↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/15

第2話 食べ終わるまでの朝

 北竜厩舎の朝は、第三馬厩より一つ鐘ぶん遅く始まった。


 それを教わっていたのに、俺は四つ鐘の前に目を覚ました。仮の寝床は物置の隣にある狭い宿直室で、窓から厩舎の屋根が見える。布団の中にいると、自分だけ仕事を忘れたようで落ち着かなかった。


 結局、服を着た。裏口から中を覗くと、昨日の黒竜が薄明かりの中で伏せていた。大きな脇腹がゆっくり動く。入っていいとは言われていない。俺は戸口の外でしゃがみ、待つことにした。


 朝風に混じって、刻んだ根菜と生肉の匂いがする。ほどなく二人の世話係が手押し車を運んできた。昨日の若者もいる。


「早いですね。起こしてしまいましたか」


「いや、俺が勝手に起きたんです」


 車の上には深い木箱が三つ載っている。竜の一食は、馬一頭の一日より重そうだ。俺が車の後ろを押すと、若者は戸口で手を止めた。


「今日は自分が餌番です。水は昨日の場所へ置きます」


 覚えていてくれた。それだけで、昨日が夢ではない気がした。


 だが、餌を滑らせる小窓を開けたとたん、シグの首が上がった。喉が鳴り、前足が床を叩く。


 若者は皿を押し出して、すぐ窓を閉めた。もう一人が掃除用の戸へ回る。俺は思わずその背中へ声をかけた。


「今、掃除をするんですか」


「餌に気を取られてるうちなら安全です。食べなくても、そちらを見てくれますから」


 もっともな理由だった。俺は彼の行く先を見た。竜の背後にある通路で、昨日水桶を移した場所と反対側だ。


 餌の前に立った竜が、後ろの戸の音へ振り返る。皿を嗅ごうとして、また背後を見る。二人が藁を引くたび、黒い尾の先が床を打つ。


 俺が黙っていた間にも、皿はそのままだ。



「餌やりと掃除を別の時刻にしてみませんか」


 朝の引き継ぎで言うと、イリス隊長は作業表を広げた。食堂の隅だった。俺の前にも粥が置かれていたが、誰かが話しているときに食べるのが悪い気がして、匙を持てずにいた。


「その方が人数を集められるので、これまでは同時にしていました」


「危ない仕事を少ない人数でやろうとは思っていません。ただ、食べているときに後ろで人が動くと、気になるようなんです」


 若い世話係が口を開いた。


「前は同時でも食べたんです。でも最近は、俺たちが入るだけで怒るようになって」


 責められたと思わせたのかもしれない。俺は膝の上の手を握る。


「手順が悪いと言いたいのではなく、今のシグには気になるように見えたんです。昨日来た俺には、前のことは分かりません」


 隊長は匙を取り、俺の椀の方を目で示した。


「食べながらで構いません。私もいただきます」


 彼女が先に粥を口へ運んだ。俺もひと口食べた。温かいものが胃に入ると、説明が少し楽になった。


 今朝は餌を入れてから掃除までに間がほとんどなかった。昨日の夕方は餌の前に馬車が止まり、荷下ろしの音が続いていた。世話係たちに聞くと、時刻は毎日、ほかの仕事の都合で前後しているらしい。


「皿を出す時刻だけでも揃えてみたいです。その前に、人が歩く場所も片づけておきたいんですが」


「試せる範囲ですね。今日は朝の分を下げ、次の食事で確かめましょう。無理に食べさせるのはやめる。水や食べた量は記録します」


 隊長は紙へ書き込んだ。俺の言葉がそのまま作業になっていくのが不思議でならない。


 第三馬厩では、やり方を変えるならいつもの仕事を終えてからだった。そのために俺だけ少し早く起き、少し遅く寝た。ここでは時刻を動かすのに、まず紙が動いた。



 昼前、俺たちは空の手押し車で通路を通った。


 車輪が継ぎ目で跳ねた。音にシグが振り向く。若者が車を止め、俺は石の端へ挟まった小さな木片を拾った。木片を取っても段差は残る。隊長に確認してから、そこだけ古い藁のむしろを敷いた。


