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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第3話 杖の先が示すところ

 杖の音は、右足のあとに続く。


 俺が藁を運んでいると、廊下の先に大きな男が現れた。髪も髭も灰色で、左手に木の杖を持っている。右の膝は曲がりきらないらしく、足を外へ回すようにして歩いてくる。


「新しい世話係か」


「ダグといいます」


「ガランだ。今日は飛ばされるなよ」


 何のことか分からずにいると、杖の先が俺の抱えた藁を指した。


「その量では前が見えん。ここには馬の尻より広い尾がある」


 俺は藁を半分床へ下ろした。顔の前が空くと、柵の向こうの尾が見えた。シグは眠そうにしているが、尾の先は通路に近いところで動いている。


「すみません」


「俺に謝っても骨はくっつかん」


 言い方は硬かった。けれどガランは、俺が下ろした藁を蹴ったりはしなかった。通行の邪魔にならない側へ、杖でそっと寄せた。


 彼は長くこの厩舎で働いているという。脚を傷めてからは重い物を運ぶ当番を外れ、装具や柵の手入れを受け持っていた。ここ二日は別棟の戸車を直していたらしい。


「竜を怖がらん男が来たと聞いた」


「今も怖いです」


「なら、話が早い」


 ガランは柵の外に置かれた木箱へ腰を下ろし、俺にも座るよう顎を動かした。


「怖いのに平気な顔で入る奴が一番困る。逃げる場所は聞いたか」


「あちらの戸へ逃げるよう、隊長から教わりました」


「そこまで何歩だ」


 俺は戸口を見る。数えていなかった。


 ガランは立ち上がらず、杖で床を叩いた。


「まず何も持たずに歩いてみろ。次は桶を持って歩け。ただし、逃げるときは桶を置いていけ。取りに戻るな」


 俺は言われたとおりに歩いた。最初は六歩。桶を持つと七歩半だった。戻ったところでガランが首を振った。


「足元ばかり見たな。戸へ行く方向を覚えて、竜も見ておけ。転ぶなよ」


 同じ六歩を何度か歩いた。馬丁を二十年やっても、知らない場所では、歩き方から教わることになる。それを恥ずかしいとは思わなかった。帰り道を知っている人がいるのは、ありがたい。



