第13話 降りるための合図
新しい鞍は、まだ鞍の形をしていない。
ガランの作業台には木の芯が二つ並び、革の帯と厚い布が別々に置かれている。古い鞍から外した芯は赤い布をつけたまま、横に置いてある。
「完成してから合わないと分かっても困る。今のうちに合わせるんだ」
ガランは曲げた薄板を持ち、左右の幅を比べた。彼ひとりで全部作るのではなく、鞍職人が仕上げる前の確認をしている。装具の専門は職人、竜の身体はリーネ、使う姿勢は隊長。それぞれを見る人がいる。
俺はシグの毎朝の動きを話した。
「左へ曲がるとき、前ほど首が逃げなくなりました。ただ、小さく曲がるとまだ少し逃げます」
「今日、無理に曲げて見せなくていい。記録と普段の歩き方で確かめます」
リーネは手帳に目を通した。
肩の皮膚は落ち着いてきている。触れる前に声をかけ、短く確かめる分には、シグも身体を跳ねさせなくなった。それでも古い鞍と似た形のものが近づくと、首が上がる。
痛みが減っても、覚えている嫌なことはすぐ消えないらしい。
隊長は鎧を着ていない。柔らかい上着に、裾を絞ったズボン。手袋も厚すぎないものを選んでいた。
「今日は載せるところまでにします。具合が悪ければ、その時点で止めます」
彼女が全員へ言った。
鞍職人は少し渋い顔をしたが、頷いた。
「使う方がそう言うなら急がせません。ただ、実際に体重をかけないと合っているか分からない箇所はあります」
「そのときは、手順を確認してから進めましょう」
隊長が答えた。俺はそのやり取りを聞き、青い刷毛を袋へ入れ直した。
最初に、薄い当て布だけを見せた。
シグは鼻を寄せ、匂いを嗅いだ。洗った布の匂いと、新しい革の匂い。どちらもいつもの寝床にはない。
俺は布を竜の顔へ押しつけず、横で持った。シグが首を下げるまで待つ。下げても、それだけで背中へ載せてよいとは決めない。隊長が普段の合図を出し、リーネが肩の様子を見る。
薄布を背へ置くと、シグの脇腹が固くなった。
俺は刷毛を止めた。隊長も手を引いた。
すぐには暴れない。竜は布の端を見ようとして首を曲げ、鼻を鳴らす。それから正面へ戻った。
「少し待ちましょう」
俺が言うと、職人が帯を持ったまま止まった。
誰も次を急がない時間が流れる。
シグが息を吐いたので、薄布を一度外した。外して何も起こらなければ、載せてもそのままずっと痛いことが続くわけではないと分かるかもしれない。
次は同じ布を載せ、少し待って外した。
それを二度すると、シグは布を見るために首を曲げなくなった。
俺は肩を撫でなかった。顔へ短く刷毛を当て、竜が自分で姿勢を保てるようにした。
鞍の芯を合わせる前に、ガランが低い台へ座った。長く立つと脚が痛むからだ。職人も隣へ腰を下ろし、同じ高さから幅を見た。
「ここが左右で違うな」
職人が言う。
「古い芯に合わせて直すと、また同じになる」
ガランは薄板を差し、身体との空き方を確かめた。
俺には木の曲がりの良し悪しは分からない。ただ、二人の指が止まる箇所を覚えた。あとでそこが当たるなら、どこを見てもらえばよいか話せる。
作業は一度で終わらなかった。芯は台へ戻り、少しずつ削られた。音が響かない別室で削る間、シグは水を飲み、俺たちも休んだ。
休むたびに最初からやり直しになるのではと心配したが、シグは二度目の布を、最初ほど警戒しなかった。
急がないことで、残るものもある。
ミナが昼の水を運んできた。職人は手を洗う前に、削った木の粉を袖から払った。彼女は使う布を一枚ずつ渡し、竜に当てる布と混ざらない場所へ空桶を置いた。大きな鞍を作る日にも、小さな布を分ける仕事が続いている。俺は自分の手を拭きながら、その順番のありがたさを感じる。
休憩のあいだ、職人が古い芯を膝へ置いた。指で曲がったところを押し、革の内側の暗い跡を見ている。
「外から見える場所は、ずいぶん手入れされている」
俺は近くへ寄った。隊長が毎回拭いていた部分だという。
「綺麗に使っても、見えないところは傷むんですね」
「だから時々開いて確かめるんだ。ただ、開けば糸も当て布も替える必要がある。その手間を惜しむと、外だけ磨くことになる」
責める声ではない。職人は自分の針を一本つまみ、先を光へ向けた。
「俺の針も、よく見ると曲がっていることがある。慣れた手で縫えるうちは、そのまま使いたくなるんだ」
