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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第3部 戻らなくていい

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第28話 皿から離れた場所

 ルリの餌皿は、朝になってもほとんど変わっていない。


 表面が乾いた肉と、少し散った細かな餌。口をつけた跡はあるが、食べたとは言いにくい量だ。


 水は減っている。


 俺は二つを別々に記した。食べないから何も受けつけていないと決めると、飲めていることまで見えなくなりそうだ。


 リーネは囲いの外からルリを見た。前日より呼吸は落ち着き、横になる時間もあった。けれど人が近づけば首を上げ、目で追う。


「身体の確認は続けます。食べない時間が長くなれば、別の対応も必要です。今日は、まず食べられる条件を探しましょう」


 彼女は量と時刻の目安を示した。俺は勝手に増やしたり、別の物を混ぜたりしないことを確かめた。


 餌は、元の場所で使っていたものに近い配合だ。運搬所からの記録もある。ただ、同じ餌でも、置かれる場所と人は違う。


 俺は新しい皿を用意した。古いものを出しっぱなしにせず、清潔な皿へ決めた量を載せる。


 ルリはその動きを目で追う。


「ここへ置くぞ」


 声を落とし、作業口から皿を入れた。腕をすぐ引き、二歩下がる。


 青い竜は動かない。


 シグなら、もう鼻を寄せてくる距離だ。だが目の前にいるのはルリだ。


 ラウルが来たのは、その少し後だった。


 昨日のことが気になっているのか、今日は柵へ近づかなかった。だが何もせず立つのが落ち着かないらしく、腰の手袋を持ち替える。


「食べないのか」


「今は食べるかどうか見ています」


「餌をもっと近づけてみたらどうだ」


 俺は首を振った。


「近づくとあの角へ逃げてしまうので、皿はそのままにして、人だけ離れてみたいんです」


 ラウルはルリを見た。竜は確かに、俺が皿を置いたときより奥にいる。


 俺は紙と筆を彼へ渡した。


「ここから見て、ルリの動きを書いてもらえますか」


「俺が?」


「離れた後の様子は自分では見えにくいので、見ていてほしいんです」


 ラウルは紙を受け取った。騎手になるために来たのに、記録係にされたと思ったのか、口元が固い。


 俺は役に立たない仕事を渡したつもりはない。自分がいないときに竜が何をするかは、俺ひとりでは見られない。


「時刻と頭の向き、皿へ近づいたか離れたかを書いてください。分からない所は空けておいて構いません」


 彼は筆を持ち直した。


「食べたら呼べばいいんだな」


「食べ始めたところを驚かせたくないので、声を出さずに手を上げて知らせてください」


 ラウルは俺を見て、それから頷いた。


 俺は柵から四歩離れた。ルリの目が追ってくる。さらに横へ移り、布の仕切りの向こうへ回った。


 見えなくなる直前、青い首が少し下がった。


 ラウルは最初、紙の上に細かな欄を作った。訓練で使う記録と似ているらしい。時刻の横へ目印を書き、竜の動きを短い言葉にしていく。俺よりずっと速い。


「そういう記録のつけ方も習うんですね」


「騎士は、剣を振るだけじゃない」


 彼は少し尖った声で答えた。


 俺は頷いた。知らなかったのだから、教えてもらえばよかった。彼がよく知っている仕事まで、昨日の失敗と一緒に消すつもりはない。


「俺は書くのが遅くて、時刻を書いている間に顔を上げ損ねることがあります。短くまとめられると助かります」


 ラウルは返事をせず、紙を置く向きを変えた。顔を上げればすぐ竜が見える角度だ。記録する手と見る目を、同じ方向へ置いたのだ。


 俺はその置き方を覚えた。彼に見る仕事を渡したつもりだったが、俺が教わるところも、もうあった。


 壁の陰で待つ時間は、竜の前に立つより長く感じる。


 何をしているか確かめたくて、何度も顔を出しかける。だが出れば、同じことをやり直すかもしれない。


 俺は水桶の縁を拭いた。手を使うと、少し待ちやすい。


 しばらくして、ラウルの手が見えた。


 俺は走らず近づき、彼の隣で止まった。竜は皿の少し手前にいた。さっきより近い。


「一度は鼻を下げたが、俺が動くと止まった」


 ラウルが小さく言った。


 紙には、俺が教えたより細かな字で線が並ぶ。頭下げる。三歩。停止。自分、筆を取る。


 最後のところで、俺は彼を見た。


「自分が動いたことも書いてくれたんですね」


「それで止まったから」


 彼は少し不機嫌そうに答えた。