「掃除が余計に増えますね」


 若者が言った。


「そうだな。汚れたら外して干さないといけない」


 俺はむしろを見た。楽になることばかりではない。それでも車をもう一度通すと、さっきの乾いた音が消えた。


 竜は片目をこちらに向けたが、首を上げようとはしない。


 若者は車の柄を持ち直した。


「裏に干せる場所があります。そこでよければ俺が干します」


「頼めますか」


 頼んだあと、俺がやりますと言い直しそうになった。若者はもう、裏の竿の位置を説明している。


 餌皿へ至る通路は一方通行にした。食べているあいだは奥の掃除戸を開けない。見る人間は柵の端に二人だけ。どれも試しで、危なければ戻す。


 イリス隊長は自分も見たいと言ったが、柵のそばには来なかった。少し離れた戸口で立ち止まり、俺たちを見守った。


 時刻が来た。


 若者が皿を押し出した。俺はシグの正面を塞がず、少し横へ座った。昨日と同じ服だから、多少は匂いを覚えているかもしれない。そうでなければ、それでもいい。


 竜は動かない。


 肉の表面に光が当たっている。俺は爪先を揃え直したくなるのを堪えた。息を止めると身体が固くなるので、床の木目を見てゆっくり吐いた。


 若者が隣で小さく身じろぎした。


「食べろって声はかけないんですか」


「普段は何と声をかけるんですか」


「餌だぞとか、ほら、こっちだとか言っています」


「では、いつものように一度だけ声をかけてみてください」


 若者は柵へ顔を近づけずに言った。


「シグ、餌だぞ」


 声は低い。昨日の震えがまだ少し残っているが、怒鳴り声ではない。


 黒い首が伸びる。


 鼻先は皿の手前で止まった。竜は俺を見て、若者を見る。俺たちの背後にある掃除戸にも目を向ける。それから、ようやく皿へ鼻を下ろした。


 ひと切れが消えた。


 若者の手が俺の袖を掴んだ。俺は振り向かず、小さく頷いた。指はすぐ離れた。


 二切れ目を食べるまでに、また長い間があった。食べ始めたのだからもういいだろうと、立ち上がってはいけない気がした。俺たちは同じところで待つ。遠くで門が閉まり、シグの目がそちらへ動く。それでも皿からは離れなかった。


 全部は食べなかった。底に少し残し、竜は水を飲んで奥へ戻った。


 若者が口を開けて笑った。声は出さなかった。その顔を見て、俺まで笑いそうになった。


 皿を引いたあとで、隊長が近づいてきた。


「何か特別な言葉があるのかと思っていました」


「特別な言葉ですか」


「竜を従わせる言葉です。あなたが何を言うか、ずっと聞いていました」


 俺は空に近い皿を持ち上げた。思っていたより重い。縁のひびに肉汁が溜まっていたので、あとで念入りに洗う必要がある。


「俺はまだこの竜のことを何も知りません。何か言っても、伝わらないことの方が多いでしょう」


「では、何をしていたんですか」


「食べるかどうかを見ていました」


 隊長はしばらく皿を見ていた。その後、壁際へ行って、自分の立っていた場所を振り返った。


「私は食べさせようとして、近づきすぎていたかもしれません」


「心配なら、そばへ行きたくなります」


 馬が食べない夜に、俺も何度もそうした。離れて食べてくれるなら離れた方がいいと分かるまでに、いくつも夜を使った。


 隊長はその話を最後まで聞いてから、若者へ残りの量を量るよう頼んだ。明日も同じ時刻に試すことになった。



 掃除は、竜が別の囲いへ移ってから行った。俺は新しい藁を抱え、あまり踏まれていない隅へ運んだ。竜の寝床は広い。それなのに汚れ方が片方へ寄っているのが気になったが、その理由はまだ分からなかった。


 片づけの最後に、若者がむしろを外した。裏へ運ぶ途中で端がほどけたので、俺は道具袋から細い麻紐を出した。


「そこは結ぶと車輪に当たる。横へ逃がした方がいい」


 言ってから手を引くと、若者は自分で結び目を端へ寄せた。力任せに締めず、折り返しをひとつ作ったので、洗うときにも解きやすい。俺はその結び目を指した。


「それは便利ですね。俺にも教えてください」


「子供のころ、父親が荷を運ぶ船で習ったんです」


 彼は余った紐を取り、もう一度ゆっくり結んだ。俺の太い指では同じ速さにならなかったが、三度目で形になった。


 竜の世話をしに来た二日目に、俺は知らなかった結び方をひとつ覚えた。


 仕事を終えると、窓から午後の日が差している。


 いつもなら次に何をするか探す時刻だった。隊長が戸口から声をかけた。


「休憩ですから、あなたも水を飲んでください」


 あなたも、と言われて、俺は手にしていた空桶を見下ろした。


 シグの水は、朝から二度替えている。自分は粥のあとに飲んだきりだった。


 井戸端で杯を満たす。水は冷たく、歯の奥に染みる。柵の向こうでは、黒竜が片側へ首を倒して眠り始めている。


 今日は食べた。


 明日も同じように食べるとは限らない。それでも明日の鐘を待つ理由が、俺の中にひとつある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。