第21話 戻れという紙
新しい部屋の鍵を、俺は上着の内側へ入れている。
仕事のたびに屈むので、落とさないよう紐を短くした。朝、戸を閉めて掌へ収めると、まだ少し不思議な気分になる。
◇
その日の昼、隊長の机に第三馬厩の封筒が届いた。
差出人はオーデンだ。
「ダグさんにも読んでもらいたいです」
隊長が紙を開いた。俺は椅子へ座り、字を追った。
第三馬厩では、引き継ぎ後も作業に支障が出ている。給餌と馬具の管理に、長年の担当者の知識が必要である。北竜厩舎での混乱は収まったと聞くので、元の配置へ戻すよう求める。
最後まで読む前に、栗毛の顔が浮かんだ。
一番奥の老馬は、夜明け前に水を飲む。左の戸は湿ると閉まりにくい。雨の夜には、藁を壁から少し離さないと朝までに濡れる。
ここを出るとき、紙へ書いた。けれど、全部を書けたわけではない。
「馬に何か起きたんでしょうか」
「具体的な状況を問い合わせます。この紙だけでは分かりません」
隊長は返事を書き始めた。
俺は口を開いた。
「俺が行った方が早いかもしれません」
筆が止まる。
隊長は俺の顔を見た。引き止める言葉は出さなかった。
「応援に行くことと、配置を戻すことは別に考えられます。今、どちらを望んでいますか」
俺は答えられなかった。
望むという言葉が、紙の中にはないからだ。必要だから戻す、とだけ書いてある。長い間、それで十分だと思っていた。
◇
その午後、オーデン本人が来た。
以前と同じ上着で、襟に藁が一本ついている。門番へ名前を告げる声も同じだ。
俺は通路で会い、反射的に頭を下げた。
「久しぶりだな。顔色はいいじゃないか」
「はい。皆さんによくしていただいています」
「竜が懐いたそうだな。まあ、おまえは獣の相手だけは根気がある」
俺は返事をしなかった。
褒められたのかもしれない。以前なら、その一言をずいぶん長く持っていたと思う。今日は、だけは、というところが耳に残る。
オーデンはシグの囲いを覗こうとした。俺は白線の前で止まり、そこから見るよう頼んだ。
「私にも説明が要るか」
「はい。ここは竜が通る場所ですから」
彼は眉を動かしたが、足は止めた。
隊長が来ると、オーデンは事情を話した。朝の準備に時間がかかり、訓練に馬を出すのが遅れている。若い馬丁が、個体ごとの癖を覚えきれない。革具の手入れも追いつかない。
「ダグなら、全部ひとりで回していた。戻れば済む話です」
その言葉に、俺は胸が冷えた。
全部ひとりで。
四つ鐘より前に起き、朝食を後回しにし、夜も水を見ていたことまで、その一言に入っている。
隊長が尋ねた。
「現在、担当は何人ですか」
「二人ですが、まだ慣れていないんです」
「その二人には、覚える時間と仕事を進める手順が用意されていますか」
オーデンは少し苛立った顔をした。
「実際にやって覚えるものです。ダグも、そうだった」
俺は膝を曲げそうになるのを堪えた。立って話すとき、いつも少し低くなる癖がある。
「俺は二十年かかって覚えました」
声にすると、二人がこちらを見た。
「初めから全部できたわけではありません」
オーデンは口を結んだ。否定するでもなく、聞かなかったふりをするでもない間が空く。
「だから、しばらく戻って教えればいい」
「教えに行くことは考えたいです」
俺は言った。
戻ると言わなかったことに、自分で気づいた。
馬の状態は、詳しく聞くことができた。
栗毛は餌を食べている。奥の老馬は水を残す朝があるが、診てもらう手配をしている。今すぐ俺が走らなければ死ぬような話ではない。
それを確かめると、息が少し楽になった。
俺がいないことで困っているのは本当だろう。だが、困っている理由のすべてが、俺を戻さなければ直らないとは限らない。
隊長は期限を区切った応援と、手順の確認を提案した。北の当番を調整し、先に質問を集めてもらう。配置の変更は、その話とは分ける。
オーデンはすぐには頷かなかった。
「こちらは毎日忙しいんです」
「北も毎日、世話が必要です」
隊長の返事は短い。
俺は彼女の横にいる。俺のために言ってくれているのだと思ったが、シグとトトの仕事も本当にある。ここへ来たときは、どこでも余った人間が回されるものだと思っていた。今日は北に必要な手として、数えられている。
