第5話 大切にしたいから、聞かせてほしい
クラウスは、セシリアの前に置かれた予定表を見たあと、もう一度彼女へ向き直った。菓子に伸ばしかけていた手を膝へ戻し、少し身を寄せる。その仕草に促されるように、セシリアは重ねていた指をほどいた。
「……寂しい思いをさせていたんだね」
「はい。お忙しいのは分かっているのですが、手紙ではお伝えしきれないこともあって」
言葉にしてみると、それほど難しいことではなかった。会えないことを責めたいわけでも、仕事をやめてほしいわけでもない。ただ、衣装の仮縫いで母が泣きそうになったことや、アンナが式に参列できると知って喜んだことを、彼の顔を見ながら話したかったのである。
「昨日、お母様と衣装を見ていたのです。まだ仮縫いなのに、よく似合うと言ってくださって。それから、お父様にも見せたいとおっしゃったのですが、当日まで内緒にしておきましょうと、二人で相談しました」
「公爵には、かなり気になる相談だろうな」
「そうなのです。夕食の間、何度も衣装の話へ戻そうとなさるので、お母様と笑ってしまいました」
クラウスが目を細めるのを見て、セシリアにも笑みが浮かんだ。話したかったのは、こういうことだった。手紙にも書けるけれど、彼がどこで笑い、何を尋ねてくれるかを楽しみにしながら話す時間が欲しかった。
「私も聞きたかったよ。仮縫いがあったことは知っていたが、その後は順調だとしか聞いていなかった」
「順調でしたから」
「うん。けれど、それだけではなかったんだね」
その言葉に、セシリアは小さく頷いた。クラウスへ書く手紙では、準備が滞っていないことを先に伝えようとしていた。安心して仕事をしてほしかったからなのだが、楽しかったことまで報告のように短くまとめていたのかもしれない。
女官が静かに一礼して席を外すと、入れ替わりに侍女が紅茶を運んできた。クラウスは礼を言い、二人の前にカップが置かれるのを待ってから、予定表へ目を落とした。
「今日は、これについても話したかった?」
「はい。先ほど、新しい予定を見せていただいたのです」
セシリアは式後の欄を指した。クラウスはそこを読んだあと、手元へ紙を引き寄せ、前後の時間まで確かめている。
「二人で食事をする時間がなくなっているね」
「控室に軽食をご用意くださるそうです。でも、殿下と座ってお話しする時間は、こちらには見当たらなくて」
「この変更は、私も今知った」
クラウスの声には、驚きと戸惑いがあった。セシリアは彼の顔を見て、変更に気づいた時から胸にあった疑問を口にした。
「殿下がお決めになったのではないのですか?」
「外国からの来賓への挨拶を入れることには同意した。ただ、どこへ入れるかは調整してもらっているところだった」
彼は予定表を置き、セシリアへ向き直った。
「だからといって、私が知らなかったで済む話ではないね。君と決めた時間があることを、きちんと伝えておくべきだった」
「まだ調整できると伺いました」
「そうしよう。まずは、どういう経緯でこの案になったのか聞きたい」
クラウスが控えの侍従へ声をかけると、ほどなく先ほどの女官が戻ってきた。新しい予定表を前に事情を尋ねられ、彼女は別の書類を開いて説明を始めた。
使節の到着時間が変更になり、挙式前には挨拶を済ませられなくなったこと。祝宴が始まればほかの招待客も加わるため、その前に面会の時間を取る必要があること。二人の食事は控室で用意する私的な予定とされていたので、移動と着替えの合間に組み込めると判断したこと。
説明を聞いているうちに、セシリアにも事情は理解できた。誰かが二人の希望を軽く扱おうとしたわけではない。限られた時間の中へ必要な予定を収めようとして、食事の仕方を変えたのだろう。
けれど、その相談を受けていれば、自分は同じ返事をしただろうか。
「軽食を用意してくださったことは、ありがたく思っています」
セシリアが口を開くと、女官は説明を止めた。
