第28話 皿から離れた場所
ルリの餌皿は、朝になってもほとんど変わっていない。
表面が乾いた肉と、少し散った細かな餌。口をつけた跡はあるが、食べたとは言いにくい量だ。
水は減っている。
俺は二つを別々に記した。食べないから何も受けつけていないと決めると、飲めていることまで見えなくなりそうだ。
リーネは囲いの外からルリを見た。前日より呼吸は落ち着き、横になる時間もあった。けれど人が近づけば首を上げ、目で追う。
「身体の確認は続けます。食べない時間が長くなれば、別の対応も必要です。今日は、まず食べられる条件を探しましょう」
彼女は量と時刻の目安を示した。俺は勝手に増やしたり、別の物を混ぜたりしないことを確かめた。
餌は、元の場所で使っていたものに近い配合だ。運搬所からの記録もある。ただ、同じ餌でも、置かれる場所と人は違う。
俺は新しい皿を用意した。古いものを出しっぱなしにせず、清潔な皿へ決めた量を載せる。
ルリはその動きを目で追う。
「ここへ置くぞ」
声を落とし、作業口から皿を入れた。腕をすぐ引き、二歩下がる。
青い竜は動かない。
シグなら、もう鼻を寄せてくる距離だ。だが目の前にいるのはルリだ。
ラウルが来たのは、その少し後だった。
昨日のことが気になっているのか、今日は柵へ近づかなかった。だが何もせず立つのが落ち着かないらしく、腰の手袋を持ち替える。
「食べないのか」
「今は食べるかどうか見ています」
「餌をもっと近づけてみたらどうだ」
俺は首を振った。
「近づくとあの角へ逃げてしまうので、皿はそのままにして、人だけ離れてみたいんです」
ラウルはルリを見た。竜は確かに、俺が皿を置いたときより奥にいる。
俺は紙と筆を彼へ渡した。
「ここから見て、ルリの動きを書いてもらえますか」
「俺が?」
「離れた後の様子は自分では見えにくいので、見ていてほしいんです」
ラウルは紙を受け取った。騎手になるために来たのに、記録係にされたと思ったのか、口元が固い。
俺は役に立たない仕事を渡したつもりはない。自分がいないときに竜が何をするかは、俺ひとりでは見られない。
「時刻と頭の向き、皿へ近づいたか離れたかを書いてください。分からない所は空けておいて構いません」
彼は筆を持ち直した。
「食べたら呼べばいいんだな」
「食べ始めたところを驚かせたくないので、声を出さずに手を上げて知らせてください」
ラウルは俺を見て、それから頷いた。
俺は柵から四歩離れた。ルリの目が追ってくる。さらに横へ移り、布の仕切りの向こうへ回った。
見えなくなる直前、青い首が少し下がった。
ラウルは最初、紙の上に細かな欄を作った。訓練で使う記録と似ているらしい。時刻の横へ目印を書き、竜の動きを短い言葉にしていく。俺よりずっと速い。
「そういう記録のつけ方も習うんですね」
「騎士は、剣を振るだけじゃない」
彼は少し尖った声で答えた。
俺は頷いた。知らなかったのだから、教えてもらえばよかった。彼がよく知っている仕事まで、昨日の失敗と一緒に消すつもりはない。
「俺は書くのが遅くて、時刻を書いている間に顔を上げ損ねることがあります。短くまとめられると助かります」
ラウルは返事をせず、紙を置く向きを変えた。顔を上げればすぐ竜が見える角度だ。記録する手と見る目を、同じ方向へ置いたのだ。
俺はその置き方を覚えた。彼に見る仕事を渡したつもりだったが、俺が教わるところも、もうあった。
壁の陰で待つ時間は、竜の前に立つより長く感じる。
何をしているか確かめたくて、何度も顔を出しかける。だが出れば、同じことをやり直すかもしれない。
俺は水桶の縁を拭いた。手を使うと、少し待ちやすい。
しばらくして、ラウルの手が見えた。
俺は走らず近づき、彼の隣で止まった。竜は皿の少し手前にいた。さっきより近い。
「一度は鼻を下げたが、俺が動くと止まった」
ラウルが小さく言った。
紙には、俺が教えたより細かな字で線が並ぶ。頭下げる。三歩。停止。自分、筆を取る。
最後のところで、俺は彼を見た。
「自分が動いたことも書いてくれたんですね」
「それで止まったから」
彼は少し不機嫌そうに答えた。
俺は頷いた。それが知りたかった。
次はラウルの立つ場所も変えた。竜からは身体の半分が見えない位置。紙を置く台を先に用意し、筆を取る動きを小さくする。