彼は曲がった針を別の小箱へ入れた。まだ使えると思う気持ちは、俺にも分かった。道具を大事にすることと、替え時を延ばすことは、同じではないらしい。
俺は新しい鞍の内側を見る日を、隊長と相談した。どこまでなら日々の点検で見られるか、どこから先は職人に頼むか。ガランも紙へ線を引いた。完成して引き渡したら終わりではなく、次に開くところまで決まっていった。
◇
仮の鞍が載ったのは、昼を過ぎてからだった。
帯は締めすぎず、左右の当たりを確かめる。リーネが布の端を指で調べ、隊長が触る場所を教わった。
「今の状態は悪くありません。まず横の踏み台へ上がってください。身体を近づけたときの反応を見ましょう」
俺は正面を外し、シグの頭が見えるところへ立った。隊長が踏み台へ上がる。竜の目が彼女を追う。
隊長はすぐ乗らなかった。
「シグ、ここにいるよ」
彼女の手が首の付け根へ触れ、すぐ離れた。シグは動かない。
少しずつ重さをかける。職人が鞍の横を見る。ガランは台の脚を押さえる。俺はシグの顔と足を交互に見る。
隊長が座った。
久しぶりに、竜の背に騎士がいる。
俺の胸が少し浮いた。シグが立っている。隊長も静かに座っている。もう戻れたのではないか、と一瞬思った。
そのとき左の前足が、指一本ぶん後ろへ引かれた。
鼻先が少し右へ向く。口の端が固い。朝、餌を待つときの顔とは違う。
「隊長、降りてください」
俺は手を上げた。
隊長は理由を聞かなかった。踏み台へ足を戻し、鞍から降りた。
シグの左足が元へ戻る。
周りが静かになった。
「どこに変化がありましたか」
リーネが聞いた。
「左の前足を引いて、顔を右へ向けました。載る前にはしていなかった動きです」
俺は自分の足を少し動かして見せた。リーネが頷き、職人と当て布の位置を確かめた。
「こちらが折れている。座った重さで、端が内側へ入ったのね」
新しい布の縫い目が、芯の縁へ重なっている。立って見ただけでは分からない場所だ。
職人は布を外し、縫い目をずらす印をつけた。
「今なら直せます。仕上げる前でよかった」
俺は深く息を吐いた。
間違って止めたのではなかった。それが分かっても、膝の裏はまだ固い。もし何も見つからなかったらと思うと、怖い。けれど、見つかると決まるまで降りてもらわないわけにもいかない。
隊長が踏み台から降り、俺の横へ来た。
「今のように手を上げたら、中止の合図ですね」
「はい。急に止めてしまって、すみません」
「謝らないでください。合図を決めたかったんです」
彼女は俺と同じ高さへ手を上げた。
「こうですね。私が背中を向けているときは、声もかけてください。降りろと聞こえたら、まず降ります」
俺は頷いた。言葉を途中で飲み込まなくてよい合図が、目の前にできた。
◇
午後の合わせ直しでは、隊長は長く乗らなかった。
布の端がずれないか確かめるだけ。シグはさっきのように足を引かず、首も正面にあった。リーネが短く頷き、そこで終わりになった。
職人は仮の鞍を持ち帰って仕上げる。ガランは変更した箇所を紙へ写し、次に見ても分かるよう残した。
俺が台を片づけていると、職人が声をかけた。
「さっきの足の動き、よく見ていましたね」
「朝とは顔つきが違ったので、気になったんです」
「俺は革ばかり見ていた。あんたが竜の様子を見てくれるなら、俺は縫い目を確かめることに集中できる」
彼は針箱を閉じた。俺の仕事を持ち上げる言い方ではなく、隣の仕事として話している。それが心地よい。
シグの鞍を外すと、黒竜は大きく息を吐いた。疲れたのだろう。俺は青い刷毛を見せたが、シグは鼻を寄せず、水の方へ行った。
「今日は水を飲みたいんだな」
俺は袋へしまった。
隊長はその様子を見ていた。以前なら、自分が近づくと避けられたことを気にしたかもしれない。今日は水を飲む背中を見て、静かに頷いただけだった。
「明日どうするかは、様子を見てから決めましょう」
彼女が言った。
「はい。朝の歩き方を記します」
作業台には、削った木の細い屑が残っている。俺は手でまとめ、袋へ入れた。たくさん削ればよくなるものではない。残すところを見て、少しずつ取った跡だった。
隊長が上げた手を思い出す。
騎士を竜へ乗せるために、今日は降りてもらった。その順番を、俺たちは同じものとして覚えた。




