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万年馬丁のおっさん、配置換えで竜厩舎に回されたら王国中の竜が俺にしか懐かなくなった ~騎士様が頭を下げに来るけど、俺はただ世話をしてるだけです~  作者: さくらろ
第2部 名前で呼ばれる

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第15話 飛ぶ人と待つ人

 仕上がった鞍は、シグの背へ静かに収まった。


 当て布の縫い目は横へ逃がされ、帯には締める位置の目印がある。リーネが肩を確かめ、ガランが留め具を見た。俺はシグの足と顔を見る。


 隊長が乗り、短く歩く。


 左の前足は引かれない。首も正面を向いている。広い弧で曲がるとき、翼の端が自然に揺れる。


 俺は手を上げずにいられた。


「明日、天候と朝の状態がよければ、短い飛行を試せます」


 リーネが言った。


 隊長の肩が、わずかに下がった。息を止めていたのかもしれない。俺も同じだった。


「高さと距離は予定の範囲を守り、途中で変えないでください。元気そうに見えても、増やすのは別の日にしましょう」


「分かっています」


 隊長は答え、少し間を置いた。


「分かっているつもりでも、飛べば増やしたくなるかもしれません。そのときは今の言葉を思い出します」


 リーネは頷いた。立派な返事より、その後の言葉を気に入ったようだった。


 鞍を外すと、シグは大きく首を振った。鼻の横へ青い刷毛を寄せると、いつものように目が半分下りる。


 俺の手つきは昨日と変わらない。けれど、明日はこの大きな身体が空へ上がる。


 見上げた屋根が、急に低く思えた。



 午後、離着陸場を歩いた。


 俺が飛ぶわけではない。それでも戻ってきた竜をどこから迎え、どこへ水を置くかは覚えなければならない。


 広い土の端に、白い杭が立っている。隊長が、翼の風を避ける位置と、着地が乱れたときに下がる方向を教えた。


「私が合図を出すまで近づかないでください。合図が出てからも、走らずに来てください」


「はい」


 俺は足で距離を測った。ここから桶まで、ここから退く柵まで。厩舎の戸まで六歩と覚えたあの日を思い出した。


 今日は外なので、逃げる場所が広い。そのぶん、どちらへ走ればよいか分からなくなりそうだ。隊長は俺を一度立たせ、自分が竜の来る側へ立って見せた。


「竜がこちらへ来たら右へ退いてください。反対へ振れたら、その場からさらに外側へ離れてください」


 俺は頷き、実際に歩いた。


 ガランは水桶の台を確かめる。ミナは見物が入らないよう張る縄を持ち、門番と道を分けている。誰も大きな声で成功を約束しなかった。風に吹かれながら、明日の失敗に備えて手を動かす。


 門番が見物用の縄を張ると、ミナはその外側から俺の立ち位置を見た。


「そこだと、ダグさんの手が隊長から見えないかもしれません」


 明日の声は、風に消されることがある。隊長は竜の背の高さに近い見張り台へ上がり、俺に手を上げるよう言った。柵の柱と重なっているらしい。俺が半歩動くと、彼女が頷いた。


「そこなら分かります」


 ミナが地面へ小さな印をつけた。土は明日の足で消えるかもしれないので、俺は近くの杭との位置も覚えた。


 戻ってきた隊長が、今度は自分の合図を見せた。待て、近づいてよい、下がれ。俺は一つずつ答え、間違えたところはもう一度見せてもらった。


 大きく手を振れば何でも通じると思っていたが、同じ動きでも受け取る側は違う。明日のために、今日、何度も聞き直せるのがありがたい。


 隊長が風見の布を見上げた。


「明日もこの風向きなら、向こうから上がります。変われば待つか、中止にします」


 風が一度強まり、土の上の細かな藁を持ち上げた。俺は反射的に目を細めたが、隊長は風見の布が収まるまで見ていた。飛ぶ前から、見るものの数が違う。俺には地面の水と足跡があり、彼女には空の布と雲がある。


