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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第2部 名前で呼ばれる

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第16話 空へ上がった黒い影

 朝の風は、洗った布を片側だけ膨らませている。


 俺は布の揺れを見てから、シグの囲いへ入る前の通路で足を止めた。夜番の記録には、よく眠ったとある。餌も予定どおり食べ、今は水桶の縁を鼻で押している。


「今日は外へ行くぞ」


 シグが首を上げる。俺はいつもの順番で顔を払い、足元を見た。左の前足は、まっすぐ身体を支えている。壁を擦った新しい跡もない。


 よく見せようと思うと、何でもよく見えそうで怖い。俺は手帳の昨日の欄を開き、同じ順番に確かめた。


 リーネも来た。彼女は俺の話を聞き、肩に手を触れ、シグが歩くところを見た。


「予定どおりに進めましょう。途中で変化があれば、止めます」


 隊長が頷いた。鎧は軽いものを選び、余計な荷物はつけていない。胸元の留め具を閉じる指が、最後の一つで少し止まった。


 俺は彼女の顔を見た。


「昨夜は眠れましたか」


「ええ。約束しましたから」


「俺もです」


 隊長は短く笑った。それで何もかも平気になったわけではないが、俺たちは今日の朝を眠った身体で迎えていた。


 ガランが鞍の留め具を一つずつ触った。ミナは水と清潔な布を運び、飛行後の記録を置いた。夜番の若者はトトのところへ残る。全員で見物に出て、幼竜をひとりにはしなかった。


 俺は一度保温室を覗いた。トトは小さな翼を身体へ貼りつけて眠っている。


「行ってきます」


 若者に言うと、彼は頷いた。


「帰ってきたら、教えてください」


 何を、と聞く必要はない。



 離着陸場の土は乾いている。


 シグの爪が踏むたび、小さな砂の粒が跳ねる。広い場所へ出ると、黒い身体は厩舎にいたときより大きく見える。屋根の下に収まっていた翼が、ゆっくり左右へ開く。


 俺は足を止めた。


 空が隠れた。


 薄い膜には光が透け、太い骨の影が枝のように走っている。畳まれた翼を掃除したことはあっても、広げたところをこの距離で見たことはなかった。これが、飛ぶための身体なのだ。


