第15話 飛ぶ人と待つ人
仕上がった鞍は、シグの背へ静かに収まった。
当て布の縫い目は横へ逃がされ、帯には締める位置の目印がある。リーネが肩を確かめ、ガランが留め具を見た。俺はシグの足と顔を見る。
隊長が乗り、短く歩く。
左の前足は引かれない。首も正面を向いている。広い弧で曲がるとき、翼の端が自然に揺れる。
俺は手を上げずにいられた。
「明日、天候と朝の状態がよければ、短い飛行を試せます」
リーネが言った。
隊長の肩が、わずかに下がった。息を止めていたのかもしれない。俺も同じだった。
「高さと距離は予定の範囲を守り、途中で変えないでください。元気そうに見えても、増やすのは別の日にしましょう」
「分かっています」
隊長は答え、少し間を置いた。
「分かっているつもりでも、飛べば増やしたくなるかもしれません。そのときは今の言葉を思い出します」
リーネは頷いた。立派な返事より、その後の言葉を気に入ったようだった。
鞍を外すと、シグは大きく首を振った。鼻の横へ青い刷毛を寄せると、いつものように目が半分下りる。
俺の手つきは昨日と変わらない。けれど、明日はこの大きな身体が空へ上がる。
見上げた屋根が、急に低く思えた。
◇
午後、離着陸場を歩いた。
俺が飛ぶわけではない。それでも戻ってきた竜をどこから迎え、どこへ水を置くかは覚えなければならない。
広い土の端に、白い杭が立っている。隊長が、翼の風を避ける位置と、着地が乱れたときに下がる方向を教えた。
「私が合図を出すまで近づかないでください。合図が出てからも、走らずに来てください」
「はい」
俺は足で距離を測った。ここから桶まで、ここから退く柵まで。厩舎の戸まで六歩と覚えたあの日を思い出した。
今日は外なので、逃げる場所が広い。そのぶん、どちらへ走ればよいか分からなくなりそうだ。隊長は俺を一度立たせ、自分が竜の来る側へ立って見せた。
「竜がこちらへ来たら右へ退いてください。反対へ振れたら、その場からさらに外側へ離れてください」
俺は頷き、実際に歩いた。
ガランは水桶の台を確かめる。ミナは見物が入らないよう張る縄を持ち、門番と道を分けている。誰も大きな声で成功を約束しなかった。風に吹かれながら、明日の失敗に備えて手を動かす。
門番が見物用の縄を張ると、ミナはその外側から俺の立ち位置を見た。
「そこだと、ダグさんの手が隊長から見えないかもしれません」
明日の声は、風に消されることがある。隊長は竜の背の高さに近い見張り台へ上がり、俺に手を上げるよう言った。柵の柱と重なっているらしい。俺が半歩動くと、彼女が頷いた。
「そこなら分かります」
ミナが地面へ小さな印をつけた。土は明日の足で消えるかもしれないので、俺は近くの杭との位置も覚えた。
戻ってきた隊長が、今度は自分の合図を見せた。待て、近づいてよい、下がれ。俺は一つずつ答え、間違えたところはもう一度見せてもらった。
大きく手を振れば何でも通じると思っていたが、同じ動きでも受け取る側は違う。明日のために、今日、何度も聞き直せるのがありがたい。
隊長が風見の布を見上げた。
「明日もこの風向きなら、向こうから上がります。変われば待つか、中止にします」
風が一度強まり、土の上の細かな藁を持ち上げた。俺は反射的に目を細めたが、隊長は風見の布が収まるまで見ていた。飛ぶ前から、見るものの数が違う。俺には地面の水と足跡があり、彼女には空の布と雲がある。
俺は空を見た。雲は薄く、穏やかに流れている。こんな空でも、地面にいる俺が知らない風があるのだろう。
「空の上では怖くないんですか」
聞いてから、失礼だったかと思った。
隊長は布から目を離し、俺を見た。
「怖いですよ」
返事が早かったので、俺は驚いた。
「慣れていても怖いんですか」
「慣れたからこそ、何が怖いのか分かることもあります。風が急に変わる所や視界の狭くなる所、それに下で待つ人が見えなくなるほどの高さも怖いです」
彼女は白い杭へ手を置いた。
「今、いちばん怖いのは、シグがまた痛い思いをして、私が気づかないことです」
俺は何も言えなかった。大丈夫です、と言えればよかったのかもしれない。けれど絶対に気づけるとは、俺にも言えない。
「明日の朝もシグの様子を見ます」
それだけ答えた。
隊長は少し目を細めた。
「はい。それが頼りです」
◇
