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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第3部 戻らなくていい

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第23話 覚えていた鼻先

 第三馬厩の裏戸は、まだ少し傾いている。


 新しい長靴で敷居を越えると、いつもの土の匂いがする。藁、革、馬の汗。目を閉じても、どこに何があるか分かる気がする。


 栗毛が最初に顔を出した。


 白い額が戸板の上へ伸び、鼻先が俺の胸を探る。俺は道具袋を下ろし、手を見せた。


「今日は何も持ってないぞ。顔を見に来たんだ」


 馬は袖を嗅いだ。シグの匂いがするのか、鼻の穴が少し広がる。それでも顔を引かず、いつものように掌へ唇を押しつけた。


 俺は額を撫でた。


 知っている温かさだ。


 背後で若い馬丁が立ち止まった。


「覚えてるんですね」


「匂いが残っているのかもしれません」


 俺は答えながら、喉が少し詰まるのを感じた。覚えていてほしいと願っていたことに、会ってから気づいた。


 若い馬丁は二十歳そこそこに見える。前掛けの紐が緩み、片方の袖だけ濡れている。名前を聞くと、彼は緊張して名乗った。俺は繰り返して覚え、今日の当番を尋ねた。


 もう一人は飼料を取りに行っているという。二人で早朝から働いても、馬を出す時刻に間に合わない。


「俺の仕事が遅いからなんでしょうか」


 彼が言った。


 俺は栗毛から手を離した。


「まず、いつもの仕事を見せてもらえますか」


 一番奥の老馬は、水桶へ鼻を入れかけてまた引っ込める。


 桶は以前より手前へ出ている。運ぶには楽な位置だ。だが朝の光が水面へ強く当たり、桶の内側に白い筋が揺れる。


「ここへ変えたんですね」


「前の紙には壁際とありましたが、奥へ入ると蹴られそうで怖かったんです」


 若い馬丁は目を伏せた。


 俺はすぐ元へ戻さなかった。怖い場所へ無理に入れと言っても、明日の当番は続かない。


「この馬は後ろから急に来られるのが苦手です。声をかけて顔を見せてから近づいてください。手前なら、あの陰の所へ桶を置けますか」


 桶を半歩横へ寄せる。若い馬丁が自分で動かした。


 老馬はすぐには飲まない。俺は柵の横へ下がり、彼にも待ってもらった。


「ほら、飲め」


 彼が言いかけ、口を閉じた。


 水面の光が落ち着くと、馬の鼻が下りる。喉が動き、少しずつ水が減っていく。


 若い馬丁の肩が下がった。


「桶の位置が気になっていたんですか」


「今日はそうだったようです。ただ、飲み残す理由は一つではありません。食べ方や様子も見て、心配なら獣医へ相談してください」


 彼は頷いた。俺が北で教わった言い方が、そのまま口へ出ていた。


 以前なら、俺が桶を直し、次からそこへ置くよう言って終わった。今日は、なぜそうするかを一緒に見た。


 馬が飲み終えると、彼は自分の紙へ位置を描いた。俺の古い引き継ぎの絵の横に、新しい線が加わった。


 元へ戻すだけが、正しいわけではない。


 もう一人の馬丁が飼料車を押して戻ってきた。


 息を切らし、袋をすぐ下ろそうとしている。俺は通路に置かれた空桶を退け、まず車を止めてもらった。


「一日分を全部ここへ運んでいますか」


「はい。あとで取りに行くと遅れるので」


 車の上には夕方の分も載っている。重いものを朝にまとめて運ぶため、その間、もう一人が全頭の水を見ることになる。


 俺は昨日送った紙を出した。二人の名前を書く欄を空けてある。


「朝は水と餌の準備を二人で分担できます。重い袋は、馬を送り出してから一緒に運んではどうでしょう」


「夕方に足りなくなりませんか」


「一日分が倉庫にあるかは朝に数えます。量を確かめることと運ぶことを分けるんです」


 二人は顔を見合わせた。


 俺の昔の手順では、確認も運搬も一度にしていた。ひとりで何度も往復したくなかったからだ。二人いる今には、違う順番がある。


 実際に一度やってみることにした。


 一人が朝の餌を量り、もう一人が水桶を運ぶ。俺は手を出す前に、どこで止まるかを見た。掛け金が固い戸で、桶を置く場所がなくなる。


「ここへ低い台があると、両手を空けられます」


 古い木箱を仮に置き、危なくないか確かめた。後で正式な台を頼むことを紙へ残す。


 仕事は少しずつ進んだ。俺が全部代わりにやったわけではない。二人の手が、途中で迷わなくなる箇所が増えた。


 昼の鐘の前に、朝の桶洗いが終わった。


