第18話 王女の片方の手袋
門前に止まった馬車には、金色の鳥が描かれている。
俺は荷車へ飼料の袋を載せているところだ。袋の口が少し破れ、細かな粉が前掛けへ落ちている。縫い直すために手を止めたとき、門番が背筋を伸ばした。
馬車の戸が開き、淡い緑の服を着た女が下りた。
大きな宝石をつけているわけではない。けれど布の光り方が違い、裾を持つ手袋にも汚れがない。続いて従者と護衛が下り、隊長が早足で迎えた。
「ロゼッタ殿下。ようこそお越しくださいました」
王女だ。
俺は袋を置き、膝を折ろうとした。粉が舞って咳が出そうになり、堪えると変な顔になった。
「どうぞ、そのままで」
王女が言った。
俺は途中で止まり、中途半端に腰を曲げた。隊長が俺の隣へ来た。
「報告にあった世話係のダグさんです」
「ああ、あなたがダグさんなのですね」
王女は俺の顔を見た。次に前掛けへ目を落とす。俺は汚れたところを手で払いたくなったが、払えばまた粉が舞う。
「何を運んでいるところですか」
「飼料です。袋が破れていたので、先に縫っておこうと思いまして」
「中身がこぼれてしまうのですか」
「こぼれたのはまだ少しです。ただ、放っておくと湿ったり虫が入ったりしてしまいます」
王女は袋の口を見た。
「では、続けてください。私が来たために、竜の食事が悪くなるのは困ります」
俺は隊長を見た。彼女が頷いたので、針を取った。
王女の前で袋を縫う日が来るとは思わなかった。指の節が気になり、最初の穴へ針がうまく通らない。二度目で通ると、手がいつもの順番を思い出した。
王女は最後まで見ている。従者に急かされても、小さく首を振った。
「こうしたお仕事を何年続けてこられたのですか」
「馬の世話は二十年続けてきました。竜の世話はここへ来てからです」
「二十年」
彼女はその長さを口の中で確かめるように言った。
俺は糸を結び、針を布へ刺した。汚れた前掛けのまま、最初の話が終わった。
◇
見学は、決めてあった順番で進んだ。
王女が来るからと、シグを余計に動かさない。隊長は先にその条件を伝えていたらしい。王女は小部屋で説明を受け、古い鞍の硬い芯へ指を当てた。
「これは、乗る人には分からなかったのですね」
「上側には厚い革があります。下へ重さがかかったときだけ、当たりが強くなっていました」
ガランが答えた。
王女は頷き、鞍を置いた台の高さを見た。ガランが椅子に座っていることには何も言わず、自分も隣の椅子へ腰を下ろした。
護衛が一瞬迷った顔をしたが、隊長が立ち位置を示した。
シグを見るときは、人数を絞った。王女は白線の外へ立ち、手袋をした手を前で重ねた。
黒竜は彼女を見た。見知らぬ匂いが多いので、俺はいつもの場所に立ったまま待った。
「大きいのですね」
王女の声は、思っていたより小さい。
シグが鼻を鳴らすと、彼女の肩が少し跳ねた。すぐ姿勢を直したが、俺には見えた。
「怖ければ少し下がっても大丈夫です」
口にしてから、王女へ言うことではなかったかと思った。
彼女は俺を見た。
「では一歩下がります」
自分で足を引いた。裾が白線から離れる。俺はほっとし、シグの方へ向き直った。
青い刷毛を出すと、竜が鼻を寄せた。俺は目の横を短く払う。シグの額が下がったので、掌を添えた。
背後が静かになった。
王女は声を出さず、その様子を見ている。
「手袋をしないのは、理由があるのですか」
彼女はシグが離れてから聞いた。
「素手の方が砂や熱を確かめやすいんです。ただ、場所や作業によっては手袋も使います」
俺は道具棚の厚手の手袋を指した。
王女は自分の薄い手袋を見た。綺麗な飾りのついたものだ。
「同じ手袋でも、役目が違うのですね」
当たり前の話かもしれない。それを彼女は、知っていたふりをせずに聞いた。
◇
トトの部屋へ入る前に、王女は手袋を外した。
リーネが手を洗う場所を示し、指輪を一つ従者へ預けてもらった。王女は言われた通りにしたが、手袋だけは片方を腰の帯へ挟んでいた。
俺は餌の皿を片づける。トトは食後で、敷物の端を押している。王女が離れた位置へしゃがむと、銅色の頭が上がった。
「この子がトトなのですね」
「はい。爪が布を掴むので、裾や手は囲いの外へお願いします」
俺が言うと、王女は裾を揃えた。きちんと気をつけてくれたので、俺は水皿を確認するため少し横へ動いた。
