第3話 杖の先が示すところ
杖の音は、右足のあとに続く。
俺が藁を運んでいると、廊下の先に大きな男が現れた。髪も髭も灰色で、左手に木の杖を持っている。右の膝は曲がりきらないらしく、足を外へ回すようにして歩いてくる。
「新しい世話係か」
「ダグといいます」
「ガランだ。今日は飛ばされるなよ」
何のことか分からずにいると、杖の先が俺の抱えた藁を指した。
「その量では前が見えん。ここには馬の尻より広い尾がある」
俺は藁を半分床へ下ろした。顔の前が空くと、柵の向こうの尾が見えた。シグは眠そうにしているが、尾の先は通路に近いところで動いている。
「すみません」
「俺に謝っても骨はくっつかん」
言い方は硬かった。けれどガランは、俺が下ろした藁を蹴ったりはしなかった。通行の邪魔にならない側へ、杖でそっと寄せた。
彼は長くこの厩舎で働いているという。脚を傷めてからは重い物を運ぶ当番を外れ、装具や柵の手入れを受け持っていた。ここ二日は別棟の戸車を直していたらしい。
「竜を怖がらん男が来たと聞いた」
「今も怖いです」
「なら、話が早い」
ガランは柵の外に置かれた木箱へ腰を下ろし、俺にも座るよう顎を動かした。
「怖いのに平気な顔で入る奴が一番困る。逃げる場所は聞いたか」
「あちらの戸へ逃げるよう、隊長から教わりました」
「そこまで何歩だ」
俺は戸口を見る。数えていなかった。
ガランは立ち上がらず、杖で床を叩いた。
「まず何も持たずに歩いてみろ。次は桶を持って歩け。ただし、逃げるときは桶を置いていけ。取りに戻るな」
俺は言われたとおりに歩いた。最初は六歩。桶を持つと七歩半だった。戻ったところでガランが首を振った。
「足元ばかり見たな。戸へ行く方向を覚えて、竜も見ておけ。転ぶなよ」
同じ六歩を何度か歩いた。馬丁を二十年やっても、知らない場所では、歩き方から教わることになる。それを恥ずかしいとは思わなかった。帰り道を知っている人がいるのは、ありがたい。
◇
午前の掃除は、シグが隣の囲いへ移ってから始めた。
移動させるとき、ガランが俺の胸の前へ杖を出した。
「正面を空けろ。見ているなら横へ回れ」
俺は退いた。シグが一歩ずつ床を踏み、広い戸口を抜ける。右の前足が先に出て、左が少し遅れた。そのあと首が右へ曲がった。
「いつもあちらを向くんですか」
「ここしばらくな。人を追い払いたいのだろうと言う者もいる」
ガランは決めつける言い方をしなかった。
竜が出たあとの床には、古い藁の下に砂が残っている。爪の跡がいくつも重なる。俺は箒を止め、出口に近い跡へしゃがんだ。
「掃く前に足跡を見てもいいでしょうか」
「何がある」
「ここだけ足を置き直しています」
右は深く、左は短い擦り跡になっている。たまたまかもしれない。昨日の寝床も片側だけ汚れていた。それを口にすると、ガランは杖に体重を預けて壁際へ来た。
肩の高さに、煤色の細い粉がついている。板の一枚だけがよく磨かれたようだ。
「以前から擦ってましたか」
「昔はこんなに光っていなかったな」
ガランは指の腹で板を撫でた。剥げた塗料と、竜の鱗の端らしい細片が落ちた。
俺は触らず、手帳に位置を書いた。字だけでは自分でも分かりづらいので、四角い寝床を描き、壁と足跡に丸をつけた。
「字が小さいな」
「紙を長く使いたいので、小さく書いています」
ガランが俺の手帳を覗いた。古い頁には馬の絵と、朝夕の食べ残しが並んでいる。年の書き方はまちまちだ。俺が忘れなければよかったので、人に見せるつもりではなかった。
「よく続けたもんだ」
「覚えておこうと思っても、別の馬に何かあると忘れてしまうんです」
「忘れないために書くんだ。正しいだろう」
当然のように言われた。俺は手帳を閉じかけた手を止め、今日の日付の下にもう少し大きく、左肩側の壁、と書いた。
◇
午後、ガランの仕事を見ることになった。
水を入れる小窓の留め具が固い。隊長が片手で開けられず、桶を持った世話係を待たせることがあった。ガランは留め具をすぐに削らず、戸の下へ薄い木片を差した。
「持ち上げてみろ」
俺が端を押し上げると、金具が軽く外れた。
「金具が悪いんじゃない。戸が下がってる」
彼は曲がった釘を一本抜き、別の穴へ打ち直した。木槌の音を出す前には必ず竜の位置を確かめ、俺にも見ているよう頼んだ。
