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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第3部 戻らなくていい

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第29話 謝る手で、桶を洗う

 ラウルが俺を呼び止めたのは、朝の餌を片づけたあとだった。


 ルリの皿には少し残りがあったが、昨日より食べた量は増えている。俺はそれを量り、汚れた皿を水場へ運んでいた。


「話がある」


 彼は通路の端に立っている。剣は腰にあるが、手袋は握っていない。両手には何もなく、脇へ垂れたままだ。


 俺は皿を台へ置いた。


「今ここで話しても大丈夫ですか」


 聞くと、ラウルは頷いた。俺たち以外には誰もいない。厩舎の奥から、ガランが戸を動かす音が聞こえるだけだ。


「第三馬厩で、あんたを馬糞のおっさんと呼んだ」


 俺は動かなかった。


「腹帯を確かめているのに、皆を笑わせようと何度も早くしろと急かした」


 彼の声が少し低くなった。


 どの朝のことかは、一つに決められない。いくつもあった。言われた言葉は同じでも、寒い日と暑い日があり、腹が減っていた日も、腰が痛かった日もある。


 俺は台の縁へ指を置いた。


 ラウルは目を逸らさなかった。


「悪かった。馬の準備ができているのを、あんたが暇だから先にやってるくらいに思ってた」


 少し間を置く。


「俺は何も見ていなかった」


 謝罪は短い。立派な言葉を並べず、自分がしたことを言った。それでも聞く側の時間は、短くはならない。


 ラウルは、俺が北へ移る朝のことも口にした。


「腹帯から藁を一本抜いていた。俺は、そんなものに時間を使うなと思った」


 俺はその朝を思い出した。水を飲み終えるのを待ち、腹帯の下へ指を入れた。馬の腹が緩んだことまで、身体が覚えていた。


「ルリを見ていて、ようやく分かった。俺が気づかない所で、嫌な思いをしているのかもしれないんだな」


 俺は頷いた。彼が自分の知らない仕事を、初めて具体的なものとして言った。だからといって、今すぐ笑顔にはなれない。嬉しい部分と、遅かったと思う部分が、同じ胸の中にある。


