第30話 北竜厩舎を希望します
朝の餌皿を持ったのは、ラウルだった。
俺は少し離れた場所で見守る。隊長も柵の外に立ち、ルリの頭がどちらを向くかを確かめている。
青い竜は、ラウルが近づくと顔を上げた。
彼は止まった。
昨日までなら、もう一歩近づいて自分を見せようとしたかもしれない。今日は皿を持ったまま、身体を少し横へ向けた。竜の正面へ胸を広く見せず、逃げる道を塞がない。
ルリの鼻先が、わずかに下がる。
ラウルは作業口へ進んだ。皿を押し出し、すぐに腕を引く。戸を閉める音を小さくし、決めた歩数だけ下がった。
俺は手を出さなかった。
彼が見てきた順番を、自分の手でしている。
ルリはしばらく動かない。ラウルの顔に、待ちきれない力が入る。口が少し開いたが、声は出ない。
青い前足が一歩進む。
鼻先が皿へ伸びる。
ラウルは目を見開いた。俺はその横顔を見てから、竜へ視線を戻した。
ひと切れが、口へ入る。
喉が動き、もうひと切れ。ルリは途中でラウルを見るが、皿から離れない。
彼は両手を脇へ下ろし、何も取りに行かなかった。褒められるために振り向くことも、俺へ確認を求めることもせず、竜が食べるのを見ている。
食べ終えるまで、俺たちは同じ場所にいた。
皿を下げると、ラウルは長く息を吐いた。
「食べた」
声にすると、やっと実感が追いついたようだった。
「食べましたね」
俺も答えた。
彼は空に近い皿を持ち、縁についた汁を見た。
「俺が置いた餌でも食べてくれた」
その言葉は、手柄を主張するものではない。自分が近づけば怖がらせると思っていた若者が、初めて違う朝を見た声だった。
隊長が横へ来た。
「次に急ぎたくなったときのために、今日こうして待てたことも記録してください」
ラウルは頷いた。
俺は皿を受け取らず、洗う場所を空けた。彼は自分で量り、記録し、水場へ運んだ。昨日教えたように、汚れたところを少し浸す。
ルリは水を飲み、布の陰へ戻った。誰かの手へ顔を寄せるところまでは進んでいない。それでも、ラウルの置いた皿へ、自分の足で来た。
俺はその姿を見ながら、第三馬厩の若い馬丁が言った返事を思い出していた。
俺が替えます。
あちらにも、こちらにも、次に手を出す人がいる。
◇
午前の仕事を終えると、隊長の部屋へ行った。
机には、第三馬厩からの配置変更の要求が置かれている。返事を待つ期限が、近づく。
俺は戸口で深く息を吸った。
「返事を書きたいです」
隊長は椅子を引いた。
「希望は決まりましたか」
「はい。北竜厩舎に残りたいです」
口にすると、部屋の中が少し広くなった気がした。言う前には、胸の中へ置く場所を探していた言葉だった。
隊長は笑いかけ、それから先に紙を出した。
「では、その希望を書きましょう」
俺は筆を持った。
立派な文章にしなければいけないと思うと、手が止まる。馬を心配していることも、二十年間の仕事を捨てるわけではないことも、ここでの暮らしがありがたいことも、全部入れたくなる。
隊長は最初の一文を聞いた。
「いちばん伝えたいことは何ですか」
「俺はここで働きたいです」
「それを先に書いてください」
筆を置く前に、俺は隊長へ尋ねた。
「給料や部屋のことも理由にしていいですか」
「もちろんです」
彼女は答えた。
「竜のためだけと書く方が立派に見えるかもしれません。でも、ちゃんと眠れる部屋があるから、朝も落ち着いて世話ができます。金が残るから長靴も買えました」
言いながら、机の下の自分の足を思った。今日も、乾いている。
「そういうことも含めて、ここで働きたいです」
隊長は頷き、俺が続けるのを待った。立派に見せるために、自分が嬉しかったことを消す必要はない。
俺は書いた。
北竜厩舎での勤務を希望します。
二度読み返した。言い訳から始めていない文は、少し裸のように見える。けれど、間違っていない。
その下に、第三馬厩への配置復帰は希望しないと書いた。手順の引き継ぎや必要な相談は、両厩舎の当番を調整して対応したい、と続ける。
全部を断るのでも、全部を引き受けるのでもない。自分が続けられる形を、紙へ置いた。
最後に、ダグ、と署名した。
手が震えたのは、給料を受け取るときほどではなかった。
署名を乾かすあいだ、俺は持ってきた手帳を開いた。最初の方は紙が薄くなり、角が丸まっている。第三馬厩の馬のことが、細かな字で続く。