シグは囲いの奥にいる。音のたびに耳の後ろの小さな突起が動くが、立とうとはしない。
「おまえは、水桶を動かしたそうだな」
「はい。少しだけ動かしました」
「少し動かして飲むなら、大仕事だ」
ガランが木槌を置いた。留め具は指一本で開く。
俺は何度か開け閉めしてみた。戸を大きく持ち上げる必要がなくなり、腕にも腰にも楽だ。
「ありがとうございます。これなら、あの若い人も片手でできます」
「あいつは握力がないわけじゃない。無理な姿勢で力を使ってただけだ」
ガランは道具を布の上へ順に戻した。俺はその言葉を、心の中でもう一度聞いた。
無理な姿勢で力を使う。
第三馬厩で、桶を二つ一緒に持てない自分を、年のせいだと思ったことがある。狭い戸口で身体を捻ってから持ち上げていた。誰かにその戸口を見てもらったことはなかった。
「次はおまえの番だ」
ガランは古い柄杓を差し出した。柄にぐらつきがある。
「木工は得意じゃありません」
「じゃあ、何ならできる」
俺は道具袋から細い革紐を出した。馬具の余りをもらって、何度も使い直したものだった。柄の穴へ通し、緩みを締め、手の当たる場所へ結び目が出ないように巻いた。
「一時しのぎですから、木を傷める前にちゃんと直してください」
ガランが柄を掴んで揺らした。それから自分の手に合う位置へ指を滑らせた。
「一時しのぎに見えんほど、手が痛くないな」
「毎日持つものですから、手が痛くならないようにしました」
彼は俺の手を一度見た。節の曲がった指に、革の黒い染みがついている。
「その結び方、あとで教えろ」
昨日は俺が結び方を習った。今日は別の結び方を渡せる。古い袋の底にあったものが、ここで役に立っている。
修繕を終えたあと、ガランの杖が床に落ちた。俺は拾って差し出し、それから彼の腕を支えようとした。
「杖だけでいい」
俺は手を止めた。
「すみません」
「手が要るときは言う。脚は悪いが、立ち上がる順番は分かってる」
ガランは椅子の端へ身体をずらし、右足を少し前へ置いた。それから杖と左脚で立った。俺が腕を引いたら、かえってその順番を邪魔したかもしれなかった。
「覚えました」
「代わりに、その道具箱を持ってくれ。重い物まで意地を張って持とうとすると損をする」
俺は箱を持った。見た目より重かったが、両手で抱えれば無理はない。廊下の先まで並んで歩くと、ガランは俺の歩幅に合わせろとは言わず、自分の速さで進んだ。俺も急ぐ理由を探さず、その隣を歩いた。
◇
夕方、隊長へ足跡と壁の話をした。
ガランも一緒だった。俺が手帳を差し出すと、隊長は受け取る前に「見てもいいですか」と言った。差し出しているのだからいいに決まっていたが、俺は改めて頷いた。
「左の肩ですね。装具をつけるときにも嫌がります」
「痛いのかどうかは俺には分かりません。気になることがあるなら、竜医に見てもらった方がいいと思います」
「リーネに来てもらう手配をしています。それまで、ここを記録しましょう」
隊長は紙を一枚持ってきた。大きな紙だ。俺の小さな絵を写すと、壁と足の向きがよく分かった。
ガランが指を添えた。
「通るときは、こっちへ回り込んだ。その跡も描いてくれ」
三人で覗き込むと、紙の上に人の影が重なった。俺は自分の肘を引いたが、隊長はその場所を空けたままにした。
報告が済むと、ガランが俺を呼び止めた。
「明日は何をする」
「朝の水と餌を用意します。掃除は食べ終わってからにします」
「ほかには何をする」
俺は少し考える。
「竜がいるところでは、藁を半分ずつ運びます」
ガランの髭が動いた。笑ったのだと分かるまで少しかかった。
「よし。長く働くつもりで来い」
宿直室へ戻る途中、俺は右の長靴に水が入っていないことに気づいた。今日は雨が降らず、井戸端でも無理な量の水を一度に運ばなかった。
脚は疲れていた。けれど、何かから逃げ遅れたような疲れ方ではなかった。
◇
寝る前に手帳を開き、壁の絵の下へ、戸まで六歩、と書き足した。
頁の端が丸まり、親指を離すと閉じそうになった。俺は刷毛の柄で紙を押さえた。書き足せる余白は、まだ残っている。
それは竜のための覚え書きではない。
俺自身が、明日もここで働くためのものだ。




