい石を噛ませている。
坂の途中なので、そうしないと荷車が動くらしい。俺は門を出ると、転がりかけた石を靴で押さえた。店主がこちらを振り向く。
「助かった。今日は地面が乾いて滑る」
白い髭を短く刈った男だ。荷車の蓋を開けると、焼いた麦の匂いが流れてきた。俺は腹より先に懐の銅貨を確かめた。
「いちばん小さいパンをひとつください」
「固い方なら二つで同じ値だ。昨日焼いたやつだが」
俺は並んだパンを見た。新しい丸パンは割れ目から柔らかそうな白いところが覗いている。その隣の平たいパンは耳が少し反り気味だ。
「固い方をお願いします」
「汁に浸すなら、こっちも悪くない。俺はハルだ。毎朝ここへ来る」
「ダグといいます」
「ああ、北へ来た人だな」
俺は銅貨を渡しながら顔を上げた。もう噂になっているのかと身構える。
「門番に、新しく一人口が増えたと聞いた。明日は一個多く焼くか」
ハルは紙へパンを包んだ。竜がどうしたとも、馬糞がどうしたとも言わなかった。一人口が増えた。俺はその一人として数えられたらしい。
「毎日は買えないかもしれません」
「買える日に買えばいい。パンは逃げん」
俺は包みを胸へ寄せた。温かくはないが、麦の匂いはする。
釣り銭を落とすと、ハルは荷車の下を覗いて拾ってくれた。たった一枚でも、俺には明日の食べ物だった。礼を言って受け取ると、彼は掌についた土を前掛けで払い、次の客へ同じ調子で声をかけた。
◇
昼の仕事では、シグの寝床に敷く藁の束を解いた。新しい束には細かな草の実が混じっていて、袖口から入り込む。俺が腕を掻くと、ガランが藁をひと掴み持ち上げた。
「この束だけ少し違うな」
捨てるほど悪くはない。乾いていて、黴の匂いもしない。ただ、寝床の上に散らせば、硬い実が鱗の隙間へ入りそうだ。俺たちは実の多いところを除き、下敷きに回した。
「こういうのを選り分ける時間も、表へ書くのか」
俺が尋ねると、ガランは当たり前だと言った。
「手を動かした時間だ。誰も見てないから消えるものではない」
俺は作業表の欄を探し、藁の選り分け、と書いた。細かな仕事まで書くと怠けていたと思われそうで、これまでは掃除の一言にまとめていた。
ガランは表を見ても笑わず、隣に留め具の確認と書き足した。彼の文字も綺麗ではなかったが、読めた。俺の字だけが目立つ紙ではなくなった。
◇
その夜、宿直室でパンを水に浸した。
食堂の夕食は済んでいた。ただ、慣れない仕事で腹が減るのか、夜中に空腹で目が覚める。明日の分を残そうと半分に割ったら、耳が指の付け根に刺さった。
机はなく、膝の上に皿を置いた。部屋には使っていない馬具棚があり、その下へ俺の袋が収まっている。仮の寝床としては雨も風も防げる。悪いところを数えるほど、ほかを知っているわけでもない。
夜番の足音が遠ざかったあと、大きな擦れる音が聞こえた。
昼にも聞いた音だった。
俺は皿を棚へ置き、上着を羽織った。厩舎へ続く戸口には夜番の灯りがある。若い世話係が、眠気を追うように目を擦っている。
「シグですか」
「さっきから何度か起きています。水はあるんですが」
柵の外から見ると、シグは立っている。左肩を壁へ近づけ、触れる寸前で離す。また近づける。その動きのたび、息が短くなる。
俺は昼の絵を思い出した。擦れた板の高さと、竜の肩が重なった。
「隊長へ知らせてください。俺はここで見ています」
「近づかないでくださいよ」
「入らない」
約束して、俺は柵から一歩下がった。
竜は俺を見つけた。喉の奥が鳴ったが、昼の威嚇ほど強くなかった。水桶の方へ首を向け、それからまた戻す。飲むつもりではないらしい。
何がつらいのか、俺には分からない。壁へ擦りたいのか、触れると痛いのか。その両方なのかもしれない。
俺は手を伸ばさず、目が合い続けないように床へ視線を落とした。
「眠れないか」
答えはない。鼻から漏れる息が、床の藁を小さく動かす。
隊長は上着の前を留めながら来た。腰には剣があったが、抜かなかった。
俺が見たことを話すと、彼女は壁の側へ灯りを向けた。シグが顎を上げ、瞳が細くなった。
「灯りを少し横へ動かしてもらえますか」