オーデンが俺へ向き直った。
「給料が上がったから、戻りたくないのか」
俺は懐の鍵を感じた。
否定すれば、欲がないと見てもらえるかもしれない。昔の俺なら、すぐ違いますと言っただろう。
「給料が上がったのは嬉しいです」
声が少し掠れた。
「部屋もありますし、休む時間も決めてもらいました。それをどうでもいいとは言えません」
オーデンは黙った。
俺は続けた。
「馬を心配していないわけではありません。見に行って、覚えたことは伝えたいです。でも、その後どこで働くかは、俺にも考えさせてください」
言い終えると、手のひらが汗で濡れている。
隊長は俺の言葉を言い換えず、そのまま待った。
オーデンは机の封筒を取り、紙を戻した。
「返事を待つ。早めにな」
昔と同じ命令口調だった。それでも、今日の俺はその場で承知しましたとは答えなかった。
◇
オーデンが帰ったあと、隊長はすぐ次の書類を出さなかった。俺の前へ白い紙を置き、第三馬厩の朝を書けるかと尋ねた。
俺は四つ鐘の前から順に書いた。水、餌、敷き藁、馬具、送り出し。送り出した後に桶を洗い、残った藁を運ぶ。昼は戸の修繕や蹄の泥を落とし、夕方にはまた餌と水。
「食事はいつ取っていたんですか」
俺の筆が止まった。仕事の間に食べていたので、紙の上に場所がない。
隊長は線と線の隙間を見た。
「後任のお二人も、この順番で仕事をしているのでしょうか」
「馬を出す時刻から逆算して、仕事を始めているのかもしれません。俺はもっと早く来て、水を替えていましたから」
言いながら気づいた。表向きの勤務が始まる前に、俺はすでに一巡していた。後任が紙にある時刻から始めれば、同じ仕事は終わらない。
遅れを作ったのは、後任が怠けたからとは限らない。俺が見えないところへ押し込んでいた時間も、理由だった。
「この早朝の仕事のことは先に伝えたいです」
俺は早朝の欄を囲んだ。隊長は頷き、第三馬厩へ送る問い合わせの写しに添えると言った。すぐ人を動かさなくても、今渡せるものがある。
俺は紙をもう一枚取り、二人なら分けられる仕事に線を引いた。ひとりで全部していた順番を、そのまま二人に覚えさせる必要はない。餌を量る者と、水を替える者。送り出しのあとで、一緒に重いものを運ぶ時間。
書いているうちに、胸を締めつけていた焦りが少しずつ、具体的な手順へ変わった。北へ残るかどうかの返事より前に、馬たちへ渡せるものを作れた。
◇
夕方、ガランが道具を片づけながら言った。
「行くのか」
「馬には会いたいです」
「戻るのか」
俺は箒を壁へ掛けた。
「まだ決めていません」
ガランは頷いた。
止めろとも、恩を忘れるなとも言わなかった。だから俺は、続けて話せた。
「ここにいる方が楽だからという理由で選んでいいのか、迷います」
「楽になった分、竜をよく見られるだろう」
ガランは自分の杖を持った。
「痛い脚で無理に立っても、直せる戸が増えるわけじゃない。座ってできるならそうする。おまえも毎日働くんだから、自分の身体に無理のない場所を選んでいい」
俺は棚へ並んだ布を見た。ミナが明日の分を分けてある。夜番の表には、俺が眠る時間がある。
楽という一言では、足りない。
安心して水を運べる。知らないことを聞ける。気づいたことを言えば、紙へ残る。
ミナが空桶を二つ持って通り、俺は一つ受け取った。彼女は俺が考え込んでいる理由を聞かず、明日の布はもう分けたと伝えた。俺がどこへ行くか決めていない間にも、ここで一緒にする仕事の話がある。
それが欲しいと言うのは、馬を見捨てることなのだろうか。
答えはまだ一つにまとまらなかった。けれど、馬への心配と、自分の暮らしを同じ袋に入れて持ち上げなくてもよい気がした。
◇
夜、部屋の戸を開けた。窓は朝、閉めたままだった。机の上の給料の写しも、椅子も、誰も動かしていない。
俺は座り、第三馬厩へ聞きたいことを書いた。
水を残す時刻。誰が桶を置くか。老馬の水を、ほかの馬と同じ場所へ変えたか。
その下に、北で調整が必要な仕事を書いた。
どちらにも、世話を待つ生き物がいる。
そして紙を閉じるとき、俺もまた、明日をどこで過ごすか考えてよい一人なのだと思った。




