第17話 見てもらうための戸
シグが飛んだ翌朝、門番が三度、俺を呼びに来た。
最初は、いつ飛ぶのか知りたい騎士。次は、新しい鞍を見たい騎士。三度目は、竜が頭を預けるところを見せてほしいという騎士だった。
俺はそのたび手を洗い、説明した。
「次に飛ぶ時刻はまだ決まっていません」
「鞍は今点検しています」
「頭を預けるかどうかはシグが決めるので、必ず見せられるとは言えません」
悪い人ばかりではなかった。みんな礼を言い、忙しいところすまないと笑った。俺も、話せば分かってもらえるのが嬉しくて、つい長く答えた。
戻ると、水桶が空に近い。
替えるつもりで運んでいた桶は、通路の途中に置いたまま。俺は慌てて持ち上げた。水面に細い藁が浮いている。新しく汲み直す間、シグが鼻を鳴らした。
「待たせたな」
水を注ぐ音に、竜の顔が下りる。
謝る相手は、今は竜だ。
ミナが手当ての布を持ってきた。
「朝の記録の欄がまだ空いています」
「すぐ書きます」
俺は手帳を開いた。食べた量は覚えていたが、飲み終えた時刻が曖昧だ。何度も人に呼ばれて、鐘が一つ鳴ったのがどのときか分からなくなっていた。
分からない、と書いた。
欄を埋めるより、その言葉の方が痛い。
◇
昼前には、見学の騎士が五人になっていた。
隊長が許可を出したのは二人だったが、その二人に知り合いがついてきた。門番も、以前からの顔なので通してしまったらしい。
ガランは通路へ椅子を置き、そこで待つよう伝えた。五人は素直に待ったが、椅子は三脚しかない。残りの二人が立つと、水を運ぶ道が狭くなった。
「すみません、通ります」
俺は桶を持って身体を横にした。
「ああ、どうぞ。重そうですね」
一人が手を出したが、途中で受け渡す方が危ない。
「このまま運びますので、そこを空けてもらえますか」
騎士は動いた。その代わり、隣の者がシグの戸口へ寄った。竜が顔を上げ、俺は桶を置いた。
誰もわざと邪魔をしていない。それなのに、仕事が一つ進むたび別の何かが止まる。
ミナがトトの部屋から出てきて、隊長を呼びに行った。俺は礼を言う余裕もなく、騎士へ白線の説明を始めた。
隊長が来ると、五人は背筋を伸ばした。
「今日は見学をここまでにします。次に見ていただく時刻を決めて、お知らせします」
騎士の一人が残念そうに言った。
「戻る途中に寄れたので、少しだけでも見せてもらえませんか」
「シグの食事と幼竜の世話が遅れています。落ち着いて見ていただくためにも、世話と見学の時刻を分けます」
俺はその言葉を聞いて、床に置いた桶の取っ手を見た。
見せることが、世話の邪魔になっている。俺は気づいていたのに、喜んで来た人を断れなかった。
五人は門へ戻った。最後の一人が、俺へ頭を下げた。
「手を止めさせてしまいました」
「いえ、こちらの説明も足りなくて……」
また俺が謝りかけると、隊長が横から言った。
「次は、落ち着いて見ていただけるよう準備します」
相手は頷いた。来るなと言われた顔ではなく、次の約束を受け取った顔だ。
◇
午後、俺たちは門の内側へ集まった。
隊長が紙を持ち、ガランは門番と通路の広さを見た。ミナは朝の記録と、空いたままの欄を机へ置いた。
「俺が話を短くすればよかったんです」
先に言ってしまいたかった。俺のせいだと分かれば、話が早く済むと思った。
隊長は首を振った。
「短く話しても、五回呼ばれれば五回止まります」
ミナが指で紙を辿った。
「餌の後から掃除までの間なら、シグも起きていることが多いです。ただ、手当ての日は別にしたいです」
ガランは門の横の空き部屋を示した。
「鞍の話なら、ここでもできる。竜の前まで全員連れてくる必要はない」
俺は部屋を覗いた。古い縄と使っていない台がある。片づければ二、三人が座れそうだ。
「青い刷毛を見たい人もいました」
「なら予備を見せればいい。シグに使っている刷毛を、毎回持ってこなくてもいいだろう」
ガランが言った。
隊長は見学できる日と時刻を決めた。毎日ではなく、世話の予定を見て、まず二日だけ。人数も絞る。飛行を必ず見られる約束にはしない。
門番は知らせを受けていない訪問者を、厩舎へ直接通さない。用件だけ聞き、返事はまとめて出す。急な医療や業務の連絡は別にする。
細かすぎるかと俺が尋ねると、門番は助かると言った。