 若い馬丁が空の手を見た。


「いつもはこの時刻から洗い始めるんです」


 もう一人が笑った。俺はその顔を見て、来てよかったと思った。


 昼の前に、遅い訓練へ出す馬が一頭残っていた。若い馬丁が鞍を載せ、腹帯を締める。俺は横で見守る。帯の下へ、敷いた布の端が細く折れ込んだ。


 俺が口を開くより先に、馬の腹が固くなった。若い馬丁は締まらないと思ったのか、もう少し引こうとした。


「手を止めて。馬の顔を見てください」


 彼が顔を上げた。耳が後ろへ向き、口元に力が入っている。


「怒ってますか」


「何か気になるんでしょう。締める力を抜いて、帯の下を見てください」


 布を直すのは彼にしてもらった。俺が代わりに手を入れれば早い。けれど明日、ここへ手を入れるのは彼だ。彼は帯を緩め、布の皺を伸ばした。馬の腹が少し動き、耳が前へ戻る。


「今、様子が変わったのは分かりますか」


「耳が前に戻りました」


「そうです。締め具だけでなく、馬も見てください」


 迎えに来た騎士が戸口で待っていた。若い馬丁の手が速くなりかけ、俺は首を振った。


「布を直しています。あと少しお待ちください」


 俺が言うと、騎士は馬を見て頷いた。次の返事は若い馬丁が自分でした。声は小さかったが、急ぐ足音に負けず聞こえた。


 馬が出たあと、彼は帯を引く手を何度か開いたり閉じたりした。


「もっと力が要るものだと思っていました」


「力が要る仕事もあります。でも、変に重いときは、一度見てください」


 彼は紙へ腹帯と書き、横に小さな耳を描いた。上手な絵ではない。俺には、何を見るための絵か分かる。


 昼の鐘が鳴ると、二人は残った藁を片づけ始めた。俺は桶の数を確かめ、今すぐしなければならないものがないことを見た。


「先に、食べましょう」


 自分の口から出た言葉に、俺も驚いた。ここにいたころ、誰かへそう言えたことがあっただろうか。二人は顔を見合わせ、箒を壁へ掛けた。


◇


 オーデンは、午後になって厩舎へ来た。


 片づいた通路を見て、満足そうに頷く。


「やはり、おまえがいると違うな」


 俺は洗った桶を伏せた。


「今日はこの二人で進めました。仕事の順番を変えた所があります」


「おまえが見ていれば、早く覚えるだろう」


 オーデンは二人へ、明日からもこの調子でと告げた。若い馬丁が俺を見た。


 俺は言わなければならない。


「明日は俺はいませんから、二人で試して、うまく進まなかった所を書いてもらいます」


「まだ、一日では足りんだろう」


「応援は決めた日までです。その後の質問はまとめて北へ送ってください。返事を書く時間を隊長と相談します」


 オーデンの眉が寄った。


「いちいち北を通すのか。おまえの古巣だぞ」


 俺は床の爪の跡を見た。古巣だ。身体が知っている場所だ。だからこそ、何も考えず、はいと答えそうになる。


 新しい長靴の中で、足の指を一度開いた。乾いている。


「今は北の仕事もありますから、どちらの仕事にも必要な時間を先に決めておきたいです」


 俺は顔を上げた。


 オーデンはしばらく黙り、それから手順の紙を持っていった。承知したとは言わなかった。だが明日も残れと、その場で決めることもしなかった。


 二人の馬丁は何も言わず、俺が教えた桶の置き方をもう一度確かめている。


◇


 帰る前、栗毛の口元を見た。


 餌を片側へ逃がす癖は、今は目立たない。獣医に見てもらい、具合が落ち着いたと若い馬丁が教えてくれた。


「今度は食べ方も書きます」


「毎日長く書かなくても大丈夫です。いつもと違ったとき、何が違ったのか分かるように残してください」


 彼は頷いた。


 俺は馬の首を撫でた。出る日に何も持っていなかったのと同じで、今日も特別な餌はない。それでも栗毛は、しばらく俺の掌へ首を寄せていた。


「明日も水をもらえよ」


 隣にいる若い馬丁へも聞こえるように言った。


「はい。俺が替えます」


 返事は人間から来た。


 俺は顔を向け、頼みますと答えた。任せると言うために、来る必要があったのかもしれなかった。


 彼は馬房の前へ戻り、空桶を持つ前に馬へ声をかけた。老馬が顔を向けてから戸を開ける。俺は戸口で見ていたが、口を出さなかった。その短い待ち時間を、彼は自分の手順として使い始めている。


 裏戸を出ると、朝と同じ匂いが服へついていた。二十年分の懐かしさは、一日で薄まらない。


 それでも足は、北へ向いた。


 帰る道を間違えたのではない。今日は、そう決めてここを出た。


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