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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第3部 戻らなくていい

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30/30

第30話 北竜厩舎を希望します

 朝の餌皿を持ったのは、ラウルだった。


 俺は少し離れた場所で見守る。隊長も柵の外に立ち、ルリの頭がどちらを向くかを確かめている。


 青い竜は、ラウルが近づくと顔を上げた。


 彼は止まった。


 昨日までなら、もう一歩近づいて自分を見せようとしたかもしれない。今日は皿を持ったまま、身体を少し横へ向けた。竜の正面へ胸を広く見せず、逃げる道を塞がない。


 ルリの鼻先が、わずかに下がる。


 ラウルは作業口へ進んだ。皿を押し出し、すぐに腕を引く。戸を閉める音を小さくし、決めた歩数だけ下がった。


 俺は手を出さなかった。


 彼が見てきた順番を、自分の手でしている。


 ルリはしばらく動かない。ラウルの顔に、待ちきれない力が入る。口が少し開いたが、声は出ない。


 青い前足が一歩進む。


 鼻先が皿へ伸びる。


 ラウルは目を見開いた。俺はその横顔を見てから、竜へ視線を戻した。


 ひと切れが、口へ入る。


 喉が動き、もうひと切れ。ルリは途中でラウルを見るが、皿から離れない。


 彼は両手を脇へ下ろし、何も取りに行かなかった。褒められるために振り向くことも、俺へ確認を求めることもせず、竜が食べるのを見ている。


 食べ終えるまで、俺たちは同じ場所にいた。


 皿を下げると、ラウルは長く息を吐いた。


「食べた」


 声にすると、やっと実感が追いついたようだった。


「食べましたね」


 俺も答えた。


 彼は空に近い皿を持ち、縁についた汁を見た。


「俺が置いた餌でも食べてくれた」


 その言葉は、手柄を主張するものではない。自分が近づけば怖がらせると思っていた若者が、初めて違う朝を見た声だった。


 隊長が横へ来た。


「次に急ぎたくなったときのために、今日こうして待てたことも記録してください」


 ラウルは頷いた。


 俺は皿を受け取らず、洗う場所を空けた。彼は自分で量り、記録し、水場へ運んだ。昨日教えたように、汚れたところを少し浸す。


 ルリは水を飲み、布の陰へ戻った。誰かの手へ顔を寄せるところまでは進んでいない。それでも、ラウルの置いた皿へ、自分の足で来た。


 俺はその姿を見ながら、第三馬厩の若い馬丁が言った返事を思い出していた。


 俺が替えます。


 あちらにも、こちらにも、次に手を出す人がいる。


◇


 午前の仕事を終えると、隊長の部屋へ行った。


 机には、第三馬厩からの配置変更の要求が置かれている。返事を待つ期限が、近づく。


 俺は戸口で深く息を吸った。


「返事を書きたいです」


 隊長は椅子を引いた。


「希望は決まりましたか」


「はい。北竜厩舎に残りたいです」


 口にすると、部屋の中が少し広くなった気がした。言う前には、胸の中へ置く場所を探していた言葉だった。


 隊長は笑いかけ、それから先に紙を出した。


「では、その希望を書きましょう」


 俺は筆を持った。


 立派な文章にしなければいけないと思うと、手が止まる。馬を心配していることも、二十年間の仕事を捨てるわけではないことも、ここでの暮らしがありがたいことも、全部入れたくなる。