隊長はすぐ動かした。竜の目に光が直に入らなくなる。俺は自分が先に気づいたから正しいとは思わず、肩の動きをもう一度見た。
「明日の診察まで待てるか、竜医に連絡して確かめます。息がさらに荒くなったら、すぐ呼びに走ってもらいます」
隊長は夜番へ告げてから、俺の隣にしゃがんだ。
「触ってほしいのでしょうか」
「まだ分かりません。馬なら、痒いときは鼻で人の手を探すことがあります。ただ、触られたくなくて壁を選ぶときもあります」
シグが首を伸ばす。柵までにはまだ距離がある。鼻先が上下し、俺の上着の方へ向いた。
上着の内側には青い刷毛を入れていた。昼間、道具を片づけたあと、そのまま持ってきてしまった。古い馬の匂いと革の匂いが染みついている。
「これが気になるのか」
俺は刷毛を取り出し、身体の横で止めた。
竜の鼻先が少し近づく。隊長の手が俺の袖へ添えられた。止めるときには引く、ということだろう。俺は頷いた。
柵の隙間から手を出すのは危ない。挟まれたら逃げられない。隊長が教えた小さな作業口なら、手をすぐ引ける。それでも俺は竜へ届かせようとはしなかった。刷毛を見せ、こちらから動かない。
シグは匂いを嗅いだ。
熱い息が手首に当たる。俺の指が震える。刷毛を落とさないよう握り込むと、竜が少し下がる。力を入れすぎたのかもしれない。俺は肘を脇につけ、刷毛の柄を持ち直した。
長い沈黙のあと、鼻の横が毛先へ触れた。
ほんの一瞬だった。シグはすぐ引いた。
「嫌ならそれでいい」
俺は刷毛を追いかけさせなかった。
今度は竜の方から、同じところへ鼻が来た。硬い鱗のあいだに、細かな土が溜まっている。鼻の穴と目を避けて、短く一度だけ撫でた。
竜の瞼が半分下りる。
隊長の指から、少し力が抜けた。
俺はもう一度撫でようとして、やめた。シグが同じ位置を寄せてくるのを待った。来れば一度。離れれば止める。馬を洗うときより、ずっと遅い。
肩には触れなかった。何があるか分からない場所へ、気持ちよさそうだからと手を出すわけにはいかない。
やがてシグは頭を下げた。顎が柵の手前の床に近づき、息が長く抜ける。俺は刷毛を引いた。
黒竜は今度、壁へ擦らずに身体を伏せた。
隊長が立ち上がると、膝が小さく鳴った。
「朝までここにいます」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「夜番が見ます。あなたも私も休みましょう。連絡が来れば起こしてもらえます」
「でも、また眠れなくなったら心配です」
「そのための夜番です。眠れたかどうか、朝に聞いてください」
夜番の若者が頷いた。彼には彼の仕事がある。その前で俺が全部見ますと言い続けるのは、頼りにしていないのと同じかもしれない。
俺は刷毛を布で包んだ。
「肩を擦った時刻と息の様子を覚えておいてもらえますか」
「さっきの時刻から紙に書いておきます」
若者は灯りの横に紙を置いた。俺より大きい字で、夜の鐘を記した。
◇
宿直室へ戻ると、パンが水を吸っていた。さっきより柔らかい。俺は皿を持ち、黙って食べた。
戸を叩く音がした。
隊長が杯をひとつ持っている。湯気が上がり、薄い乳の匂いがする。
「食堂に残っていたんです。眠る前に飲むといいと、夜番が教えてくれました」
「俺の分まで、すみません」
隊長は棚の皿へ目をやった。固いパンの残りが見えていたが、何も聞かなかった。
「熱いので、気をつけて」
杯を受け取ると、両手が温まった。竜の息の熱とは違い、掌に長く留まる温かさだ。
俺は戸を閉める前に言った。
「隊長も眠ってください」
彼女は少し驚いた顔をして、それから短く笑った。
「そうします。明日の私に叱られますから」
下手な冗談だと思った。それが妙に嬉しくて、俺は杯を落とさないよう両手で持ち直した。
寝床に入る前、青い刷毛を窓の下に置いた。乾いた毛先が、月の明かりを少しだけ拾った。
シグの肩が治ったわけではない。明日、竜医に見てもらわなければならない。それでも、触れてもよい場所をひとつ教わった。
俺の手を遠ざけなかった、大きな鼻の重みを思い出す。
隣の厩舎は静かだ。俺はその静けさに耳を澄まし、それから、夜番が聞いていてくれるのだと思って目を閉じた。