 俺は空を見た。雲は薄く、穏やかに流れている。こんな空でも、地面にいる俺が知らない風があるのだろう。


「空の上では怖くないんですか」


 聞いてから、失礼だったかと思った。


 隊長は布から目を離し、俺を見た。


「怖いですよ」


 返事が早かったので、俺は驚いた。


「慣れていても怖いんですか」


「慣れたからこそ、何が怖いのか分かることもあります。風が急に変わる所や視界の狭くなる所、それに下で待つ人が見えなくなるほどの高さも怖いです」


 彼女は白い杭へ手を置いた。


「今、いちばん怖いのは、シグがまた痛い思いをして、私が気づかないことです」


 俺は何も言えなかった。大丈夫です、と言えればよかったのかもしれない。けれど絶対に気づけるとは、俺にも言えない。


「明日の朝もシグの様子を見ます」


 それだけ答えた。


 隊長は少し目を細めた。


「はい。それが頼りです」



 夕方、シグの囲いの前で、隊長が手袋を外した。


 見慣れた手だったが、掌をじっと見たのは初めてだった。剣や手綱でできた硬いところがあり、小指の付け根に古い擦れ跡がある。


 彼女は手を見せ、シグの顔の横へ立った。


「今日は私にも触らせてくれるだろうか」


 独り言に近い声だ。


 俺は刷毛を持っていた。シグはその方を見たが、今日は先に出さなかった。


「隊長の手の匂いを確かめてもらいましょう」


 彼女は手を伸ばしすぎず、止めた。


 シグの鼻先が近づく。


 隊長の指が少し曲がった。触りたくなったのだろう。それでも動かさず待った。竜は息を吐き、鼻の横を彼女の指先へ当てた。


 短い接触だった。


 隊長は目を見開いた。シグが離れたあとも、手をその位置に置いている。


「今、自分から触れてくれたんでしょうか」


「ええ、自分から来ましたね」


 俺が言うと、隊長は唇を噛み、頷いた。


 もう一度、鼻先が来た。今度は彼女が短く撫でた。シグは首を引かなかった。


 俺は一歩下がった。


 隣にいる必要はあるが、二人の間へ立つ必要はない。隊長の手が、竜の鼻の横をゆっくり動く。いつもの指示を出す手ではなく、重さを確かめる手だ。


 シグはしばらくそこにいた。それから俺の青い刷毛へ目を向け、鼻を伸ばした。


 隊長が小さく笑った。


「仕上げには刷毛がいいんですか」


「道具の差かもしれません」


 俺が言うと、彼女はまた笑った。少しだけ、肩から力が抜けた顔だ。


 俺は刷毛を一度だけ当てた。竜の瞼が下りる。隊長はその横で、もう無理に触ろうとはしなかった。


 触れられた時間を、急いで増やす必要はない。



 夜の引き継ぎを終えると、隊長が湯を持ってきた。


 食堂は片づけの途中で、卓の半分に乾いた食器が並んでいる。俺たちは空いている端へ座った。茶の葉が少し浮いている。俺は杯を両手で持った。


「ダグさんは、何が怖いですか」


 隊長が聞いた。


 昼に俺がした質問の返事だった。


「竜の爪も火も怖いです。初日は、袋を捨てて逃げることさえできないと思いました」


「今は何が怖いですか」


 俺は杯の縁を見た。


 失敗して、ここに要らないと言われること。誰かが気のせいだったと気づいて、元の場所へ戻されること。そんなことが先に浮かび、自分でも嫌になった。


 竜が明日飛ぶのに、自分の居場所を心配している。


「期待していただいた分、できなかったときに皆さんを困らせるのではないかと思います」


 遠回りな言い方になった。


「誰かが水桶を忘れたら、俺が持っていけば済みます。でも俺が忘れたら、何をしにここにいるんだと思われそうで怖いんです」


 言葉にすると、ずいぶんおかしな理屈だ。他の人は忘れることがあっても仕事ができる。俺だけ、一度も抜けてはいけないと思っている。


 隊長は黙って聞いていた。急いで励まされなかったので、俺は言ったことを取り消さずにいられた。


 隊長はすぐに否定しなかった。杯を置き、少し考えた。


「明日飛べなくても、水は要りますね」


「はい」


「食事も寝床も必要ですし、肩の記録も続きます」


 俺は頷いた。


「飛べたら、それであなたの仕事が終わるわけでもありません。私は、飛んだ結果ひとつで、ここにいる理由を決めるつもりはありません」


 俺は杯を持つ指を少し緩めた。茶の熱が掌へ入った。


「そうですか」


「そうです。それから、私も失敗します。そのとき、また降りろと言ってください」


 隊長は片手を上げた。先日決めた合図だった。


 俺は小さく頷いた。


 安心が全部一度に来たわけではない。明日の空はまだ怖い。それでも、飛べなかった朝にする仕事が、俺には見えている。その仕事をしてよいと、目の前の人が言ってくれた。


 杯が空になり、俺たちは立ち上がった。俺が二つとも運ぼうとすると、隊長は自分の分を持った。


「明日は早いので、今日は二人とも寝ましょう」


「隊長も寝る時刻を守ってください」


 言ったあとで、俺は少し驚いた。人に眠るよう勧めるのはできても、隊長へ約束を求めたことはなかった。


 彼女は笑わず、頷いた。


「守ります」


 廊下で別れると、厩舎の奥からシグの息が聞こえた。トトの部屋には夜番の灯りがある。ガランの作業台には、明日使う道具が順に置かれている。


 明日は、俺ひとりの朝ではない。


 寝床へ入る前に、俺は手帳を閉じた。最後の頁には、飛行前の確認が短く書いてある。


 その横に、朝まで眠る、と自分で付け足してから、灯りを消した。


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