 シグが翼を一度下ろすと、風が俺の上着を叩いた。まだ飛んでいない。動かしただけだ。それでも息を吸う向きを変えなければならなかった。


「ダグさん、もう一歩外へ下がってください」


 隊長の声に、俺は動いた。昨日の印は爪の跡で半分消えていたが、杭との位置を覚えていた。


 見物は許可された数人だけだ。縄の外に立ち、声を出さないよう言われている。誰かが期待を込めて身を乗り出すと、門番が肩へ手を添えた。


 シグの首がその動きを追った。


 俺は青い刷毛を見える位置へ持った。近づけて釣るのではなく、いつもの朝の続きを示す。竜の鼻先がこちらへ戻り、短い息が出た。


「ここだ。大丈夫、道は空いてる」


 俺は肩を固めず、一度だけ顔を払った。


 隊長が踏み台へ上がった。シグはそれを見たが、足を引かなかった。彼女が鞍に座り、重さが落ち着く。俺は左の足、首、口の端を見た。


 いつものシグだ。


 俺は刷毛をしまい、決めてあった場所へ下がった。隊長から見えるように片手を上げ、ゆっくり横へ開く。


 準備が済んだという、昨日二人で確かめた合図。


 隊長が頷いた。


 彼女は手綱を引き上げず、低い声をかけた。


 シグの胸が前へ出た。


 最初の二歩は、地面を歩く音だった。


 三歩目で重さが変わった。後ろ脚が深く土を押し、翼が空気を掴む。大きな風が俺の顔へ当たり、砂が頬を打った。


 目を閉じる寸前、黒い爪が地面から離れた。


 俺は腕で顔を庇い、すぐ見上げた。


 シグがいる。


 屋根より高いところに、あの竜がいる。


 背に小さな人影があり、手綱を持つ腕が見える。隊長だと分かるのに、普段の彼女よりずっと遠い。竜と騎士が一緒に風の上へ載り、黒い影が土の上を滑る。


 胸の奥から何かが上がってきた。声にすると竜を驚かせそうで、俺は唇を噛んだ。


 ガランの杖が、隣で一度だけ土を押した。


「上がったな」


「はい」


 それ以上言えなかった。


 シグは遠くへ行かなかった。予定の杭を越えないところで大きく回り、片側の翼を少し下げる。俺は左の肩ばかり見ようとしたが、この距離では細かなことは分からない。


 見えない場所では、隊長が見ている。


 そう思い、俺は地面へ目を戻した。水桶は正しい場所にある。戻る道に人はいない。風で倒れた小さな布を、ミナが縄の外から拾った。


 俺にも、今することがある。


 再び見上げると、シグは帰る向きになっている。早い、と感じた。もっと飛ぶところを見たい気持ちが出たが、それは昨日決めた距離を変える理由ではない。


 翼が広がり、影が濃くなった。


 俺は一歩も前へ出なかった。


 前足が土へ触れた。続いて後ろ脚。砂が上がり、翼の端が大きく揺れる。シグは二歩進んで止まった。


 隊長が手を上げた。


 俺はそこで初めて動いた。走らず、正面を塞がず、いつもの声を出しながら。


「おかえり」


 シグが顔を向けた。熱い息が胸へ届いた。空の匂いというものがあるのか、俺には分からない。けれど鼻先についた乾いた砂と、風に冷えた鱗は、朝とは違っていた。


 隊長が降りると、膝が少し曲がった。


 俺は手を出しかけたが、踏み台を持っているガランが先に彼女の肘を支えた。隊長は自分で立ち、手袋を外した。


「どうですか」


 俺が聞いた。


「軽く飛べました。前は曲がるたびに強く引いていたのに、今日はシグの方から向きを変えてくれました」


 彼女の声が震えている。


 俺はシグを見た。黒竜は水を飲む前に、鼻で俺の肩を押しかけた。俺が半歩退くと、押すのをやめ、額を低くする。


 左手を添えた。


 地面に戻ってきた重みだ。


「よく帰ってきたな」


 竜へ言うと、隊長が横で深く息を吐いた。


 リーネの確認が始まった。呼吸、熱、肩、歩き方。喜ぶのはその後でよかった。鞍を外した下に、新しい擦れは見えなかった。


「今日はこれで終わりです。午後と明日の朝も確かめます」


 リーネが言うと、隊長はすぐ頷いた。


 その返事を聞いてから、縄の外で小さな拍手が起きた。シグが顔を上げたので、隊長が手を振って抑えた。拍手はすぐ止み、代わりに笑顔が残る。


 俺は水桶を少し手前へ寄せた。竜はゆっくり飲み始めた。


「ダグさん」


 隊長に呼ばれた。


 彼女は俺の前へ来て、頭を下げた。


「もう一度シグと飛べました。ありがとうございます」


 俺は目を落とした。地面に二人ぶんの影があり、その上を竜の翼の影が横切る。


「隊長が乗ってくれたからです」


「あなたが世話をして、安心して乗れる状態にしてくれたからです」


 俺は何も返せなかった。


 ガランが横から言った。


「鞍も忘れるなよ。俺と職人も、ずいぶん手をかけたんだ」


 隊長が顔を上げ、今度はガランへ礼を言った。リーネにも。ミナにも、待っていた者にも。礼が広がるたび、俺の分が減る感じはしなかった。


 俺はシグの首へ目を戻した。


 飛んだのはシグ。背で道を選んだのは隊長。俺は地面で迎えた。


 それぞれ違うことをして、同じところへ帰ってきた。


 片づけるとき、ガランが地面の足跡を指した。


「出るときと戻ったときで、深さが違うな」


 俺はしゃがんだ。離れるときの後ろ脚の跡は深く、土が後ろへ押し出されている。帰った跡は長く、爪の線が何本も並ぶ。空のことは分からなくても、地面には身体が使った力の跡がある。


「あとでリーネ先生にも見てもらいます」


「消える前に、ミナに描いてもらうといい」


 ミナはもう紙を持っていた。全てを上手に描こうとせず、足の向きと深い場所だけを写した。俺が砂の盛り上がりを示すと、彼女は横から見た線を足した。


 隊長がその紙を覗き込み、着地のとき少し右から風が来たと教えた。地面だけでは分からないことが、線の横へ加わった。俺たちは同じ飛行を、別々の場所から見ていたのだ。


 紙の端には水滴が落ち、丸い染みができた。ミナはそこを避けて日付を書いた。汚れたから捨てるには、今日しか残せないものが多すぎた。



 午後、保温室へ報告に行くと、トトは餌の皿へ前足を載せようとしている。


 若者が手を入れず、皿の位置を直している。俺の顔を見ると、目を輝かせた。


「飛びましたか」


「飛びました。ちゃんと戻ってきました」


 声にすると、今ごろ胸が熱くなった。


 若者は小さく拳を握った。トトがその動きを見て鳴いたので、慌てて手を下ろす。俺は笑い、餌の量の記録を受け取った。


 幼竜の欄には、いつもの朝が続いている。


 シグの欄には、初めて飛行後、と書いた。


 俺の字は相変わらず小さく、飛の字は少し潰れた。それでも読めた。今日、空へ上がった竜のことを、自分の手で書いた。


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