 俺は頷いた。それが知りたかった。


 次はラウルの立つ場所も変えた。竜からは身体の半分が見えない位置。紙を置く台を先に用意し、筆を取る動きを小さくする。


 俺は皿を動かさず、同じ道を通って離れた。


 ルリは少し早く首を下げた。


 今度は皿へ鼻が届く。匂いを嗅ぎ、ひと切れを口へ入れる。


 ラウルの肩が動いた。


 声は出ない。手も上がらない。俺は離れたところから、その横顔を見ていた。彼は筆を持ったまま、竜が飲み込むまで待っている。


 もうひと切れが消えた。


 俺は胸の中で数えた。数える声さえ、外へ出したくなかった。


 全部は食べなかった。


 ルリは途中で顔を上げ、遠くの戸が閉まった方を見た。それから皿を離れ、布の陰へ戻った。


 俺たちはそのまま少し待ち、戻ってこないことを確かめてから皿を下げた。残りを量る。数字が、朝とは違った。


 皿の外へ落ちた欠片も、見える分は集めた。それを食べたことに数えれば、実際よりよく見えてしまう。ラウルは最初の数字へ小さく印をつけ、落ちた分を足して書き直した。良くなった話にしたい朝ほど、そこを省かずにいたかった。


「食べましたね」


 ミナが記録を覗いた。


 ラウルは紙を台へ置いた。


「俺の立ち位置が邪魔だったんだな」


 俺は量りの皿を拭きながら答えた。


「今のルリには近すぎたんでしょう」


「同じことだろう」


「あなたを責めているのではありません。今日は、どれくらい離れれば食べられるかが分かったんです」


 言ってから、俺自身にも向いた言葉だと思った。俺が近づいたときにも食べなかった。水桶を動かした男だからと、全ての竜に近づいてよいわけではない。


 ラウルは黙って紙を見た。


 ミナが横へ小さな図を描いた。皿、柱、布、俺とラウルの位置。歩数だけより分かりやすい。


「こうして描けば、次も同じ場所に立てます」


 彼女が言うと、ラウルは図を見比べ、自分の立ち位置を少し直した。


「ここだ。柱の真横ではなく、少し後ろだった」


 ミナは線を引き直した。


 二人が紙の上で話している。竜を従わせた者の手柄を取り合う声ではなく、どこへ立っていたかを確かめる声だ。


 俺はその間に、水を新しく汲んだ。


◇


 昼の引き継ぎで、隊長がラウルの紙を読んだ。


「見たことと、考えたことを分けてくれていますね」


 最初の頁には、警戒している、と書かれていた。後の頁では、首を上げた、柱の方を見た、と動きになっている。


「何を考えているかまでは分からないから、動きだけを書きました」


 ラウルが答えた。


 隊長は頷き、最初の言葉を線で消さず、隣へ観察を足すよう頼んだ。どう見て、どう考え直したかも残せる。ラウルは机へ座り、筆を取った。


 俺はその間、シグの水を替えた。黒竜は顔を寄せ、いつもの刷毛を待つ。青い竜の食事が気になっても、ここの朝から続く時間も大事だ。


 戻ると、紙にはラウル自身の立ち位置が書き足されていた。彼は俺へ渡し、ここの歩数は合っているかと尋ねた。俺は床を歩いて確かめた。二人で見たことが、どちらか一人の思い込みより確かなものになっていった。


◇


 午後の餌では、同じ距離を使った。


 全てを同じにすれば必ず食べると決まったわけではない。風も音も、竜の腹具合も違う。それでも一度に何もかも変えずに済む。


 ラウルは皿を置く役をやりたそうだったが、今日は俺の動きを見たいと言った。自分からそう言ったのか、昨日の隊長の声が残っているのかは分からない。


 俺は作業口を開き、皿を入れ、下がった。


 ルリがこちらを見る。俺は目を合わせ続けず、決めた場所へ離れた。


 しばらくして、皿を擦る小さな音がする。


 食べている。


 ラウルは声を出さず、手をゆっくり上げた。俺は遠くから頷いた。誰も祝いに近づかなかった。


 食べ終えた後、青い竜は水を飲んだ。鼻先から落ちる滴が、床に細かな点を作った。箱の中で短く息をしていた昨日とは、違う時間が流れる。


 リーネが記録を見て、今日の量ならこの方法を続けて確認できると言った。診察で見る場所も、少しずつ増やす。急に身体へ触れる予定は立てなかった。


◇


 夕方、ラウルが筆を洗っていた。


 俺が横を通ると、彼は手を止めた。


「明日もここから見ればいいのか」


「朝の様子を見て隊長と決めます。また気づいたことを教えてください」


 彼は短く頷いた。


 紙には、彼の名前が書かれている。騎手として飛んだ記録ではない。青い竜が二切れの餌を食べるまで、動かずに見ていた人の名前だ。


 俺はその紙を、ミナの図と一緒に綴じた。


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