第20話 俺が持っていていい鍵
給料袋を受け取ったとき、俺は別の人のものだと思った。
いつもより口が膨らんでいる。紐を解いて中を見ると、見慣れた銀貨の上に、数の合わない光が重なっている。
「これは俺の分でしょうか」
会計の係は、紙に書かれた名前と俺を見比べた。
「北竜厩舎の世話係のダグさんですね。増額後の基本給と、確認できた夜番の手当です」
俺は袋を机へ置いた。数え間違えないよう、銀貨を一枚ずつ並べる。指が太く、一度に二枚ついてきた。離して、また数えた。
増えている。
何度数えても、増えたままだ。
後ろに人が待っているのを思い出し、俺は慌てて片づけかけた。係が紙を押さえる。
「急がなくていいですから、額が合っているかここで確かめてください」
俺はもう一度、最後まで数えた。受け取る側にも、急がず確かめる時間が与えられている。
基本給は今までの一倍半になっている。夜番の分は別の行にあり、日数と額が分かる。寝ずに起きていた夜が、ただ朝まで続いた疲れではなく、対価のある時間として並ぶ。
「今月だけの褒美ではないんですか」
「基本給の変更です。夜番手当は、実際の当番に応じて変わります」
係は紙の二つの欄を指した。俺が分かるまで、急がせなかった。
袋へ戻すと、銀貨が柔らかくぶつかった。何度も聞いた音のはずなのに、今日は違って聞こえた。
受領の欄へ名前を書いた。筆の先が少し震え、最後の線が太くなった。
「確かにお渡ししました」
「はい」
返事はできた。そのあとに何を言えばいいのか、分からない。
隣にいた隊長は、俺の代わりに礼を言わなかった。袋を持つまで待ち、一緒に廊下へ出た。
外の光が眩しい。
歩きながら、俺は懐へ何度も手を当てた。
落としていない。紐も締まっている。盗られたらどうしようと思う前に、間違いだったから返してくれと言われるのではと考えた。
隊長は俺の手の動きに気づいたらしい。
「紙の写しもあります。袋を開けなくても、額は確認できます」
「いえ、なくしたわけでは」
俺は途中で黙った。
隊長も黙って歩いた。少し先の木陰まで行ってから、俺が口を開くのを待った。
「こんなに増えて、いいんでしょうか」
「受け持っている仕事と勤務の記録を確認して決まった額です」
「俺のすることは昨日と同じです」
「ええ。昨日までしてきた仕事に、その額を払う価値があると認められたんです」
俺は足を止めた。
もっとすごいことをしなければならないと思っていた。今日から竜を何頭も従わせ、夜も起きて、誰より早く働かなければ。そんな考えが、袋の重さと一緒に胸へ入っていた。
昨日までの仕事。
水を替え、布を分け、嫌がるときには待った。飛べるかどうか分からない朝に、分からないと言った。それを続ければいいということなのか。
隊長は少し先で止まり、俺へ向き直った。
「嬉しくないですか」
「嬉しいです」
その返事だけは、すぐ出た。
声にしたら、喉が詰まった。俺は目を伏せ、長靴の先を見た。右の底には、また泥が細い線を作っている。
「嬉しいです」
もう一度言う必要はなかったのに、同じ言葉が出た。
隊長は頷いた。
「よかった」
彼女が笑うので、俺も口元を動かした。上手く笑えているかは分からない。
◇
北厩舎へ戻ると、ガランが廊下で待っていた。
手には小さな鍵がある。鍵の頭に、細い紐が通してある。
「次はこちらへ来てくれ」
案内されたのは、宿直室より奥の居住棟だった。厩舎と同じ敷地だが、廊下を挟んで戸があり、夜番の足音がそのまま響かない。
ガランが戸の前で止まった。
「開けてみろ」
俺は鍵を受け取った。冷たい鉄が掌へ落ちる。差し込む向きを一度間違え、裏返した。
錠が回った。
中には寝台と、小さな机がある。壁に服を掛ける鉤。棚が二段。椅子が一脚。窓には木の枠があり、留め具を外せば開くようになっている。
俺は戸口から動けない。
「ここは誰が使うんですか」
「おまえだ」
ガランが言った。
隊長が後ろから説明した。空いていた職員用の部屋を、正式な居室として使えることになった。寝台と机は備品。修繕は済ませてある。出入りの鍵は俺が持つ。
「今日、掃除が済んだら荷物を移しましょう」
俺は窓へ行った。
留め具を押すと、少し固かった。ガランが口を開きかけたが、俺がゆっくり押し直すと開いた。外の空気が入ってきた。
