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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第1部 北の厩舎

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第1話 水桶ひとつぶんの場所

 朝の四つ鐘が鳴る前に、俺は第三馬厩の裏戸を開けた。


 雨は夜のうちに上がっていた。踏み固めた土には水が残り、右の長靴だけが歩くたびに冷たくなる。底の継ぎ目を昨日も蝋で埋めたのだが、二十年働いた人間の靴は、持ち主ほど我慢強くないらしい。


「おはよう。待ったな」


 白い額の栗毛が戸板を鼻で押した。俺はすぐには桶を持っていかず、首の曲がり方を見た。昨夜は左の草ばかり残していたから、今日は右にも少し寄せてある。栗毛は迷わず口をつけた。食べ方が戻れば、ひとまず安心できる。


 十七頭ぶんの水を替え、濡れた敷き藁を掻き出す。新しい藁を端から入れると、一番奥の老馬が足をずらして場所を空けた。急がせたことはない。待てば、たいてい手伝ってくれる。


 腰を伸ばしたときには、厩舎の高窓が白くなっている。


「おい、馬糞のおっさん」


 戸口に若い騎士が立っている。ラウルだ。磨いた長靴に朝日が当たり、手には昨日俺が拭いた手綱があった。


「俺の馬はまだか。訓練に遅れるだろうが」


「水を飲んでるところです。すぐ用意します」


「返事だけは二十年ものだな」


 一緒に来た騎士が笑った。俺は手についた藁屑を払って、馬房の掛け金を外した。笑いが終わるのを待つ必要はなかった。馬は笑いの意味を知らない。ただ、知らない声が大きいと、耳を伏せる。


 腹帯を確かめていると、ラウルが足を踏み鳴らした。


「早くしろよ」


「ここに藁が挟まってました。あと少しです」


 俺が指先で一本引き抜くと、馬の腹がわずかに緩んだ。その変化を見たのは俺だけだった。見ていなくてもいい。馬が歩き出したとき、痛くなければ。



 騎士たちを送り出してから、裏の水場で顔を洗った。水面の男は四十三歳に見えたし、五十に見える日もある。濡れた指で顎を擦っていると、厩舎長のオーデンに呼ばれた。


 机の上には一枚の紙が置かれている。給料の話ならと、ほんの一瞬だけ思った自分が恥ずかしかった。


「今日から北へ行け」


「北の馬厩ですか」


「竜厩舎だ。人が足りないそうだ。おまえは獣の世話なら何でもできるだろう」


 紙には俺の名前があり、その隣に異動とある。


「竜の世話はしたことがありません」


「向こうで教わればいい。道具は持っていっていいぞ。私物だけな」


 俺は紙の端を押さえた。指の節が太く、名前の二文字を半分隠した。


 北の竜厩舎では、人が踏まれたとか、焼かれかけたとか、そんな噂を聞く。どこまで本当か知らない。知らないからこそ怖い。けれど、ここに残る理由を尋ねられても、上手に答えられる気がしなかった。


「栗毛の左の奥歯が気になります。餌を片側に寄せているので、診てもらってください。それから一番奥の馬には、夜明け前に水を飲ませてやってください」


「引き継ぎに書いておけ」


 書きます、と答えた。


 書けば読んでもらえるだろうか。そんな言葉までは口に出せず、俺はいつもの小さな手帳を開いた。余白の少ない紙から、馬房ごとの注意を別紙へ写した。最後に水桶の場所を簡単に描いた。文字が面倒なら、絵だけでも見てほしかった。


 私物は布袋ひとつに収まった。着替えと、小さな手帳と、柄が手の形に減った青い刷毛。金になる物はない。それでも刷毛の毛先に藁が残っていないか確かめてから、袋へしまった。


 栗毛の鼻を撫でると、湿った唇が袖を探った。


「今日はもう持ってないぞ」


 いつものように言ってから、その続きを思いつけなかった。



 北へ向かう道は、途中から馬車二台がすれ違える広さになった。塀の向こうに見えた屋根は、第三馬厩の倍どころではない。門の柱は人の胴ほども太く、鉄の金具が新しい木に食い込んでいる。


 俺は門番に紙を渡した。


 待っているあいだ、袋の口を握り直した。腹が鳴った。朝の粥を食べ損ねたのを、そのとき思い出した。


「ダグさんですね」


 鎧の上着を脱いだ女騎士が来た。髪を後ろでひとつに結び、袖を肘まで捲っていた。若かったが、門番が姿勢を正したので、偉い人なのだと分かった。


「イリスです。ここの隊長をしています。急な異動ですみません」


「いえ、こちらこそ申し訳ありません。竜の世話は初めてなんです」


 隊長の目が一度だけ紙へ落ちた。


「初めてだとは聞いていませんでした」


 俺のせいではないのに、背中が丸くなった。隊長はそれを見て、口を引き結んだ。


「説明から始めましょう。今日は近づかなくていい。安全な場所で見てもらいます」


 厩舎の内側には、もうひとつ柵がある。人が通る細い道と、竜のいる広い場所が分かれている。隊長は退く戸口を最初に教え、柵の内へ勝手に入らないこと、翼が開いたら距離を取ることを、俺が頷くたびにひとつずつ話した。


