第16話 空へ上がった黒い影
朝の風は、洗った布を片側だけ膨らませている。
俺は布の揺れを見てから、シグの囲いへ入る前の通路で足を止めた。夜番の記録には、よく眠ったとある。餌も予定どおり食べ、今は水桶の縁を鼻で押している。
「今日は外へ行くぞ」
シグが首を上げる。俺はいつもの順番で顔を払い、足元を見た。左の前足は、まっすぐ身体を支えている。壁を擦った新しい跡もない。
よく見せようと思うと、何でもよく見えそうで怖い。俺は手帳の昨日の欄を開き、同じ順番に確かめた。
リーネも来た。彼女は俺の話を聞き、肩に手を触れ、シグが歩くところを見た。
「予定どおりに進めましょう。途中で変化があれば、止めます」
隊長が頷いた。鎧は軽いものを選び、余計な荷物はつけていない。胸元の留め具を閉じる指が、最後の一つで少し止まった。
俺は彼女の顔を見た。
「昨夜は眠れましたか」
「ええ。約束しましたから」
「俺もです」
隊長は短く笑った。それで何もかも平気になったわけではないが、俺たちは今日の朝を眠った身体で迎えていた。
ガランが鞍の留め具を一つずつ触った。ミナは水と清潔な布を運び、飛行後の記録を置いた。夜番の若者はトトのところへ残る。全員で見物に出て、幼竜をひとりにはしなかった。
俺は一度保温室を覗いた。トトは小さな翼を身体へ貼りつけて眠っている。
「行ってきます」
若者に言うと、彼は頷いた。
「帰ってきたら、教えてください」
何を、と聞く必要はない。
◇
離着陸場の土は乾いている。
シグの爪が踏むたび、小さな砂の粒が跳ねる。広い場所へ出ると、黒い身体は厩舎にいたときより大きく見える。屋根の下に収まっていた翼が、ゆっくり左右へ開く。
俺は足を止めた。
空が隠れた。
薄い膜には光が透け、太い骨の影が枝のように走っている。畳まれた翼を掃除したことはあっても、広げたところをこの距離で見たことはなかった。これが、飛ぶための身体なのだ。
シグが翼を一度下ろすと、風が俺の上着を叩いた。まだ飛んでいない。動かしただけだ。それでも息を吸う向きを変えなければならなかった。
「ダグさん、もう一歩外へ下がってください」
隊長の声に、俺は動いた。昨日の印は爪の跡で半分消えていたが、杭との位置を覚えていた。
見物は許可された数人だけだ。縄の外に立ち、声を出さないよう言われている。誰かが期待を込めて身を乗り出すと、門番が肩へ手を添えた。
シグの首がその動きを追った。
俺は青い刷毛を見える位置へ持った。近づけて釣るのではなく、いつもの朝の続きを示す。竜の鼻先がこちらへ戻り、短い息が出た。
「ここだ。大丈夫、道は空いてる」
俺は肩を固めず、一度だけ顔を払った。
隊長が踏み台へ上がった。シグはそれを見たが、足を引かなかった。彼女が鞍に座り、重さが落ち着く。俺は左の足、首、口の端を見た。
いつものシグだ。
俺は刷毛をしまい、決めてあった場所へ下がった。隊長から見えるように片手を上げ、ゆっくり横へ開く。
準備が済んだという、昨日二人で確かめた合図。
隊長が頷いた。
彼女は手綱を引き上げず、低い声をかけた。
シグの胸が前へ出た。
最初の二歩は、地面を歩く音だった。
三歩目で重さが変わった。後ろ脚が深く土を押し、翼が空気を掴む。大きな風が俺の顔へ当たり、砂が頬を打った。
目を閉じる寸前、黒い爪が地面から離れた。
俺は腕で顔を庇い、すぐ見上げた。
シグがいる。
屋根より高いところに、あの竜がいる。
背に小さな人影があり、手綱を持つ腕が見える。隊長だと分かるのに、普段の彼女よりずっと遠い。竜と騎士が一緒に風の上へ載り、黒い影が土の上を滑る。
胸の奥から何かが上がってきた。声にすると竜を驚かせそうで、俺は唇を噛んだ。
ガランの杖が、隣で一度だけ土を押した。
「上がったな」
「はい」
それ以上言えなかった。
シグは遠くへ行かなかった。予定の杭を越えないところで大きく回り、片側の翼を少し下げる。俺は左の肩ばかり見ようとしたが、この距離では細かなことは分からない。
見えない場所では、隊長が見ている。
そう思い、俺は地面へ目を戻した。水桶は正しい場所にある。戻る道に人はいない。風で倒れた小さな布を、ミナが縄の外から拾った。