厩舎の屋根の端と、干してある布が見える。全部を監視するような位置ではない。窓辺に立てば、ただ空が見える。
「開きますね」
俺が言うと、ガランは鼻で笑った。
「そのために削ったんだ」
俺は窓枠へ手を置いた。新しく削ったところだけ、木の色が明るい。
◇
荷物は、相変わらず布袋ひとつだった。
宿直室の棚から杯と夜番表を取り、寝床の下を確かめる。失くしたと思っていた紐が一本出てきた。俺はそれも袋へ入れた。
ガランが付け直してくれた棚板は、元へ戻すべきか迷った。次に使う者も便利だろうと彼が言ったので、そのままにした。
部屋へ入ると、ミナが机を拭いている。桶を持ってきてくれたらしい。
「勝手に物は置いていません。拭くだけです」
「ありがとう。十分です」
俺は袋を床へ置いた。
ミナが窓から外を見て、笑った。
「ここなら、洗濯物が乾くか分かりますね」
「俺の部屋でも仕事の話ですか」
言ってから、自分が冗談を言ったことに驚いた。
ミナは目を丸くし、それから声を出して笑った。ガランまで髭を動かしている。
「じゃあ、今日は雲を見るだけにしてください」
彼女は布を絞り、桶を持ち上げた。
皆が出ると、部屋は急に広くなった。物が少ないからだろう。俺は椅子を引き、机の前へ座った。膝の上ではなく、机へ手帳を置ける。
鍵を右側へ置いた。給料袋を左へ。
どちらも、俺が持っていていいものだ。
戸を叩く音がした。
俺は鍵を掴んで立ち上がった。開けると、隊長が給料の写しを持っていた。
「渡し忘れました。入ってもいいですか」
俺はすぐ頷いた。けれど彼女が、頷くまで足を入れなかったことに気づいた。ここが俺の部屋だということは、人を入れるかどうかも、俺が返事をしてよいということだ。
机の上へ紙を置くと、隊長は椅子へ座らず、立ったまま内容をもう一度確かめた。今後の受け取り方、夜番の記録を出す日。増えた給料は、今日だけの出来事ではなく、来月も続く暮らしの話になった。
「何か足りないものはありますか」
俺は部屋を見回した。寝台に机、棚に窓。足りないものより、あるものをまだ数えきれていない。
「今はこれで十分です。使ってみて足りないものが分かったら、伝えてもいいですか」
「もちろんです」
隊長は戸口へ戻った。俺はそこで、ようやく礼を言えた。
「俺のために話を進めてくださって、ありがとうございました」
彼女は軽く頭を下げた。いつもの仕事の礼と同じだった。その同じ形が、今は嬉しかった。
◇
夕方、門前のハルの荷車へ行った。
いつもの固いパンを指しかけて、手を止めた。焼きたての丸パンの隣に、干した果物を混ぜた小さなパンがある。表面に糖が光り、割れ目から甘い匂いがする。
「今日はどれにする」
ハルが聞いた。
俺は値段を確かめた。買えば、夜の腹を満たすだけでは済まない。好きだから選ぶパンだ。
「それをひとつください」
「果物の方だな」
「はい」
ハルは紙を広げた。珍しいものを買ったと大きな声を出さず、いつものように包んだ。
俺は銅貨を数え、差し出した。袋の中に、まだ金が残っている。明日の食事のために、今夜を削る必要はない。
「温かいうちがいいぞ」
ハルが言った。
俺は門へ戻りかけ、途中の低い塀へ腰を下ろした。紙を開く。パンを割ると、柔らかい中身が指へ戻ってきた。
ひと口食べた。
甘い。
ただ甘いだけなのに、次を飲み込むまでに時間がかかった。干した果物が歯へ少しつき、麦の匂いが鼻へ抜ける。
誰かに半分持っていこうと思った。お世話になった人はたくさんいる。けれど今日は、最後のひと口まで、自分で食べた。
紙を畳み、膝の屑を払う。
◇
新しい部屋へ帰ると、戸が閉まっていた。俺は鍵を出し、自分で開けた。
服を二枚、壁の鉤へ掛けた。継ぎ当てのある方も、肘の薄い方も、重ねずに並べられた。袋の底を探ってから、青い刷毛は明日の仕事のため厩舎に置いてきたと思い出した。ここへ全部持ち帰らなくても、道具には道具の場所がある。
俺は窓を少し開けた。夕方の風が入ってきて、机の紙の端を揺らした。鍵を重しに置くと、紙は静かになった。
明日の朝には、いつもの水を運ぶ。
その前に今夜は、自分の部屋で、自分のために眠っていい。
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