「顔見知りだと、入れてよいのか迷っていました。決まっていれば伝えられます」
俺だけが断るのに困っていたわけではない。
ミナは大きな紙へ、今日の見学はありません、と書いた。次の日時を下へ添える。俺はその横に、竜の状態により変更、と書き足した。
「これでいいですか」
隊長に聞くと、彼女は頷いた。
「変更するときには、理由も伝えましょう」
小部屋を片づけると、壁際に細長い台が収まった。俺は古い鞍をその上へ載せ、説明する順番を考えた。水桶の話から始めればよいのか、肩の話が先か。相手が騎士だと思うと、言葉を選ぶだけで長くなる。
「私に話してみてください」
ミナが椅子へ座った。
俺は戸口に立ち、最初の挨拶をした。名を言うところで声が小さくなり、ミナが耳へ手を当てた。聞こえないふりではない。部屋の外で車が通り、俺の声が消えていた。
もう一度、自分の名前を言った。今度は彼女が頷いた。
布と芯を見せるとき、俺は両手で隠してしまった。説明する側からは見えていても、椅子からは見えない。ミナが場所を教え、ガランが台を少し低くした。
「世話をするときとは、道具の見せ方が違うんですね」
俺が言うと、ガランは木屑を払った。
「説明も別の仕事だ。その準備の時間も予定に入れろ」
俺は予定の紙に、小部屋の準備、と書いた。見せる前から始まる仕事も、ここでは一日の中へ置けた。
◇
最初の見学の日、来たのは三人だった。
全員、決めた時刻に門の前へ揃った。最初に小部屋で説明し、古い鞍と新しい当て布の違いを見てもらう。ガランが木の断面を示すと、一人が手を挙げた。
「触ってもいいですか」
「こちらは見本だから、どうぞ。縁が出ている所に気をつけて」
騎士は慎重に指で押し、硬い芯が当たる感触を確かめた。俺が長く言葉で説明するより、早く顔が変わった。
一人は、自分の部隊でも同じ刷毛を揃えたいと言った。俺は見本を渡し、毛の硬さを掌で試してもらった。
「これを使えば懐く、というものではありません。強く擦ると嫌がりますし、触られたくない場所もあります」
騎士は刷毛を持ち直した。俺が握っていた位置を真似するのではなく、自分の手で楽に持てる場所を探している。
「まず近づいてよいか確かめるんですね」
「はい。竜が離れたら追いかけないでください」
彼は頷いて刷毛を台へ戻した。物を一つ買えば済む話にしなかったので、少し時間がかかった。それでも今日は、そのための時間がある。
シグを見るときは、三人とも白線の外へ立った。
黒竜は食後の水を飲み、顔を俺へ寄せた。俺はいつもの時間に、いつもの場所で刷毛を当てた。見せるために回数を増やさない。
シグが俺の肩を鼻で探ったとき、騎士の一人が笑顔になった。だが声を上げず、手も出さなかった。説明が先にあると、見ている人の動きも違う。
途中でシグが奥へ戻った。
「今日は、ここまでです」
俺は言った。まだ少し見たかっただろうと思う。それでも三人は頷いた。
「ありがとうございました。自分の馬が食べているときも、後ろを歩かないようにして様子を見てみます」
一人がそう言った。
俺は思わず顔を上げた。竜だけの珍しい話として終わらず、彼が明日することへ繋がった。
「馬によって違うので、まず見てください。平気な馬もいます」
「はい、決めつけずに様子を見ます」
騎士は自分で言い直した。
門まで送って戻ると、ミナが朝の帳面を見せた。今日の欄は、見たことが全部書かれている。
水も、餌も、手当ても、時刻が残っている。
「今日は世話が遅れませんでしたね」
俺は頷いた。
人に見てもらえるのは嬉しい。自分の仕事を聞いてもらえるのも嬉しい。それを望むことまで悪いと思わずに済むよう、間に戸を一枚置いたのだ。
◇
夕方、看板を裏返すと、見学終了の文字が出た。ガランが裏にも書いておけと勧めてくれたものだった。
俺は門番へ札を渡した。
「明日は見学を入れず、世話をする日にします」
「承知しました」
いつもと同じ朝を、明日は途中で何度も差し出さなくていい。
厩舎へ戻ると、シグが鼻を鳴らした。俺は返事をして、水桶を持ち上げた。
水場までの道に、人も椅子もない。両手を自然に下ろした幅で歩ける。ほんの少し前までは、それだけのことを、誰かへ謝りながらしていた。今日は一度も身体を捻らず、桶を台へ置けた。