次の瞬間、淡い色が囲いの中へ落ちた。
腰に挟んでいた手袋だ。
トトが素早く首を伸ばし、先を口に入れる。
「あっ」
王女の手が動いた。
「引かないでください」
俺が言うと、彼女はぴたりと止まった。
トトは手袋を噛んだまま、首を振る。無理に引けば遊びになり、かえって放さない。飲み込ませるわけにもいかないので、俺はリーネを見た。
「代わりの噛み物をゆっくり出してみてもいいですか」
彼女が頷いた。
俺はトト用の丈夫な噛み物を取り、手袋を引っ張るのではなく、鼻先の横へ置いた。いつもの匂いがする。トトの目が動き、顎が少し開いた。
落ちた手袋を、長い柄の道具で脇へ寄せる。
トトは新しい方へ口をつけた。リーネが口元と手袋を確かめ、布が欠けていないことを見た。
「大丈夫です。飲み込んではいません」
俺はようやく息を吐いた。
王女は両手を膝へ置いたまま、固まっている。
「私が落としてしまいました。申し訳ありません」
従者が手袋を受け取ろうとしたが、王女は先にトトを見た。
「驚かせましたね」
俺は首を振りかけ、やめた。何もなかったことにするより、落としたらどうなるか覚えてもらう方がよかった。
「紐のついたものや小物は、次から外で預けてください。俺も、先にそこまで確認すればよかったです」
王女は頷いた。
「次からそうします」
濡れた手袋は、もう元の綺麗な形を保っていない。トトの歯の跡が先に残り、細かな銅色の埃がついている。
王女はそれを見て、困ったように笑った。
「ずいぶん手荒い歓迎ですね」
リーネが口元を緩めた。
「布の感触が気になったのでしょう。次は落とさないようにしてくださいね」
「はい」
王女の返事は、診察を受ける子供のように素直だ。
◇
部屋を出ると、ミナが濡れた手袋を受け取った。洗う前に縫い糸を確かめ、裏地をそっと返す。
「こちらで洗えますか」
王女が聞いた。
「染め方が分からないので、水に入れる前に、お仕立てしたところへ確認した方がいいです。今は乾いた布で押さえるだけにします」
ミナは俺が見たことのないほど薄い布を選び、手袋を挟んだ。握って絞らず、水分だけを移す。王女はその手元を見つめた。
「私なら、すぐ洗ってしまったと思います」
「洗うと元に戻らなくなるものもあるんです」
ミナは答えてから、相手が王女なのを思い出したように顔を赤くした。けれど王女は不機嫌にならず、包み方を従者にも見せてほしいと頼んだ。
俺は汚れ布の桶を持ち、少し離れて待った。彼女が洗濯場で覚えたことは、王女の手袋にも役立っている。誰の持ち物でも、分からないものを分からないと言えるところが、ミナのよいところだと思った。
手袋を返すと、王女は名前を聞いた。ミナが小さく名乗ると、もう一度はっきり呼び、礼を言った。俺は棚の前で、籠を台に載せた初日の彼女を思い出していた。
帰る前に、王女は俺の前掛けをもう一度見た。
俺は汚れを指摘されると思わなくなっていた。彼女の視線は、粉ではなく針をしまった袋へ向いている。
「竜の世話には、袋を縫うことも、布を洗うことも、水を運ぶことも入るのですね」
「はい。飛んでいない時間の方がずっと長いので、その間の世話もいろいろあるんです」
言いながら、俺は初めてその長さを人へ説明した気がした。
王女は隊長へ向いた。
「道具と人手について、もう少し詳しく知りたいです。報告の写しだけでは、今日見たものの半分も分かりませんでした」
隊長は頷いた。すぐに何かを買ってもらう話にはならず、別の日に時間を取ることになった。
俺は馬車まで送ろうとしたが、シグの水の時刻だ。迷っていると、王女が先に言った。
「どうぞお仕事へ戻ってください。次に来るときは手袋を二つとも預けます」
俺は少し笑い、頭を下げた。
従者が踏み台を置くと、王女は乗る前に振り返った。
「ダグさん、今日は私の知らない仕事を見せてくださって、ありがとうございました」
肩書ではなく名前が呼ばれた。俺は袋を足元へ置き、空いた手を前で揃えた。立派な返事は出なかったが、礼が自分へ向けられたことだけは、今度は聞き間違えなかった。
馬車の戸が閉まり、金色の鳥が門の向こうへ消えていく。俺は飼料袋を持ち直した。朝、縫った口はしっかり閉じている。
王女へ会った日も、最後は水を運ぶ。
けれど今日は、その仕事を知りたいと言う声が、耳に残っている。