「気づいたなら、次は急がせずに待ってください」


 俺は言った。


「俺にだけ丁寧にすればいいわけではありません」


 ラウルは小さく息を吸った。返事を探しているようだったが、最後には短く、そうすると言った。


 俺は水皿の内側を見た。肉の汁が乾きかけている。今洗えば落ちる。放っておけば、こびりつく。


 そういうことを考えている自分が、少しおかしい。


「嫌でした」


 口にすると、ラウルの肩がわずかに動いた。


 俺は続けた。


「皆が笑う顔を見なくて済むよう、ああ呼ばれるたびに何か仕事を探していました」


 ラウルは唇を結んだ。


「もうその呼び方はしないでください。ほかの馬丁にもです」


「しない」


 返事はすぐだった。


 俺は頷いた。今ここで約束されたからと、昔の朝が消えるわけではない。次に会うとき、身体が先に縮むこともあるだろう。


「今すぐ、何もなかったようにはできません」


「分かってる」


 ラウルは言い、それから首を振った。


「いや、全部は分からない。でも、許してくれと急がせない」


 俺は彼の手を見た。拳になりかけた指を、自分で開いている。


 竜の前で待つことを覚えたばかりの若者が、人の返事にも待つ時間があると考えている。


 俺は皿を持ち直した。


「今日も手伝ってもらいたい仕事があります」


 ラウルが顔を上げた。


「何をすればいい」


 俺は水場を示した。


「皿洗いを手伝ってもらえますか。食べた量を確かめた皿から、こちらへ運んでください」


 彼は頷き、剣を邪魔にならない場所へ預けた。俺は何も言わず、使う布を渡した。


 謝罪の続きを、言葉だけで埋める必要はない。


 最初の皿は、ラウルが強く擦りすぎた。


 布が縁へ引っかかり、細い糸が出る。俺は手を止めてもらい、先に水へ少し浸すよう伝えた。


「力で全部落とそうとすると、布が先に駄目になります」


「時間がかかるな」


「浸している間に、別の皿を洗えます」


 俺は二枚目を手に取った。


 ラウルは一枚目を水へ置き、次を持った。順番ができると、手が止まらなくなった。二人で皿を洗い、濯ぎ、乾かす方へ伏せる。


 水が袖へ跳ねた。ラウルは濡れたところを見たが、俺を責めなかった。


「袖をもう少し上げてください。濡れると水が肘まで伝いますから」


 俺が言うと、彼は自分で捲った。白い腕に、剣の訓練でついた浅い擦れが見えた。力のある腕だ。その力を、今は皿の縁で加減している。


 洗い終えたと思った皿を、俺は光へ向けた。


 角にまだ薄い膜が残っている。指で示すと、ラウルは受け取り、そこだけ洗い直した。


「ぱっと見ただけじゃ、分からない汚れもあるんだな」


「光の向きを変えると、見えます」


 彼は次の皿を自分で傾けた。


 俺は横で桶を洗った。二十年してきた汚れ仕事を、今日は騎士の目の前で説明している。笑われないよう急ぐ必要はない。


 ラウルは途中で一度、俺の顔を見た。


「毎日、こうしてたんだな」


「はい。馬の桶も同じように洗っていました」


 彼はそれ以上、過去を取り戻すような言葉を言わなかった。次の皿を持ち、角を光へ向けた。


 桶の取っ手を拭いていると、ラウルが指を曲げた。手のひらの端が赤くなっている。剣を握るところとは、力のかかる場所が違うのだろう。


「手袋を使いますか。濡れた縄を持つとき用に置いてあります」


「これくらい平気だ」


 言った顔に、俺は自分を見た。痛くてもできると言うとき、俺もあんなふうに肩へ力を入れていたかもしれない。


 俺は棚から手袋を一組取り、台へ置いた。


「次の仕事でも、その手を使います。合うものを選んでください」


 ラウルはしばらく見て、それから手を入れた。一組目は小さく、別のものに替える。誰かに罰として働かされているのではないのだから、指を痛めるまで素手で続ける必要はない。


 彼は手袋の中で指を開き、俺へ頷いた。俺も頷き、次の桶を渡した。言葉をたくさん足さなくても、渡して受け取る手順は作れた。


◇


 午後は、ルリの囲いの外側を片づけた。


 竜がいる内側へ無理に入るのではなく、落ちた藁や泥を、外から届く範囲で集める。使った道具はトトの部屋へ持ち込まず、別に洗う。


 ラウルは長い柄を持つと、最初、先ばかり見ていた。俺は足元も見るよう声をかけた。桶へ一歩近づきすぎて、柄が柵へ当たりそうだ。


「楽に道具を持てる場所に立ってください。ただし逃げる道は空けておいてください」


 彼は立つ場所を変えた。


 ルリが顔を上げる。


 俺たちは手を止める。


 青い竜はしばらく見ていたが、奥へ逃げなかった。鼻を鳴らし、また首を下ろした。


 ラウルはすぐ仕事を再開せず、もう少し待った。俺はそれを見て、声をかけるのをやめた。自分で決める間も必要だ。


 集めた藁を運ぶとき、ラウルが全部まとめて持とうとした。


 ガランが通りかかり、半分に分けるよう言った。


「前が見えんぞ」


 俺も来たばかりのころ、同じように言われた。


 ラウルは反発しかけた顔をして、それから藁を下ろした。半分を俺が持ち、二人で歩く。


 彼の上着に、小さな藁屑がついた。


 俺はそれを見ても、何も言わなかった。汚れた騎士だと笑えば、昔の言葉を別の相手へ返すだけだ。仕事をした服として、そのままそこにあればいい。


◇


 夕方、隊長がラウルの当番を確認した。


 彼は今日したことを話した。皿洗い、外側の片づけ、ルリの観察。飛行訓練をしたとは言わなかった。


「明日は餌を置く役もやってみたいです」


 ラウルが言った。


 隊長は俺を見た。俺は今日のルリの様子を話し、朝の状態を見て決めるのがよいと答えた。


「無理なら、また見て記録します」


 ラウルが付け加えた。


 俺は顔を上げた。昨日までの彼なら、無理だと思われたくなくて言わなかった言葉だった。


 隊長は頷いた。


「そのつもりで、準備してください」


 話が済むと、ラウルは洗った道具を棚へ戻した。置き場所を一つ間違え、ミナに教わって直す。彼女へ、ありがとうと小さく言った。


 俺は最後の桶を逆さにした。


「今日は助かりました」


 ラウルは手を止めた。


「まだ礼を言ってもらえるほどでは……」


「今日の皿洗いのことです。二人でやったから終えられました」


 彼は少し黙り、それから頷いた。


 謝ったことで全部を帳消しにしたわけではない。だが今日、手伝ったことまで、なかったことにする必要もない。


 俺は布を洗い、きつく絞らず広げた。


 明日また顔を合わせたら、何かを思い出すかもしれない。そのときは、その日の俺で考える。


 ラウルが使った手袋も、水気を切って干してあった。明日、誰が使ってもすぐ取れる場所だ。謝るために一度だけ働いて帰った跡ではなく、次の人が仕事を始めるための跡が残っていた。俺はその横を空け、乾いた布を掛けた。


 今は、乾く場所へ皿を並べた。二人で洗った皿が、夕方の光を少しずつ返す。


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