第29話 謝る手で、桶を洗う
ラウルが俺を呼び止めたのは、朝の餌を片づけたあとだった。
ルリの皿には少し残りがあったが、昨日より食べた量は増えている。俺はそれを量り、汚れた皿を水場へ運んでいた。
「話がある」
彼は通路の端に立っている。剣は腰にあるが、手袋は握っていない。両手には何もなく、脇へ垂れたままだ。
俺は皿を台へ置いた。
「今ここで話しても大丈夫ですか」
聞くと、ラウルは頷いた。俺たち以外には誰もいない。厩舎の奥から、ガランが戸を動かす音が聞こえるだけだ。
「第三馬厩で、あんたを馬糞のおっさんと呼んだ」
俺は動かなかった。
「腹帯を確かめているのに、皆を笑わせようと何度も早くしろと急かした」
彼の声が少し低くなった。
どの朝のことかは、一つに決められない。いくつもあった。言われた言葉は同じでも、寒い日と暑い日があり、腹が減っていた日も、腰が痛かった日もある。
俺は台の縁へ指を置いた。
ラウルは目を逸らさなかった。
「悪かった。馬の準備ができているのを、あんたが暇だから先にやってるくらいに思ってた」
少し間を置く。
「俺は何も見ていなかった」
謝罪は短い。立派な言葉を並べず、自分がしたことを言った。それでも聞く側の時間は、短くはならない。
ラウルは、俺が北へ移る朝のことも口にした。
「腹帯から藁を一本抜いていた。俺は、そんなものに時間を使うなと思った」
俺はその朝を思い出した。水を飲み終えるのを待ち、腹帯の下へ指を入れた。馬の腹が緩んだことまで、身体が覚えていた。
「ルリを見ていて、ようやく分かった。俺が気づかない所で、嫌な思いをしているのかもしれないんだな」
俺は頷いた。彼が自分の知らない仕事を、初めて具体的なものとして言った。だからといって、今すぐ笑顔にはなれない。嬉しい部分と、遅かったと思う部分が、同じ胸の中にある。
「気づいたなら、次は急がせずに待ってください」
俺は言った。
「俺にだけ丁寧にすればいいわけではありません」
ラウルは小さく息を吸った。返事を探しているようだったが、最後には短く、そうすると言った。
俺は水皿の内側を見た。肉の汁が乾きかけている。今洗えば落ちる。放っておけば、こびりつく。
そういうことを考えている自分が、少しおかしい。
「嫌でした」
口にすると、ラウルの肩がわずかに動いた。
俺は続けた。
「皆が笑う顔を見なくて済むよう、ああ呼ばれるたびに何か仕事を探していました」
ラウルは唇を結んだ。
「もうその呼び方はしないでください。ほかの馬丁にもです」
「しない」
返事はすぐだった。
俺は頷いた。今ここで約束されたからと、昔の朝が消えるわけではない。次に会うとき、身体が先に縮むこともあるだろう。
「今すぐ、何もなかったようにはできません」
「分かってる」
ラウルは言い、それから首を振った。
「いや、全部は分からない。でも、許してくれと急がせない」
俺は彼の手を見た。拳になりかけた指を、自分で開いている。
竜の前で待つことを覚えたばかりの若者が、人の返事にも待つ時間があると考えている。
俺は皿を持ち直した。
「今日も手伝ってもらいたい仕事があります」
ラウルが顔を上げた。
「何をすればいい」
俺は水場を示した。
「皿洗いを手伝ってもらえますか。食べた量を確かめた皿から、こちらへ運んでください」
彼は頷き、剣を邪魔にならない場所へ預けた。俺は何も言わず、使う布を渡した。
謝罪の続きを、言葉だけで埋める必要はない。
最初の皿は、ラウルが強く擦りすぎた。
布が縁へ引っかかり、細い糸が出る。俺は手を止めてもらい、先に水へ少し浸すよう伝えた。
「力で全部落とそうとすると、布が先に駄目になります」
「時間がかかるな」
「浸している間に、別の皿を洗えます」
俺は二枚目を手に取った。
ラウルは一枚目を水へ置き、次を持った。順番ができると、手が止まらなくなった。二人で皿を洗い、濯ぎ、乾かす方へ伏せる。
水が袖へ跳ねた。ラウルは濡れたところを見たが、俺を責めなかった。
「袖をもう少し上げてください。濡れると水が肘まで伝いますから」
俺が言うと、彼は自分で捲った。白い腕に、剣の訓練でついた浅い擦れが見えた。力のある腕だ。その力を、今は皿の縁で加減している。
洗い終えたと思った皿を、俺は光へ向けた。