 その途中で、奥から重い音がした。


 壁が鳴り、吊った空桶がぶつかり合った。俺は袋を胸に抱えた。


 黒いものがいた。


 黒というより、煤を刷り込んだ鉄の色だ。首が馬の胴より太い。折り畳まれた翼の縁が梁の影に重なって、どこまでが身体なのか分からない。


 竜がこちらを向いた。琥珀色の目が俺を捉え、喉の奥に赤い明かりが一瞬だけ見えた。


「シグ、今離れるから。ちゃんと離れるから」


 隊長は声を落とし、俺の前へ手を出した。命令するためではなく、足を止めさせる手だった。


 俺たちが下がると、竜は壁に身体を寄せた。その足元で水桶が傾き、半分ほどの水が床へ流れた。


「桶を倒すのは、朝からこれで三度目です」


 若い世話係が柵の外で言った。代わりの桶を抱えているが、腕が震えている。


「蹴られる前に退いて。水は後にしましょう」


 隊長が言うと、彼は露骨に息を吐いた。


 俺も一緒に退くつもりだった。足がそのために動きかけていた。


 それなのに、水の跡が目に入った。


 竜は桶を嫌っているように見える。だが、こぼれた水の端へ鼻先を下げようとしている。そのたびに肩が柵へ近づき、首が引かれる。桶は壁と太い柱のあいだに押し込まれている。そこへ頭を入れるには、大きな身体を人のいる側へ向けなければならない。


「隊長、あの桶はいつもあそこに置いているんですか」


「ええ。動かすと通路へはみ出してしまうので、あそこに置いています」


「あそこの少し開いた所へ、柵の外から桶を移せますか」


 自分の声が場違いに思えた。竜が暴れているのに、水桶の置き場所の話など。


 隊長は竜を見てから床を見た。


「理由を聞かせてください」


「壁と人のあいだで首を逃がせないのかもしれません。馬にも、狭い隅では水を飲みたがらないのがいます。竜も同じかどうかは分かりませんが」


 分からないものを分かるとは言えない。


 隊長は長い柄の鉤を持ってきた。俺は位置を指し、彼女が柵の外から桶を引いた。底が石を擦る音に、シグの顎が上がる。そこで手を止めた。顎が下がるまで待ち、もう少しだけ動かした。


 水は世話係が長い樋で注いだ。俺は袋を床に置き、両手を見えるように膝の脇へ下げた。


 何も起こらない。


 一息、二息。背中を汗が流れる。間違えたのなら謝らなければ、と俺が口を開きかけたとき、隊長が小さく言った。


「待ちましょう」


 シグの前足が動く。


 爪が床を掻く音に、俺の腹が縮んだ。それでも竜はこちらへ来ず、首だけをゆっくり伸ばした。鼻先が水面に触れ、輪が広がる。


 やがて大きな喉が一度、動いた。


 世話係が息を呑み、隊長が片手を上げた。声を出さないで、という意味だ。


 水の減る音がする。馬のものとは違う、深い容れ物の底で響くような音だ。俺はそれを聞きながら、固くしていた膝を少し緩めた。


 飲み終えた竜は奥へ戻った。俺へ鼻を寄せるでも、礼をするでもない。大きな背をこちらへ向けて、壁から少し離れた所へ伏せた。


「よかった」


 思わず出た言葉は、それだけだった。


 隊長が俺を見た。


「その桶の位置を覚えておきます。ダグさん、明日も来ていただけますか」


 異動したのだから、来るに決まっている。それなのに尋ねられると、返事の場所が胸のいつもと違うところにできた。


「はい。明日の朝は何時からでしょうか」


「明日の仕事の時間は昼ご飯を食べてから決めましょう」


 腹が、もう一度鳴った。


 俺は謝ろうとして、やめ損ねた。隊長は聞こえなかったふりをして、食堂のある方へ歩いた。


 食堂へ行く途中、世話係が追いついてきて、俺の袋を持とうとした。


「重いでしょうから、その袋を持ちましょうか」


「このくらいの荷物はいつも運んでいますから大丈夫ですよ」


 そう答えたあとで、彼の腕にも赤い桶の跡があると気づいた。俺は袋を持ったまま、代わりに戸を押さえた。彼は一瞬戸惑い、それから頭を下げて先へ入った。互いの手が塞がっているなら、空いた方の手を使えばよかった。ここでも、それはできる。


 食事を待つあいだ、俺はあの桶を思い出していた。置き場所が変わったのは、わずか二歩ぶんだった。


 その二歩ぶんの場所で、竜は水を飲めた。


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