 隊長は最初の一文を聞いた。


「いちばん伝えたいことは何ですか」


「俺はここで働きたいです」


「それを先に書いてください」


 筆を置く前に、俺は隊長へ尋ねた。


「給料や部屋のことも理由にしていいですか」


「もちろんです」


 彼女は答えた。


「竜のためだけと書く方が立派に見えるかもしれません。でも、ちゃんと眠れる部屋があるから、朝も落ち着いて世話ができます。金が残るから長靴も買えました」


 言いながら、机の下の自分の足を思った。今日も、乾いている。


「そういうことも含めて、ここで働きたいです」


 隊長は頷き、俺が続けるのを待った。立派に見せるために、自分が嬉しかったことを消す必要はない。


 俺は書いた。


 北竜厩舎での勤務を希望します。


 二度読み返した。言い訳から始めていない文は、少し裸のように見える。けれど、間違っていない。


 その下に、第三馬厩への配置復帰は希望しないと書いた。手順の引き継ぎや必要な相談は、両厩舎の当番を調整して対応したい、と続ける。


 全部を断るのでも、全部を引き受けるのでもない。自分が続けられる形を、紙へ置いた。


 最後に、ダグ、と署名した。


 手が震えたのは、給料を受け取るときほどではなかった。


 署名を乾かすあいだ、俺は持ってきた手帳を開いた。最初の方は紙が薄くなり、角が丸まっている。第三馬厩の馬のことが、細かな字で続く。


 雨の朝、水を飲むのが遅い。藁を壁から離す。右の腹帯の穴を替える。


 見返せば、そのときの足元や、桶を持った手の疲れまで思い出す。どれも、大きな手柄としては書いていない。次の朝に忘れないための言葉だった。


 北へ残ると決めても、この頁を破る必要はない。俺が覚えてきたことは、今も俺の手の中にある。


「この手帳から向こうで役立つ所をまた写して渡したいです」


 俺が言うと、隊長は時間を取ろうと答えた。仕事を終えた夜中に、ひとりで全部写せとは言わなかった。


 俺は古い頁を閉じ、今日書いた紙を見た。前の二十年を嫌いにならなくても、次の朝を自分で選べる。そのことが、ようやく同じ机の上に並んだ。


 返事は、隊長が正式な経路で送ってくれた。


 俺の希望を彼女の都合へ書き換えず、そのまま添える。北としても勤務の継続を求めることは、別の紙に記された。


◇


 数日後、オーデンから短い返書が届いた。


 復帰を見送ることを了解する。ただし今後、必要な手順確認を求める場合がある。


 綺麗な祝福ではなかった。惜しまれる長い言葉も、謝罪もなかった。


 俺は紙を読んで、息を吐いた。


 了解と書かれている。


 俺が自分で選んだ返事が、向こうへ届いたのだ。


「写しを俺も持っていていいですか」


 尋ねると、隊長は一枚渡してくれた。俺は紙の端を丁寧に合わせ、上着の内側へ入れた。誰かに見せつけるためではなかった。自分が何と答えたかを、自分の部屋にも残しておきたかった。


 封筒には、若い馬丁たちからの短い紙も入っていた。老馬が朝の水を飲み、洗い場の順番も続けている。質問はあるが、まず二人で確かめてから送ると書かれている。俺はその紙を読み、折り目を指で伸ばした。戻らなければ全てが止まるという話では、もうない。


 隊長は、今後の相談は個人へ突然呼びつけるのではなく、厩舎同士で調整すると返すことにした。俺もそれでよいと答えた。


「寂しいですか」


 彼女が聞いた。


 俺は考えた。


「馬にはまた会いたいです」


「応援の日や休みの日に、また会いに行けますよ」


 休みの日に会いに行く。


 働きに戻る以外にも、会う方法がある。俺はそれを今まで、あまり考えていなかった。


「でも、ここを選べてほっとしています」


 言うと、隊長は今度こそ笑った。


「私もほっとしました」


 俺はその顔を見て、自分の希望が誰かを困らせるだけのものではなかったと分かった。


◇


 夕方、皆へ伝えた。


 特別な席ではなく、翌日の当番を確かめる時間だった。ガランが道具を拭き、ミナは記録の紙を揃え、ラウルは洗った皿を運んでいた。


「北で勤務を続けることになりました」


 俺が言うと、ミナの手が止まった。


「よかった」


 すぐに出た声だった。


 ガランは短く頷いた。


「じゃあ明日、水場の台を一緒に見るぞ」


 新しく作る台の相談が、少しずつ進んでいる。急に全部が揃ったわけではない。明日も考えることがあり、その相手に俺が入っている。


 ラウルは皿を棚へ置き、こちらへ向き直った。


「ダグさん、明日の餌やりも見てもらえますか」


 名前のあとに、さんがついた。


 俺は一瞬、返事が遅れた。彼もそれに気づいたようだったが、言い直さなかった。


「はい。朝の様子から一緒に見ましょう」


 俺は答えた。


 昔の呼び方が消えたわけではない。覚えている。けれど、今日の呼び方もまた、耳に残った。


 ミナが明日の表へ俺の名前を書いた。今度は、仮に空けておく欄ではない。


 俺は紙を覗き込み、水の時刻を確かめた。


◇


 夜、シグが鼻先を寄せてきた。


 俺は青い刷毛を持ち、いつもの場所で待った。少し向こうでは、ルリが布の陰へ伏せている。トトの部屋からは、小さな爪の音がする。


 ここに来た日、俺の荷物は布袋ひとつだった。


 今も持ち物は多くない。けれど鍵があり、長靴があり、給料を受け取る日がある。俺の書いた記録を読む人がいて、俺が眠るあいだに水を見てくれる人もいる。


「明日もここへ来るぞ」


 シグへ言うと、黒い額が掌へ触れた。


 異動を命じられたから来る朝とは違う。


 俺が働きたいと書いた場所へ、明日の俺が来る。


 竜の温かさを掌へ残したまま、俺は刷毛をしまった。夜番へ声をかけ、自分の部屋へ帰った。


ここまでお読みいただきありがとうございます。ダグの物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価をいただけるとうれしいです。

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― 新着の感想 ―
いくつも作者様の作品を読ませていただいています。どれも、ファンタジーが現実に見えるほど、質感のある言葉で語られていて面白い。ノンフィクションじゃないから当然というか、ある意味「騙り」の部分で創られてい…
働く者同士の気持ちや人としての尊厳が、伝わるいい話でした。最後まで気持ちよく読めました。あいりがとうございました。相手を尊重する気持ち、感謝の気持ちを言葉にして伝える事をあらためて感じました。
一歩一歩、ときには後ろを振り返る時もありますが、すがすがしい朝はかならずやってきてくれると思うような作品でした。 最後まで読めて、とても幸せです。ありがとうございました。
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