第24話 笑わなかった人
第三馬厩から、返事と空の布袋が届いた。
返事には、朝の作業が前より早く済んだこと、水の場所を変えた老馬が飲んだことが書かれている。最後に小さな字で、腹帯も見ています、とある。
俺はその行を指で押さえた。
空の布袋は、俺が向こうへ置いてきたものだった。届けに来たのは、昔一緒に働いていた二人の男だった。ひとりは馬具の手入れ、もうひとりは飼料の倉庫を受け持っていた。
顔を見れば名前も、よく使う道具も思い出せる。けれど、休みの日に何をしているのかは知らない。長く隣にいても、仕事以外の話はあまりしなかった。
「北を一度見たいと思ってな。見学の日は今日だと聞いた」
馬具係が言った。
門番が予定を確認し、俺は小部屋へ案内した。二人とも、第三馬厩の戸を入るときより少し足取りが慎重だ。
「広いな。おまえには持て余すくらいだろう」
倉庫係が梁を見上げた。
俺は台の上を片づけ、椅子を出した。
「皆で使っています。広いので、移動の順番を決めないと手が足りません」
「竜が二頭なら、馬十七頭より楽そうだが」
俺はトトの部屋の方を見た。小さくても夜に起きる。餌も水も、馬の手順とは違う。説明しようとして、まず座ってもらった。
長い間、俺は相手の言い方を聞いてから、どこまで言うか決めていた。今日は、見に来たなら見てもらえるものがある。
古い鞍を見せると、馬具係は黙って指を入れた。
壊れた芯の出方を確かめ、新しいものとの違いを尋ねる。俺は職人が直した箇所を示した。専門の話になると、彼の目がよく動く。
「人が乗ると縫い目が中へ入るから、横へ逃がしたのか」
「はい。鞍を合わせたとき、シグが足を引いたので気づいたんです」
「そういう具合の悪さは、座ってみないと分からないな」
彼は頷いた。俺が大した仕事をしたかどうかより、鞍の具合を知ろうとしている。その顔は、昔、隣の台で見たものと同じだった。
倉庫係は夜番表へ目を向ける。
「誰が何時に寝るかまで、ずいぶん細かく書くんだな」
「全員が起きている晩が続いたので、起きる人と休む人を両方決めることにしたんです」
「前は、おまえが全部見てたじゃないか」
俺は頷いた。
「今は皆で分担しています」
それだけ答えると、彼は少し拍子抜けした顔をした。
前と同じようにできるだろう、と続けたいのかもしれない。俺はその言葉を待たず、洗った布の棚を見せた。ミナが仕事で手を離せないので、俺が説明した。
油布と手当て布を分ける。濡れたものは別の桶へ。晴れの日と雨の日で干す場所を変える。
倉庫係は途中で、これは洗濯場へ任せればよいのではと言った。
「洗濯場の人に教わったやり方です。こちらで分けておくと、向こうで洗い直す手間も減るんです」
彼は棚の印を見直した。
俺が全部考え、全部する話ではない。それを一つずつ話すと、北の仕事の形が、自分にも前よりよく分かった。
倉庫係は棚の奥に並んだ袋へ目を留めた。口の結び方が二種類ある。開封したものと、まだ開けていないものを分けるためだと話すと、彼は近づいて確かめた。
「字がなくても分かるのか」
「暗い朝でも結び目に触れば分かります。ただ、最後は中身の匂いと状態も見ます」
彼は自分の倉庫では、印を墨で書いていると言った。雨で滲むことがあるので、結び方も変えてみるらしい。俺は予備の紐を渡し、解くところまで見せた。
そのあいだ、馬具係は古い鞍の帯を畳み直した。革に癖がつかない向きへ巻き、端を下へ挟む。俺が礼を言うと、彼は少し驚いた顔をした。
「手が空いたから、しただけだ」
「次に見せるとき、取り出しやすくなりました」
彼はもう一度、巻いた帯を見た。俺たちは昔も同じ台で道具を触っていた。そのときには、互いがした小さなことを、ほとんど言葉にしなかった。
◇
シグを見せたとき、二人は言葉をなくした。
煤色の頭が柵の向こうへ現れ、鼻息で床の藁が転がる。倉庫係が反射的に後ろへ下がった。俺は笑わず、その場所でよいと伝えた。
青い刷毛を持つと、シグが顔を寄せた。
俺はいつものように払った。額が下がり、掌へ重さが来る。今日は長く預けず、竜はすぐ水の方へ行った。
馬具係が息を吐いた。
「馬の世話をしていたときと、手つきが同じだな」
俺は自分の掌を見た。
「そうですか」