雨の朝、水を飲むのが遅い。藁を壁から離す。右の腹帯の穴を替える。
見返せば、そのときの足元や、桶を持った手の疲れまで思い出す。どれも、大きな手柄としては書いていない。次の朝に忘れないための言葉だった。
北へ残ると決めても、この頁を破る必要はない。俺が覚えてきたことは、今も俺の手の中にある。
「この手帳から向こうで役立つ所をまた写して渡したいです」
俺が言うと、隊長は時間を取ろうと答えた。仕事を終えた夜中に、ひとりで全部写せとは言わなかった。
俺は古い頁を閉じ、今日書いた紙を見た。前の二十年を嫌いにならなくても、次の朝を自分で選べる。そのことが、ようやく同じ机の上に並んだ。
返事は、隊長が正式な経路で送ってくれた。
俺の希望を彼女の都合へ書き換えず、そのまま添える。北としても勤務の継続を求めることは、別の紙に記された。
◇
数日後、オーデンから短い返書が届いた。
復帰を見送ることを了解する。ただし今後、必要な手順確認を求める場合がある。
綺麗な祝福ではなかった。惜しまれる長い言葉も、謝罪もなかった。
俺は紙を読んで、息を吐いた。
了解と書かれている。
俺が自分で選んだ返事が、向こうへ届いたのだ。
「写しを俺も持っていていいですか」
尋ねると、隊長は一枚渡してくれた。俺は紙の端を丁寧に合わせ、上着の内側へ入れた。誰かに見せつけるためではなかった。自分が何と答えたかを、自分の部屋にも残しておきたかった。
封筒には、若い馬丁たちからの短い紙も入っていた。老馬が朝の水を飲み、洗い場の順番も続けている。質問はあるが、まず二人で確かめてから送ると書かれている。俺はその紙を読み、折り目を指で伸ばした。戻らなければ全てが止まるという話では、もうない。
隊長は、今後の相談は個人へ突然呼びつけるのではなく、厩舎同士で調整すると返すことにした。俺もそれでよいと答えた。
「寂しいですか」
彼女が聞いた。
俺は考えた。
「馬にはまた会いたいです」
「応援の日や休みの日に、また会いに行けますよ」
休みの日に会いに行く。
働きに戻る以外にも、会う方法がある。俺はそれを今まで、あまり考えていなかった。
「でも、ここを選べてほっとしています」
言うと、隊長は今度こそ笑った。
「私もほっとしました」
俺はその顔を見て、自分の希望が誰かを困らせるだけのものではなかったと分かった。
◇
夕方、皆へ伝えた。
特別な席ではなく、翌日の当番を確かめる時間だった。ガランが道具を拭き、ミナは記録の紙を揃え、ラウルは洗った皿を運んでいた。
「北で勤務を続けることになりました」
俺が言うと、ミナの手が止まった。
「よかった」
すぐに出た声だった。
ガランは短く頷いた。
「じゃあ明日、水場の台を一緒に見るぞ」
新しく作る台の相談が、少しずつ進んでいる。急に全部が揃ったわけではない。明日も考えることがあり、その相手に俺が入っている。
ラウルは皿を棚へ置き、こちらへ向き直った。
「ダグさん、明日の餌やりも見てもらえますか」
名前のあとに、さんがついた。
俺は一瞬、返事が遅れた。彼もそれに気づいたようだったが、言い直さなかった。
「はい。朝の様子から一緒に見ましょう」
俺は答えた。
昔の呼び方が消えたわけではない。覚えている。けれど、今日の呼び方もまた、耳に残った。
ミナが明日の表へ俺の名前を書いた。今度は、仮に空けておく欄ではない。
俺は紙を覗き込み、水の時刻を確かめた。
◇
夜、シグが鼻先を寄せてきた。
俺は青い刷毛を持ち、いつもの場所で待った。少し向こうでは、ルリが布の陰へ伏せている。トトの部屋からは、小さな爪の音がする。
ここに来た日、俺の荷物は布袋ひとつだった。
今も持ち物は多くない。けれど鍵があり、長靴があり、給料を受け取る日がある。俺の書いた記録を読む人がいて、俺が眠るあいだに水を見てくれる人もいる。
「明日もここへ来るぞ」
シグへ言うと、黒い額が掌へ触れた。
異動を命じられたから来る朝とは違う。
俺が働きたいと書いた場所へ、明日の俺が来る。
竜の温かさを掌へ残したまま、俺は刷毛をしまった。夜番へ声をかけ、自分の部屋へ帰った。
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