俺は皿を動かさず、同じ道を通って離れた。
ルリは少し早く首を下げた。
今度は皿へ鼻が届く。匂いを嗅ぎ、ひと切れを口へ入れる。
ラウルの肩が動いた。
声は出ない。手も上がらない。俺は離れたところから、その横顔を見ていた。彼は筆を持ったまま、竜が飲み込むまで待っている。
もうひと切れが消えた。
俺は胸の中で数えた。数える声さえ、外へ出したくなかった。
全部は食べなかった。
ルリは途中で顔を上げ、遠くの戸が閉まった方を見た。それから皿を離れ、布の陰へ戻った。
俺たちはそのまま少し待ち、戻ってこないことを確かめてから皿を下げた。残りを量る。数字が、朝とは違った。
皿の外へ落ちた欠片も、見える分は集めた。それを食べたことに数えれば、実際よりよく見えてしまう。ラウルは最初の数字へ小さく印をつけ、落ちた分を足して書き直した。良くなった話にしたい朝ほど、そこを省かずにいたかった。
「食べましたね」
ミナが記録を覗いた。
ラウルは紙を台へ置いた。
「俺の立ち位置が邪魔だったんだな」
俺は量りの皿を拭きながら答えた。
「今のルリには近すぎたんでしょう」
「同じことだろう」
「あなたを責めているのではありません。今日は、どれくらい離れれば食べられるかが分かったんです」
言ってから、俺自身にも向いた言葉だと思った。俺が近づいたときにも食べなかった。水桶を動かした男だからと、全ての竜に近づいてよいわけではない。
ラウルは黙って紙を見た。
ミナが横へ小さな図を描いた。皿、柱、布、俺とラウルの位置。歩数だけより分かりやすい。
「こうして描けば、次も同じ場所に立てます」
彼女が言うと、ラウルは図を見比べ、自分の立ち位置を少し直した。
「ここだ。柱の真横ではなく、少し後ろだった」
ミナは線を引き直した。
二人が紙の上で話している。竜を従わせた者の手柄を取り合う声ではなく、どこへ立っていたかを確かめる声だ。
俺はその間に、水を新しく汲んだ。
◇
昼の引き継ぎで、隊長がラウルの紙を読んだ。
「見たことと、考えたことを分けてくれていますね」
最初の頁には、警戒している、と書かれていた。後の頁では、首を上げた、柱の方を見た、と動きになっている。
「何を考えているかまでは分からないから、動きだけを書きました」
ラウルが答えた。
隊長は頷き、最初の言葉を線で消さず、隣へ観察を足すよう頼んだ。どう見て、どう考え直したかも残せる。ラウルは机へ座り、筆を取った。
俺はその間、シグの水を替えた。黒竜は顔を寄せ、いつもの刷毛を待つ。青い竜の食事が気になっても、ここの朝から続く時間も大事だ。
戻ると、紙にはラウル自身の立ち位置が書き足されていた。彼は俺へ渡し、ここの歩数は合っているかと尋ねた。俺は床を歩いて確かめた。二人で見たことが、どちらか一人の思い込みより確かなものになっていった。
◇
午後の餌では、同じ距離を使った。
全てを同じにすれば必ず食べると決まったわけではない。風も音も、竜の腹具合も違う。それでも一度に何もかも変えずに済む。
ラウルは皿を置く役をやりたそうだったが、今日は俺の動きを見たいと言った。自分からそう言ったのか、昨日の隊長の声が残っているのかは分からない。
俺は作業口を開き、皿を入れ、下がった。
ルリがこちらを見る。俺は目を合わせ続けず、決めた場所へ離れた。
しばらくして、皿を擦る小さな音がする。
食べている。
ラウルは声を出さず、手をゆっくり上げた。俺は遠くから頷いた。誰も祝いに近づかなかった。
食べ終えた後、青い竜は水を飲んだ。鼻先から落ちる滴が、床に細かな点を作った。箱の中で短く息をしていた昨日とは、違う時間が流れる。
リーネが記録を見て、今日の量ならこの方法を続けて確認できると言った。診察で見る場所も、少しずつ増やす。急に身体へ触れる予定は立てなかった。
◇
夕方、ラウルが筆を洗っていた。
俺が横を通ると、彼は手を止めた。
「明日もここから見ればいいのか」
「朝の様子を見て隊長と決めます。また気づいたことを教えてください」
彼は短く頷いた。
紙には、彼の名前が書かれている。騎手として飛んだ記録ではない。青い竜が二切れの餌を食べるまで、動かずに見ていた人の名前だ。
俺はその紙を、ミナの図と一緒に綴じた。