「ただ、あの時間は、殿下と二人で食事をしながら、その日のことを話したくてお願いしたものでした。食べられればよいというだけではなかったのです」
女官は予定表へ目を落とし、やがて深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ご希望の趣旨を、十分に汲み取れておりませんでした」
「こちらも、希望を伝えた段階で安心していた。変更が必要なら、決める前に二人へ相談してほしい」
クラウスの言葉に女官は頷き、手元へ書き留めた。彼は続けて、両親と過ごす時間とアンナの参列についても確認した。そちらは予定に残っていると聞いて、セシリアは胸を撫で下ろす。
女官が改めて調整を持ち帰ったあと、クラウスは紅茶へ手を伸ばしかけ、ふと思い出したように止まった。
「すまない。せっかく一緒に食べようと持ってきてくれたのに、また話ばかりになった」
「お茶は、まだ温かいですよ」
セシリアが菓子の皿を彼の方へ寄せると、クラウスは一つ取って礼を言った。自分も同じものを口に運びながら、彼女は先ほどよりずっと気持ちが落ち着いていることに気づいた。式の予定はまだ直っていないけれど、何を大切にしたかったのかは伝えられた。今は二人で、同じ予定表を見ている。
「一つ、私からも話していいかな」
クラウスは菓子を食べ終えると、少し姿勢を改めた。
「君の予定に使節の夫人たちとの茶会が入っただろう。本来はもう一つ、前日の午後にも集まりを設ける案があった」
「もう一つ、ですか?」
「ああ。衣装の準備もあるし、慣れない相手との席が続けば疲れるだろうと思って、そちらは断った。代わりに翌朝の会談へ私が出席することになったんだ」
セシリアは初めて聞く話に目を瞬いた。それが、クラウスと会うはずだった朝の話し合いが取りやめになった理由なのだろう。
「私のために、調整してくださっていたのですね」
「そうしたつもりだった。君が覚えなければならないことを、少しでも減らしたかったからね」
ありがたいと思った。それでも、その気持ちを伝える前に、セシリアは確認したくなった。
「その集まりは、私でも出席できるものでしたか?」
「もちろん。ただ、無理をする必要はない」
「では、出席するかどうか、私にも相談していただきたかったです」
クラウスはすぐには答えず、彼女を見た。セシリアは彼の気遣いを退けたかったわけではないと伝えようとして、言葉を選ぶ。
「知らない方とのお茶会は、確かに緊張します。準備も必要ですし、疲れないとは申しません。でも、どんな集まりなのかを伺って、自分で考えてみたかったのです」
「君なら、引き受けられたかもしれないね」
「難しければ、そう申し上げます。教えていただいた上で、今回は殿下にお願いしたいと申し上げることもあると思います」
クラウスはカップを置き、しばらく考え込んだ。セシリアは黙って待ちながら、彼の目が手元の予定表を追っているのを見ていた。
「……君を疲れさせたくなかったんだ」
やがて彼がそう言った時、その声には、先ほどよりも率直な響きがあった。
「結婚が決まった途端に覚えることが増えて、来賓への対応まで頼まれる。王弟と結婚するのだから当然だ、と君が無理をするのではないかと思った」
「それは、あるかもしれません」
否定しようとしても、ここ数日の自分を思い返せばできなかった。できることは引き受けたいと思うあまり、本当に自分にできるのかを考える前に頷いたこともある。
「でも、殿下もお疲れになるでしょう?」
「私はこちらの仕事に慣れている」
「慣れていることと、疲れないことは別ではありませんか」
クラウスはわずかに目を見開き、それから困ったように笑った。
「これは、返す言葉がないな」
セシリアも微笑んだが、そこで話を終えるつもりはなかった。彼の目元には、この頃よく見る疲れの影がある。会えない寂しさと同じくらい、彼が休めているのかも気になっていた。