 午前の掃除は、シグが隣の囲いへ移ってから始めた。


 移動させるとき、ガランが俺の胸の前へ杖を出した。


「正面を空けろ。見ているなら横へ回れ」


 俺は退いた。シグが一歩ずつ床を踏み、広い戸口を抜ける。右の前足が先に出て、左が少し遅れた。そのあと首が右へ曲がった。


「いつもあちらを向くんですか」


「ここしばらくな。人を追い払いたいのだろうと言う者もいる」


 ガランは決めつける言い方をしなかった。


 竜が出たあとの床には、古い藁の下に砂が残っている。爪の跡がいくつも重なる。俺は箒を止め、出口に近い跡へしゃがんだ。


「掃く前に足跡を見てもいいでしょうか」


「何がある」


「ここだけ足を置き直しています」


 右は深く、左は短い擦り跡になっている。たまたまかもしれない。昨日の寝床も片側だけ汚れていた。それを口にすると、ガランは杖に体重を預けて壁際へ来た。


 肩の高さに、煤色の細い粉がついている。板の一枚だけがよく磨かれたようだ。


「以前から擦ってましたか」


「昔はこんなに光っていなかったな」


 ガランは指の腹で板を撫でた。剥げた塗料と、竜の鱗の端らしい細片が落ちた。


 俺は触らず、手帳に位置を書いた。字だけでは自分でも分かりづらいので、四角い寝床を描き、壁と足跡に丸をつけた。


「字が小さいな」


「紙を長く使いたいので、小さく書いています」


 ガランが俺の手帳を覗いた。古い頁には馬の絵と、朝夕の食べ残しが並んでいる。年の書き方はまちまちだ。俺が忘れなければよかったので、人に見せるつもりではなかった。


「よく続けたもんだ」


「覚えておこうと思っても、別の馬に何かあると忘れてしまうんです」


「忘れないために書くんだ。正しいだろう」


 当然のように言われた。俺は手帳を閉じかけた手を止め、今日の日付の下にもう少し大きく、左肩側の壁、と書いた。



 午後、ガランの仕事を見ることになった。


 水を入れる小窓の留め具が固い。隊長が片手で開けられず、桶を持った世話係を待たせることがあった。ガランは留め具をすぐに削らず、戸の下へ薄い木片を差した。


「持ち上げてみろ」


 俺が端を押し上げると、金具が軽く外れた。


「金具が悪いんじゃない。戸が下がってる」


 彼は曲がった釘を一本抜き、別の穴へ打ち直した。木槌の音を出す前には必ず竜の位置を確かめ、俺にも見ているよう頼んだ。


 シグは囲いの奥にいる。音のたびに耳の後ろの小さな突起が動くが、立とうとはしない。


「おまえは、水桶を動かしたそうだな」


「はい。少しだけ動かしました」


「少し動かして飲むなら、大仕事だ」


 ガランが木槌を置いた。留め具は指一本で開く。


 俺は何度か開け閉めしてみた。戸を大きく持ち上げる必要がなくなり、腕にも腰にも楽だ。


「ありがとうございます。これなら、あの若い人も片手でできます」


「あいつは握力がないわけじゃない。無理な姿勢で力を使ってただけだ」


 ガランは道具を布の上へ順に戻した。俺はその言葉を、心の中でもう一度聞いた。


 無理な姿勢で力を使う。


 第三馬厩で、桶を二つ一緒に持てない自分を、年のせいだと思ったことがある。狭い戸口で身体を捻ってから持ち上げていた。誰かにその戸口を見てもらったことはなかった。


「次はおまえの番だ」


 ガランは古い柄杓を差し出した。柄にぐらつきがある。


「木工は得意じゃありません」


「じゃあ、何ならできる」


 俺は道具袋から細い革紐を出した。馬具の余りをもらって、何度も使い直したものだった。柄の穴へ通し、緩みを締め、手の当たる場所へ結び目が出ないように巻いた。


「一時しのぎですから、木を傷める前にちゃんと直してください」


 ガランが柄を掴んで揺らした。それから自分の手に合う位置へ指を滑らせた。


「一時しのぎに見えんほど、手が痛くないな」


「毎日持つものですから、手が痛くならないようにしました」


 彼は俺の手を一度見た。節の曲がった指に、革の黒い染みがついている。


「その結び方、あとで教えろ」


 昨日は俺が結び方を習った。今日は別の結び方を渡せる。古い袋の底にあったものが、ここで役に立っている。


 修繕を終えたあと、ガランの杖が床に落ちた。俺は拾って差し出し、それから彼の腕を支えようとした。


「杖だけでいい」


 俺は手を止めた。


「すみません」


「手が要るときは言う。脚は悪いが、立ち上がる順番は分かってる」


 ガランは椅子の端へ身体をずらし、右足を少し前へ置いた。それから杖と左脚で立った。俺が腕を引いたら、かえってその順番を邪魔したかもしれなかった。


「覚えました」


「代わりに、その道具箱を持ってくれ。重い物まで意地を張って持とうとすると損をする」


 俺は箱を持った。見た目より重かったが、両手で抱えれば無理はない。廊下の先まで並んで歩くと、ガランは俺の歩幅に合わせろとは言わず、自分の速さで進んだ。俺も急ぐ理由を探さず、その隣を歩いた。



 夕方、隊長へ足跡と壁の話をした。


 ガランも一緒だった。俺が手帳を差し出すと、隊長は受け取る前に「見てもいいですか」と言った。差し出しているのだからいいに決まっていたが、俺は改めて頷いた。


「左の肩ですね。装具をつけるときにも嫌がります」


「痛いのかどうかは俺には分かりません。気になることがあるなら、竜医に見てもらった方がいいと思います」


「リーネに来てもらう手配をしています。それまで、ここを記録しましょう」


 隊長は紙を一枚持ってきた。大きな紙だ。俺の小さな絵を写すと、壁と足の向きがよく分かった。


 ガランが指を添えた。


「通るときは、こっちへ回り込んだ。その跡も描いてくれ」


 三人で覗き込むと、紙の上に人の影が重なった。俺は自分の肘を引いたが、隊長はその場所を空けたままにした。


 報告が済むと、ガランが俺を呼び止めた。


「明日は何をする」


「朝の水と餌を用意します。掃除は食べ終わってからにします」


「ほかには何をする」


 俺は少し考える。


「竜がいるところでは、藁を半分ずつ運びます」


 ガランの髭が動いた。笑ったのだと分かるまで少しかかった。


「よし。長く働くつもりで来い」


 宿直室へ戻る途中、俺は右の長靴に水が入っていないことに気づいた。今日は雨が降らず、井戸端でも無理な量の水を一度に運ばなかった。


 脚は疲れていた。けれど、何かから逃げ遅れたような疲れ方ではなかった。



 寝る前に手帳を開き、壁の絵の下へ、戸まで六歩、と書き足した。


 頁の端が丸まり、親指を離すと閉じそうになった。俺は刷毛の柄で紙を押さえた。書き足せる余白は、まだ残っている。


 それは竜のための覚え書きではない。


 俺自身が、明日もここで働くためのものだ。


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