俺にも、今することがある。
再び見上げると、シグは帰る向きになっている。早い、と感じた。もっと飛ぶところを見たい気持ちが出たが、それは昨日決めた距離を変える理由ではない。
翼が広がり、影が濃くなった。
俺は一歩も前へ出なかった。
前足が土へ触れた。続いて後ろ脚。砂が上がり、翼の端が大きく揺れる。シグは二歩進んで止まった。
隊長が手を上げた。
俺はそこで初めて動いた。走らず、正面を塞がず、いつもの声を出しながら。
「おかえり」
シグが顔を向けた。熱い息が胸へ届いた。空の匂いというものがあるのか、俺には分からない。けれど鼻先についた乾いた砂と、風に冷えた鱗は、朝とは違っていた。
隊長が降りると、膝が少し曲がった。
俺は手を出しかけたが、踏み台を持っているガランが先に彼女の肘を支えた。隊長は自分で立ち、手袋を外した。
「どうですか」
俺が聞いた。
「軽く飛べました。前は曲がるたびに強く引いていたのに、今日はシグの方から向きを変えてくれました」
彼女の声が震えている。
俺はシグを見た。黒竜は水を飲む前に、鼻で俺の肩を押しかけた。俺が半歩退くと、押すのをやめ、額を低くする。
左手を添えた。
地面に戻ってきた重みだ。
「よく帰ってきたな」
竜へ言うと、隊長が横で深く息を吐いた。
リーネの確認が始まった。呼吸、熱、肩、歩き方。喜ぶのはその後でよかった。鞍を外した下に、新しい擦れは見えなかった。
「今日はこれで終わりです。午後と明日の朝も確かめます」
リーネが言うと、隊長はすぐ頷いた。
その返事を聞いてから、縄の外で小さな拍手が起きた。シグが顔を上げたので、隊長が手を振って抑えた。拍手はすぐ止み、代わりに笑顔が残る。
俺は水桶を少し手前へ寄せた。竜はゆっくり飲み始めた。
「ダグさん」
隊長に呼ばれた。
彼女は俺の前へ来て、頭を下げた。
「もう一度シグと飛べました。ありがとうございます」
俺は目を落とした。地面に二人ぶんの影があり、その上を竜の翼の影が横切る。
「隊長が乗ってくれたからです」
「あなたが世話をして、安心して乗れる状態にしてくれたからです」
俺は何も返せなかった。
ガランが横から言った。
「鞍も忘れるなよ。俺と職人も、ずいぶん手をかけたんだ」
隊長が顔を上げ、今度はガランへ礼を言った。リーネにも。ミナにも、待っていた者にも。礼が広がるたび、俺の分が減る感じはしなかった。
俺はシグの首へ目を戻した。
飛んだのはシグ。背で道を選んだのは隊長。俺は地面で迎えた。
それぞれ違うことをして、同じところへ帰ってきた。
片づけるとき、ガランが地面の足跡を指した。
「出るときと戻ったときで、深さが違うな」
俺はしゃがんだ。離れるときの後ろ脚の跡は深く、土が後ろへ押し出されている。帰った跡は長く、爪の線が何本も並ぶ。空のことは分からなくても、地面には身体が使った力の跡がある。
「あとでリーネ先生にも見てもらいます」
「消える前に、ミナに描いてもらうといい」
ミナはもう紙を持っていた。全てを上手に描こうとせず、足の向きと深い場所だけを写した。俺が砂の盛り上がりを示すと、彼女は横から見た線を足した。
隊長がその紙を覗き込み、着地のとき少し右から風が来たと教えた。地面だけでは分からないことが、線の横へ加わった。俺たちは同じ飛行を、別々の場所から見ていたのだ。
紙の端には水滴が落ち、丸い染みができた。ミナはそこを避けて日付を書いた。汚れたから捨てるには、今日しか残せないものが多すぎた。
◇
午後、保温室へ報告に行くと、トトは餌の皿へ前足を載せようとしている。
若者が手を入れず、皿の位置を直している。俺の顔を見ると、目を輝かせた。
「飛びましたか」
「飛びました。ちゃんと戻ってきました」
声にすると、今ごろ胸が熱くなった。
若者は小さく拳を握った。トトがその動きを見て鳴いたので、慌てて手を下ろす。俺は笑い、餌の量の記録を受け取った。
幼竜の欄には、いつもの朝が続いている。
シグの欄には、初めて飛行後、と書いた。
俺の字は相変わらず小さく、飛の字は少し潰れた。それでも読めた。今日、空へ上がった竜のことを、自分の手で書いた。