「耳の後ろを触る前に、一度止まるだろう。栗毛にも、そうしてた」
覚えている人がいる。
俺は少し顔を上げた。褒められたというより、昔の俺がそこにいたことを、誰かが見ていたのが分かった。
倉庫係が口を開いた。
「給料も上がったと聞いたぞ。竜のおかげだな」
俺は刷毛を布へ包んだ。
「上がりました。嬉しかったです」
「前は、文句も言わず働いてたのにな」
その言葉には、笑いが少し混じる。
俺は布の端を整えた。昔なら一緒に笑ったかもしれない。文句がない男でいるのが、一番波風を立てなかった。
「文句がなかったのではなくて、言い方が分かりませんでした」
顔を上げて答えた。
「水を運ぶ台が欲しいと言ってもいいことも、眠る時間を先に決めていいことも、ここで教わりました」
倉庫係は口を閉じた。
俺は彼を責める言葉を続けなかった。今日見てもらったものだけで、俺がどちらの暮らしを望んでいるかは分かると思う。
◇
帰り際、馬具係が一人だけ足を止めた。
倉庫係は先に門へ行っている。彼は俺の布袋を両手で持ち、なかなか渡さなかった。
「おまえが若い騎士にああ呼ばれていたこと、俺も知っていた」
俺は動かなかった。
「俺は笑わなかったから、それでいいと思っていた」
厩舎の中から、空桶を置く音がした。ミナが片づけをしている。いつもの音なのに、急に遠く聞こえる。
「止めなかった。聞こえてたのに、革を見てるふりをした」
彼は足元へ目を落としかけ、それから顔を上げ直した。
「言い返さないから慣れていて、もう気にしていないんだろうと思っていた」
俺は口の中が乾くのを感じた。慣れてはいた。次に何を言われるか分かるほど、慣れていた。だから先に袖を隠し、邪魔にならない場所へ退いた。そのことが、平気に見えていたのだ。
「俺も、何も言いませんでした」
「だからといって、何も言わなかったおまえが悪いとは思わない」
彼の声は低い。
「まず、聞こえていたのに止めなかったと伝えたかった」
俺は彼の手を見た。革の染みのついた指が、袋の端を折っている。綺麗な言葉だけを持ってきたのではなく、言いにくいことを言うために残ったのだと、その手で分かった。
それでも、すぐに昔と同じ顔で話せるわけではない。俺は息を一つ置いた。彼は待っていた。
彼は袋を差し出した。
「悪かった」
俺は受け取った。
大したことではなかったと言えば、彼は楽になるだろう。もう気にしていないと言えば、この話は綺麗に終わる。
けれど、そう言う気持ちはない。
「聞いていたんですね」
「聞いていた」
彼は目を逸らさなかった。
俺は袋の口を指で開き、閉じた。
「今いる二人が何か言われたら止めてもらえますか。遅いからと、仕事を全部一人に押しつけることもしないでください」
彼は頷いた。
「止める。手順が変わったところも、俺から話す」
「お願いします」
俺はそれだけ言った。
許したのかどうか、自分でも分からない。だが、これからしてほしいことは言えた。昔のことを無かったことにするより、今の俺にはその方が必要だ。
彼は頭を下げ、門へ歩いた。
途中で一度戻り、朝の手順の写しを一枚もらえるかと聞いた。俺は棚から出して渡した。自分の受け持ちではないから知らない、と次は言わずに済むようにするのだという。紙を折る彼の手を見て、謝った後にすることを、自分でも考えてくれたのだと思った。
◇
小部屋へ戻ると、ミナが椅子を寄せていた。
「片づけは、あと台を拭くだけです」
彼女は俺の顔を見たが、話した内容を尋ねなかった。俺は布袋を棚へ置き、もう一枚の布を取った。
二人で台を拭いた。隅に残った木屑が、湿った布へつく。窓から入る光の中で、小さな埃が舞う。
「昔の俺の仕事を見ていた人もいたようです」
俺はぽつりと言った。
ミナは手を止めずに聞いた。
「でも、見ていたことを言ってもらえなかったんですね」
「はい」
俺は頷いた。
見ていることと、言葉にすることは違う。今日、腹帯を見ていると書いた若い馬丁の字が、どれほど俺を安心させたか思い出した。
俺はミナの拭いた台を見た。
「きれいになりました。次の人も、すぐ使えます」
彼女がこちらを向き、少し笑った。
思ったことを、その場で言う。俺にも、今からできる仕事がある。