夕方、シグの囲いの前で、隊長が手袋を外した。
見慣れた手だったが、掌をじっと見たのは初めてだった。剣や手綱でできた硬いところがあり、小指の付け根に古い擦れ跡がある。
彼女は手を見せ、シグの顔の横へ立った。
「今日は私にも触らせてくれるだろうか」
独り言に近い声だ。
俺は刷毛を持っていた。シグはその方を見たが、今日は先に出さなかった。
「隊長の手の匂いを確かめてもらいましょう」
彼女は手を伸ばしすぎず、止めた。
シグの鼻先が近づく。
隊長の指が少し曲がった。触りたくなったのだろう。それでも動かさず待った。竜は息を吐き、鼻の横を彼女の指先へ当てた。
短い接触だった。
隊長は目を見開いた。シグが離れたあとも、手をその位置に置いている。
「今、自分から触れてくれたんでしょうか」
「ええ、自分から来ましたね」
俺が言うと、隊長は唇を噛み、頷いた。
もう一度、鼻先が来た。今度は彼女が短く撫でた。シグは首を引かなかった。
俺は一歩下がった。
隣にいる必要はあるが、二人の間へ立つ必要はない。隊長の手が、竜の鼻の横をゆっくり動く。いつもの指示を出す手ではなく、重さを確かめる手だ。
シグはしばらくそこにいた。それから俺の青い刷毛へ目を向け、鼻を伸ばした。
隊長が小さく笑った。
「仕上げには刷毛がいいんですか」
「道具の差かもしれません」
俺が言うと、彼女はまた笑った。少しだけ、肩から力が抜けた顔だ。
俺は刷毛を一度だけ当てた。竜の瞼が下りる。隊長はその横で、もう無理に触ろうとはしなかった。
触れられた時間を、急いで増やす必要はない。
◇
夜の引き継ぎを終えると、隊長が湯を持ってきた。
食堂は片づけの途中で、卓の半分に乾いた食器が並んでいる。俺たちは空いている端へ座った。茶の葉が少し浮いている。俺は杯を両手で持った。
「ダグさんは、何が怖いですか」
隊長が聞いた。
昼に俺がした質問の返事だった。
「竜の爪も火も怖いです。初日は、袋を捨てて逃げることさえできないと思いました」
「今は何が怖いですか」
俺は杯の縁を見た。
失敗して、ここに要らないと言われること。誰かが気のせいだったと気づいて、元の場所へ戻されること。そんなことが先に浮かび、自分でも嫌になった。
竜が明日飛ぶのに、自分の居場所を心配している。
「期待していただいた分、できなかったときに皆さんを困らせるのではないかと思います」
遠回りな言い方になった。
「誰かが水桶を忘れたら、俺が持っていけば済みます。でも俺が忘れたら、何をしにここにいるんだと思われそうで怖いんです」
言葉にすると、ずいぶんおかしな理屈だ。他の人は忘れることがあっても仕事ができる。俺だけ、一度も抜けてはいけないと思っている。
隊長は黙って聞いていた。急いで励まされなかったので、俺は言ったことを取り消さずにいられた。
隊長はすぐに否定しなかった。杯を置き、少し考えた。
「明日飛べなくても、水は要りますね」
「はい」
「食事も寝床も必要ですし、肩の記録も続きます」
俺は頷いた。
「飛べたら、それであなたの仕事が終わるわけでもありません。私は、飛んだ結果ひとつで、ここにいる理由を決めるつもりはありません」
俺は杯を持つ指を少し緩めた。茶の熱が掌へ入った。
「そうですか」
「そうです。それから、私も失敗します。そのとき、また降りろと言ってください」
隊長は片手を上げた。先日決めた合図だった。
俺は小さく頷いた。
安心が全部一度に来たわけではない。明日の空はまだ怖い。それでも、飛べなかった朝にする仕事が、俺には見えている。その仕事をしてよいと、目の前の人が言ってくれた。
杯が空になり、俺たちは立ち上がった。俺が二つとも運ぼうとすると、隊長は自分の分を持った。
「明日は早いので、今日は二人とも寝ましょう」
「隊長も寝る時刻を守ってください」
言ったあとで、俺は少し驚いた。人に眠るよう勧めるのはできても、隊長へ約束を求めたことはなかった。
彼女は笑わず、頷いた。
「守ります」
廊下で別れると、厩舎の奥からシグの息が聞こえた。トトの部屋には夜番の灯りがある。ガランの作業台には、明日使う道具が順に置かれている。
明日は、俺ひとりの朝ではない。
寝床へ入る前に、俺は手帳を閉じた。最後の頁には、飛行前の確認が短く書いてある。
その横に、朝まで眠る、と自分で付け足してから、灯りを消した。