角にまだ薄い膜が残っている。指で示すと、ラウルは受け取り、そこだけ洗い直した。
「ぱっと見ただけじゃ、分からない汚れもあるんだな」
「光の向きを変えると、見えます」
彼は次の皿を自分で傾けた。
俺は横で桶を洗った。二十年してきた汚れ仕事を、今日は騎士の目の前で説明している。笑われないよう急ぐ必要はない。
ラウルは途中で一度、俺の顔を見た。
「毎日、こうしてたんだな」
「はい。馬の桶も同じように洗っていました」
彼はそれ以上、過去を取り戻すような言葉を言わなかった。次の皿を持ち、角を光へ向けた。
桶の取っ手を拭いていると、ラウルが指を曲げた。手のひらの端が赤くなっている。剣を握るところとは、力のかかる場所が違うのだろう。
「手袋を使いますか。濡れた縄を持つとき用に置いてあります」
「これくらい平気だ」
言った顔に、俺は自分を見た。痛くてもできると言うとき、俺もあんなふうに肩へ力を入れていたかもしれない。
俺は棚から手袋を一組取り、台へ置いた。
「次の仕事でも、その手を使います。合うものを選んでください」
ラウルはしばらく見て、それから手を入れた。一組目は小さく、別のものに替える。誰かに罰として働かされているのではないのだから、指を痛めるまで素手で続ける必要はない。
彼は手袋の中で指を開き、俺へ頷いた。俺も頷き、次の桶を渡した。言葉をたくさん足さなくても、渡して受け取る手順は作れた。
◇
午後は、ルリの囲いの外側を片づけた。
竜がいる内側へ無理に入るのではなく、落ちた藁や泥を、外から届く範囲で集める。使った道具はトトの部屋へ持ち込まず、別に洗う。
ラウルは長い柄を持つと、最初、先ばかり見ていた。俺は足元も見るよう声をかけた。桶へ一歩近づきすぎて、柄が柵へ当たりそうだ。
「楽に道具を持てる場所に立ってください。ただし逃げる道は空けておいてください」
彼は立つ場所を変えた。
ルリが顔を上げる。
俺たちは手を止める。
青い竜はしばらく見ていたが、奥へ逃げなかった。鼻を鳴らし、また首を下ろした。
ラウルはすぐ仕事を再開せず、もう少し待った。俺はそれを見て、声をかけるのをやめた。自分で決める間も必要だ。
集めた藁を運ぶとき、ラウルが全部まとめて持とうとした。
ガランが通りかかり、半分に分けるよう言った。
「前が見えんぞ」
俺も来たばかりのころ、同じように言われた。
ラウルは反発しかけた顔をして、それから藁を下ろした。半分を俺が持ち、二人で歩く。
彼の上着に、小さな藁屑がついた。
俺はそれを見ても、何も言わなかった。汚れた騎士だと笑えば、昔の言葉を別の相手へ返すだけだ。仕事をした服として、そのままそこにあればいい。
◇
夕方、隊長がラウルの当番を確認した。
彼は今日したことを話した。皿洗い、外側の片づけ、ルリの観察。飛行訓練をしたとは言わなかった。
「明日は餌を置く役もやってみたいです」
ラウルが言った。
隊長は俺を見た。俺は今日のルリの様子を話し、朝の状態を見て決めるのがよいと答えた。
「無理なら、また見て記録します」
ラウルが付け加えた。
俺は顔を上げた。昨日までの彼なら、無理だと思われたくなくて言わなかった言葉だった。
隊長は頷いた。
「そのつもりで、準備してください」
話が済むと、ラウルは洗った道具を棚へ戻した。置き場所を一つ間違え、ミナに教わって直す。彼女へ、ありがとうと小さく言った。
俺は最後の桶を逆さにした。
「今日は助かりました」
ラウルは手を止めた。
「まだ礼を言ってもらえるほどでは……」
「今日の皿洗いのことです。二人でやったから終えられました」
彼は少し黙り、それから頷いた。
謝ったことで全部を帳消しにしたわけではない。だが今日、手伝ったことまで、なかったことにする必要もない。
俺は布を洗い、きつく絞らず広げた。
明日また顔を合わせたら、何かを思い出すかもしれない。そのときは、その日の俺で考える。
ラウルが使った手袋も、水気を切って干してあった。明日、誰が使ってもすぐ取れる場所だ。謝るために一度だけ働いて帰った跡ではなく、次の人が仕事を始めるための跡が残っていた。俺はその横を空け、乾いた布を掛けた。
今は、乾く場所へ皿を並べた。二人で洗った皿が、夕方の光を少しずつ返す。