「殿下にすべてお任せして、私は疲れずに式を迎えられました、というのも寂しいです。お手伝いできることがあれば、私にもさせてください」
「分かった。次からは、まず君に相談する」
そう答えてから、クラウスは少し首を傾けた。
「ただ、君も、私が忙しいからという理由で、言いたいことをしまわないでほしい。今日も、会いたいと言うのをためらっていた?」
セシリアは、昨夜アンナに言われたことを思い出した。返事を書き終えたあとも、会いたいという言葉を加えようか迷っていたのだった。
「……お休みになる時間を、減らしてしまうと思って」
「会いたいと言われることは、負担ではないよ。予定が空いていなければ、すぐには会えないと答えるけれど、それでも聞かせてほしい」
「それなら、もう少し一緒に過ごしたいです」
口にすると、クラウスは嬉しそうに笑った。その表情を見て、セシリアは自分がずいぶん難しく考えていたのだと思う。会えるかどうかを決める前から、望むこと自体を控えていた。
「私もだよ。だから、次に会う時間はここで決めてしまおう」
クラウスが侍従に予定を確認してもらうと、三日後の夕方なら二人とも時間が取れることが分かった。公爵家で夕食を共にすることになり、セシリアは母へ伝えておくと約束した。
「お父様には、衣装の話を持ち出されても教えないでくださいね」
「それは難しいな。私も気になっている」
「殿下も、当日までお待ちください」
彼は残念そうに頷いたが、その顔があまりに真面目だったので、セシリアは笑ってしまった。予定表の話から始まった時間の終わりに、また新しい楽しみができている。そのことが嬉しくて、帰りの馬車では夕食に何を用意してもらおうかと考えていた。
*
翌日、王宮から届けられた手紙には、式後の予定を改めて相談したいと書かれていた。クラウスの筆で、二人の食事の時間を残すために、ほかの予定も含めて見直していると添えられている。
その二日後、セシリアはいつもより少し早く身支度を済ませた。夕食の前にクラウスへ庭を見てもらおうと思い、アンナと花の咲き具合まで確かめていたのである。
ところが、迎えの時刻が近づいた頃、王宮の使者が到着した。
会談が紛糾し、クラウスはまだ席を離れられないという。届いた手紙には謝罪とともに、終了の見通しが立ち次第、改めて連絡すると書かれていた。
セシリアは窓辺に立ち、手紙をもう一度読んだ。庭を歩く時間は、もう取れないかもしれない。それでも夕食には間に合うだろうかと時計を見てから、アンナへ向き直った。
「料理長に、少し待っていただけるか聞いてきてくれる?」
「かしこまりました」
アンナが退出したあとも、セシリアは手紙を手にしていた。三日前に話したばかりなのにと思いかけ、会いたいと言えば必ず会えるようになるわけではないことを、自分でも分かっていると確かめる。
今夜を楽しみにしていたから、残念だった。その気持ちまで消す必要はなかった。
やがて再び訪れた使者は、クラウスが今夜の訪問を取りやめることを伝えた。セシリアは知らせを受け取り、用意していた返事の紙へ向かったが、いつものように「お気になさらず」と書きかけて、ペンを止めた。
代わりに、会えなくて残念ですと書いた。食事は家族でいただくこと、次に会う日を相談したいことも添え、それから、遅くなっても夕食は取ってほしいと続けた。
封をする直前、手紙を読み返していると、廊下から父の声が聞こえた。使者を呼び止め、何か確かめているらしい。
「殿下は明日も会談に出られるのか」
「はい。先ほど、追加で三日間の協議が決まったと伺っております」
セシリアは顔を上げた。明日の午後には、式の予定を決めるための話し合いがある。それを終えなければ、招待客への案内や各所の手配が進められないと聞いていた。
机の上には、王宮から届いた新しい予定表が置かれている。セシリアは封筒を脇へ戻し、明日の時刻を確かめた。
クラウスと相談して決めたいことが、まだ残っていた。




